聖地を守り、お水を守る

聖地というのは、それぞれに聖地としての理由があるものです。それは自然の中でも特別な場所であったり、人間の歴史においてとても大切な理念を象っていたりとそれぞれです。確かなものは、そこには今も息づいている唯一無二の存在があるということです。

しかし時間が経つと、形だけの聖地になっているところもたくさんあります。本来、聖地は聖地として感じる人たちがいることで聖地としての力を発揮するものです。特別な場所であればあるほどに、その場所を守る人たちによってその場所の存在が守られます。

例えば、歴史的に大切な場所であってもその場所を伝承する人がいなければ歴史はわからなくなっていきます。空間や場所にいくら記憶宿っていたとしても、それを守ろうという意識がなければ次第に喪失していくものです。

記憶と似ていて、大切な記憶はいつまでも大切にしようと守っているから記憶は活き活きと瑞々しくいつまでも生き続けます。しかし記憶を粗末にすれば、すぐにその記憶は他のものと混ざって消えていきます。

これはお水に似ています。

お水も清浄で澄んだお水のままに大切に守ればそのお水はいつまでも清らかです。しかしそれが濁り澱んだり、埋めてしまえばそれで途絶えてしまいます。これは井戸も似ています。

お水を大切にすることは、記憶を大切にすることであり、聖地を守ることでもあります。私たちのいのちのお水はまさに聖地そのものです。

いつまでも聖地を守り、お水を守っていく一人でありたいと思います。

臨場感と音の神秘性

臨場感というものがあります。これは実際にその場にいるような感覚のことです。これは感覚を通して実感する時の言葉です。音像という言葉があります。これを辞書でひくと「聴感上の音源。 人はある音を聴いただけで、音源の位 置・大きさ・形などを感じ取ることが出来る。この感覚的にとらえた音を音像という。」ともあります。

私たちは音を聴くとき、その音が何処にありどのような姿でどのような位置で発生しているのを感覚でとらえるものです。例えば、私は法螺貝を吹きますがお山にいき谷の様子を理解するのに法螺貝のやまびこの響きなどで音像を理解していきます。

音が戻ってくる速度や大きさ、そして響き渡る量、または倍音などに耳を澄ませてそのお山や谷がどのようなものであるのかを直観します。この直観には、場の力や霊力、或いは植生の調和、野生動物との関係なども含みます。

音は、聴くだけではなく観ることもできます。

音を観るというのは、音からのイメージで臨場感を掴むということです。つまり臨場感とは、音を通して全体のイメージを直観するものということになります。

これはイヤホンやヘッドホンではそれはできません。またステレオのスピーカーでは聴く場所が移動することでそれも変わってしまいます。人工的に近づけたとしても、本当の意味での場の音、つまり歴史の彼方からや関係性から発生する波動の音をすべて感受するのはとても難しいものです。

もちろん音に対して探求している求道者はそれぞれに科学をはじめあらゆる方法で突き詰めてその音像の深淵に辿りつく人もいるかもしれません。

音の神秘性は、法螺貝の御蔭で少しずつ心身に沁みこんでいます。

引き続き、音の質を追求して自分らしい音に近づけていきたいと思います。

ご縁の音

人は生まれた場所や環境、またどのような天命があるかでそれぞれにご縁が変わります。自分が求めて出会うものもあれば、周囲がそのご縁を結んでいくものもあります。特に志がある人は、周りがその人をさらに発展、充実させようとご縁の仲人になっていきます。出会いや巡りを通して、そのご縁はまた飛躍し奇跡のような組み合わせを実現します。そしてそのご縁の姿の一つの集大成として、生き方というものに表現されます。つまり生き方はその人らしさになり、このらしさこそご縁の御蔭さまということになります。

誰かのそれまでの人生の話をお聴きすると、その人らしいなと感じるものが多いものです。その人らしいをよく観察すると、その人の中にご縁がいつまでも影響を与えているのがわかります。だからこそ自分らしさというのは、ご縁の集大成ということです。

例えば、私は法螺貝でも自分らしい音になればいいですねと助言します。自分らしい音になるのは、その自分のもつ法螺貝らしい音になることでもあります。自分と法螺貝がご縁で結ばれ、お互いに自分らしい音になっていくということ。これはご縁の音ともいえます。

