古代の知恵

最近、古代のことに触れるたびに様々なつながりが増えてきています。世界には似たような神話や歴史があります。不思議なことですが、そのどれもが類似性がありその知恵も同じです。

もちろん風土や環境によって少し変わっているところもありますが、どれも似ています。これは何が考えられるのかと少し掘り下げてみるとはじまりは一つであったということの証であろうと思うのです。

そもそも始まりがあるから今があります。今は始まりの連続の中にあり、この今に思いを馳せれば太古の時代から連綿と生き続けてきた歴史があります。この歴史は、目に見えるものと見えないものがあります。最近はDNAを調べられるようになり、起源がどうだったかが辿れるようになってきましたが遡れば同じ遺伝子を持つことがわかります。

いのちが多様化していくのは、その風土と一体になっていくからです。私たちの意識も体もあらゆるものは、形を変え続けて何度も甦っていきます。同じようにみえて少しだけ変化していく。それは意識が交わり、遺伝子も、生命もすべては渾然一体に重なっていくからです。

まるで網で編まれたような羅網の世界です。

そこは誰が統治するのではなく、統合させようとしなくても自然に渾然一体に調和していきます。この調和というものこそ、知恵の結晶です。

今に生き切るという言葉があります。

この今というものの今は、一体なんのことをいうのか。今とは、縦軸と横軸、すべてがととのっている状態のことをいうように思います。それはすべてに主体性が発揮され、自立していて協力し合っているいのちのハタラキの姿です。

古代というものは、そのいのちのハタラキを存分に発揮していたことは直観的に感じ取れます。多様化してきて、原点が観えなくなってきたからこそ今こそルーツを辿る必要があります。

明日は英彦山で仙人苦楽部がありますが、これは子どもたちのために知恵を遺し、共に学び気づき合い、それを暮らしのなかで活かしていこうとする取り組みの一つです。

今回は音を使った波動の体験になりますが、かつての古代の人々が音をどのように感じ取っていたのか、実体験を通して今につながる知恵を甦生させていきたいと思います。

道の元

昨日まで同志の禅僧と一緒に過ごしていたからか道元禅師のことを懐かしく思います。道元禅師の言葉には今になって読み直すと改めて深く共感するものが多く、有難い気持ちになります。

そもそも原初の問いとして私というもの、この目に見えるもの見えないものを含め一体誰が創造したのか。それは私が産まれるずっと前からあったものであり、私の身体も持ち物もすべては私が創造したのではなく創造させてもらえているものです。

言い換えれば、古代のずっとむかしよりただ存在したものの一部をお借りしてこの世にいるということになります。それを使って何をするかというのが道であり、本来の自然のハタラキのままにこの世で生きる仕合せを味わえるという幸福を得ているものでもあります。

いくつか道元禅師の言葉に触れていきたいと思います。

「山川大地日月星辰これ心なり」

昨日も美しい月や光や雫にうっとりしましたが、この世のハタラキはすべて魂がありそれには心があります。心は心を通して自然や宇宙を実感させてくれるものです。

そして食事のお話は、よく私もおむすびやおかあさんなどでする「お」の話です。

「いはゆる粥をば、御粥と申すべし」

「食をして法と等ならしむ」

私たちが借りているこの身体でいただいているものもまたお借りしているもの。すべての道理は日々の知恵や生き方が決めます。原初の人類がどのような心で食べてきたか、それを日々に確認することで私たちの道を示してくれます。

「結果自然成」

結果というものは、実力が結ぶものです。それは種を蒔き、芽がでて花が咲き、実をつける。つまりその結ばれたものとは本来、自然が生成したものです。無理をして移植をしたり、どこからか買ってきたり、即席で取り繕うものは結果ではなく不自然であるということでしょう。自然にその時が来るのを待つ境地というものこそが、自然に生きる、自然体ということで謙虚である姿です。

「坐禅は静処よろし」

静かになることは豊かさを味わうことです。道元禅師の遺誡に八大人覚というものがあります。これは小欲(しょうよく)、知足(ちそく)、楽寂静(ぎょうじゃくじょう)、勤精進(ごんしょうじん)、不忘念(ふもうねん)、修禅定(しゅうぜんじょう)、修智恵(しゅうちえ)、不戯論(ふけろん)です。

この境地は、静かさの中にあり座禅の境地を語ったものではないかと私は思います。人の道を歩んでいくなかで、一つずつ内省し自己を磨いてきた知恵の結晶の言葉です。到底及びませんが愛と光をいただきながら、遠大無限の道を同じく内省しながら前進していきたいと思います。

最後に、

「仏道をならふというは自己をならふなり」

そもそもこの自己というものは、誰が創造したのか。それは人間でもなく、神でもない。最初から在ったものです。だからこそその自己を学ぶことは、元初の道を学ぶことでもあります。

自己を突き詰めていくなかで、はじめて宇宙のような偉大なものに触れ自分自身の中にそれが宿ることを知ります。知ってのち、それを捨てるなかで偉大な存在と一体になった場所に至る。

目の前に美しい花があり、風があり光がある。そのものを美しいと感じる清らかで無垢で澄んだ赤子のような心が自己と共にあります。

私はこのなんとのいえない元の心に深く魅かれ、感謝が湧いてきます。日々の暮らしの中にこそ、古代からの道が宿っているのです。暮らしフルネスの実践を通して、徳の循環の妙味を感じていきたいと思います。

