苗半作~厳父と慈母~

先日、百姓コーディネーターからの研修の中で「苗半作」のお話をお聴きしました。この苗半作とは「御米の出来は苗育てで半分が決まる」ということだそうです。

そしてこれは御米に限らずすべての野菜や植物がその苗の育ちの善し悪し によってその後の作物の生育に大きく影響するということです。

自然農で野菜を育てていると、最初の苗の環境がどのようであるか、その苗にどれくらい配慮したかでその後の主体としてのいのちの育ち方もまた変わってくるのははっきりしています。

たとえ大きな気候変動にも耐え忍ぶことができ、病気や虫がつきにくくなり、健康でたくさんの実と種をつけることができます。

言い換えれば、健やかで逞しい一生を送ることができるのです。

この苗半作の時期は人間でいえば幼児期であり、如何に幼少期に健全に健康な環境があったかがその後の人生に大きな影響を与えてしまうということです。

できるならばすべての親ならばみんな子どもたちには自然のままに健康に強く逞しく元気に育ってほしいと思います。色々な困難があっても、それを前向きに乗り越えて立派な実と種をつけてほしいと願うものです。だからこそ私もこの「苗半作」が何よりも重要ではないかと思います。

来年は百姓コーディネーターのご協力のもと、この智慧を学び直せるのが愉しみです。

またこの苗半作を改めて考えてみると、今取り組んでいる自然養鶏の烏骨鶏の育雛につながってきます。烏骨鶏も季節の変わり目、春先と秋先に卵を温めはじめるのですが産まれた雛は食べ物はまだありますが気候はとても寒暖差が激しい時期に育まれます。

寒暖差が激しいということは、それだけ環境の変化を受けているということです。その環境の変化の中で周りに関わる暖かい真心を受けているということです。厳父と慈母のもと、子どもは健全に育つといわれますが何が厳父で何が慈母だったのかというのを今回のことで悟った気がします。

自然の智慧というものは、本には書かれませんが確かに存在します。その知恵をどう継承するかというのは本能で行います。その本能を喪失するような知識は果たして世の中を救う本当の智慧なのかというと私には大変疑問に思います。本能が減退していない人が持つ知識というものが本物の洗練された知識なのかもしれません。

引き続き、自然をお手本に先人の智慧を継承しつつ洗練された知識を形にし世の中に還元できるよう日々の実践を深めていきたいと思います。

 

損得勘定

物事のとらえ方というのはそれぞれですが、お金を優先した物質経済の価値観が強すぎるとある一定の感情と判断が世間に蔓延してくるように思います。簡単に言えばそれは損得勘定というものです。それは利害を一つ指標として自分にとって損か得かのモノサシでばかり物事を考えるということです。

自分が損をしたくないからと、自分が得をする方へと判断することで損か得かを常に自分を中心にして考えていることほど本当の損なことはありません。自我が強くなりすぎる理由も世の中に損得という物差しがあまりにも目に入ってくるからかもしれません。

沢山のお店が並んでいる前を通ると、如何に安いか得をするかということばかりが宣伝されます。他にも広告なども見ようとしなくても目に入ってきます。情報量が多く比較するものもたくさんありますから、損したとか得したとか利用した後までそれを話し合う始末です。

確かに損得もありますが、同じ呼び名でもそこに「尊徳」という捉え方がありません。徳という考え方は、損か得かではなく善いことが循環するかどうかということです。自分の存在が周りを善きものへと循環するような体験をしているか、思いやりや有難い感謝に換えているかというものです。

物事は決して損得勘定だけでは裁けず、メリットデメリットだけではない中庸ともいえる本質があります。「何のために」となると、行動すべては意味があるものでありそこに真実もあるからです。

本来、人生は有難いものですから目先の損得では裁けないものばかりです。現代人は、その損得勘定の刷り込みにやられてしまい、苦しんでいる人たちをたくさん見かけます。本来の仕合せのモノサシを持てるようになるには、生活を正していくことしかないのかもしれません。

最後に先日のダライラマ14世の言葉で締めくくります。人間について何が驚きますかという問いに対する返答です。

「人間は自分の健康を害してまでもお金を稼ごうとします。そして今度は、その害した健康を取り戻すためにお金を使うのです。さらに人間は将来のことを憂うばかりで、今この時を楽しむことをしません。結果として、人は今も未来も生きられないのです。人は、あたかも死ぬことなどないかのごとく生き、そして一度も本当の意味で生きることなく死ぬのです。」

