甦生という技術

滝場との関係性が深まってくると、滝行する際の滝との関係性も変わってきます。この滝は、流れ続けている水であり澱んでいるものはありません。また岩場から流れ落ちるものです。その水は、ただの水ではなく信仰のある人たちは「お水、お滝」としいのちあるものとして接していきます。

このお水やお滝を大切ないのちのある存在だと深く尊敬している人には、形が同じものではなくなります。毎回、そのいのちに触れるたびに感覚が異なることに気づくように思います。

それは単に水量や水温、天候の違いだけではありません。その時、流れているお水やお滝の状況や状態、そして自分自身の内面、身体の状況で異なります。

時には、非常に冷厳で凍てつくような強いときもあれば穏やかで心地よく透明な風が吹き抜けていくような優しいときもあります。その時々のお水やお滝に触れることで自然と一体になることができるのです。

私たちは自然から離れることで様々な問題を抱えていきました。自然との共生をやめたことで苦しみや不自然が溢れてきました。そのことから自然の循環にある喜びや仕合せを感じにくくなり、心身の病も増えていきました。

人間だけが創り上げた世界や社会のストレスは、心身を蝕みます。愛を学び、人間であることの喜びも感じますが知識が氾濫し、分化し続けてきた複雑な状態は私たちの暮らしに大きな負の影響も与えます。

そういうものとのバランスをととのえるには、暮らしが重要です。ここでの暮らしは、仕事の余暇としての暮らしではなく自然と共生し一体になる暮らしのことです。すべての地球や宇宙の生命が循環しているいのちのリズムともいっていいかもしれません。

暮らしをととのえるというのは、この自然との調和に他なりません。その自然との調和の要諦は、甦生であることは間違いないことです。いのちは澱むと元氣が失われますから、定期的に甦生させていく必要があります。私たちが朝起きて夜眠るのもまた甦生の繰り返しです。他にも、火や水を活かしていくのも甦生の技術です。

科学がもっと進めば、本来の自然テクノロジーの価値も見直される日が来るかもしれません。今はまだ、時期尚早でオカルトや宗教などと偏見を持たれてしまいます。しかし先人たちが知恵を伝承して子孫たちにつないできたものは、確かな最先端の科学であることはそのうち証明されるはずです。

それまでの間、地道に粛々と子どもたちに伝承が途切れないように徳を磨いて積んでいきたいと思います。

使命の全う

昨日からハーバード大学で修験道の研究をされているカナダ人の方がBAに来られています。色々と情報交換をしていると、この道に入ったことの理由やその哲学などを語り合い豊かな時間を一緒に過ごしています。

もともとこの方が大学生の時に、仏教のことを教えるいい先生に出会ったことが切っ掛けだったそうです。この先生は、仏教の教えとして苦労することの大切さ、そして森羅万象の死について話をされたそうです。そこで価値観が転換し、仏教の道を学び始めたそうです。

その後は、カナダの先住民族の儀式で日本でいうお祓いのような行事に3年間をかけて参加して自分の中の価値観を醸成されたそうです。もう日本は12回目の訪問で、少し前までは出羽三山で研究を進めていたそうです。

このカナダの先住民の儀式をきくと面白いもので、シャーマンが石を火にかけてそれを円の中心に置き、サウナのようにみんなでその中に入ります。その石に、聖水や薬草のような何かをいれてかけてその水蒸気を浴びながら祈る、謳うという具合です。夕方17時くらいからはじまり深夜まで行われたそうです。まるで温泉やサウナに入ったあとのようなととのうような感覚だったそうです。

これを何のためにするのかと聴いたら、先住民族の方々は「甦生するため」とあったそうです。毎週1回、これをすることで生まれ変わることができるという意味だそうです。

この感覚は、私の取り組んでいる暮らしフルネスの「お手入れ」と同じです。私も、生きていたら日々に穢れもくすみもでてきます。それは物事が分化して複雑になっていくからこそ、初心に帰るように原点回帰していくためにも行います。

