ヨガの妙味

昨日、ご縁あってBAでヨガに参加する機会がありました。瞑想の中でなんどかヨガのような体験をしたことがありましたが現代、流行しているヨガには参加したことがなかったこともありとても豊かな時間を過ごすことができました。少しヨガのことを深めてみようと思います。

そもそもヨガのはじまりを調べると、紀元前2500年頃のインダス文明の頃にはヨガの起源があるといわれます。世界遺産のモヘンジョ・ダロには陶器でできたあらゆるポーズを取る像があり、坐禅を組み瞑想する神像なども見つかったことからそういわれます。

その後は、紀元前1000年頃にウパニシャッド聖典に「ヨーガ」という言葉が出てきて400年頃にはヨガの教典である「ヨーガ・スートラ」が現れます。ここでヨガの定義を「ヨーガとは心の作用を止滅すること」とされます。それを実践するために八支則というものを定めます。そして1300年頃になると「ハタ・ヨーガ」が大成され、この頃から現在のヨガのポーズなどを中心に展開されます。これが現代のヨガ教室などの原型になっているそうです。そして1600年頃までにはそれが体系化し世界へヨガが広がったといいます。

日本には806年に空海が唐より帰国した頃の「瑜伽」が最初に入ってきたものといいます。現代のヨガが日本に広がったのは1919年中村天風によるものだったといいます。そして沖正弘氏がヨガ協会などを設立して広め、日本でのヨガブームをつくりだしたそうです。現代の日本では、ホットヨガというものがブームになっています。これは体の柔軟性が高まる温度、湿度のなかで気持ちよく行うことができるヨガのこといい女性に特に人気があるそうです。ダイエットやデトックスが中心でこれはもともとはインド人のビクラム・チョードリー氏が約40年前に始めたものだといいます。一般的な日常生活ではあまり体験できないくらいの汗をかいて老廃物の排出を促進させるのが特徴だといわれます。

ヨガはこの100年くらいでインドの修行僧の一部の瞑想方法から世界中でマインドフルネスやウェルビーイング、あるいはトレーニングなどに取り入れられ新しいものになっていきました。

しかし本来の原点は、瞑想によって心を調え、身体を調えることから心身を穏やかにするための知恵であることがわかります。今の時代は、特に自然から離れ時間を忙しくすることで心を止揚し続けていることが難しくなっています。

あらゆる方法でもその道に入り、取り組む機会が増えていくのは素晴らしいことと思います。商用のヨガではなく、本来のヨガの原型の初心を忘れないようにしながら取り組んでいきたいと思います。

 

循環の妙

英彦山と関わりだしてから山への感覚が深くなってきました。もともと山とは何だったのか、それを深めていると海とは何かということに辿り着きます。この山と海の存在はもともと一体であり分けることができません。川はその山と海をつなぐ存在であり、この川も元々は山と海が一体であることを証明するものです。

私たちは便利な言葉を用いることで、あらゆるものを分別していきました。本来は全体が一体であることが前提になった分別ならまだいいのですが、分別したものを集めて全体にしようとなったときにそのものの本質が分からなくなっていったのでしょう。

その弊害が、あらゆる自然環境の破壊につながり、人類の知恵を消失させている理由になっています。教え方が問題というか、人工的なものだけですべてを理解できると思い違いしたことに一つの理由があるように思います。野生的なもの、本能的なもの、自然的なものとのバランスが崩れると人間は歪んだ方向へと進んでいきます。

神代や古代は、そうならないように指導者やカミという人類を守る存在があってバランスを調えていきました。どうしても目先の欲望や、近視眼的になってしまう宿命がありますからそれをそうならないようにする仕組みを保っていたのでしょう。

山に住む山伏たちやその暮らしもまた、本来は指導者や守る人としての役割を果たしたのでしょうが現代はそういう人たちは特殊な生き方をしている人たちとしてあまり身近に存在も感じません。人間社会でのバランスも職業や商品、商売なっていますから山もその商品の一つになっていくのでしょう。

今の時代は、人工的な世界の方が常識ですからその人工的な知識を優先にした山の理解や海の理解が歪な環境改善をさらに促進しより深い断絶を増やしているように思います。

本来、山は山の養分が川に流れ、その川が海にいくことで生命は潤います。水というものは触媒であり、無色透明であらゆるいのちを通過していきます。つまり循環のいのちの根源はこの水ということになります。この水が何を運ぶのか、それはいのちの元を運びます。それぞれの生命が、それぞれのいのちを充実させ結実したものを運ぶのです。それは目には見えませんが、見える分を養分とも呼びます。人間でいえば、糞尿なども養分といいます。

