暮らしフルネスの場数

情報過多の時代、脳の認知も過労になります。以前、修験道のことを英彦山の禰宜さんにお伺いしたときに深夜からずっと山歩きをして身体感覚が極限まで過労したときに何も考えなくなることがいいということを聞いたことがあります。

きっとその時、脳の認知がなくなり力が脱落して空や無の状態になるように思います。脳は、あらゆるものを仮想に創造しますから今ここにあるという意識を遠ざけてしまうのかもしれません。

しかし本来、脳は、短期的な危険を未然に察知したり想像をしたりするのにはとても大切な役割を果たしています。しかしそれが行き過ぎると、疑念や不安などをつくり実際にないことまで創り出したりそれを事実だと思い込んだりもします。思い込みの強さというは、記憶を捻じ曲げていきます。人は世界をそれぞれに持っていて、それぞれの世界を生きています。

事実が同じであってもある人は、平和で安心の楽観的で穏やかな世界に暮らしていたり、あるいは疑心暗鬼と不安、悲観的で恐怖の世界に暮らしていたり、それはその人の心の持ち方で決まっていきます。

心の持ち方というのは、常に初心を忘れずに今起きていることを意味づけして自分のありたい方へと転換していくような実践です。つまりどんなことがあっても、「これでいい」とし、それを上手に受け容れて目的に回帰していく原動力にしていくということです。

古語にある「禍転じて福にする」というのもまた、心の持ち方の実践ともいえます。

脳の認知に縛られないで心の在り方の方に軸足を置いていく。バランスを取るというのは、身体の重心や軸を保つということに似ています。背骨が一緒についていきながら移動していくように、初心が一緒についていくように移動させていくということ。

何のためにこれをやるのかということを、忘れないでい続けるというのは日々の自己内省と自己鍛錬によるものです。

よく考えてみると、人間は自己を真に育てあげていくことで世界を変えていくことができます。どのような世界にしていくかは、一人一人の心の中にあります。その世界になるようにするには外側の世界に軸足を置くのではなく、あくまで軸足は自分の世界をととのえていくことに置き、バランスよく移動していくことに似ています。

脳と身体の関係もまた、日々の暮らしをととのえていくなかで磨いていくのかもしれません。小さな日常の移り変わりの中においても、大きなハタラキがあることを知り、そのハタラキが世界を真に豊かにするということを知覚できるのもまた日々の精進です。

心静かに、暮らしフルネスの場数を増やしていきたいと思います。

今を守り続ける

私たちが存在している今というものは、過去も未来もすべて混然一体になったものです。つまり一つのものです。その一つのものを今という認識をしますがこれは今を変化し続ける存在であるということです。

その「今を保つ」というのはどういうことでしょうか。

それは今を常によりよくしていくことに他なりません。今をよくしていくというのは過去にも未来にも執着せずに今を創り続けていくということです。そのためには、どのような未来にしていくか、そして過去はどのように積み重ねて体験してきたか、その連続と継続の中の意識が重要になります。

今の意識をどのように保っているか、それが今を保つということです。今というのは意識です。この意識を一瞬一瞬何に傾けているのか。意識を変えていくというのは、目には見えないハタラキを動かしていくということに似ています。

この世の現実というものは、その物質、意識、両方が活動して顕現してきます。この現実の世の中においてどのような意識を保つのか、これは一つの生き方の実践です。

意識というものは、目には見えませんが人づての意識を通してそれがいつまでも受け継がれていきます。伝承者たちがその意識の存在を受け取り、それを磨きその時代に相応しいものに変化させていきます。そうやって常に意識を新鮮に保つことで、意識が甦生し続けて新しくなります。

私たちの身体が生死を繰り返して新しくなっていくように、意識もまた生死を繰り返して新しくなっていくように私は思います。そしてこれは、身体感覚との調和によって結ばれていくように思います。この結びは、かつては「むすひ(産魂)」ともいいました。万物のいのちが衰えて失われそうなときに甦生させる古来からの知恵です。

私の言う、甦生でもあります。この甦生は、徳を磨くことで行われます。そしてこの徳を循環させることであらゆるものが結ばれていきます。暮らしフルネスもまた同じ仕組みです。この方法や仕組みは私がつくったものではなく、むかしから日本に伝承されてきた仕組みを今の時代ならどの道具でやるのかということを温故創新しているに過ぎません。