損得を超えたモノサシを持てることが本当の豊かさを持つことなのかもしれません。そして本当の豊かさというのは徳を尊ぶ中にあるのでしょう。損得ではなく、尊徳のモノサシを広げていきたいと思います。

 

 

遺徳遺産~生き方を守る~

世界遺産というものがあります。世界各地で世界遺産があり観光のメッカになっています。今年は国内の世界遺産をいくつか拝見する機会がありましたが、その都度その地の人の多さと雰囲気の荒廃ぶりに驚きました。

そもそも世界遺産とは何かといえば、1972年11月、第17回UNESCO総会で採択されました。条約の正式名は「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」といいこの条約のもと作成される「世界遺産リスト」に名を連ねた場所、それが「世界遺産」です。その条約の内容は「国や民族の枠にとらわれず、世界各地の自然や文化財を、人類共有の財産として守る」ことだと書かれています。

これは文化財や環境を人間の都合で破壊するのをやめてもらうためにとはじめたことでしょうが、どちらにしてもそれを創ったものも破壊するのも人間が行うものです。人間が創造したものを人間が破壊するのですが、破壊しないことを目的としているのはわかるのですが本当に大切にしたいものは残るのかということには疑問を思います。

本来、そこでの人々の文化や暮らしが世界遺産であるはずが見た目の建造物やその場所がそうだというだけになれば見た目さえ維持できればいいという話になってしまいます。観光客が来るからとどんどん観光収入が増えてくると本来の目的がすり替わり気が付けば元の文化や暮らしが喪失しまうことになりかねません。それは守るものが何かということがズレてくるからです。

例えば、生き方や働き方を守るのは、単に見た目の形だけを守ればいいというわけではありません。「大切」にするものそのものが異なるからです。本来、先人たちが人間が傲慢にならないようにと謙虚に守り続けてきた生き方が、何らかの形で喪失して滅ぶ、もしくは滅びそうだから世界遺産が必要になったのではないかと私は思うのです

本来、変えてはならないものを自分勝手に変えてしまい変えるべきものをいつまでも変えないことが自然の法理に逆らっているということの教えなのでしょう。これは時の流れに反しますから必ず滅亡の一途を辿るのは自明の理です。

すでに今の人類の欲望の拡張と拡大は限界に来ていますからこれからの私たちの時代と子孫はその歪に向き合うことになりますから本当に大変なことで心配です。

「今の時代を自分たちの代で消費しつくす」という思想は悪循環を産み出す大変危険な発想ですから論語の「遠慮なければ近憂あり」であるように必ず目先の快楽により未来がいよいよ危うくなっているのです。

世界遺産というならば、生き方そのものを遺産にすることだと私は思います。それは生き方遺産です。生き方遺産があれば人は本当の今に生き、今が仕合せである本質を理解できるように思います。そして生き方遺産とは遺徳のことです。

人が今に生きるというのは如何に今に生き切るかですから「今、此処」を大事にし味わい尽す中にこそ本来の人としての仕合せがあると私は信じています。

そうしていれば今、此処に満たされますから本当に遺していかなければならない遺産とは、先祖がここまで私たちに大切な環境といのちをつないで遺してくださった徳に由るものだと気付くのです。

そういう世界の遺徳を守る、つまり世界遺産を守るというのはその遺徳を守る謙虚な生き方を私たち自身が守ることです。だからこそその遺徳遺産は一人一人の生き方の中にあることを忘れずに今日も社業の実践を積み重ねていきたいと思います。

古い友人

久しぶりに古い外国の友人に会っていると色々なことを思い出します。こちらから連絡が取らないでいると疎遠になりますが、いつも連絡をくれて一緒に会いたいと思ってくれるのは本当に有難いと思います。

古い友人といえば以前、「ゆるす言葉」(出版イースト・プレス)というダライラマ14世の著書にこう書いてあったことを思い出しました。

「私は誰と会おうと、古い友人として迎えようとしています。このことが私を本当に幸せな気持ちにさせてくれるのです。これが、思いやりの実践です。」

どんな人に会おうとも、それは自分にとって大切な古い友人であるということ。ご縁を大切にする一期一会の真心の実践に生きる姿から敵も味方もなく愛するということの偉大さを感じます。

