丸ごと治す

今年、韓国の智異山に訪問している中で許浚(ホジュン)という人物のことを深めました。この方は朝鮮王朝中期の名医・王室医官で、韓医学の古典『東医宝鑑(とういほうかん)』を編纂した人物です。この『東医宝鑑』は1613年に刊行され、アジアをはじめ日本にも伝来し大きな影響を与えた書物の一つです。2009年にUNESCO「世界の記憶」に登録されました。

このホジュンは王を診た名医だっただけでなく、民衆のために医学知識を体系化し、薬草や治療法を使いやすくまとめたことで朝鮮の養生文化が醸成されました。一部の特権階級でしか受けられなかった医療や、専門書や中国にしかない薬草を身近な朝鮮の山野草に変換、翻訳され、また民間療法や未病につながる生活習慣の改善の仕組みまでも記されます。これにより韓国料理のナムルのように野草を日常から取り入れる習慣や微生物を活用した発酵食などにも大きな影響を与えたのではないかと私は思います。まさに医食同源の実践です。

ホジュンが編纂した『東医宝鑑』では「病気になってから治すのではなく、病気にならない生き方を大切にする」という思想が入っています。つまり人の健康は薬や治療だけでなく、食事、睡眠、呼吸、心の持ち方、人との関係など、日々の暮らしそのものによって育まれると考えられています。これは私の提唱する暮らしフルネスの実践とも一致しています。

畢竟、人間の暮らし方が変わらなければ本質的な病はなくなりません。いつまでも病気になるような生活を続けてその対処療法ばかりをしていても、根源的な人間性の甦生、つまり人が本来持っている力や幸福感が発揮される暮らしが調わなければ真の健康とはいえません。病を治すと同時に、どう人を治すか。教育とか医学とか、分類わけされていますが本来は「人間を自然に調える仕組み」のことです。

むかしから医者には「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す」といいます。ホジュンという人物はまさに養生文化によって民衆の未病を促すまさに大医の実践をした方のように思います。大医は場を通して人間を丸ごと治していくのです。

人間の生き方や働き方を調えることは、まさに養生をすることです。保育の世界にも養護という言葉がありますが、これは養生から発生した言葉です。養生を守るということです。見守ることの大切な要素の一つです。

何かを足すのではなく、もともと具わっているものを甦生する。つまり徳や天分を引き出すような環境、場づくりをするということです。それによって自然に育つ力が発揮されるということです。

本来、人間に免疫力が具わっているように自然に人間性も回復していくものです。そしてそれは暮らしが土台になっているのは歴史が証明しています。真の豊かさは、養生からはじまるのでしょう。

自分を養生することは、周囲を養生することになります。場が調和していけば、自然に養生される人々が増えていきます。私の尊敬する二宮尊徳もまた大医の実践者でした。

時代や国を超えて、大医の実践から學ぶことばかりです。

初心の文化論

子ども心というものがあります。これは遊び心や好奇心などともいわれますが、私は人間性の初心のように定義しています。子ども第一義というもの、元々具わっている子どもの人間性を忘れないという意味で使います。つまり人類の原初の思いやり、孟子でいう惻隠の情のことです。自然に湧き出てくる人間の真心ともいえます。

保育園で子どもたちの会話を聴いていたり、質問をするとまるで神がかかっているような言葉や行動をみることがあります。子どもは優しく思いやりがあり、刷り込みがありません。あるがままのこの世の中をあるがままに観て、自然体です。赤ちゃんが神々しく感じられるように、人間は本来は神々しく感じる存在です。

そのまま大人になった人物を仏陀ともいい、観音様などとも呼ばれています。

しかし人間は発達する過程で、その人間性や初心を忘れていきます。それは与えられた環境や欲望が心を曇らせていくからです。それをどう取り払い、本来の人間性を回復させていくか。それが私が暮らしの甦生に取り組む本意でした。

