環境会議

人類は、果たして進化しているのか。

この問いは、とても大切であると私は思います。

そして進化とはそもそも何を指すのか。

私はこの進化については一つの結論が出ています。

理由は、いのちを観察すると観えるからです。

人間であれば、最初に赤ちゃんになります。

赤ちゃんは最初からすべてを持っていて、完全無欠です。

そこから刈り込みといって、不必要なところを削り、必要なところを残ります。

これを洗練とも私は呼びます、つまりシンプルにしていくのです。

その場の環境や状況、時代、周囲の風土に合わせて削り込んでいくのです。

そして顕現した姿が、その人の一生となります。

すると、進化とは何かに戻ります。

進化とは、そもそもの状態、原始のままでいることです。

現在翻訳される進化はどちからというとプロセスを指しますが、本来は結果を指すものだと私は思います。

つまり進化=原始なのです。

如何にシンプルであるか、如何に洗練されていたか、それは歴史を遡れば、今の文明社会ではないことは自明の理です。縄文時代、もしくはもっと前、人類は自然と一体になり心豊かに平和を続けた文明がありました。縄文人や原始人のことを、野蛮だとか、古くさい野生の動物のようなとか言いますが果たして本当にそうでしょうか。

それでは今の人類のいう知性と比べてどうでしょうか。

現在のようにゴミを増やし資源を吸い上げ環境を悪化させ欲とお金にまみれて差別や貧困、権力や戦争、これが知性であり進化でしょうか。

もっと本来のこと、真実のことを刷り込まれていない頭で考えることだと思います。

真っさらになれば、あるがままとは何か、本来がどうであったかに気づきます。私はこの本来がどうであったかを知ることが、生きる意味を学ぶことであり、ありとあらゆる学問が分かれる前の自然の姿だと思います。

伝統や伝承の中にはまだ連綿と真実のいのちの流れが宿るものがあります。

未来の人たちがこの時代をみたらどう思うでしょうか。

人類史の2000年、一部の人たちが何をやってきたか。それを人類と呼び、本来の人類の歴史を上塗りしてきました。100年後くらいの人は、今の私たちをバブルで欲望のままに突き進んだ世代などと呼ばれるのでしょうか。博打的に全部稼いだお金を使い切ろうとした世代とか言われるのでしょうか。

どちらにしても、子どもたちのことを思えばとても悲しいことです。

今ならまだ間に合う、そうやって奮闘してきたのもまた人類史です。人を愛するからこそ、諦めることができない、愛を知るからこそいのちをぶつけて夢を追いかけることができる。

環境問題の根源とは何か、今一度、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

美しい田んぼ

昨日は千葉県神崎にある「むかしの田んぼ」で稲刈りを行いました。例年のように田んぼの真ん中に「場」をつくり、その中で今年の恵みへの感謝を祈り、祝詞をあげてみんなで結んだおむすびをいただきました。今回も一期一会に色々な人たちがご縁でこの「場」に集まり、それぞれの思いや志などを交わし合うことができる豊かで仕合せな時間になりました。

この豊かさと仕合せは唯一無二であり、稲の育ち実る姿から、先祖から受け継いできたいのちの根がどこにあるのか、そしてみんなで一緒に暮らしていく喜びを感じました。

この体験はブログで書いても文字では伝わらず、写真や映像でも経験できません。一緒にこの場に来て、この場でみんなで味わってはじめてわかる感覚です。もちろん、入り口としてこういうことをしていることは発信できても、感じるものは同体験や経験を共にして味わうことがなければわかることもありません。

すぐに何でも知識や言葉で分かった気になる人が多い現代に世の中において、一見、意味もなくお金にもならず、合理的でもなく便利でもない、そして現代の世の中の潮流とまるで逆行するようなことを真剣に取り組んでいることにわかった気になりようがない体験をすることにこそ意味があるように思います。

知識や知恵の一端を知っただけで人間はわかった気になります。宇宙全体のことをほんのたったちょっとだけ齧っただけでさも自分は知識をたくさん持っていると思い込んでいたりします。

そこが傲慢であり、体験を怠る理由になっていることに気づいていない人がたくさん増えていくように思うのです。体験しないということが増えていくというのは、体験した気でいいという考えであり、先人たちと同じような美しい生き方を知らないままに死んでもいいということになる可能性もあるのです。