またこの本は「ゆるし」に関することばかり書かれていますがいくつか紹介します。

「ほんとうの意味の思いやりは、まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。まず自分自身に思いやりを持ち、それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、他者を思いやることなど不可能なことだからです。」

自分を愛するように人を愛せて愛を循環することができるということなのでしょう。自分を素直に愛するには正直に生きる実践が思いやりを育てるのでしょう。

「ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。」

自分を自由にするというのは、一生懸命に真摯に生き切るということです。なぜなら人事を盡すのならばそこに悔いはありません。悔いがないということは、全力を出し切ったのだから後は天にお任せしますという謙虚な心になるからです。思いやりでいる、思いやりのままで居続けるというのが自分を自由にする最善の方法そのものだと私は思います。

最後に、経済のことや大義についても語られます。ここに今の社業の命題もありますし、世界が今、置かれている最重要課題について書き記されているので紹介します。

「経済は大切です。しかし、人間性はもっと大切です。人権や環境問題など、経済より大切なことはたくさんあります。利益を求めてビジネスの世界で関係を築いているときにも、大義を見失わないことが肝心です。」

平和を愛するということがどういうことか、子どもの周りにいる私たちだからこそ常に身を引き締めて実践を高めていきたいと思います。

仕合せの仕事~自分との出会い~

人は自分が誰かのお役に立つことを仕合せに感じるものです。人に親切にするというのは、親切をさせていただける仕合せを噛みしめているということであろうと思います。

それは言い換えれば、自分の存在が困っている人の力になれることが何より嬉しく楽しく有難く幸せだと感じるからです。自分の存在が困っている人の力になるときほど感謝を実感するものです。

仕事というのは本来は人の仕合せの「仕」です。そして人に仕えるというのは奉仕の仕です。奉仕とは見返りを求めず相手のために思いやりで取り組むことです。仕事というのは、誰かのお役に立つことを自分のこととして真摯に捧げていくことのように思います。そしてそれが親切の本質であるように思うのです。

この親切という字は、親を切ると書きますが不思議に思いかつて調べてみたら身が切れるほどの親しい距離にいるという意味でした。つまりはそれくらい相手と親しみ同じかそれ以上に共感してその人のために尽くしてあげるということです。

だからこそ親切にできること、親切をさせていただけることは本当に有難く感謝に満ちているのです。そしてそれをするのが本来の「仕事」の定義ではないかと思うのです。昔は親切のことを深切としそれくらい深く関わることを大事にしましたし、滅私奉公というように自分を世の中に捧げきることが大切だということを確認し合っていました。

今の時代は歪んだ私的な個人主義が蔓延し、自分中心に物事を捉え視野も狭くなっていますから如何に仕事が仕合せかということも振り返ることもなくなってきたのかもしれません。そのことから仕事という定義が変わってしまっているように思います。「仕事ができる」という意味も結果だけのできるになっていて、本来の「できる」という意味が勘違いされているように思います。仕事ができる人になるというのは、単に作業が早く完璧にやることではなく思いやりや真心が自他一体になっているほどの親切で行えるということなのでしょう。

そして私たちは社會の御蔭様で存在できていますから、自分が何で社會に認められているか、そして社會の何のお役に立てているのかを実感できることが本当の自分に出会い続けるということになるように思います。

自分探しばかりすることが若い人の間で流行っているのはもしかすると周りのお役に立つように生きることの意義を見失っているからかもしれません。自分の存在価値に出会えることはとても仕合せですから仕事ができるというのは本当に有難いことなのです。

畢竟、仕事とは自分の仕合せに出会う事です。

その仕合せを単なる作業にしてしまうことが何よりも貧しく寂しいことのように思います。自分が困っていることは誰かも困っているし、相手が困っていることはきっと自分も困るのです。お互い困っているのならばお互いで助け合おうというのが人間だと思います。

人間の道は親切と相互扶助ですが、大事なことを大事なままに取り組んでいきたいと思います。素晴らしい仲間たちと一緒に仕事ができる仕合せに感謝しています。

報徳~真心返し~

万象具徳という言葉があります。すべてのものには徳があるということです。この徳とは何か、それを取り柄と呼んだ人もいればその人の天才と呼んだ人もいます。つまりは必ず何かの役に立つものを持っているということです。