掃除も同じく、洗濯も同じく、使うと器が汚れるからそれを濯ぎ洗い拭いて仕舞うのです。私たちの心身は器ともいえます。その器には何が入っているのか、それをある人は心ともいい、またある人は魂ともいいます。どのような呼び方であっても、私たちは器に盛られた一つの存在です。

どのように生きるのか、器と一緒にどこに向かうのかは自分で決めることができます。どの時代においても、先を観て何が大切なのかと伝承してきた人たちは古から知恵を受け継いで現代も暮らしをととのえています。

暮らしがととのうことは、人間が自然の叡智をもって自然と共生し平和を保っていくことです。人間がこの甦生や生まれ変わりをしなくなれば、そのうち穢れも積もり悲しい出来事が増えていきます。

苦労も死も、私たちがどうにもならない諦観を持つための材料として存在します。何を諦めて、何を諦めないのか。現代のように人間中心の世界や社会が広がるなかで、どのような空気を吸っているのか。私たちは蓮の花のように汚泥で美しい花を咲かせる時、先人の偉大な徳を感じるものです。

子どもたちのためにも、自分の使命を全うしていきたいと思います。

和の伝承

戦争というものには二つのことがあるように思います。一つは、已むに已まれずに義を守るために戦うもの。もう一つは、権力が腐敗して一部の人たちが権益を守るために戦うものです。この二つは似て非なるものですが、見極めるためには歴史の時間や自然の篩にかけることが必要になります。

高杉晋作が、『人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。』と言った言葉があります。これは元治の内乱後、藩主からの要職の話を固辞した時に人間は苦楽は仲間と分かち合えるが、ひとたび上に立ち富や権力を手に入れると人は自分を見失い仲間との間に亀裂が生じて純粋な気持ちが失われていくものでそんなものは見たくないという意味だといいます。

苦難を忘れてしまうと人間は、初心も忘れてしまうものです。もっとも忘れるのに効果的なことは安逸や快楽です。苦労を忘れるためには必要ですが、初心を忘れては意味がありません。

今の平和がどのような苦難の歴史があって実現したのか、また現在の私たちの暮らしがどのような先人たちの苦労があってのことか、それを忘れたとき戦争は起こります。

苦しい時こそ、忘れないのが人間ですが苦しみがなくなるとあっという間に過去の大変だったことも忘れて目先の利益や快楽に流されてしまうものです。これは人間の性質でもあります。

だからこそ、人間本来の性質をよく見極め初心を忘れないように教育や内省を繰り返していく必要があります。しかしひとたび、権力や権威を独占し、自我に呑まれたら人間はその不信の連鎖においてあらゆる争いの種を蒔いていきます。そこには差別、自尊心、保身、あらゆるものが発生します。

そしてこれは別に国家という大きな組織のトップでなくても、小さなお山の大将に至るまで発生するものです。人間は誰にしろそういう本性があるということでしょう。だからこそその空気に呑まれないように、自らを正すために内省し、誰かと戦争をするのではなく自分に打ち克ち、常に自分を反省して謙虚に生きることで戦争を生むような状況をつくらないようにみんなで努力していくしかありません。

忠義というものもまた、武士道もまた、平和を維持するために先人たちが磨いてきた力です。今、また世界は権力や権威、あらゆる不信や疑念が渦巻いてきています。それは世界全体であり、人々は今このことの当事者になっていることを思い出す必要があります。

子どもたちに平和の未来を譲りつなげていけるように、自分自身を改革し続けて和を伝承していきたいと思います。

今の心 念じる生き方

日々は忙しく過ごしていると目の前のことで一杯になることがあります。そうなってしまうと、それだけで先々のことを取り組めなくなることもあるものです。これは仕方がないことで、目の前のことに集中するとき、人は今に心を置きますから頭で先のことなどはあまり考える余裕もありません。だからといって心を失ってしまい頭でっかち鳴門、今から離れてしまい先のことばかりを考えてしまいます。