こういうものが自然に流されますが、それは単に栄養素だけが流れるのではなく充実したという証が流れます。それが海に到達するころには山から地上のあらゆる生命の養分が渾然一体となって海に到達します。

その海に到達したものがさらなる新たないのちを掻き混ぜていきます。以前、貝磨きをする方と一緒に貝を深めたことがありますが貝はこの養分を得ていのちを守る存在として顕現してきます。

私たちは、美しい貝を観てはいのちの辿る道やいのちの本体を直観してきました。私は法螺貝を吹いていますが、法螺貝はそのいのちの結晶の一つです。山で法螺貝を吹くとその音色が山に響きます。

山の養分が海にいき、そして貝になる。

その貝が山に還り、山で音を立てると山が喜んでいく。こうやっていのちは、真に豊かに廻ることで徳は永遠に磨かれるのです。

自然環境の改善は、いのちのリサイクルの仕組みが必要です。私の天命も近づいてkました。世界に人類の新たな道筋を示し、子どもたちに普遍的な循環の妙を伝承していきたいと思います。

場を育てる

「場」をつくるなかで大切なのは、主語はどこになっているかということがあります。人はすぐに自分というものを主語にして語りますが、本質を突き詰めていくと自分というものが邪魔になることがあります。それはなぜかというと、本物を求めているうちにモノや他との境界線が消えていきそのものと一体になるからです。

これを私は自他一体の境地と呼んでいます。相手が自分であり相手も自分になるというものです。それだけ一体に同化している状態になっているというものです。これを私は「場」と呼びます。私のいう「場」は元々は、分かれていないものです。そこには例えば、過去からずっと今も生きている歴史の場であったり、あるいはすべてのものが関わり繋がりあって網の目のような場であったり、またあるいはみんなで心を一つにあわせて一緒に取り組む場であったりします。それくらい分かれていないところにあるのが本来の「場」ということになります。

その場を醸成するためには、あまり他人軸の自分やエゴが強すぎると育たないものです。無私や無我に近い方が、場は良く育ちます。

例えば、場に喜んでもらおうとすることや、みんなの喜びが自分の喜びになっているような実践や取り組みをする方がいいという具合です。

自然界というもの、宇宙に至るまですべては自分というものはありません。生命であれば細胞にいたるまですべてが繋がり結び合って存在します。この世に孤立しているものなどは一つもありません。そういうものを理解していることが重要で、そのうえで自立するということが命題でもあります。この自立というものは、独立自尊の時の自立であり協力し合うという共生の中の自立です。つまり、助け合い、持ちつ持たれつ、御蔭様といわれているすべてと活かしあうときの自立です。

「場」には、その自立や調和、共生などあり方や生き方が問われます。そしてこれはテクニックではなく、まさに自覚と実践によって行うものです。

最近では、場というものが便利に知識的に理解されほとんど表面上の浅いものになっています。場もいのちのある生き物ですから、その場を守るための精進も必要ですし、お手入れが欠かせません。

私が取り組む場の道場では、その辺を実践によって知恵を伝承していくものです。子どもたちに先人からの知恵や真心の道が繋がっていくように丁寧に場を育てていきたいと思います。

日本人の原型

日本人の原型というものがどのようなものであったのか、それは日本人の心の原型を探っていくと直観できるものです。その一つに万葉集というものがあります。万葉集は、むかしのやまとのクニがあったころの人たちがどのように生きて、暮らしたいたのかの余韻を味わえるものです。

この余韻は、心の余韻です。素直にその土地でその場所でその出来事や事実において心情をそのままに詠んだもの、それが万葉集です。詠み人知らずのようなものがたくさんあり、当時の人たちの心がそのまま言葉に乗っています。

それを味わい、思い出すことで心の原風景を省みているとそのどれもが物事を常に楽天的に捉え、全てを受け容れてそれを味わい仕合せを求めた姿があります。あるいは、あまりにも受け入れがたいものはそのままに心を伝えているものもあります。私たちがその万葉集の言葉を詠むとき、その出来事の供養にもなりその人の心を慰めるものでもあります。