世間では、役に立つとか立たないとか誰かのモノサシで判断されます。人間はみんな自分都合ですから自分にとって役立つかどうかで必要か不必要かを勝手に分別するのです。しかし捨てる神あれば拾う神ありではないですが時・場所・状況に応じてその役割というのは多様に変化していくのです。ある人に必要でもある人には不必要、しかし全体丸ごとで観ればそれはすべて必要不可欠ということです。

そしてそれを徳と呼びます。

二宮尊徳は、その徳に報いることを「報徳」と言いましたがこれはまず大前提にすべてのものには徳が備わっているということがあってはじめて行われるものです。

『論語』憲問篇36にこうあります。

「或(あ)る人曰く、徳を以(もっ)て怨みに報いば如何(いかん)と。子曰く、何を以てか徳に報いん。直を以て怨(うら)みに報い、徳を以て徳に報いんと。」

意訳すれば、(ある人が言う、徳をもって怨みを返すというのはどういうことでしょうかと、孔子は言う、何をもって徳に報いるとするか。それは怨みに対しては素直な真心でお返しし、徳に対してはさらに徳でお返しすればいいのです)と。

これは一言でいえば「酷いことをされてもやさしくしてあげなさい」ということです。つまりは徳に報いるということです。

人は自分が酷いことをされても他人にやさしくできるかといえば、人間はすぐに仕返ししてやろう復讐してやろうという気持ちを持ちますからこれが難しいことはすぐにわかります。しかし孔子も二宮尊徳もそれでは徳ではないといっているようなものです。

如何に自分が頂いたものを善いものへ転換して世の中に御恩返しをしていくか。結局は徳を実践していくとはこれに尽きるように思います。どんな徳を自分が天から与えられているかは天に由ります、しかしその徳をどう活かしていくかが大事であってその徳そのものが大事なわけではありません。そしてその徳は自分次第で如何様にもしていくことができるのです。

日々に生活していく中で、自分の徳をどう皆さんのお役に立てていくか、そして皆さんの徳をどう活かしていくかはその人の生き方が決めるものです。自分の徳を高めていくことと周りの徳を高めていくのは、周りの徳を認めていくことからだと私は思います。

善い方へと転じていく、一円融合してすべての徳を活かしていこうとする、その真心返しにかんながらの道の目的も存在します。いついかなる時も報徳の大切さを肝に命じて実践していきたいと思います。

 

禮と愛

昨日は、新しい仲間といっしょに百姓コーディネーターの就任式と研修会を行いました。子どもたちに譲っていきたい遺徳を昔の百姓という生き方を学び直しつつ研鑽と実践を積んでいきたいと思います。

自然農で収穫した野菜たちと、不耕起の玄米を酢飯にして手巻き寿司をみんなで握って食べましたが何よりいっしょに働く人たちがともに食卓を囲み団欒しながら語り合えることは本当に仕合せな時間だと思います。

人間は、自分にとって都合がいいことを便利といい、都合が悪く手間暇かかるのを不便だといいます。農業だけではなく日常の仕事にいたるまで、気が付けば一人でバラバラに仕事をした方が効率が良いということで便利さばかりを追求して忙しさで心を忙殺する人が増えてきたように思います。健康を害し、精神を病み、殺伐とした無機質な暮らしをする人も増えてきました。

本来、私たちの先祖たちは働く豊かさを持っていました。それは一見、手間暇がかかるものですし、それに精を出すことばかりでした。不便とも思えるものやメンドクサイと思われるものを大事に、時間をかけてみんなでいっしょに取り組んでいました。

人間というものは、自分の思い通りにしたいというのは我欲がありますから誰しも思うことなのでしょうがその欲で満たせる喜びというのはほんの短い期間だけのように思います。たとえ思い通りにならなくても、心が満たされるような歓びというものは永遠に心に刻まれ忘れることもない豊かさがあるのです。

決して自分の都合では得られないものの豊かさというのは、何よりも心が安らぎ満たされるものです。人の愛も同じく、思いやりや真心もすべて人と人の間にあるものですからそういうものを優先していこう、尊重していこうとする心の強ささえあればだれでも持つことができるのです。

みんなでいっしょに取り組むことができるというのは、いっしょに暮らしている仲間がいるということです。その仲間といっしょに笑って泣いて、そしてまた出会い、別れて新たな道を愉しんでいくことが人生の道楽なのかもしれません。