もしも仏陀や観音様が今、目の前にいてどのような暮らしをしているかを観れば人は何が人間性であるかを思い出すかもしれません。実際には、まったくそういう場がなく見ることもなければ気づくこともないでしょう。

だからこそ、時代を超えて人間性を磨き、初心を忘れない仕組みを暮らしを通して伝承する大切さを感じます。

子どもたちは本来、人間性や徳が溢れる存在です。その存在が、ずっと初心を守れるように見守ることが私が感じる保育の本質です。つまり子ども心とは人間性の初心であり、暮らしの甦生とは、その初心を忘れずに生きるための場と文化を未来へ伝承するということでしょう。

同じ言葉を使っても、その人の思想や人生観、そして生きざまや実践が言葉に宿ります。私が思う文化論をどのようにカタチにしていくか、まだまだ精進していきたいと思います。

地域の文化

地域の文化というものを観察すると、その地域に根付いてきた習慣や生き方、人々の暮らしがよく観えてきます。本来、地域で循環をしあらゆるものが地域の単位で調っていたころは地域文化はよく育ちました。そして地域文化が育っている場所では、よく人も育ちました。これは育つということの本質が、よい土壌が調っていることが前提になっているからです。

田んぼでも畑でも土壌がやせ細って硬く生き物もいないようなものになればよく育つことはありません。ではなぜそんなに土壌がやせ細り衰えているのか。これは畑や田んぼならすぐにわかります。目先の収穫をしようとして、農薬や化学肥料を大量に入れては効率優先に取り組むからです。すると、作物は一時的に大量に収穫できても土が弱ってくるから次第によい作物が育たなくなります。そのうち水耕栽培のように、土がなくても育つように遺伝子を組み替えたり色々とその場しのぎの技術で乗り切ります。そのうち何をしても効率がよくないとし、その場所を捨てて別のところに移動していきます。

地域の文化はこれと似ています。育つ環境が失われていくと似たように文化も荒廃していきます。

本来、経済というのは経世済民といい文化づくりの言葉です。文化づくりは地域の徳が循環する中で育つものです。つまりは土づくりは徳を積むことで醸成されていくということです。

これは太古のむかしから、山が平地を潤すように水が流れあらゆる生命を活性化するように徳が循環することで土地や地域は発展を継続してきて今もあります。そういうものを無視して、目先の損得や個々の欲望を最大化させれば土はやせ細り衰えてしまうのです。

ずっと住み続けたい町とは、文化や暮らしが甦生し続けて徳が循環するような場がある町ということだと私は感じます。

近代、時代背景を観るとほとんどこのようなことは言葉の定義も異なり、常識から外れ思想のように言われますがそのうち時間が経過すれば誰しもが現実に向き合う日はやってきます。

世界の潮流や競争、比較、分断などよりも足元の土をよく観てよく味わい直すところから文化づくりは続いていくように思います。引き続き、子孫や未来のためにも丁寧に暮らしを調えて実践を磨いていきたいと思います。

暮らしの夏至祭

一年で最も昼の長さが長くなる2026年6月21日、英彦山守静坊では暮らしの中の夏至祭を行います。夏至は太陽の恵みを最大限に享受する日として、世界各地で独自の祭りや儀式が行われています。例えば神道では半年間の穢れを祓う「夏越の禊」も、夏至の頃に行われる代表的な風習の一つです。太陽と地球の関係性のエネルギーがあり、そして中庸になる一期一会の光で人々は自然への感謝と無病息災を祈ります。

現在、お山の暮らしを甦生していますがお山との関係性を磨いていくとかつての日本人が忘れてはいけない大切な初心や生き方、そして場があることに氣づきます。

現代は、時間に追われ忙しさや無理をして頑張る生活の中で自然感覚が麻痺してしまう人も増えています。この自然感覚とは、暮らしの場が失われているということです。

今回の夏至祭では、自然感覚と仏道を修養された仙人も一緒に参加し、生き方や場づくりを共にしながら先祖供養の大切さや日々の自己内省や環境づくりなども学び合います。

また夏至は陽極陰性ともいいます。陽が極まり陰が産まれる、つまり一陰来復です。冬至が光がやってきて陽に転じるのに対して、夏至は光が陰になっていきます。しかしこれが自然の法理でり、陰もまた好循環の兆しなのです。盛者必衰であり、老化していくのはいのちの循環です。