自分のいのちを何のために本気でぶつけていくか。それを夢に生きるともいいますが、美しい風土の中で、美しい風景、美しい恵みと育ち、美しい人々と美しい体験をする。

こうやっていのちははじめて、全開して輝き、その体験によってはじめて自己の存在がわかってくるのです。わかってくるのと分かった気になっているのとでは天地ほどの差があります。

分かった気になる人ほど、いのちを美しいものに使おうとしなくなっていきます。どうせ人間は誰しもいつかは必ず死にます。死ぬからこそ、いのちを何のために使うのかを決めていくのです。そしてそれは目的に対して純粋になっていきますから、他人の評価や刷り込みなどを気にしていたら時間がもったいない。だからこそ、あるがままに自分の信念や夢のために悔いのないように行動していくのです。

そしてそこから学んだ経験こそが唯一無二の本物の智慧になり、自己のいのちに触れて歓喜できるのです。

田んぼというものは、単なる農業ではなく人間が活きるすべてがここに凝縮されています。田んぼで学び経験することは、先祖の対話であり、子孫への伝承であり、分かった気にならないための道理を磨きいのちを甦生し続ける唯一無二の「場」なのです。

子どもたちのためにも、美しい田んぼ、美しいいのちをいつまでも守り続けていきたいと思います。

予知の仕組み

今は台風や大雨などは科学が発展し衛星画像などを送って確認することができますがむかしはそんなものはありませんから予知によって判断されていきました。

目に見える予想に対して、目に見えない予知。科学はみんなこの目に見えるようにしていく作業ですから、目に見えないものは消えていくのでしょう。しかし、時として目に見えないものにも長期予測や予知などがありそれを簡単に非科学的だから切り捨てるのはどうかとも思います。

以前、カマキリを研究して積雪予測をしていた酒井与喜夫先生とお会いしたことがあります。これはカマキリの産卵の場所を定点観察することにより積雪の位置を予知したというものです。驚くほどの的中率で、昆虫たちが生き残るために自然を予測しておられました。他にも木々の水分量を測ったりしながら、謙虚に自然から学び感覚を通して真心で接して自然に教えてもらおうとする姿勢に深く感動したことを覚えています。

現在は台風が通り過ぎている真っ最中ですが、台風などはアシナガバチで予知したといわれます。軒下や高いところに巣をつくるときは台風が多い年になるといいます。といっても、むかしは台風という言葉の定義もなく、「野分」や嵐、大風などと呼ばれていました。自然はいつ猛威を振るってくるか、むかしの人たちは予知をするためにあらゆる身近なものを認識しました。

例えば先ほどのカマキリは秋に高い場所に産卵すると、その年は大雪になる。ミミズが地上に這いだしたら雨が降る。クモの巣に朝露がかかっていると晴れる。カエルが鳴くと雨が降る。ナマズが暴れると地震がくる。などです。

特にナマズにはこのような記録が江戸時代の安政見聞誌に残っています。

「本所永倉町に篠崎某という人がいる。魚を取ることが好きで、毎晩川へ出かけていた。二日(地震当日)の夜も数珠子という仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて、今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭に持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたという。」

現代では、電気信号を予測したからだとか、磁場を読んだからなどがあります。本来、私たちは自然の一部ですから感覚的に自然災害を予測しました。しかし現代は、その感覚を手放して科学的に頭で見えるものに頼って感覚を捨てていきました。

本来、目に見えないものとは感覚の世界であり、私たち人間はもともと自然と同様に感覚が備わった存在だったのです。それと環境や教育によって減退させていき、その力をつかうよりも科学的なものだけを使うようになりました。

しかしです。

それに頼りすぎることにより、これから訪れるであろう自然災害への畏怖や畏敬もまた失われていくのは本末転倒です。どんなにすごいコンピューターが出ても、予測できるものとできないものがあります。それは感覚でしか予知できません。本来、天気予測などは数日から数週間くらいの読みですが、本来のむかしの農家などは半年から数年先、もしくは数十年先までも予測していたといいます。

それは予知に限りなく近いものであり、全感覚と頭脳を発揮しありとあらゆる自然を観察して判断材料にしたのです。科学か自然かである前に、人間はもっと謙虚であるべきであろうと私は思います。それは本当の意味で、災害を未然に防ぐための本質的な予知になると感じます。