今は、自分自身と意識が結ばれ続け、世界全体の意識と結ばれ続けていくかで由ります。縦軸と横軸が結ばれて、円環していくかのような感覚です。

子どもたちがいつまでも仕合せな暮らしが続けられるよう、今を守り続ける力を結び甦生させていきたいと思います。

教育と暮らしの一致

現代の教育の問題として知識と知恵のつなぎがスムーズに連携できていないというものがあるように思います。学校で子どもたちが学んでいる知識がどうそれが活かされるのか、その体験までいく環境がありません。同時に、知恵がちゃんと知識としてその人のものになっていくという体験して内省し、それが気づきになるという時間もありません。

本来、学問の面白さはこの知識と知恵の一体感にこそあります。この両輪がきちんと周ってこそ、前進することの面白さを知り、好奇心が促され学問はさらに豊かなものになっていきます。

むかしは、知恵の縦軸という教育。そして現代の知識の横軸というものが見事に結ばれて教育は充実していたといいます。私の所には、80歳を超えてなおイキイキと学問を学ばれる先達からワクワクと童心を発揮する幼児期の子どもたちまで来ますからその学問の過程と共通点を観る機会が多くあります。

本来、学問の醍醐味は体験してみて知恵を習得してみたいという願望があってはじまります。そしてそれが知識になることで、それをみんなの役に立てたいと思えば自然に学び始めていきます。知識と知恵は切っても切り離せない存在ですし、それが分かれていることで色々な問題が発生しているのです。

この時代、もう一度その知識と知恵を一体に学ぶ必要があります。そのためにも、知恵を学び、知識を持ち、それを日々の暮らしの中で活かしているというまるで仙人のような生き方をする人たちが必要になります。むしろ、それが本来の先生の原型でもあり、みんなその先生と共に学び合いながら知恵と知識を一体化した存在を目指していったのです。

情報化社会で知識を得る方法は、とても長けてきました。子どもたちは、あっという間にIT化された道具を駆使して知識を習得していきます。しかしその反面、知恵を得る方法が失われてしまい、知恵だけが取り残されてきました。そのことで、知識を得てもそれを活かす術がないまま大人になり、世界との切磋琢磨からも置いてけぼりをしているところも増えてきています。

日本はむかしから世界に誇る素晴らしい伝統文化や生活文化もあり、知恵の宝庫です。その知恵を使えるようになるには、みんなで知恵を活かすための訓練や実践が必要です。

これからはじまる仙人苦楽部では、その生き方上手な仙人たちがみんなと一緒に知恵を蓄え、知恵を活かします。どんな未来になるのかわかりませんが、教育と暮らしの一致を目指していきたいと思います。

武の徳

昨日、アメリカから来日した友人と一緒に糸島の龍国禅寺にて話をするご縁がありました。美しく苔むした庭を眺めながらととのった場で内省をしあうことができる仕合せは格別なものです。

その中で特に豊かな話は「武」についてのことです。武というと一般的には、武力や武士など戦っているイメージがある言葉だと思いますが本来の意味はその逆で戦を止めるという字で構成されていることがわかります。この字を分解してみると「戈」(ほこ)と「止」(とどめる)から形成しています。この戈は、戦で使われる武器であり、戦いそのものの象徴。そしてそれを止めるのが本来の「武」であるというのです。

かつて織田信長が戦国時代に「天下布武」という宣言をしました。これは天下を武力で統一するとイメージする人の方が多いかもしれません。しかし実際の意味はこれとは全く異なります。

これはもともと中国の古典、『春秋左氏伝』に本来の武は「七徳の武」であると記されているところから使われています。ここでは、天下は七徳の武によって治まるという意味です。

その七つ徳は、武力行使を禁じ、武器をしまい、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させることをいいます。

天下布武、これは如何に戦のない世の中にするか、そのためには徳を使い七つの武を実践する必要があると説いたのです。

そして武を志した「武士」には、この武の生き方を貫き実践するための武士道の七つの徳というものがあります。それは「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」です。

武士は、暴力や戦争を終わらせる役目とそういう時代にならないような教えを実践し導く存在でした。だからこそ武を磨き、武を尊び、武を守ったのです。

誰も殺し合いや戦争などをしたい人はいません。憎しみや恨みの連鎖は、悲惨な時代を到来させます。だからこそ私たちは本来の「武」を学び直す必要があると思うのです。

私のいのる天下布武とは徳積みの循環のことです。如何にこの時代に相応しい七つの徳を循環させていくか。その徳の循環を暮らしフルネスの実践において実現しようとしているともいえます。

子どもたちがいつまでも平和な世界で笑い合い和み合い、助け合い豊かに暮らしていけるように今こそ武の徳を磨き直していきたいと思います。

閻魔の知恵

先日、あることから閻魔帳のことを調べる機会がありました。これは人は亡くなってから閻魔大王が持つ、死者の生前の行動内容が罪や悪、そして善、すべてが記録されている手帳のことです。これを参考に、死者の天国行き、地獄行きを決めたというものです。