人が志で結ばれる時、お互いにご縁の音を奏でます。その音はどのように響いていくのか、そしてその後にどのような音楽になったのか、それはご縁の音として記憶に残ります。

ご縁の音の記憶は、また別の音と結ばれさらに新たな音として共鳴していくものです。

ご縁の世界と音の世界は同一で、ご縁とらしさもまた同一ということかもしれません。

新たな出会いによって創生することの面白さは、ご縁のめぐりあわせの奇跡の喜びです。ご縁を大切にして味わっていきたいと思います。

編み方は生き方

現代は、編みものをする機会がなくなってきましたがむかしはどの家でも竹かごや藁細工、着物など暮らしの中で誰もが編みものをする文化が根付いていました。法螺貝の網袋を通して、編むことの価値やその意味なども学び直しています。

そもそもこの法螺貝の網袋などは、冬の間のお山の内職のようにそれぞれでつくるものだったように思います。これは草鞋づくりなども同様に、冬は家に引きこもり囲炉裏端などでそれぞれに一年間に必要になるような道具や材料をつくりこんでいました。

今では、暖房の中や大雪でもガソリンや電気をフル稼働して動き回りますがむかしは無駄なエネルギーを消費せず、家に籠っては冬を乗り越えていました。冬は食料も少なくなり、資源もなくなります。冬にできる仕事は少なく、収入を得る機会が減るからこそ生活必需品を揃える機会になったのです。明治以前までは、ほとんど靴などもなく草鞋が中心でした。草鞋はすり減りますから、たくさんつくっていたのでしょう。

どの家でも編みものができる技術は、この暮らしの中で培われていたのです。

静かに、編みものをする時間は瞑想にも似ています。一つ一つ、同じ作業を指先を通して丁寧に行います。結んでは解き、繋いでは止める、これらのことは人生の歩み方を指導してくれるかのようです。

また編み物は一緒に編むことで心を癒します。編み物の伝承は、祖母や母などを連想します。一緒に編み物をした記憶は心をあたたくし、編み物を通して人生の編み方を学びます。編み方は生き方そのものです。

法螺貝の網袋を通して、一緒に生き方をこの時代でも学び合えることは仕合せなことです。

引き続き、暮らしフルネスの実践を調えていきたいと思います。

法螺貝の網袋~原初の信仰の原点~

法螺貝の網袋は、七宝編みという技法でつくられます。よく文様でも使われることが多く、これを七宝紋(しっぽうもん)と呼びます。この七という字は、吉祥数とされてむかしから縁起がよいと信じられてきました。

この文様は中国の唐の時代に起源があるともいわれますが日本へは平安時代に仏教と共に伝えられたものといいます。この文様は、連続する円が無限に繋がることから、仏教の教えにおける「無限の繋がり」や「円満な状態」を象徴し人々の生活の中での繁栄や幸運を願う意味合いも込められているといいます。

仏教での七宝とは、仏教においてとても重要とされる七種の宝のことをいいます。 『無量寿経』においては「金、銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙」とされ、『法華経』においては「金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰」とされるものです。これらの宝物は、それぞれ異なる霊的または象徴的意味を持つと信じられていました。それが組み合わさる文様は円満や繁栄、完全な調和を表現しています。

そもそも編み方の起源はいつなのかと深めて観ると、編みの起源は古くて旧石器時代 にまでさかのぼるともいわれます。 最初期の編み細工は、1本の連続した糸を編んで作った網だといいます。それが時代を経て糸・藁・紐・竹などを素材にして手や針を用いて様々な生活道具(籠・敷物等)や衣類が作られていきました。日本では縄文時代早期に漁網が編まれていたようです。

編みというのは私たちの生活文化の中心にあり今まで伝承されてきた大切な先人の智慧です。現在、ニットセラピーというものもあり一目一目、針を動かしながら編んでいく作業によって指先の手を動かし、目の前の作品に集中することで日常の喧騒を忘れ、心の安らぎをえる療法があるといいます。創作しながら同時に心を安らげる、心の健康を支える大切な時間になっているともいいます。