人生というものはいろいろな体験を通して一生を終えます。その一生は悲喜こもごもにあらゆる感情も心も揺さぶられ味わうものです。生きていくのは大変ですが、それでも体験したいというのがいのちの本体ですから様々な姿に顕れてはそのすべてを感じて味わっていのちは充実していきます。

先人たちはどのようにいのちを充実させてきたのか、そしてこの世でいのちそのものの味わいを楽しんだのか。それもまた万葉集の中に遺されています。こうやって生き方を継いでいくことは本当は何ものにも代えがたい知恵であり希望です。

子孫たちは先人がいることで安心し、そして先人もその子孫のことを深く思いやります。連綿と続いていく歴史の中で、何が譲り遺していけるのか。いつか土に還る私たちは、土から出てきて地上の楽園を謳歌します。その土の上を歩き、踏み固めていきますが歴史は土の中に埋もれていきます。

いつまでも新しい芽が出てきますが、その新しい芽は希望の芽です。

万葉人のやまと心には、仕合せの原型があります。暮らしフルネスにおいてこの仕合せというのは物事のすべての中心です。引き続き子どもたちのためにも、暮らしの豊かさ、子孫の仕合せを願い、あべこべの時代の価値観のなかでも本質を貫き、1000年後の未来のために今できることにいのちを懸けて集中していきたいと思います。

知恵の甦生

歴史というものを語る時、そこには知識と知恵があることが分かります。例えば、何かの事実を突き止めて歴史の事実を科学的に調査し証明するとします。そうすることで知識は増えて整理され、歴史を学ぶということの知識の豊かさがあります。もう一つは、歴史の中で伝承されている生きた人たちの間で用いられている知恵というものです。古代から今までその知恵を伝承することで人々は仕合せを得ることができました。今の私たちに繋がっているものは知識の歴史ではなく、知恵の歴史であることは間違いないことです。

現代は、歴史は知識としての認識がほとんどで知恵とはなっていません。なぜなら教科書で教える歴史の中では伝承されにくいからです。ほとんどの人が、頭で分かるものだと認識して実際に自分で伝承していこうとはしないからです。本来の歴史を学ぶというのは、自分で伝承してみてはじめてその価値を感じるものです。その結果として、どうやって人類は今までその仕合せを文化にまで昇華させてきたのかがわかります。

世界には様々な文化があります。その文化は歴史が築いてきたものです。この文化を机上で学べば年号や地理、出来事などは暗記できますが文化を習得したわけではありません。実際の文化の習得は、知恵の伝承ですから真摯に歴史を実践していく必要があります。

歴史の実践というものは、知恵を学び先人と同じように知恵を用い幸福になることです。つまり私たちの先祖たちはどのように幸福な暮らしを実現してきたか。それを学ぶのが歴史の実践です。

例えば、伝統的な暮らしの中には知恵が溢れています。私は室礼や年中行事を実践していますが、ここにはまさに知恵の宝庫です。どのように日本人が代々、家庭教育をしてきたか。また連綿と続くいのちのバトンをつないできたか。あるいは、その土地を豊かにして永続できる環境や場をととのえてきたか。それが日々の暮らしの実践の中に溢れています。

特に私は炭を使いますが、この炭の暮らしを実践するだけでもあらゆる知恵が入ってきます。こうやって知恵を生活の中で活かしている人は、仕合せであり真の豊かさを知ります。つまり徳を積むのです。

徳を積むというのは、人類が幸福になる唯一の道です。

だからこそ、本来の歴史を学び直す必要を私は感じています。世の中が終末期、人類は過酷な時代に入っていけばいくほどに歴史の必要性を感じます。全人類が平和でなければ、平和はない。身の回りの小さな知恵の実践でみんなで力を合わせなければ、不幸や不満は増大する一方だからです。

子どもたちのためにも、知恵を甦生し未来へバトンをつないでいきたいと思います。

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

流域を見つめ直す

昨日、友人が流域を改善する必要性について話をする機会がありました。この流域とは何か、世界大百科事典大2典によれば「地上に降った雨や雪は,一部は蒸発や蒸散により大気中に戻されるが,残りは地表面や土壌中を流下し,場合によっては地下水を涵養した後に,河川水となって海に排水される。ある河川の河口に着目したときに,その河口から排水される河川水のもとになっている降水のもたらされる範囲を流域という。流域は河口についてだけ定義されるものではなく,河川のある1地点(たとえば,合流点,ダムの建設地点,架橋地点)をとった場合には,その地点に流下してくる降水のもたらされる範囲が,その地点からみた流域となる。」と記されます。