そういえば、幼いときにこの話を何かで聴いて悪いことをしないようにしようと思ったことを憶えていますが普段は思い出すこともなかなかないものです。その中で、浄玻璃の鏡というものがあります。

この閻魔帳に書いていることをみて、問答していきますがここで嘘をつくと舌を抜かれるといいます。舌を抜くというのは、もう嘘がつけなくなるということをいいます。

しかしなぜ閻魔大王はそれが嘘かどうか、なぜ閻魔様に分かってしまうのかというとこの閻魔帳とは別のものでその人の生前の行動をそのまま映し出す水晶でできた大きな鏡でその人をうつします。つまりその人の心を映すものです。これを浄玻璃(じょうはり)の鏡といいます。この鏡を通してその人の行動が周りの人をどれほど喜ばせたか、悲しい目に合わせたか、それまで映し出すので嘘かどうかわかるのです。

この話は、目に見えている世界のことをいくら誤魔化しても心の世界のことは誤魔化せないということを示唆しているように思います。

また仏陀が閻魔大王の話をするとき、善を観ては善に気づかず、悪を観ては悪を気づかず、そのことをなぜ深く反省しないのかと説きます。心の鏡に照らし合わせて、素直な心で反省しなかったのかと。

素直に反省したのなら、それはすべて一切が自分の因果応報であるということを話します。だからこそ、こうなったのだということも。

そう考えてみると、この閻魔帳と浄玻璃の鏡は一対であることがわかります。どちらかだけであっても裁けず、それが一つであるからこそ真に裁くことができるように思うのです。

自分で蒔いた種ですべてのことは発生する。だからこそ、心に聴いて内省し、そして気づいたらすぐに行動すること。自分で蒔いた種をちゃんと責任をもって果たしなさいということを教えているように思います。これは徳の話と同じです。

自分の喜びがみんなの喜びになり。その喜びがまた自分の喜びになっていく。この喜びの徳の循環をどう積んでいくか。それが問われているということです。

今の時代、情報化社会である意味このような閻魔大王や閻魔帳、浄玻璃の鏡のことなどは特にweb3.0と盛り上がっているところでは聞くことも気にすることもありません。しかしむかしの人たちは、根の教えにこの仏陀の教えが文化として根付いていましたから特に丁寧に慎重に嘘がないようにと誠を盡していたかもしれません。

一人一人が内省して気づき合い、そして反省したら改善するという実践を行っていけば浄玻璃の鏡も閻魔帳にもすばらしいことが記録し、記憶されていくと思います。

先人の知恵を現代に活かし、徳の循環する仕組みを伝道していきたいと思います。

苦労の真価

昨日、聴福庵に来庵された方から「苦労をお友達にする」というお話をお伺いするご縁がありました。これは苦労は嫌いになったり逃げたらいつまでも追いかけ来る、だから苦労とお友達になっていこうとするのが人生にとって仕合せになる大切なこととお話されていました。これはこの方の座右の銘でとても深いお話でした。

苦労はみんなが嫌がるものでもありますが、お友達になっているちに苦労が好きになり、苦労がいることで仕合せになると感じられるようになったらもはやそれが最上の喜びになるというのもわかります。苦労する喜びを味わえる人になったとしたらそれはもはや人生の達人です。

その方のお話ではかつての古い時代、日本人は苦労をよいこととして受け止めていた人が多かったと仰っていました。若い時の苦労は買ってでもせよという格言もあります。その苦労は人生に大きな役に立つからとの教えもありました。苦労するからこそ幸福になるという言葉、つまり苦労こそ幸福であるという意味になります。

その苦労とどのようにお付き合いしていくか。辛いこと、嫌なことになると本当に毎日がそのような日々になります。そこを見方を転じて、苦労させてもらえる喜び、苦労があったから今があると、まるで人とのご縁のように丁寧に一つ一つ関係を結んでいくことがよりよく生きるための知恵であることもわかります。

教えていただいたその方の生き方を拝見していると、本当に苦労を厭わずに真心を生き、日々を充実し、感謝で満たされておられました。徳を纏われ、みんなに慕われ、歳をも感じさせない溌溂として元氣が漲っておられました。

生き方というのは、こうやって歳月を積み重ねることで素晴らしい結果になっていることを知り、努力をさせてもらえる喜び、苦労できるほどに心から好きなことに取り組めたことに感謝の気持ちが湧きました。