このバランスを取ることができれば、今に心を置きながら次のことも考えていくことができます。私もむかしは振り返ることや内省すること、このブログなどを通して訓練することで少しずつバランスを保つことができているように思います。

実際には、人は大変なときは全身全霊で何も考えることができませんから振り返りの時間を持つことが大切なのは間違いありません。

先ほどの今に集中しながら考える事とは何か、それは意味をしっかりと感じながら歩んでいくことに似ています。今、何が起きているのを目の前のことに集中しながら感じていくこと、そしてその意味が何かということを深める事。そうしていけば、意味から先のことを導かれていくものです。

今に起きていることは、もともと将来を実現したいことがあって願い想ったものです。その思いや想いが実現していくためにあとは自動でハタライテいきます。そのハタラキは、目には見えないものですがそれを可視化するときは意味付けをしていくことで実現します。

その意味が何かということを深めるとき、どうあればいいのかが観えてきます。あとは信じて進んでいくだけです。頭で考えることというのは、本当はその時の具体的なやり方として知識を活用していくという具合です。

知恵というものは、目には見えません。しかし確かなハタラキがあり、知恵が物事の半面を動かしていきます。その知恵を活かすには、今を肯定することであったり、心を優先することだったりします。

古語に、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」がありますがこれに似た境地かもしれません。藻掻いて泳ぐよりも、流れに任せながら意味を感じてその時々で必要な手を打っていく。

焦るよりも、今を楽しみ、喜び合うような関係があることが仕合せと豊かさを産み出すようにも私は思います。自分との正対を続けて、暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

炭と蒟蒻

昨日、宿坊で子どもたちに炭を学び炭に触れる場を提供してきました。備長炭に火をいれて、囲炉裏を囲んで食を味わいましたがとても豊かな時間を過ごすことができました。

その中の一つに蒟蒻(こんにゃく)があります。もともと英彦山には伝統的な蒟蒻をづくりをしている方がいて、むかしの製法そのままに今でも英彦山の名物としてその知恵を伝承されております。感謝祭でも蒟蒻がメインになって皆さんがこんな蒟蒻は食べたことがないと大満足されていましたから今でも伝統的製法でつくり蒟蒻は人々の心を深く揺さぶるものです。

この蒟蒻は、実は世界でも珍しく「排出」を目的に食べられた食品だといわれます。栄養の摂取を目的だけに食べたのではなく、便通を良くして、腸内をきれいにするために好まれたものです。医食同源として、山伏たちがおすすめしたこともわかります。

もともとこの蒟蒻は仏教とともに中国から日本に伝来してきたものです。今から1100年くらい前に記された日本最古の薬物辞典でといわれる「本草和名」(ほんぞうわみょう)の中に、「古爾也久」(こにやく)として紹介されています。

蒟蒻は、「こんにゃく芋」(こんにゃく玉とも呼ばれる)というサトイモ科の植物の球茎から作られています。こんにゃく芋の原産はインドシナ半島が発祥といわれていますが東南アジアには約130種ほどの種類があるといわれます。しかしその多くは日本のこんにゃく芋と品種が違い、こんにゃくマンナンという食物繊維の含まず食用に適していないそうです。

日本では親しまれた蒟蒻ですが世界ではまだそれほどではありません。私たちの先祖は、その蒟蒻の持つ様々な毒を出し身体をととのえる効果に注目して定期的に食べ続けて健康を維持してきました。江戸時代には「砂払い」といわれ、お腹の中を綺麗にするために冬至に食べる風習もあったといいます。

先人たちの知恵を、子どもたちに伝承できることはとても仕合せなことです。ただの食べ物ではなく、これはどのような歴史でどのような知恵で今に受け継がれてきたのか。その知恵を使いながら伝承することがかつての本来の教育だったのでしょう。

宿坊ではじめての囲炉裏をつかった体験でしたが、子どもたちの一生の思い出になってくれたのではないかとも思います。引き続き、子ども第一義の実践を楽しんでいきたいと思います。