その大切な節目に、よく内省し養生し今を受け容れて甦生することがいのちを逞しくし健康にしていきます。無病息災を祈り、長寿を祝い、ご先祖様に感謝する大切な暮らしの行事なのです。

日子山仙螺講の方々と、法螺貝を立て、法螺貝を磨き合います。お水と紙やすりで丁寧に手入れします。英彦山の倒木を片付け、場を清め調えて、甦生した石風呂サウナを実践しお山の霊水で禊をします。

また音のご奉納や神事後の直会なども予定しています。

私たちが大切にしているのは、「場づくり」です。人は個人で回復するよりも、場によって人間性は回復します。純度の高い場、そして純度が磨かれ続ける場は、人間の自然感覚を呼び覚まします。

環境や場は、人を見守り続けます。

成長と成熟~自我との折り合い~

人間は人格が磨かれないと自我との折り合いがつきません。自我とは調和であり、自然体の姿でもあります。これは一人の人格の中に二人の人がいるような感覚です。神経では、交感神経と副交感神経との関係に似ています。

通常、成長成熟は人間的にも才能的にも技術にも完璧になった人のように語られます。地位も名誉も人格も身に着いた人物のように言われます。

しかし実際には、良寛さんやあるいは名も知られずとも地位がなくても見事な生き方をした僧侶や医師がいたりします。最近では、ウルグアイのホセ・ヒムカ氏などもそうです。

艱難辛苦がその人の自我を調え、見事に調和した「一人」になっておられました。つまり自我が調い、真の人間性を生きることができたということです。

そこから逆説として、では何が成長成熟なのかということを洞察してみると人間はどのような状況でも自己を深く探求し学問を続けることができるということ。また人間の理解が深まり、何が未熟であるのかがわかるということ。そしてどのような状況かであってもどう生きるかという生き方を磨いていくということが真の人格、自我との調和には関係していることがわかります。

人生は一度切りですが、生き方はそれぞれが決めるものです。

そして真の資質とは、その人がどのような状況でも本質が保てるかということに他なりません。

本質を学び、本質のままでいることは人格を高めることです。同時に、本質を守る人の周りには同じく人格を磨きたい人が集まってくるものです。孔子の一生が十五にして学を志し、七十にして心の欲するところ矩をこえずといったのは、本質を学び続けて遂に自然体の一人になれたということでしょう。

本質を保とうとすれば必ず苦労は訪れます。

残りの人生も、意味を味わいながら自我の調和を暮らしの中で調えていきたいと思います。

螺旋の道

明日は、英彦山守静坊で法螺貝を七神お渡しする儀式をします。誓願した法螺の五百羅漢を目指し、いま七十四羅漢になりました。ますます法螺を通した波動は揺れ螺旋の繋がりが広がりより中心への思いの結びつきは強くなります。

法螺の意味は、「螺旋の真理」という意味です。ではこの螺旋の真理とは何かということです。螺旋というものは、宇宙の姿であり、星々の姿であり、意識や生命の姿です。そして分子や量子の姿でもあります。波動は揺れていますが、それを纏めているのが螺旋です。

つまり波動がカタチになったものが螺旋ということです。

例えば、空気中の風は揺れています。しかしそれが纏まるとき、台風や竜巻になります。海や川などの水も同様です。流れがありそれが揺らぎ螺旋になることで調います。時が動けば波動、空間や場が螺旋です。