一つひとつ、一人一人のご縁があるから今の私があります。

心に響く言葉や教えを胸に、丹精を籠めて歩んでいきたいと思います。

 

思いを纏う

人はいろいろな人の思いと共に生きています。今の自分は、個人的な自分というだけではなく先人たち、そして仲間たちの思いをそのまま受け継いで存在しています。その思いは、目には見えませんが同じように思いを持つ人たちとつながっていて生き続けています。

つまり人の本体とは何か、それは思いの集積であるということにほかなりません。私たちの器には、あらゆるものが入ります。その入るものをどのように選ぶのか、そして結ぶのか、関わるのか、それをご縁ともいいます。

ご縁を生きていくというのは、この繋がり続ける思いを生きているということです。そしてその思いがあるから私たちはその思いに活かされて思いを醸成してまたさらに繋がっていくのです。

振り返ってみると、思いを誰から誰につないだのか。特にその器としての肉体が生を全うした時、別の器に思いが移動するときに深く結ばれていくのがわかります。一人だけで思いを持ったのではなく、一人一人の小さな思いが集まって偉大な思いになっていきます。その思いが器を乗り換えながら、あるいは器を共有しながら生き続けているのです。

これだけの人口、そして細胞があり、私たちはその思いが宿るものと共にあります。絶対安心の境地は、その思いを継いでくれるものが必ずいると感じることです。自分と同じように守りたいと思うもの、そしてつなぎたいと思う人が現れ、その人が次の人に必ず思いのバトンを渡してくれると確信できるのです。

思いが自分を活かしていると思う時、大切なのは思いが生きているということを忘れないことです。私たちが思い出すという行為もまた、思いのお手入れです。目を閉じて心の中にある思いを思い出す、それがお預かりしている思いでありみんなとつながっている思い。思いはみんなのちからでいのることで必ず何度でも甦生するのです。

思いを纏い、今日も生き切っていきたいと思います。

足半の知恵

昨日は、足半(あしなか)を履いて英彦山を歩いていたら声をかけられました。この足半の草履は、日本人の先人の知恵の一つでいつまでも伝承したい道具です。

そもそもこの足半(あしなか)は一般的な草履の半分くらいの長さしかありません。つまり踵部分がありません。鎌倉時代の文献にも記されていて蒙古襲来のときに九州に来てこの足半を見て鎌倉武士たちの間で流行ったとも伝え聞きます。なので、それ以前からあったということは平安時代くらいから、もしくはもっと以前からあったものかもしれません。

有名なのは、織田信長がこの足半を履いているものが接見の条件になっていたり家臣に褒美として与えたりした話が残っていること。他には西郷隆盛も愛用していたといいます。合理的で知恵を重視した人たちが愛用してきた、日本人の足元を支えた大切な草履だったことがわかります。最近では実業家で民俗学者だった渋沢栄一の孫の渋沢敬三さんが、戦前各地を歩いて足半を300点以上集め研究されていたことも有名です。

よく考えてみると、現代の靴を履くようになったのも明治以降です。まだ100年そこいらでそれまではずっと草履や裸足のようなものでした。私たちは、足の裏から大地のエネルギーを感じていたともいわれます。たまに今でも靴を脱いで直接、大地や土や草原などを歩いていると足元から様々な情報が身体に伝わってきます。

都会ではアスファルトでしかもこの時期は暑すぎて足をやけどするかもしれませんが、山歩きをはじめ田畑などはとても草履や裸足は心地よく感じます。

むかしある方に、歩く健康のことを教わったことがあります。人間が健康を保つには歩くことが一番だということです。地球の重力でバランスがととのい、足裏からの刺激で内臓をふくめ全身がととのっていくというのです。

これは足半を履いて歩くとその価値はすぐにわかります。

日本人はどうしたら健康で長生きし、そしてもっとも自然の身体感覚を得られるかということに非常に長けていた民族です。この民族の知恵は、現代文明の中で消えかけていますが本来はこの知恵こそいつ訪れるかもしれない自然災害などに対する危機への備えになったはずです。

生きる力と教育ではいいますが、本来は生き延びる力だったのは間違いありません。今では生き死になどどこか遠い話、自分とは関係がないようになっていますが野生のものたちは常に生死は隣り合わせです。だからこそ、常に感覚を研ぎ澄ませ、自然のリズムや状態を確認いるように思います。

そしてそれが元氣さを増し、逞しくイキイキといのちを輝かせたのでしょう。今の時代、文明に少し偏っていますが文化や知恵も同じくらい大切にしていくことが子孫を守ることだと私は思います。

子どもたちにもこの足半の知恵をつないでいきたいと思います。

 