先人を倣い、本来の生き方、私たちが生き残るための智慧を伝承していきたいと思います。

自然災害の智慧 ~日本人の役割~

有史以来の自然災害を色々と調べてみると、私たちの想像を超える規模で巨大であったものがたくさんあることが分かります。津波、地震、台風、竜巻、洪水、熱波にブリザード、火山の噴火に隕石の落下まできりがないほどです。

歴史に残って私たちが認知できるというのは、滅亡ほどの災害ではなかったからでもあります。もしも隕石の落下からの大津波で地球全土を洪水にする規模がくれば、文明は崩壊してしまい出来事を知る人はほんの限られた人たちだけになり今のように神話として語り継がれる程度です。

まだ数千年の歴史しか知りえませんが、数億年、数十億年の間には、滅亡するほどの災害に何度も遭遇していることが予想されます。今、私たちは地球環境問題と向き合っていますが改めて今私たちがこの地球で住みよく暮らせることに深い感謝を考えて謙虚さを取り戻す必要が感じます。

東日本大震災でも目覚める人がいましたが、今回のコロナ禍でもさらに気づき行動する人が増えたように思います。人類は、自然災害や天敵に晒されるとき、本能から本質を思い出すのかもしれません。

自然災害を深めて気づくことがもう一つあります。

それは自然災害は一瞬の猛威ですが、その後の人災の方が問題であり多くの死者は災害の後に出ているということです。例えば、食料が尽きて飢饉がきたり不衛生から感染症が拡がったり、人心が荒れて犯罪が蔓延ります。

自然災害というよりも、人災の二次被害の方が圧倒的な死者が出ているのです。これは災害後の人々の在り方、リーダーや政治がどうなっているのか、それまでの結びつき、結び方が露呈するのです。

日本がよく感動されるのは、災害後の人々の道徳的な行動です。自然災害がもっとも多い国だからこそ、何をすれば人が死ぬかを本能的に文化として伝承されているのです。

災害に遭ったから不幸ではなく、災害後に助け合わなかったことが不幸だと自覚しているのかもしれません。災害は乗り越えていくことができます、しかしそれは人類の協力や助け合い思いやり、そして道徳があってこそです。

教育とは一体何のためにあるのか、それはみんなで生き残るための智慧と徳を養い人格を磨き高めて肝心要の自然災害の時でも乗り越える絆を深めるためではないでしょうか。

単なる知識を詰め込み、試験をして大学や就職のためにするものではないのです。平和な時代の教育も確かに必要ですが、これからは自然災害のステージが今までよりも2つも三つもステージが上がり、そこから生き延びるために、生き残るために、本来の生きる力を身に着けていく必要があるのです。

これからの自然災害を生き残る力、それは日本人がもっとも長けていて世界に模範を示す役割があるように私は思います。日本人は、世界のリーダーとして今こそ自然災害後の助け合いの仕組みを人類に示すときです。

子どもたちのために、残りの人生、できることやれること、暮らしフルネスを通して伝道していきたいと思います。

美しい味わい 旬

昨日、友人たちと庭で育てている自然農の秋ナスを炭火でじっくりと焼いて食べました。旬ということもありますが、旨味も香りも味もどれも最高で調味料などは必要ありません。

現代は肉や魚などを食べますが、本当に美味しい野菜を食べたことがある人は特に肉が必要とは思わないほどに野菜だけで充分だと感じています。ベジタリアンというとなんだか健康志向で野菜が好きな人というイメージですが、実は肉好きであっても今回のような秋ナスを食べればベジタリアンの楽しみがわかるように思います。

私たちは旬というものの本当の美味しさを知ると、味というものの本質を学び直すように思います。最近はスーパーで旬ではないものも売られているため、余計に調理して味付けをしていかないといけませんが旬のものはそれだけで美味しいのです。

この美味しさは舌先三寸の美味しさではなく、まさに旬の美味しさを美味しいと感じてるのです。つまり旬=美味しいという真実を感じているということです。

旬を食べると美味しいと感じる理由は、それが最高のタイミングでお互いに活かしあうことができるからです。一期一会というか、まさにこの瞬間この今、この時という最高のタイミングを味わっています。これは身体全体、魂全体、心や感情すべてが調和を味わいます。まさにその「美しい味わい」が旬なのです。