最近は、脳科学でも螺旋波というものが見つかり私たちの脳の認知や意識は螺旋上に信号を送ることで纏まるといわれます。心臓も単なるポンプをするのではなく、螺旋状に包まれた筋束が螺旋のように呼吸をして血液や酸素を全身に巡らせているというものです。つまり螺旋はマクロ宇宙からミクロ宇宙まで全て網羅しているあらゆる真理の姿です。

此の世の全ての神秘には、波動や螺旋が深く関わっています。古代より人々は螺旋の力を発見し、紋様をはじめあらゆる暮らしの中心に螺旋を取り入れてきました。ある部族は、蛇を象った螺旋の踊りをすることでいのちを蓄えました。またある宗教では螺旋はすべての神人合一の象徴としました。陰陽道やタオといった道もまた、波動と螺旋が顕現したものとされました。

法螺貝を持つということは、螺旋の道を実践するということでもあります。

人は日々の生活の中で様々な感情を持ち心を調えます。この瞬間瞬間の一期一会には、波動と螺旋が深く結びついています。微細な揺れから大きな揺れ、それを自己内省によって螺旋にして調えます。

私たちが「調っている」という状態は、螺旋になっているということです。そして調うとは、成長すること変化すること、シンプルに言えば「旅をする」ということです。宇宙を太陽系の星々と共に螺旋しながら旅をするように、私たちのいのちは螺旋の道と一緒に歩みます。

法螺貝を吹くとき、私たちは螺旋になります。

螺旋になるということは、あらゆるものを一円和合して成長して真に自己に氣づくことを繰り返すということです。

何度も何度も繰り返し同じことをしても、必ず前と同じ円ではなく螺旋となるという法則。そこに絶対的安心を直観するから今でも法螺貝は人々と共に旅を導く存在として大切に守られ人類のお導きの存在、宝ものになっているのでしょう。

宇宙自然、全体調和、波動の中で旅をし、螺旋の道を究めていきたいと思います。

お水は薬

薬のことを深めているとお水に辿り着きます。万物全ての薬の根源はお水ということです。そもそもお水は私たちのいのちの源です。お水がなければ私たちはこの生命を維持することもできません。だからこそ、お水が薬となります。そしてお水は単一の存在ではなく、お水は千差万別にあらゆる姿にカタチを変えてその時々のいのちの一部となって私たちの生命を巡ります。

結局、どの薬草もまたお水が土と和合して生成したものであり、その薬草もまた人体に取り込む時にはあらゆるお水と和合して溶け合うものです。お水こそ、私たちの根源ということです。

今年は私の一文字は「水」としていますが、お水の持つ力には驚嘆するばかりです。深めても深めてもその奥が底知れず、好奇心は尽きません。

もともと私はお水を薬として認識したのは、若い時に体調を崩した経験からです。その時は、何も食べれなくなりお水も飲めなくなりました。その時にせっかくだからと日本中のお水を取り寄せ飲み比べていたら飲めるお水があったのです。その時に、お水は一つではなく唯一無二であることを学びました。その時々の体調や心境、精神状態でも和合できるものとできないものがあると。そこからお水にこだわる人生になりました。今でも、料理別にお水も変えますし炭も変えます。お鍋に向くもの、お蕎麦に向くもの、蕎麦湯一つでも飲んだ後の身体の変化はまったくお水で異なるのです。

李氏朝鮮時代の医師、許浚が記した東医宝鑑にお水を分類わけしたものがあります。具具体的には、「井華水(せいかすい)、寒泉水(かんせんすい)、菊花水(きくかすい)、臘雪水(ろうせつすい)、春雨水(しゅんうすい)、秋露水(しゅうろすい)、冬霜(とうそう)、雹(ひょう)、夏氷(かひょう)、方諸水(ほうしょすい)、梅雨水(ばいうすい)、半天河水(はんてんがすい)、屋霤水(おくりゅうすい)、茅屋漏水(ぼうおくろうすい)、玉井水(ぎょくせいすい)、碧海水(へきかいすい)、千里水(せんりすい)、甘爛水(かんらんすい)、逆流水(げきりゅうすい)、順流水(じゅんりゅうすい)、急流水(きゅうりゅうすい)、溫泉(おんせん)、冷泉(れいせん)、漿水(しょうすい)、地漿(ちしょう)、潦水(ろうすい)、生熟湯(せいじゅくとう)、熱湯(ねっとう)、麻沸湯(まふつとう)、繰絲湯(そうしとう)、甑氣水(そうきすい)、銅器上汗(どうきじょうかん)、炊湯(すいとう)」です。