私も疲れたらよくお手入れといって手仕事をします。修繕をしたり、綺麗に磨いたり、そのどれもが心を落ち着かせ心の疲れをほぐします。

この手を使い何を編むか、そしてその心に何を祈るかというのは原初の信仰の原点だと私は感じます。

これから大峰山へ移動し、法螺貝の編み方の伝承を受けてきます。動画や本ではなく、編みということやその意味を学び直してきたいと思います。

真の徳育

人間には、自然の中の一部としての人間と自然を管理する側の人間というものが存在しているようにも思います。自然の一部の人間は、自然に対して謙虚に人間性を保つという具合に分を定めて慎まやかに自然と共生します。しかし自然を管理する人間となってくると、自然に対して敵対しお金や法律を設けて人間の社会のみを至上主義にし自然を排斥するという排他的な行為を行います。

そもそもむかしはお金というものがなく、物々交換で暮らしていた時代がありました。今でも世界の少数民族の一部には、森の民といって山を手入れしながら移動して暮らしている人たちもいます。彼らの特徴は、自然の中で分を弁え自然と寄り添いながら生きています。しかしここにも現代のお金や法律が入ってきて、自然の他の野生動物たちと同じように排斥されています。

この世には道理というものがあり、因果律という仕組みがあります。

自分たちが排斥すると、いつかそれが巡り巡って自分たちが排斥される番になるということ。自然の動植物をはじめ、あらゆる生き物たちの生活圏を奪えば自分たちもそこに住めなくなっていきます。砂漠化もその一つですし、現在の激しい気候変動も因果律に従って発生しているものです。

なぜ人間は、今だけしか見なくなっていったのか。「今ここ」ではなく、「今だけ」というのはなんと刹那的な見方でしょうか。都合が悪いことには蓋をして見ないことにする。それに「意味がない」と無視を決め込み「意味がある」ことは敢えて面倒くさいから考えないようにする。なぜこのようにいつまでも寝ぼけた状態のまま生きるようになったのか、平和ボケという言い方をする人もいますがそれは単に寝ボケのことで平和はみんながいつまでも目覚めているから持続するのです。

本来は、もっと先の子孫のことや長い目でみてどうあるようにするかを思うと今ここに私たちがとても大切な役割をいただいていることに気づけます。これが忘れ去られ自分のことだけになったのは、環境としてもお金や法律が覆っていますが実際には教育の影響が大きいように私は思います。人間が目が醒めないような教育になっているということです。もっと言えば、ぼーっとさせられるような環境と教育に包まれているということです。

例えば、食べ物でいえば添加物や防腐剤、白い砂糖や精製塩、他にも化学的なサプリを飲むと頭がぼーっとします。それにひたすら勉強させられたり、次々に詰め込まれて忙しくなると何も考えられなくなります。人間は休みをきちんととれないと余裕ができず考えることをやめてしまいます。日頃から考えないで頭ばかりで計算する日々を送れば送るほどに、ぼーっとする毎日を送ります。

このぼーっとするというのは、何も腑抜けていることを言っているのではなく今だけ金だけ自分だけの状態になっていることに気づかないということです。時間のほとんどをお金のことや自分のこと、そして今のことだけに費やすのです。それを消費といいます。消費させられ続ける状態に気付くこともなくなることがぼーっとすることです。そしてぼーっとしているうちに先人たちの血と汗と涙の結晶であった大切な伝統や智慧や文化を失っていくことが多いのです。その証拠に、風土から伝統的な暮らしが消失しています。

人間は何のためにとお互いに問われる機会が少なくなると、お互いに初心や理念を忘れてしまいます。そうならないように場を設け、何度も三省し、内省を続けて目覚め続けること、ぼーっとさせられないような工夫が必要だと私は思います。

今の時代、世界を導くためにもしたたかに賢く、そして勇気をもって実践し、如何に自然と人間社会の折り合いをつけるかを見出し、自然界と人間界の橋渡しを調える人たちが必要ではないかと感じています。それはいいところ取りをしている都合がいい人というわけではなく、バランスや調和とは何かというのを実践していく精神や心魂が研ぎ澄まされた徳のある人物になっていくということです。

徳は何がバランスなのかを自然に見極めていくものです。つまり徳の人とは自然と人間との調和を実現する人のことです。

世間の言う道徳教育は、文字で教え込もうとします。しかし先人は、文字ではなく実践で真の徳育を実現していました。例えば、二宮尊徳のように実践や暮らしの中で醸成され伝承していく方法などはメソッドではなく生き方や道への入り方を指導していました。