私は暮らしフルネスの中で、この旬を食べること、旬であることにこだわり取り入れています。それは人間本来の生き方、また地球の中で生きてきた私たちが食べてきたものの本当の意味などを理解して心豊かに仕合せに幸福を味わうことを学び直すためでもあります。

これからいよいよ今年の稲刈りでまた新米を田んぼの真ん中でみんなと楽しみます。引き続き子どもたちのためにも、本来の美しい味わいを伝道していきたいと思います。

整うこと

日々の暮らしの中では、「整える機会」が多いかどうかがとても重要になってくるように思います。心や感情をはじめ体、感覚、関係、あらゆるものを整えることで、平常心を養うことができます。

この整うとは、私の定義では調和や調律のことをいいます。

例えば、調律でいえば楽器の音高を、演奏に先立って適切な状態に調整することをいいます。他にも調理もまた、最高の状態で素材が活かしあって美味しくなることいいます。さらに調和といえば、自然の調和のように過不足が一切ない完全な状態になることを言います。

そしてこの整うがわかるというのは、自分の本来の最高の状態、自然の摂理がわかるということでもあるのです。

現在の世界は、この自然の摂理を蔑ろにしてきたことで自然の摂理がわからなくなりました。同時に調和や調律といった整えることもわからなくなりました。そのことで、バランスを崩し、病む人や暴走して疲労する人、自分が分からなくなる人などが増えていきました。

世界が乱れていくとき、それは自然の摂理を忘れていくときです。

それをどう取り戻していくのか、自然であれば災害を通して教えてきます。他にも環境の変化などでも理解できるようになります。人間は、天敵である存在によってそれが伝えられます。

私はこの大切な局面で人類にとって重要だと思うことは大切だと思うのが整える機会を持つことからはじめることです。人類がみんなで整え直そうと話し合い実践すれば、何が自然の摂理で、何が本来の調和であったのかを気づき直します。

そうすればかつてのような暮らしフルネスな世の中を思い出し、みんなで調律し合うように自律した暮らしを営もうという人類の叡智に回帰するように思うからです。

長い目で観た時に、過不足がない完全な状態の暮らしが何か、そして人類は何が最高の状態だったのかを忘れないようにしていくことです。かつて人類がもっとも平和だった頃がどうだったか、整うことで思い出すのです。

私の「場の奥義」はこの整うこととセットです。引き続き、未来の子どもたちのために自然の摂理を伝承していきたいと思います。

レオナルドダヴィンチの声

昨日、ブロックチェーンで有名な方々と一緒に新しい世の中について語り合いましたがその中でレオナルドダヴィンチの話が出ました。今から500年以上前の人になりますが、これまで多くの芸術家をはじめ様々な技術者たちに多大な影響を与えた方です。

改めて、どのような生き様だったのかと調べてみると共感することが多く私の目指している生き方にも共通するところがあります。普遍的なその生き様は500年の歴史の篩にかけられてもまったく色褪せることがない、その生き様で遺した言葉を少し紹介していきたいと思います。

「私の仕事は、他人の言葉よりも自分の経験から引き出される。経験こそ立派な先生だ。」

「その理論が経験によって確証されないあの思索家たちの教訓を避けよ。」

「知恵は経験の娘である。」

何より「経験」することを重んじ、経験から自らの答えを導きだしていきました。経験を尊ぶということは、「訪れるご縁を最も尊ぶ」という生き方でしょう。

そして何かに取り組むとき、その経験とご縁から直接かたちどることで連なり重なり産まれる新たな存在に対してこうも言います。

「あらゆるものは、他のあらゆるものと関連する。」

「あらゆるものの部分はそれ自身のうちに全体の性質を保っている。」

「五感は魂に仕える従僕だ。」

「目は魂の窓である。」

「その手に魂が込められなければ、芸術は生まれないのだ。」

「川の中ではあなたが触る水が一番最後に過ぎ去ったものであり、また、一番最初に来るものである。現在という時も同じである。」

ご縁を結べば、そのご縁から導き出されたものを捉えるとも言えます。まさに全体快適であることを大切にしたことがわかります。これはいのちの実相が観えているということでしょう。