かんながらの道

先日、ある方から本をいただきそこに「誠実自然」という言葉を見つけました。誠実と自然をそのまま並べていた言葉でしたので気になって改めて意味を深めてみました。そもそもこの誠実という言葉は、辞書をひくと「誠実」とは、私利私欲がなく、誠意・真心をもって人や物事に対する様子と書かれます。

さらにこの誠の文字の成り立ちをみると、「神様への祈りが成る」と書き、「想いが神様に真実と証明されたこと」ことを意味するそうです。そして「実」は實とかき、「本当のことがみちる」意味になります。字も「祭壇に貝(’宝)をたばねたものの組み合わせでここから真に中身があるものとされました。

誠実とは、嘘偽りなくそのままであるという意味です。

そしてこのあとの「自然」という言葉、この言葉もまた誠実と同じくあるがまま、そのままであるという姿です。別に無理に自分を装うのではなく、いつもの自分のままであること。これは別に自分のすべてを見せるという意味ではありません。いつも心を開いて神様や天に対して恥じることのないありのままの自分でいることを心がけようとするものだと私は思います。

自然体というものは、自分の定めた初心に対して正直で素直であるということです。つまり自分の心を優先していく生き方を実践しているということです。西郷隆盛なら敬天愛人ともいいましたし、吉田松陰は至誠ともいいました。

天地自然の一部として自分が自分のままに心に正直に生きていくことは、そのまま自然の天命を生きるということでもあります。天寿を全うする生き方をすると、人はその人をみて感動するものです。

私たちは地球が創造したものですから、心は地球そのものです。地球の心を生きることができたとき、そこは自然になります。これを私は「かんながらの道」と呼んでいます。

立場や生まれも異なっても、同じように生きた人。大和魂や武士道を実践した人がいることを知ると嬉しくなります。子どもたちのために、私も生き方を大切に残りの人生を自然体で全うしていきたいと思います。

時を待つ

松下幸之助さんの残した言葉に「時を待つ心」というものがあります。素晴らしい内容で何度も読み返したいものです。

『何ごとをなすにも時というものがある。時、それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。いかにあせろうと、時期が来なければ事は成就(じょうじゅ)せぬ。冬が来れば春はま近い。桜は静かにその春を待つ。それはまさに、大自然の恵みを心から信じきった姿といえよう。

わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つことは僥倖(ぎょうこう)を待つに等しい。静かに春を待つ姿は、一瞬の休みもなく力をたくわえている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。

時を得ぬ人は静かに待つがよい。大自然の恵みを心から信じ、時の来るを信じて、着々とわが力をたくわえるがよい。着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。

待てといわれればなおあせるのが人情である。だが、自然の理はわがままな人情には流されない。冷たいのではない。静かに時を待つ人には、暖かい光を注ぐのである。おたがいに時を待つ心を養いたい』(道をひらくより)

最近、特に静けさということを深めているとこの時を待つということを意識することが増えてきました。じっとしているのではなく、待っているということ。この待っているというのはとても静かな力であるように思えるのです。もともと私はせっかちですが、意外と大切なことはずっと待つことができています。この待っているときは、何もしていないのではなく時が醸成していくのを静かに待っているのです。

この時の醸成とは一人でできることではありません。絶対的な他力が入ってくるのを待ちます。それは志が一人ではとてもできないことだからこそ、すべてが集まってくるのをあらゆるハタラキを活かして待ちます。

天に龍が昇る時を待つ心のように、その時を静かに見つめます。静かに見つめていたら、時が満ちてきます。ひょっとしたらその時、私はもう寿命が尽きる寸前かもしれません。あるいは、最も最高の状態で迎えることができるかもしれません。それは私が決めるのではなく、天地自然のハタラキが決めます。

私は、場に佇み、風を読み、水を捉え、火を保ち、土に還り、木を植え、金を打ち、月を眺めて日を拝む暮らしをするのみです。どこに陣取るか、趨勢を見極めて時を待ち続けます。