今の時代、何をすることが真の徳育となるのか。それを真の教育者たちは問われているように思います。徳は教えられるものではないからこそ、真の徳を実践する仲間を増やしていくことだろうと私は思います。

引き続き、私は暮らしフルネスの中で真の徳を學び研究し、子孫たちのために自分の役割を全うしていきたいと思います。

成長の歴史、食べてきた歴史

お盆の期間は、ゆったりとご先祖様を感じながら過ごしています。法螺貝も20貝ほど完成し、陰干しをしたりお祀りをしたりと調えています。貝の模様を観ていると、それぞれの育ちや成長の意味を感じます。

私たちすべての生き物は、産まれてから様々なものを食べ吸収して成長していきます。貝もまた同様に、卵で生まれたものがたくさんのものを食べて貝を形成して成長して大きくなります。貝の大きさは、その貝が食べてきた質量ともいえます。また模様も同様に、食べてきたもので模様ができます。

私たちは何を食べるかで、すべてのかたちを形成しているということです。貝を観ると、貝の食べてきた歴史を感じます。同様に今の私たちも何を食べてきたかで成長してきたともいえます。この食べた歴史は、今まで何を食べてきたかということです。今の自分の身体や健康にも大きな影響を与えています。それにこれからの未来に何を食べるかということもあります。

結局、自分の食べてきたものの影響というのは生前も死後にも大きな影響を与えているのです。

以前、野菜で肥料や農薬をかけているものが腐敗していくものと、自然栽培で肥料も農薬もかけていないものが枯れていくものを観ました。腐敗するのは、腐敗するだけのものを食べたからです。また枯れるのは、枯れる理由もあります。腐敗するというのは、それだけ腐敗するものを食べてきたということです。枯れるのは、腐敗するものを食べてこなかったというだけでしょう。生きているものは枯れていき、死んでいるものは腐敗します。いのちの本質は結局、食べてきた歴史で考察することができるということかもしれません。

貝であれば、海中のカルシウムと有機物がそのまま形になって遺ったということです。今回、手掛けた貝でも肉付きがとてもよいものもあれば、かなり薄いものもあります。また貝に色々なものが固着しているものもあります。半分化石化しているものもあれば、新鮮で今にも動き出しそうなものもあります。

ここに成長の歴史があるということです。

どのような成長の歴史を辿るのか、これからも楽しみです。

石膏文化

現在、法螺貝づくりをしていますが石膏を用いて唄口をつけ調律をします。この石膏の扱い方が上手に扱えるかどうかはとても大切な要素になります。石膏はあっという間に熱を持ち固まりますから、微細な調整を短時間で行う必要があります。私は蕎麦打ちや落雁など粉を扱う機会も増えていますが粉でもそれぞれに個性があります。

石膏もいろいろな種類を試しています。水分量でも時間や強度も変わりますし、石膏の会社でもそれぞれに個性があります。石膏は粉から固まるまで変化し続けていますから、タイミング悪く扱うとやり直しです。

もともと天然石膏は太古のむかし海底だったところに死んで沈んだ生物の骨(カルシウム)が堆積したものです。それから長い年月がたち海水が蒸発して干上がったときにその堆積してできた層が海上に現れ山になったところで採取されます。岩塩などに隣接して産出されるところが多いと言います。最近では化学石膏といって化学工業で出る硫酸分とカルシウムを科学的に結合させてつくるものもあります。特徴は化学反応でつくられるので不純物がほとんど入らないそうです。

この石膏は身近では、骨折のギブスや建築の石膏ボードなどでよく見かけます、かつてはエジプトのピラミッドなどでも石を繋ぐところの接着に使われていたともいわれます。

この石膏ボードが固まる理由は、150度から200度で焼いて粉にして乾燥したものをもう一度お水を含ませることによって結晶同士が結び直します。それで固まるという理屈です。

法螺貝では、水と混ざり合わせてから15分ほどで粘土のように固まり始めます。固まり始めてからは1分弱で石のように固まります。その間に、調律を含めて行います。

石膏はとても不思議な素材で、毎回、色々なことに興味がわきます。私は麻炭を入れていますが、他にも色々と混ぜ合わせて試してみようと思います。不純物があるからこそ、天然の善さも引き立つものです。