かつての先祖たちは、自然を中心に丹精を籠めて生きることを私たちに残してくださいました。その残してくれた一遍をきちんと受け止めて、そして拾い、それを譲ることが今を生きる私たちの本当の使命かもしれません。

今の世代で、先祖の遺徳や遺恵を遣い切ってしまわないように自分たちの生き方を見つめ真摯に生き方と働き方を一致させていきたいと思います。新しい出会いに感謝します。

徳~恩沢洪大~

実りの秋のことを思い返していると、如何にこれが天地人の恩恵によって得られているかを実感します。御米だけではなく様々な作物もそれを一緒に食べる家族のことを思っても、如何に多くの自然やご縁に佑けられているかを思うのです。

そもそも今の自分があるのは、先祖の遺徳があってこそです。この身体もこの感情もそして心も、また名前から住居、関わりにいたるまで目に見えるところから目には観得ないところまで私たちは祖神や先祖の恵みによって存在しているわけです。

恩沢洪大な徳は、あまりにも大きすぎてまるで宇宙や地球のように当たり前すぎて実感することもなくなってきたかもしれませんが確実にその恩恵をいただいて私たちは今、生き活かされています。

そういうものを忘れて自分の代のことだけを考えて欲に任せて今を貪ったり、恩恵を自分が全部使い果たすような生活を続けたらそのうちその徳がなくなり、自分の代だけではなくその子孫にまで影響を与えてしまうように思います。

今の収穫だけを求めて農薬や化学肥料をまき続け与え続けた土地が枯れて砂漠化していくように、徳を忘れて今だけを凌ごうとすれば自ずからその徳恵は消失していくのでしょう。これは生き方の問題で、如何に恩徳を実感して感謝でもっと恩返しをしたいと願い祈り実践しているかで本来の今との正対が決まってくるのです。

豊かな人というのは、ものを持っているから豊かではなくその恩徳をいただいていることに気づいて御恩返しをしたいと願っているから豊かなのです。お役に立つのも自分のためではなく、自分がいただいているのだからその恩沢洪大な徳を周囲へと恩を送りたいという人が真に自然に沿った生き方をしているともいえるのでしょう。

二宮尊徳の「仕法書」の中で、下記の言葉が遺っています。これは真に豊かな生き方を照らす時にとても大切で、本来の貧富の本質を捉えています。

「人は諸々の恩沢を受けているのにもかかわらず、その恩沢に報いないことがある。徳に報いようとしない者は、自己の将来の幸福のみを考え、自己が受けた恩徳を大切にしないので、結局地位を失い、自己の徳をなくしてしまうのである。逆に恩沢に報いようとする者は、自己の幸福を後回しにして、祖先の丹精を大切にするので、地位を受け継ぎ、富貴を失うことがない。徳に報いることを何よりも優先すべきである」

そして「徳に報いることは百行の長、万善の先」であると言います。

何より、不平不満を並べては境遇を嘆くよりも本来の徳があることを自覚しているか、そしてその徳に報いているのかと自問自答するのです。そのうえで、何よりも徳に報いる実践をするのが何よりも先ではないかと諭すのです。

すべての善いことよりも先にあるのが徳、そして何よりの行いよりも長けているものが徳なのだということです。徳は利己的であるほどに気づきませんが、利他に生きればすぐに実感できるものです。

自分が与えてもらった徳を如何に活かすかはその人の決心次第です。

徳に感謝し恩に報いる生き方を大切にしていきたいと思います。

いっしょ

今の時代は、教育によって個人主義を指導されていきます。自分が周りと同じことをできるようになることが目標にされ集団というものはそのために使われます。競争もまた質を高めるものではなく、みんなが同じことをできるようになるために使われます。

みんなで一緒にといっても、その使う人の「いっしょ」がどの意味で用いられるかでその一緒の意味が変わっているのではないかとも思えます。

本来、この「いっしょ」という意味はどういうものだったのでしょうか、それを少し深めて観ます。

一般的には、一緒にはいろいろな解釈があります。辞書には、ひとまとまりになることや区別のないこと、同時に同じことをすることなどが書かれています。基本的には混ざっているという意味で用いられ、同じでなければならないという意味ではありません。