最後に私がとても共感したレオナルドダヴィンチの言葉たちです。

「失われうるものを富と呼んではならない。徳こそ本当のわれわれの財産で、それを所有する人の本当の褒美なのである。」

「理解するための最良の手段は、自然の無限の作品をたっぷり鑑賞することだ。」

「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす。」

シンプルで洗練されたその人生は、与えられたご縁に真摯に生きた好奇心と思いやりの日々だったように直観します。お会いしたことはありませんし異国の人ですが、遺した作品や生き様から学び直すことばかりです。面白いことを豊かに楽しく、暮らしフルネスを追求していきたいと思います。

心の準備

何事も、ご縁を迎えるためには準備というものが必要です。一つ一つのご縁が結ばれていくなかで、それを点で捉える人、線で捉える人、面で捉える人、そして丸で捉える人が居います。

それは全体を俯瞰する力であったり、物事の意味を深め続ける力であったり、さらには他力を感じる力であったりと、その人の生き方、人生への正対の仕方によって異なるものです。

人は、自分のことしかわかりませんから自分が何かをしていたらみんな同じではないかとも錯覚するものです。たとえば、「ご縁を大切にする」ということば一つであっても、一人一人その質量は異なりますし、定義も異なります。

すべてが深く関わっている存在の中で、ある人はご先祖様からのご縁を感じて懐かしい存在として関わる人、またある人は未来の先に訪れるであろう子孫たちの邂逅を感じて親切をする人、またある人は、今、此処に一期一会を感じていのちのすべてを傾ける人、それによってご縁は無限に変化していきます。

ただ、すべてにおいて大切なのは「心の準備」をするということです。言い換えればそれは「覚悟する」ということでしょう。この覚悟という言葉は「心の準備」をする人が持つ境地であるのは明らかです。

人間は、ご縁が導いているとわかってはいても心に迷いがあればご縁を感じる力衰えていくものです。つまり、心の迷いは心の準備の過不足によって発生しているとも言えます。

その心の準備には、日ごろの準備もいりますが、準備するためにどれだけの徳を積み重ねてきたかというそれまでの生き様も関与していきます。心を整えていくためにも、その準備に丁寧に、そして本気に誠実に取り組む必要があります。その場しのぎの連続では心の迷いは増えていくだけで、心が安着することがありません。

日本古来からのおもてなしの心というのは、この心の準備を実践するということでしょう。

日々にたくさんの方々と新しいご縁が結ばれていきますが、心の準備を味わい充実した日々を前進しています。このご縁をどう転じていくのかは、覚悟次第です。引き続き、子どもたちの未来のためにも今できることから丹誠を籠めて真摯に取り組んでいきたいと思います。

後の雛 菊の節句

聴福庵では重陽の節句の室礼をしていて、菊の花やお雛様たちが絢爛優美に夏の終わりの節目を美しく彩っています。

そもそも重陽の節句というのは、五節句の一つです。五節句という言葉は知らなくても七夕や雛祭りなどは有名で一度は聞いたことがあると思いますがこの行事は明治頃まではほとんどの家々では暮らしの風景として当たり前に存在していたものです。これも明治以降の西洋文明を追いかけたときに忘れられたものの一つです。

この五節句の「節」というのは、唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目のことを指します。暦の中で奇数の重なる日を取り出して奇数(陽)が重なると 陰になるとして、それを避けるための避邪の行事が行われたことから季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うという目的から始まったといいます。難を転じるという意味もあり、ちょうど季節の変わり目の様々な健康に対する災難を福にする仕組みだったように思います。その後、中国の暦法と日本の農耕を行う人々の風習が合わさり、定められた日に宮中で邪気を祓う宴会が催されるようになりこれを「節句」といわれるようになったといいます。

日本でいう五節句は順に並べると、※1月7日の「人日の節句(七草の節句)」。これは七草粥を食し、その年の健康を願います。そして※3月3日の「上巳の節句(桃の節句」)これは雛人形を飾り、ちらし寿しやはまぐりのお吸い物を食ベて、女の子の健やかな成長を願います。※5月5日の「端午の節句(菖蒲の節句)」これは五月人形やこいのぼりを飾り、男の子の健やかな成長と立身出世を願います。※7月7日は「七夕の節句(笹の節句)」短冊に願いを書き笹に吊るし夢成就を願います。最後の※9月9日は「重陽の節句(菊の節句)」これは菊の薬効により健康を願います。