つまり河口から河川で海まで流れ辿り着くまでの範囲のことを指しています。この流域を再思考し観察することで自然災害と自然との共生を考えようとするということの話でした。

そもそも人類というか、すべてのいのちは水よりはじまり水に終わります。私たちは水を循環していのちを分け合い、いのちは水と共に移動してすべての生命を潤し身体も支えます。小さな微生物から昆虫、動物、植物、すべての生きとし生けるもの、無生物と人間が思っているものに至るまで水がなければ活動することはできません。水がすべての活動の根源です。人間であれば、すべての細胞は水を必要とします。その細胞一つ一つは生命があり、その生命を支えるものも水です。そう考えてみると、この流域で考えるというのは真に理に叶ったものであることはわかります。

そこから考えてみると、今の人間社会はどうなっているのか。

水などすべて無視して経済活動だけを優先しています。古代から大切にしていた水は、当たり前に水道を開けばどの家にも流れこみますしその水がどのように海に流れているかなどは考えることはありません。

以前、高島市にある里山の針江生水の郷を見学したことがあります。水路を中心にあらゆる生き物たちがその生活を循環できるように配慮されていて人間の食べ物のカスなどは魚が食べ、その魚もまた食べと小さな循環で生活を営んでいました。私も家で烏骨鶏を飼っており、野菜くずや虫たち、玄米を食べて一緒に暮らしをすると卵をいただきそれがまたお互いの共生を助けます。卵を産まなくても、一緒に暮らしていますから朝の鳴き声で眼を覚まし、日々の緩やかに安心して過ごしている姿に心も満たされます。

この小さな循環というのは、私たちが日々に実践できるものです。それを私は暮らしフルネスの中でも提案しています。人類は人口が増えて、今、宇宙にいこうとか、削減しようとか、バーチャルで乗り切ろうなどといっていますが古代の人はこれを聴いてどう思うでしょうか?知恵は使っていない知識の欲望に呑まれた人類を悲しく思うかもしれません。

本来は、人類の知恵は今でも私たちは先祖たちの御蔭で使うことができます。その知恵を使うことで、私たちは永続する未来を約束されていました。今、水の問題が地球から人類の進む方向へ警告がはじまっています。地球の声をどう聴くかは、知恵のある人たち次第です。

子どもたちの未来のためにも、今、できることから取り組んでいきたいと思います。

 

野生の感覚~いのちの間~

私たちは本来、古代から野生というものを持って誕生してきました。地球と共生する地球の一部としての本能というか、いのちが繋がっている存在でもあります。その野生は、大人になっていくにつれ減退し人工的なものになって都会化していきます。

そのうちにもともと使っていた能力や機能にも蓋をして野生であったことを忘れていきました。そうすると、本来のいのちの感覚や、身体の感覚、精神の状態なども含め、何が本当のニュートラルであるのかも忘れてしまいます。

目で見て知識が増えて、限りなく増幅させていくような幸福に魅せられては足し算や掛け算ばかりでモノを増やして消費してきます。しかし実際には、真の豊かさはその逆で足るを知り、削り取っていく余計なものを減らしていくような引き算のなかにあったりするものです。

野生に戻るには、足し算ではなく引き算のように自分がもっているものを減らしていく必要も感じます。

食べることであれば、たくさんを贅沢に食べるのではなく一つのものを丁寧に味わい、時間をかけてじっくりをいのちをいただく。品数も量も少なくても、その一つから生まれる有難さや喜び、味わいを感じ尽くすことで全身心が野生の感覚になり仕合せになります。まさに足るを知り喜びが満ちるのです。

私も暮らしフルネスのなかで、大切なご縁のものをいつまでもお手入れして味わったり、炭のぬくもりを最後まで味わったり、お水のもつ有難さを感じきったりして喜びが満ちることが何度もあります。

人工的に信じ込んだ増やす事ばかり、やることばかり、スケジュールに追われてお金儲けばかりしている知性のコントロールをしていかないと真に豊かさを感じることもできなくなっていくように私は思います。

必要な分だけということに人類が目覚めれば、人類は永続することができます。地球はその必要な分は用意しているから今までも暮らしてこれたのです。しかし必要以上に、誰かが集めようとしたり、必要ではないものまで獲ろうとすればそのツケは因果応報に自分に返ってきてしまいます。