私の取り組んでいることは、あと何年後に水面に現れるのか、5年か、10年か、もしくは100年か1000年か、わかりません。でも動かずにじっと祈り念じ続けています。

時を待つというのは、何よりも自然ないのちの姿であり謙虚で素直な心でもあります。一期一会の人生、妙味を味わい徳を積んでいきたいと思います。

屈原と真心、粽の祈り

先日、粽(ちまき(のことを深めていたら中国の屈原という人物のことを学びました。もともと端午の節句の食べ物として慣れ親しんできましたがその理由についてはあまり調べていませんでした。時期はズレていますが、少し紹介したいと思います。

もともとこの端午の節句や粽(ちまき)中国の故事にある楚国の詩人屈原(くつげん)の死を供養するためにはじまったものです。この屈原は、王様の側近でしたが陰謀により国を追われ悲観しついには河に身を投げてしまいます。この屈原の命日が5月5日でその屈原の死を嘆いた人々は米を詰めた竹筒を投じて霊に捧げました。理由は屈原の肉体が魚に食べられないようにという意味もあったそうですが同様に河に住む竜に食べられないようにと竜が嫌う葉で米を包み五色の糸で縛ったものを流し供養したといいます。

この風習が日本へは奈良時代には伝わり平安時代では宮中行事になったといいます。他にも神功皇后が三韓征伐の時持ち帰ったとも言われたり仁徳天皇の時代にちまきが宮中に献じられたと言う話、他にも伊勢物語や古今和歌集などに記述があるなどとあります。この「ちまき」と呼ばれるようになったのは、茅(ちがや)の葉が使われたことからつきました。

現在は笹の葉を巻いていますがこれも武士が戦に行く時にもっていくときに殺菌効果もあり腐らないからというのもあります。屈原との縁起を持つこともあったように思います。

では、屈原どのような人物であったのか。日本でいえば吉田松陰に似ているような気がします。澄んだ心で権力に媚びずに王と故郷を守ろうと真摯に忠義を貫きました。王が暗君でも政治が乱れていても、変わらずに自分の言葉と実践を大切にされました。別の言い方では、魂を守り生き方を優先した人生でした。その姿をみた国民や周囲の人々から深く愛され、亡くなってからその真価や徳が顕現した人物です。

自分に素直に生きていくことはもっとも価値があることです。しかし時としてそれは世の中が乱れているときは不器用な生き方です。もっとうまく生きていけばいいという声もあるでしょう。しかし、人生は一度きりですし自分も一人きりです。だからこそその人生おいて、魂を優先して歩み切ったのでしょう。

その清々しい姿、澄んだ真心に人々は心をうたれ歴史の中に生き続けて今もあります。粽はその生き方を尊び、最期まで自分を盡すことができるお守りでもあったのかもしれません。先日のソクラテスも同じですが、この世の自分を守るよりも真の自己を守る生き方。魂を研ぎ澄ませるような美しさは、私たちに目を覚まさせる力を持っています。

最後に、屈原の残した言葉です。

「この世すべて濁るとき、清めるは己れだけ、人々みな酔えるとき、正気なのは己れひとりだけ、されば追放の身となった。」

今の時代も通じることですが、先人の生き方から学び、暮らしを観なおし続けていきたいと思います。

知恵風の知識

ソクラテスという人物がいます。わかっている範囲だと、古代ギリシアの哲学者。アテネに生まれる。自分自身の「魂」(pschē)をたいせつにすることの必要を説き、自分自身にとってもっともたいせつなものは何かを問うて、毎日、町の人々と哲学的対話を交わすことを仕事とした人とあります。

有名な名言に、「無知の知」や「徳は知である」などがあります。特にこの「無知の知」(または「不知の自覚」)は自分に知識がないことを自覚するという概念のことです。

これは「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」という意味です。これはある日、友人のカイレポンから「アテナイにはソクラテスより賢い者はいない」と神託があったことを知り、自分が一番の知者であるはずがないと思っていたソクラテスはその真意を確かめるためにアテナイの知識人たちに問いかけを繰り返していきます。そしてその中で「知恵があるとされる者が、必ずしも本物の知恵があるわけではない。知らないことを自覚している自分の方が彼らよりは知恵がある」と気づいたという話です。

