存在と変化

日本の言葉には、太陽の変化を数々に顕すものがあります。私たちは自然の変化のあらゆるものを切り取ってその瞬間を言葉にして表現しました。太陽は本来は、暮らしの中心であり私たちはどの太陽の時が今がどのような関係性と繋がりの中にあるかという場としての認識を持って暮らしを営みました。

例えば、太陽の状態にはこのようなものがあります。

 

宵(よい) — 日が暮れて間もないころ。光が去り、夜へ入っていく。夜半(よわ)・夜中 — 夜の深いところ。光からもっとも遠い時間。暁闇(ぎょうあん) — 夜明け前の暗さ。朝が近いのに、なお闇の中にある。暁(あかつき) — 夜が明けようとするころ。「明か時」とも考えられる、朝への転換点。有明(ありあけ) — 夜が明けても月が空に残っている状態。「有明の月」という美しい言葉があります。東雲(しののめ) — 東の空がほのかに明るくなってくるころ。曙(あけぼの) — 夜がほのぼのと明け始めるころ。ものの輪郭が光の中に現れてくる。黎明(れいめい) — 夜明け。特に「新しい時代の始まり」という比喩にも使われます。朝ぼらけ — 夜が明け、あたりがぼんやり明るくなったころ。和歌で非常に大切にされた言葉。日の出 — 太陽の上端が地平線・水平線から現れる瞬間。旭(あさひ・きょく) — 昇る朝日。特に、昇り始めた太陽そのものやその光を表す。朝日(あさひ) — 朝の太陽、またその光。「旭」より日常的で広い表現。朝陽(ちょうよう) — 朝の太陽・朝日の光。「陽」には日なた・太陽の光という意味があります。日盛り(ひざかり) — 太陽が高く昇り、日の光が盛んなころ。斜陽(しゃよう) — 西へ傾いた太陽。「盛りを過ぎる」という比喩にもなります。夕日・落日(らくじつ) — 沈んでいく太陽。黄昏(たそがれ) — 日没後、ものの姿が判別しにくくなるころ。「誰そ彼(たそかれ)」に由来するとされます。

私たちは変化の最中に発生しているものをそれぞれに表現します。しかし言語というものは、あくまである条件の中の一部を切り取っただけで同じものは存在しません。例えば、今朝の朝ぼらけも昨日の朝のものとはまったく別のものです。

何でも標準化するというのは、私たちが便利な道具を用いて感覚を表現する方法ではありますがそれによって失われていくものがあるのは残念なことです。

本来、川は川か、上流と下流は別のものか、雲や雨は別のものか。変化そのものと観ればこれは分かれていない存在であることに氣づきます。

かつて老子は、『老子(道徳経)』第一章の中で「道可道、非常道。名可名、非常名。」といいました。これは意訳ですが道として言い表すことのできる道は、永遠不変の真の道のことではない。言葉として名として名づけることのできる名は、永遠不変の真の名ではないのである。と、道は言葉で顕せられないつまり変化そのものであると。

つい頭で何でも理解する癖がついてくると、本物の変化やありのままの存在を感じられなくなるものです。いくら言葉で理解してそれを上手に伝えられるとして賢くなった、偉い人のように本などを読むとつい勘違いますが実際にはそれも切り取られた一部を価値として認識しただけです。

太陽のすごさや偉大さは言葉ではとても語れません。

だからこそ存在を丸ごと感じる、つまり感性を磨き感謝をして拝む中で実感していたのでしょう。

人類は今、既得権益やエゴの増幅でこの歪んだ現実に呑まれてしまい大切なものを忘れていきます。

引き続き、場を通して子どもたちを見守り本来の変化のハタラキがさらに活きるように徳を磨いていきたいと思います。