この分類は、お水そのものの化学的違いではなく「どこから来たか」「どのように存在しているか」「どのように変化したか」という観点で水を捉えています。

まずはじめにお水は「天から来るもの」と「地から来るもの」に分けられます。そして春雨水や秋露水、臘雪水などは天からもたらされる水であり、季節や気候の影響を強く受けた「天の気」を帯びるとされました。また井華水や泉水、海水などは地に由来する水でありその土地の性質や環境の影響を受けた「地の気」を持つとされます。お水は天地の間にありますが、そのどこで採取するかで性質が全く異なるとするのです。

そしてお水は「動き」で分けます。順流・逆流・急流といった流水の違いは、水の中に宿る気の巡りや勢いを表し体内の気の流れと対応づけて考えられました。流れるお水がどこを通ってきたかということも大切で、屋根を伝った水や木の中に溜まった水などは、その経路にある物質や環境の影響を受けて性質が変わってしまうとしたのです。

次に甘爛水や生熟湯のように意図的に人が攪拌したり混合したりして作られる水は、すでに「薬」として治療目的に応じて性質が調整されたものとあります。他にも蒸気が凝結した水や器物に付着した水滴、あるいは穀物や土などから生じた水などもあり、お水は他の物質との関係や変化の過程でも変わるとするのです。

お水の変化を的確にとらえ、そのタイミングで性質が変化する。それを薬として用いるとするのです。

お水のことを深く理解することが、薬道の第一義です。私はお水とのご縁が深いので、性質をさらに学び直していきたいと思います。

命根と世根

福岡県飯塚市赤松にある「むかしの五穀田」の田んぼの準備をはじめました。霊山、関の山の吹きおろしの爽やかな風を浴びながらの農作業は格別です。田んぼと共にある古民家和楽の御蔭で、農作業の休憩がとても癒され仲間たちとの時間もさらに豊かになりそうな予感です。ご縁というのは有難くいつも絶妙なタイミングに包まれます。

思い返せば子どもたちのためにと千葉県神崎で自然酒の寺田本家の酒米を一緒につくる農家と冬季湛水の無農薬無肥料で一緒にお米づくりをするご縁から今では故郷で同じ道を続けています。

昨日は、美しい関の山からのお水をこれからどのように管理していくかを調えました。澄み切ったお水があってはじめて美味しいお米になることを再実感しました。

昨年参加してくださった多くの徳積仲間たちが安心してお米づくりができるように色々とこれから場を磨いていきます。

「自然真営道」という著書を遺した江戸時代の人物に安藤昌益さんという方がいます。この方は、自然や人とは何かということを突き詰めた人物です。私は同じ時代の三浦梅園先生を尊敬していますが、この安藤昌益さんのことも尊敬しています。

あまりにも普遍なこと言い、時代的にも進み過ぎている思想を持つ人たちはその時代には認められ受け容れられるものではありません。しかし300年経った今になると、その思想や実践が如何に今の時代に必要なことかがよく分かります。時が真実を証明するのです。

三浦梅園先生の300周年では国東半島にある生家でシンポジウムをして学び直しましたが、むかしの五穀田では安藤昌益先生を改めて仲間たちと学び直してみようと思っています。

まず自然真営道とは何か、これは読んで字のごとくで「自然とは、真実の営みという道である」ということ。では営道とは何か、それは「互生」であるといいます。例えば、天と地、男と女、雄と雌など二つが一つであるということ。つまりお互いがお互いを活かし合って存在になっていることといいました。