私はこれは知識の中には知恵はなく、知恵の中にこそ真の知識がある。みんなが知識と思っているものの中には知恵がなかったということでしょう。

これは現代の風潮をみてもわかります。最近は特に、自分で体験せずに知識を得たい人が増えています。実践も体験もせず、気づいたこともなく、気づいた気になれるもの、わかった気になれるもののためにお金を払って知識を購入しています。

お金持ちは時間がもったいないと思い、体験しなくてもその知恵をお金で買おうとします。しかしその知恵は、知恵と思い込んでいるもので本当の知恵ではなく知識です。知識を知恵と勘違いしているからそういうことをしようとします。

オンラインでの講習会や、流行りの講演にいっても知恵のように知識を話していますがその知識は使おうとすると知恵が必要です。しかし知識が知恵になることはなく、知恵だけが知恵になるものです。知恵は知識にはなりますが、それはあくまで知恵を知識にしただけで知恵ではありません。

なので知恵者とは、徳のある人物のことであり、徳を生きるものです。これは世の中のハタラキそのものが知恵であるから使えています。

例えば、二宮尊徳はある知識のある知識人が訪ねてきたときに「お前は豆の字は知っているか」と尋ねた。それでその知識人は紙に豆の字を書くと、尊徳は「おまえの豆は馬は食わぬが、私の豆は馬が食う」と答えたという逸話があります。

これは知恵についての同じ話です。

私は本来の革命は、知識で起こすものではなく知恵がハタラクものであると思います。人類を真に導くには、文字や文章、言葉ではなく知恵が必要なのです。知恵風では真に世界は変革しないと私は経験から感じています。私が「暮らしフルネス」にこだわるのもここがあるからでもあります。

生き方と働き方というのは、単に知識で理解するものではありません。体験して気づき実感して真似ることで得られます。子どもたちのためにも、今日も実践を味わっていきたいと思います。

知恵の甦生

知恵というのは、もともと知識とは異なり使っている中でなければ観えないものです。つまり止まって理解するものではなく、実践したり体験する中でこそはじめて実感でき観えるものともいえます。

例えば、昨日、暮らしフルネスの一環で滝行をしてきましたがこの滝も流れる中でしか滝のいのちを感じることはできません。いくら口頭で滝の話をしたとしても、滝が持つ徳は滝の中ではじめて活かされるものです。

さらには、この滝が知恵として感じるためにはその滝をただの文字や言葉だけにしない知恵の伝道者が必要です。この伝道者は、その価値を知り、その価値を学び、その知恵を正しく使い続けてきた人でなければなりません。

むかしから伝統の職人たちのように、意識を継いでいく人があってはじめてその真の技術が温故知新されアップデートしていけるようにその本になっている知恵が伝承されなければ伝統はつながりません。

つまり知恵こそ伝統の本質であり、知恵を活かす人こそ真の伝承者ともいえるのでしょう。

時代は、時代と共に時代の価値観があります。戦国時代の知恵の活かし方は平和な時代は使えません。その逆も然りです。つまり時代に合わせて価値観が変わっていくのですから、知恵はそのままに使い方や仕組みは変える必要があります。

先ほどの滝行も同じく、一昔前の使い方をしていても知恵が伝わりません。知恵を伝えるには、今の時代の使い方、活かし方が必要になるのです。これは意識も同じです。現代の知識優先の考え方を意識優先の生き方に換えていく。そうすることで、眠っていたり忘れていた知恵が甦生していきます。

知恵の甦生は、人類のこの先の未来、子孫たちの永遠の仕合せには欠かせないものです。地球がバランスを保つように、人類もまた長い歴史の中でバランスを保っています。この時代は、バランスを保つために舵をきる必要がある時代でもあります。

子どもたちに真の知恵が伝道していけるように、暮らしフルネスの実践を積んでいきたいと思います。