この重陽の節句が菊の節句ともいわれ、「後(のち)の雛」としてお雛様を飾るという理由を説明するとまず菊の花は古来より薬草としても用いられ、延寿の力があると信じられました。菊のおかげで少年のまま700年も生きたという「菊慈童(きくじどう)」伝説もあるほどです。他の花に比べて花期も長く、日本の国花としても親しまれています。また仙人たちが住むところに咲くと信じられ、長寿に縁起のよいものとしても愛でられてきたのです。「後の雛」の理由は、年中行事は繰り返し行われますが、一年にはじめの行事と終わりの行事があり後にある行事を「後の」といい、3月3日に雛祭りをしていますからこの9月9日のことを後の雛というのです。

また桃の節句は子どもたちの行事というイメージですが重陽の節句は大人たちの行事というイメージもあるため「大人の雛祭り」とも言われたりしています。菊は花弁が折り重なっているイメージもあります。人生を妙味を重ねていきながらも長く咲く姿に、私たちの先祖たちは生き方を菊に倣ったのかもしれません、そして先人たちは自然の生き物や風景をよく観察し、美意識を磨いて自らの徳を高めていきました。つまり先人たちは「自然の美しさの中に生き方を学んだ」のでしょう。

また心の風情というものは、常に日本の四季折々の暮らしの中にあります。

最近は目まぐるしく経済活動ばかりで忙しくしている人ばかりですが、本来のいのちのリズムや時間、そして行事の風景を味わうことが本来の人間の仕合せではないでしょうか。

コロナで立ち止まる機会を得たからこそ、本来の人間らしい暮らしを見直して地球やいのちと共生して心豊かに生きる時間の大切さを伝承していきたいと思います。

調和力

昨日は、聴福庵の庭のお手入れをしましたが今朝からとても庭が清々しく感じます。特に先週は、出張で不在にしていましたので夏の日照りが強すぎたようで紅葉も葉焼けし、無双庭園の方もカラカラになっていました。

植物や木々たちは、自然環境の中に過ごしていますが庭というのは人工的に私たちが植栽をしていますから手入れとお世話が必要です。

これは野生動物か飼育する動物か、もしくは半野生半飼育かという具合に自然とのかかわり方によって異なるものです。

例えば、社内や自宅内の観葉植物は飼育するのだから人が無視して何もしなくなれば枯れてしまいます。風通しや水やり、光の調整が欠かせず一緒に生活する中で気を配りながら育てます。その分、安らぎや癒し、また感情を整えてくれたりして無機質な場所をいつも優しく包んでくれます。

他にはベランダや中庭などは、半分自然に接していますから半分は常に見守りながら手をかける必要があります。もう半分は自然の調和の中にいますから自然に任せていたら雨が降り、風が吹き、光も星も調和の中で育ちます。しかし、本来、その植栽や生きものたちは中庭やベランダが生息地ではなかったのだからその分、こちらが気配りをして環境を調整していく必要が出てきます。それによって美しい情景や、イキイキとした生命エネルギーを発してくれることでこちらも元氣になったり、また心落ち着けて四季の情景を感じることができたりします。

完全の野生となると、山野や海、川や森のようにこちらから自然のところに移動すれば関わることはできます。野生が強いので、こちらが強くないとなかなかその環境に馴染むのも難しくゆっくりと休むということは難しいように思います。

私は自然農を野生の溢れる場所で行っていますが、庭の畑と違ってそこで発生してくる虫や植物も野性味あふれていて太刀打ちできません。そこで手入れをするには、ほぼ野生の中で野生に近いままで育てるといった双方のエネルギーの衝突と調和があります。

こうやって人工的にかかわるところと、自然にかかわるところ、そして野生的にかかわるところなど場所場所でその接し方も気配り方も手入れの仕方も変わります。私たちは地球に住んでいますが、住む場所を換えるたびにその微妙な匙加減で関わり方もまた換えていくのです。

自然とうまく調和していく力、自然を調整する力、自然と調律する力、私たちはこれらを内に備わって生まれてきます。

本来の人類の力を発揮することで私たちがそのかかわり方から自然の存在を謙虚に学び、これからの人類の行く末を考えていけます。子どもたちがこの先、何百年、何千年と生き続けられるように今必要な智慧を伝承していきたいと思います。