子孫たちのために、石膏文化も伝承していきたいと思います。

暮らし伝

昨日は、盂蘭盆会の準備であちこちの場を調えご供養とおもてなしをしてきました。子どもたちも一緒にお墓の掃除やお花のお手入れ、そして手を合わせてはゆったりとご先祖様たちをお迎えしてきました。

最近ではお盆休みに帰省もしなくなりお墓参りや先祖供養もなくなってきたといいます。何のための御盆休みかなどの意味を忘れ、暮らしの中で伝承している知恵も暮らしの消失と共に忘れ去られていきます。

お寺でも造花になっていたり、火は危ないからと自動電灯になっていたり、念仏が音声で流れてきたり、お供えものもプラスチック製品で見た目だけ似せたものになっていました。形だけ残しては心を残さないでは、本来の暮らしの智慧として伝承も残らないはずです。

私たちの先祖は、意味や目的をいちいち考えなくても暮らしの中で年中行事などを自然に取り入れ子孫たちが自然にその意味や目的を直観し理解できるように伝承してきました。口伝というよりこれは暮らし伝ということでしょう。

私が提案している暮らしフルネスは、この暮らしの伝承を行うものです。

暮らしという言葉も、なんだか現代では暮らし風のことを暮らしと呼んで消費活動の一環にされているところが増えています。暮らす宿という言葉も。暮らしていないのに暮らす宿とはどういうことかなと。私は日々の暮らしフルネスの実践の中で、お迎えして一緒に暮らしの伝承をすることを暮らしている宿坊として暮らす宿とはいいますが明らかに異なるのは主人がいるかどうかです。家と主人があってはじめて暮らしの智慧は伝承されていきます。

最近では、広告詐欺というかスーパーなどにいけはそういうものをたくさん見かけます。無果汁なのに果物ジュースとしていたり、無添加といいながらたくさん科学添加物をいれていたり、産地の名称を謳いながら実際には会社名であったりと嘘だらけです。

便利なものの方が価値があると信じるようになれば、多少の嘘は正しいことになっていたりします。なぜならそれが便利であるという証明だからです。嘘は便利なのです。

しかしその嘘をついたことによる代償が発生します。それは嘘が伝承を破壊するということです。見た目だけ形だけでも便利だからいいとするとき、心は置き去りになっていきます。

心で味わうからこそ、暮らし伝は継承されていくものです。

丁寧にこれからも暮らしフルネスを通して子孫たちへ伝承していきたいと思います。

 

法螺貝づくり

法螺貝づくりを進めていますが、貝の個性がそれぞれにあり一筋縄ではいきません。今回は、20の貝を仕上げていますがあまりにもそれぞれの個性が強く自分の感受性が試されています。

元々、保育の道を深めそれぞれの個性を活かすことや発達にあわせて変化させることなどを学んできました。経営もまた、人の徳を活かす日本的な方法を学んできました。法螺貝づくりはこれまでの人生の集大成の一つとも言えます。

私の手元にある法螺貝は、ある意味で抜け殻ですが実際に貝が生きていたころはどのような貝だったのか。それを抜け殻からもたくさん連想できます。また厚みや傷などでその一生がどのように過ごしたのか、あるいはどのような海にいたのかまで直観で伝わってくるものです。

私の手元で第二の一生がはじまりますが、時には音を求めるあまりに深く傷を入れてしまうことがあります。修復しますが、自然物に傷をつけてしまうことに申し訳なさも感じます。実際には、絆といってその貝との関係性ができますがはじめてその法螺貝を手に取る人に手渡す以上、傷のないものをと慎重になります。慎重になるほどに、貝の音の潜在意識を発揮してもらうための調律に迷いもでます。

吹く人のことを思い仕上げていきますが、妥協するところが探せず肩の力を抜いては深呼吸して集中して作りこむのみの日々です。

しかしひとたび、善い音に辿り着けば苦労もすべて報われます。見事な鳴動で波動が響くと、その貝の新たな息吹を感じて嬉しくなります。

どうも私は甦生していくのを見守るのが好きで、心はとても仕合せを感じます。

引き続き、盂蘭盆会の合間にご先祖様たちのことを思い日子山仙螺の法螺貝づくりを続けていきたいと思います。