開山の心

最近、守静坊には全国各地で山を開く「開山」する人たちが訪ねてきてその方々の法螺貝を創っています。

開山を辞書でひくと「寺院を初めて開くことや、その寺院を開いた僧侶を指す」とあります。仏教においては、そこから開創した僧侶を「開祖」と呼びます。他にもある物事の創始者や、初めて成し遂げた人を指します。

つまり開山とは一般的な山を人間の都合に合わせて切り拓くことをいうのではなく、もともとその山に具わっている験力や聖性、神秘を発見し、人がそこへ入っていく道を開くことをいうように思います。

守静坊に遺っている木製の護符を確認すると、役行者の瑜伽者であると記されています。この瑜伽者(ゆがしゃ)とは、瑜伽(ヨーガ)を実践する人、つまり心と身体を調え、修行を通して自己と神仏・宇宙の真理との一致を目指す人のことをいいます。「瑜伽」とはサンスクリット語の yoga の音写で、もともと「結ぶ・つなぐ・一つになる」という意味になります。つまり瑜伽者とは、自らを調え、天地自然や神仏の働きと相応し、一体となることを実践する人という意味になります。

そして役行者はそれを顕現させた人物です。修験道の開祖は役行者であるといわれます。この人物はお山にて自らの心身を自然や神仏の働きと調和させていく「瑜伽者」であったということです。

役行者が各地の霊山を「開いた」と伝えられるのは、お山そのものの霊性を発見し、ある時は滝を行場として見出し、またある時は岩や洞窟に神仏の気配を感じ、峰や尾根や谷を修行の道として境界線を越えさせ、お山と人との関係性を結びました。

かつて二宮尊徳が人間の心を変えることを「心田開発」ともいいましたが役行者の修験道の開山もまさに同じ意味であろうと私は思います。

つまり「お山の中で心を修める。」

このシンプルで当たり前なことが修験道の要諦ではないかと私は思います。心というものは、人間のことです。開山というのは、お山の話ではなくお山の中で人間が何に氣づくのかということです。

私は鞍馬寺にご縁があり約20年ほど貫主様にご指導いただきましたが、その中心は「お山の心」でした。お山の心がどうなっているのか観えるかと、常に自問自答をいただきました。

結えあっていまは英彦山にて場をいただき、お山に触れさせていただいていますが心の在処や心の循環、またいのちとの関係性を結び直す日々を法螺貝と共に暮らしています。

明日からまた法螺貝講習ですが、この辺のお話を少し英彦山の歴史を兼ねてしていこうと思います。大勢参加されますがどうかご道中、お氣をつけてお越しください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です