一人一人がどのように目覚めていくのか、それが試される時代です。

子どもたちのためにも、先人の知恵を頼りながら新たな道を拓いていきたいと思います。

いのちの充実

食べ物には「いのち」というものがあります。いのちは充実することで溌溂とするものです。いのちが元氣な人は、いつもこのいのちが充実するような暮らしを行っています。いのちは、あらゆるものを体験し、さらに輝きを増していきます。そのためには、そのいのちの元氣を支えるための食は必要です。

例えば、いのちが元氣なものというのは自然に育成されたものです。その生のすべてを全うして存在しているものです。生を全うしたいのちであれば、そのいのちは充実し溌溂としますから元氣です。

この元氣溌溂としたものをいただくことで自分自身も元氣が甦生していきます。

今はこのいのちが充実する時間を食べ物に与えません。早く、効率よく、さらには便利に表面上の味わいだけを味付けしたものを食べさせています。元氣のないものを食べるから、さらに元氣はなくなっていきます。

植物でいえば、土が元氣なものはいのちが充実します。植物は土が化けたものであり、私たちは土を食べて元氣をいただているともいえます。海であれば、海が元氣なもの、山であれば山が元氣なものがいのちが充実するのです。

いのちの充実というものは、人間であれば何か。

人間であれば、自分の初心や目的に真摯にいのちを輝かせて生き切っている人たちが充実して元氣溌溂としています。その逆に、日々に流され初心や目的を見失ってしまうといのちは輝きません。人間は主人公として、独立自尊し自立するときに元氣が甦生します。

子どもも同様に、発達を見守りその自由に生きる喜びに生きるときにいのちは充実します。

生き方というのは、その人のあらゆるものに出てきます。どのような生き方を志すかはその人人の自由ですが、その生き方を通していのちを分け合い、尊重し合い、いのちを繋いでいくのです。

子どもたちのためにもいのちの充実する暮らしを紡いでいきたいと思います。

ただ坐ること

先日、「普勧坐禅儀」という書に触れる機会がありました。これは曹洞宗の祖である道元禅師が中国より帰国して最初に書き留めた書物であるといいます。日本の世相の価値観、時代の流れとともにくすんできた真理を甦生すべくその当時に座禅というものの価値を用いて真実の目を開き直させようとした取り組みのように思います。

私もオランダで学び、帰国して一円対話を考案して今に至りますが時代は変われど同じ問題意識であったのではないかと深く共感します。

やり方ではなくあり方、そして本来はどのような仕組みであったのかを探求したのです。つまり教えるのではなく、救うためにどうするべきかを突き詰めたということだと私は思います。

いくら世の中で便利な道具を用いて、あの技法やこの技術などを指導してそれが広がっても救われていなければ意味がありません。今の時代も同様に、これだけの情報が氾濫している世の中でも知っていても救われない、教えているけれど救えないということが往々にして発生していることに気づきます。

そんな世の中に嫌気がさして、どうすれば救い救われるのかと真摯に向き合われていたのが道元禅師ではないかと私は感じました。それがこの座禅の書、普勧坐禅儀の中に詳しく記されていたからです。

あまりにもこの世の嘘に触れていたり偽物ばかりの環境の中にいると、本物であることが分からないだけでなく本物や真実を恐れるようになっていきます。きっと、あらゆる便利なものが増えてきてあれもこれもとやり方が複雑になっていくなかで元が何かもわからなくなっていたのでしょう。元を尋ねて元本を知り、元々に回帰してみるととてもシンプルなものだったということでしょう。

それは例えれば、いのちの源流が水であったり、循環とは遍くすべてを通過することであったり、光も闇も一体であったように、或いは身も心もそもそもは一つであったりと、辿り着けばはじまりを知るという具合です。そこからもっともシンプルな仕組みを取り入れることで時代の価値観に流されず普遍的な生き方を保とうとしたものかもしれません。

あの手この手で悟りを語る宗教者の前に、只坐れというのはその時代はとてもセンセーショナルなものだったように思います。しかし、坐ればわかるとし実際に坐った人たちが感覚が変わる体験をして気づき目覚めていきましたから今でもその道統は燦然と輝き続けているようにも思います。

時代を超えても、坐れば道元禅師の目覚めに気づけるというのはとても有難いことです。場の道場では、目覚めをテーマにしていますからこれらの目覚めの仕組みを色々と探求し、本来の生き方、本質をシンプルに顕現させていきたいと思います。

一期一会の素晴らしい機会になりました、ありがとうございます。