例えば、チューリップの花を一緒に育てたといっても同じチューリップを咲かせようとするのは一緒にの意味とは異なります。ここでは同じところで同じように育てたという意味でしょう。

しかし本来の「いっしょ」は、私には渾然と一体になっているという意味に感じます。つまりは、あらゆる多様なものたちが同じ場所に生きてそれが渾然と混ざり合いつつも調和しているという状態のことです。

その一緒は、前者の同じだという意味とは異なり、異なっているけれど同じ今に生きている仲間というイメージがあります。同じことをただ同じようにみんなでやることが一緒ではなく、異なるもの同士が同じ時代に生きてご縁を伴にさせていただけることが一緒なのでしょう。つながりの中に存在しているという意味です。

一緒という言葉一つであっても、謙虚な気持ちで感謝がなければその有難さに気づかなくなるのかもしれません。権力で同じように同じくさせようとしても、その一緒はともにいるわりにもの寂しく心もバラバラであることが多いように思います。英語のgroupもteamも、そして何をもってtogetherと定義しているかが根底で理解できていないと日本語のグループもチームも一緒もまたその意味が勘違いされていくのでしょう。

本来、私たちは大和の民族、渾然一体陰陽調和している民です。天皇を中心に家族として一族で和の尊び生き方と働き方を同時一体にしてきた暮らしを続けてきました。その先祖たちが実践してきた「いっしょ」を理解していくことが私たちの心を一緒につなげていくコツなのかもしれません。

常にいっしょの意味を個人的な価値観で狭めて歪んだ個人主義の枠組みに心が亡くならないように、丸ごと渾然一体になったご縁に感謝して今をいっしょに歩んでいきたいと思います。

 

主体に転じる力~自分の問いにする力~

人は力を出したかどうかというのは主体であったかどうかに関係します。そしてその主体というのは、自分の心の転じ方にあるように思います。

例えば、ピンチをチャンスと転じることができる力、ドキドキのプレッシャーをワクワクに転じることができる力、メンドクサイと思えることを面白がることができる力、苦しいことも大変なことも愉しいと味わい深く転じることができる力などです。

外界の出来事が何かが起きるとき、自分の思い通りにはいかないと思ったときにやる気がなくなってしまう人と、外界が自分の思い通りにならない逆境のときこそやる気がでてきて燃える人というものがいます。前者は、出来事に対して受け身であることに対して後者はどんなときでも主体は自分、積極的に人事を盡そうと全身全霊を発揮することができるのです。

先日あるクルーが「出し切りました」という言葉がありました。これはどんなことでも必ず善いことにするという覚悟が、主体を出し切ったといえるように思います。外界の相手がどうであれ、外界の出来事がどうであれ、自分の人事を盡し切るということに迷いがなかったのです。

そういう自分の姿勢に天も味方するのでしょう。天はいつも正直で素直を尊びますから、そういう自らの主体性が運やツキを呼び込むのです。そしてこの主体と楽観性こそが信じているということであり自然なのでしょう。

自分の力を発揮して出し切った後に振り返ると、その発揮している間に不思議な出来事や奇跡との遭遇、また面白い発見や出会いが沢山あったことに気づきます。そして多くの見守りがあり、自分が尊いご縁に恵まれたことを実感するのです。

そしてそれこそが本物の「自信」になります。

自信を持てる人というのは、常に出し切る経験を積んでいるともいえます。自分の力を発揮することを知ることで、自分というものの本来の存在の意義や価値に気づけるからです。そうなるとまた真剣であることや本気であることが愉しくなります、この好循環を得ている人が何よりもハタラク幸せを味わっているということでしょう。

本物の自信とは、畢竟、外側からつくわけではなく自分の中からついてくるものです。自分が転じることができるほどに人事を盡したか天命を待てたか、その両輪の真摯な実践の中に感謝があってこそ育っていくように思います。

何はともあれ転じる力が情熱のことです。自分の内在している情熱を自らが燃焼していくのはいのちの力を使っているともいえます。自分を燃やしていくことほど人生の豊かさと愉しさを実感できます。迷わず善いことへと丸ごと転じ続ければいいのです。

日々はかけがえのない機会に恵まれています、どの出来事に対しても自分の問いにする力をもって積極的に主体に転じて、二度とない丸ごとの人生を味わい深いものにしていきたいと思います。