原文はこうあります。

妙めうハ互性ナリ、道だうは互性ノ感かんナリ。是レガ土活眞ノ自行ニシテ、不教ふけう・不習ふしふ・不増ふぞう・不減ふげんニ自ひとリ然スルナリ。故ニ是レヲ「自然」ト謂いフ。

私も同感で、水は二つの性質が一つで水となります。絶対零度で固まるものと固まらない水があるといいます。火も燃えている眼に見えるものと、遠赤外線のような見えないものがあります。二つが調和しあって一つになるところに互生の真理があるのです。

そして安藤昌益先生は、ここから人の互生の道として「直耕」の実践を説きます。

是レ活眞、無始・無終ノ直耕ちよくかうナリ。故ニ轉定囘くわい・日じつ・星せい・月げつ八轉八方横逆ニ運囘うんくわいスル轉定ハ、土活眞ノ全體ぜんたいナリ。

故ニ活眞、自行シテ轉定ヲ爲ツクリ、轉定ヲ以テ四體したい・四肢しし・府藏ふざう・神靈しんれい・情行じやうかうト爲シ、常つねニ通囘轉つうくわいてん・横囘定ち・逆囘央土ト一極いつきよくシテ、逆發穀ぎやくはつこく、通開男女ヒト、横囘四類、逆立草木ト、生生直耕シテ止やむコト無シ。

故ニ人じん・物ぶつ、各各かくかく悉ことごとク活眞ノ分體ぶんたいナリ。是レヲ「營道えいだう」ト謂フ。故ニ、八氣互性ハ自然、活眞ハ無二活むにくわつ・不住一ふぢゆういつノ自行、人じん・物ぶつ、生生ハ營道ナリ

安藤昌益先生は「人はまず自分の食べるものを自分で耕し生産する農を営むことがあってこそはじめて自然となる」としました。その中に人類の真の平等は存在すると言い切りました。自分で耕さなくなると不耕貪食になっていくと。そして直耕し農を実践することで互生を通してお互いに活かしあい真の営道になると説きます。それを「活真人」となるともいいました。

活真人の互生によってのみ自然の世を実現するとしそれが永続してこの地球で仕合せに生きる智慧であるとしたのです。しかしこれをそのまま説くことは、あまりにも本質的過ぎてその時代も、いや今の時代も危険思想や狂人と呼ばれるものかもしれません。

例えば、今でも呼吸さえ調和していればすべての生物の病気は治癒するなどといえば奇人や詐欺だと言われたりするのと同じです。真実というものは、真実であればあるほどに都合が悪いものを浮き出させるものです。

「むかしの五穀田」に話を戻せば、田んぼでは稲を育てます。稲のことを安藤昌益先生は命根(いのちのね)といいます。これを略して命根(いね)です。人は稲の精から生まれ、稲を食して命を養うから、稲は命根(いのちのね)となるとし、またお米のことを世根(よのね)と書いて米(よね)呼びます。人は耕して米をつくり、これを食して人の世をつくることから、米は世根(よのね)となる。

自然真営道を學ぶことは、この命根と世根を創造し共生する社會を甦生することでもあります。私はこの自然真営道をかんながらの道で綴ります。

ということで、これからまた徳積仲間を集めて場をつくります。4月15日には最初の耕耘をはじめ苗床づくりをします。田植えは6月下旬の予定です。今年は、自然農法のお米と自然農のお米、古代米、地域のお米の5種類を育てる予定です。

共に学びたい、また子どもたちのため徳を譲りたいと思うご縁のある方々はそれぞれに準備をお願いします。

桜の徳

樹齢230年の桜を見守っていると、時の流れを感じるものです。最初は小さな苗木から老木と呼ばれるほどの風格を持っています。同じように四季を巡り春には花を咲かせ、今も花を咲かせます。