危機に備える

世界情勢や気候変動など、色々と変化が著しい時代に入ってきました。昨日も悲しい事件があり、この国が平和ボケしていることを改めて実感しました。そもそも平和ボケというのは、知識だけで物事を考えているということです。本能や直観、野生などを失い、生きる死ぬの自然界のように必死にすべての感覚を鋭敏に研ぎ澄ませて覚悟をもって油断なく生きるのではなく決して自分は死ぬことはないだろうと安心しきっている状態です。

実際にウクライナの進行のときも国民の声は、まさか本当に攻めてくるはずはないだろうとほとんどの人が思っていたようです。同時にロシアの軍の方も、いつもの訓練だろうと思っていたようです。実際には、政治や国同士の間はそれぞれに利権も利害もありますから遊びではなく本気でやりあっているものです。

現在、日本も地理的に緩衝国であり戦争がひとたび起きれば日本が戦地になるような場所で侵略されるかもしれないところです。

テレビやマスコミの情報をうのみにするのではなく、歴史を学び、今、何が起きているのかを今一度自分の頭と心で真摯に考えてみなければなりません。

一番危険なのは、まさかそんなことがあるわけがないという思い込みでしょう。

この思い込みは、正常性バイアスともいいます。想定外の事態でも平穏に過ごすために生じる心のメカニズムです。心の平穏を保つための機能ですが、本当の危機への対策や予防には逆効果になるものです。

むかしからリーダーというのは、危機に対して先に声高に危ないことをみんなに伝えます。誰も大袈裟だとかそんなことはあるわけないと、その人を無視するかご馬鹿にしたり、もしくは不安を煽っているなどといって犯罪者にしたりします。歴史をみても、危機に対して動いているリーダーたちは変人や狂人とよばれるものです。

明治の頃も、吉田松陰などはその最たるもので周囲から頭がおかしいといわれていました。しかしそれでも国難を憂い、誰よりも行動しその危険性を世の中に訴え続けていました。その御蔭で、寸でのところで有志達がたちあがり世界からの侵略に立ち向かう力を持つことができました。

時には牢に入れられ、時には暗殺され、時には罪を着せられてもです。

平和ボケにならないようにするには、みんなが今一度、現実を直視してみる機会を持つことです。そしてその現実に対してどうあるべきかを議論して行動することです。

子どもたちの未来が憂うものにならないように今できることで草莽崛起すべきです。志を持った人たちが、リーダーになりみんなで平和ボケを取り払っていけばきっと仲間たちが未来を導いていきます。

悲しい事件を無駄なものにしないように、この機会と意味を受け取ってそれぞれにリーダーとして立ち上がっていきたいと思います。

思想と技術の両輪

現代はインターネットで便利になっていますからすぐに情報を入手することができます。特に、思想を持って発信する人が多いのでその面白い思想を知識層の人たちが必死に集めては購入しているような時代です。しかし、その思想がいくらあってもそれを実現する技術は簡単には購入できません。思想と技術は両輪ですから、その両方あてはじめてそれを活かすことができるともいえます。

私も色々と新しいことに取り組んでいますが、その新しいことはほとんどすべて歴史や先人たちが残して譲ってくださったものを甦生しているだけです。私は甦生家ですからやっていることは目新しいものではなく、古いものを磨いて新しくする方の新しいことに取り組みます。

すると、どうしてもそれを新しくするのに技術が必要です。言い換えれば、磨く技術、掘り起こす技術、組み合わせる技術、寿命を伸ばす技術などがあります。そういうものを用いて思想を一つ一つ技術と調和させて知識と知恵を顕現させていきます。

知識というものは、本来は知恵を説明していくものです。知恵を悟った人たちが知恵を用いるのに知識を使ってみんなにわかりやすくするという具合です。しかし知恵がなくなり知識だけになって、知恵があったらしいということになると本末転倒です。

便利さというものにはそういう安易に知識だけで知恵を使おうとするところに問題が潜んでいるように思います。実際には、意味があって意識があって知恵がつながっているからこそ真に活かさせるのであってそれが失われてしまえば意味のないただの物になってしまいます。

道具というものも本来は意識や知恵とセットで用いられるものです。知恵こそ先人たちが守り伝えてきた思想の本懐であり、その思想の価値をその時代時代に甦生させてこそ技術は真に向上したように思うのです。

現代の技術は、どこか技術だけが独り歩きしているように感じてなりません。思想と技術が両輪であることこそ、人類をはじめ地球を仕合せにしていく未来が続いていけるように私は思います。

この場でカタチにして一緒に学び合うことで、思想と技術で世の中を救う仕掛けを顕現させていきたいと思います。