その花を眺める人は変わっていきますが、花は誰が来ようが来まいが咲かせます。

230年の歳月を考えてみると、人間であれば苗木の時が初代としても少なくても5代目以降の子孫が今の桜を観ることになります。そして同じように200年後にはまた10代目以降の子孫が観るのでしょう。

桜を守るということは、どの代がやってきたのと同じように桜と寄り添い生きていくということでしょう。

私はある意味天命として古民家を甦生しています。それまでの暮らしをお手入れしてそのまま今に温故知新して子孫へと伝承しています。

その中で代が継がれていくというのは、その暮らしや生き方を守っていくということです。代々がそれぞれに桜を見守ってきたように、自分も桜を見守るのです。

もしも自分の方が桜よりも長生きだとしたらどうするでしょうか。もしも自分の寿命が1000年あり、桜が500年だとしたらどうするでしょうか。

きっと、私なら桜の苗木を育て見守るでしょう。それが途絶えないように、また美しい姿で生き続けられるようにと場を調えます。今は桜の方が長生きですから次の人間が現れてくれるように美しい心を育て見守っているのでしょう。

人の心の中にこそ、桜の徳は存在するのです。

結局、関係性いうのはお互いが見守り合いバトンを渡していくように伝承されていきます。

伝える側と、承る側の一生の契りと一期一会です。

美意識というものは徳意識でもあります。

長い歳月の中でどちらかが先にこの世を去ったとしても美しい心の風景を見守り合っていこうとする譲り合い、救い合い、分かち合い、許しあう慈愛の真心です。

桜との出会いを大切に生きる日本人が多いこと、先人たちの真心にただただ感謝です。

節目に思う

本日、50歳の誕生日を迎えます。氣がつけばもう季節の巡りを50回も過ごしてきたのかと実感します。春夏秋冬、季節ごとの物語があり味わい深い記憶ばかりです。すでに亡くなってしまった師友も仲間も家族もいます。そして新しく産まれてくるいのちや今のご縁に恵まれます。

人生の一生というものは、今、何を感じているかの連続です。

結局、年齢は一つの基準でしかなくどう生きてどう死ぬか、つまりは生き方とあり方のようなことだけが一つの人生の姿であるということでしょう。

思い返してみると、私はいつも人に恵まれてきました。色々なご縁をいただき、節目節目には道に導いていただきました。そして場所にも恵まれ、時にも恵まれました。恩恵をいただいているのは誰の御蔭であろうかと想像するとき、これはご先祖様が蒔いてくださったよき種であることがわかります。

永い時間をかけて蒔いてきた種が、子孫の時に花開き実をつけます。私はその一部をいただいているだけですが、それが数々の恩恵をいただける理由になっています。

だからこそ、徳を積むことの大切さに氣づき少しでも今いる場、今の人々、今の時によい種を蒔きたいと願うようになりました。

あとどのくらい生きられるのか、自分にはわかりません。ひょっとしたらあっという間にこの世を去るかもしれませんし、長生きする運命を持っているかもしれません。

今の心境は、いつか英彦山で孤高に咲くあの守静坊の一本桜のようにいつまでも凛とありたいと願うのみです。

人生はどんなに偉い人でも、仙人のような人でも、一般の人でも誰でも平等に終わりが来ます。きっとその時が来たらあっけないものでしょう。しかし、甦生は続きますしいのちは永遠に巡り続けます。だからこそ、今何ができるのか、そしてどうあるのかは与えられた唯一の恩恵に報いる時間になるのです。

ここから先も、自分ができることはほんの小さなことだけかもしれません。しかしそのほんの小さなことも時間が経てば成長し、大きくなるかもしれません。そして多くの人々、子どもたちに徳を遺していけるかもしれません。

いただいている感謝を忘れず、丹精を籠めてこれからの残りの人生を使わせていただきたいと思います。

これまでの数々の恩恵に感謝します。これからもよろしくお願いします。いつもありがとうございます。