ありがとうございます。合掌

お掃除の仕合せ

昨日は、禅僧の友人と一緒に宿坊でお掃除をしました。お掃除に取り組む姿勢にはいつも感銘を受けます。お掃除には生き方が出てきます。そしてその人柄も出てきます。

私は暮らしフルネスの実践をするなかでいつも掃除ばかりしています。なので人から見れば、一緒にいると掃除ばかりしている人になっています。しかし実際に私は10年くらい前までは掃除はほとんどしないタイプでした。それが気が付くと、掃除ばかりの人生になっています。

掃除をするとき、一緒に掃除をすることも増えてきます。すると、お互いに掃除をしながら生き方を学び、人柄を感じます。丁寧に拭き掃除をし、人がしないところまで片づけたり、見逃さずにその時に拭き清める。そんなことをしているうちに、心がととのい場も清められます。

場というものは、その人の生き方が凝縮したものです。その場にその思想、生き方、熱量ありとあらゆるものが宿ります。だからこそ、その場のお手入れが必要でそのお手入れをもっとも効果的に行っているのがお掃除というものです。

心が荒んでくると場が乱れます。そういう場をみていると埃だらけであったり、雑然として散らかっていたりします。きちんと片づけて掃除をしていれば、何が乱れているのかがわかります。しかし乱れていることが分からないくらいになっているからそれが場に現れてきます。

自分自身がお掃除をすることは、自分自身が気づかなくなっている初心や本心、志を確認する大切な時間にもなります。そして自分自身を場に投影し、自分を磨いていく大切な時間にもなります。

日々のお手入れ、日々のお掃除は、生き方のお手入れ、人格を磨いていくことなのはやってみるとすぐに気づきます。

遠方より朋がきて、一緒にお掃除ができる仕合せに感謝しています。

ありがとうございます。

本来の子孫

私の志は子どものためです。この子どもは、子孫とも言いかえれます。自分がここまで生きてこれたご恩に対して報いたい、そういう感謝の気持ちがあります。同時にこうしてくださった親祖から先人たちへの尊敬と感謝もあります。続いていくもの、繋がっているもの、結ばれているものに永遠の徳を感じるからです。そういうことから、私は初志や理念を子ども第一義と掲げてきました。

しかし周囲は何のために今、これをやっているのかというのはそんなに見えません。やっている行為や具体的な事象のことから、きっとこうだろうやああだろうと決めつけられそういう人になっています。そのうち、勝手に期待されたり噂されたりするものです。そのほとんどは当たっていないのだから気にはしないのですが、人間は周囲や身近な人が影響を受けると悲しくもなるものです。

江戸時代の儒学者に佐藤一斎がいます。この方の言志四録は、西郷隆盛、吉田松陰なども座右のように学んだとあります。その言葉には、志を貫くために必要な知恵がちりばめられています。私も海外に留学するとき、または仕事をはじめてすぐのころは何度も読み返していました。しかし、壮年になった今でもその知恵は燦然としています。

志は、自分自身が見失いそうになるものです。それだけ目の前のものや周囲の言葉、心の安逸に流されていくからです。志を立てているからこそ悩み悶えます。しかしその時こそ志は成長し、磨かれ、研ぎ澄まされていきます。まるで人生の砥石のように志が自分を研いでくれます。

子孫のためにと取り組むとき、大切な知恵が言志四録の89条にあります。

「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

これは自分自身に対する世の中の評価などは恐るに足りないが、後世までもその世の中の評価が遺ることは恐ろしいことだと考えなければなりません。自分自身における利害得失などは心配しなくてもいい、しかし子孫の代までの利害得失はよく考えなければなりませんと。

子孫のためにと決めているのなら、今の時代の自分のことなどはたいしたことではありません。だからこそ今の世の中の評価や嘲笑など気にはせず、至誠を貫きなさいということです。

私が尊敬する吉田松陰も、そして二宮尊徳も同じように先の時代を見据えて、その時代を生き切りました。私も心に同志がいますから、同じように生きたいと願っています。競争や比較、そして評価にさらされてきた子ども心はそれだけ世の中を気にする人を増やしてきました。

そうではない世の中にしようと社業を立ち上げ、今では徳を立てようとしています。それは社会がよくならなければ、子孫を守ることができないからです。自分の子孫ではなく、世の中の子孫が本来の子孫です。

世界の子どもたちは今、どうなっているのでしょうか。

子どもの純粋無垢な心はどれだけ尊重される世の中になっているでしょうか。子孫たちの繁栄を願う時、私たちは両親の慈愛の真心に触れるものです。

古の同志の言葉に救われながら、この道をまた一歩踏み出していきたいと思います。

徳の本体~暮らしフルネスの妙味~

洪自誠という人物がいます。この方は中国明代の著作家で本名は洪応明といいます。有名な著書には儒仏道の三教を融合した随筆集『菜根譚』、仙界・仏界の古典のなかから逸事や名言を抜き出して編集した『仙仏奇蹤』四巻というものがあります。

この人物が生きた時代は、儒教道徳が形骸化し、国の道筋を示すべき政治家や官僚たちが腐敗していたといいます。誰もが派閥争いにあけくれ、優れた人材が追い落とされ、ずるがしこい人物だけがとりたてられていたそうです。政治のニュースや世の中の大衆流行の世相を眺めるとどこか今の時代に類似しているところを感じています。

この菜根譚の「菜根」という言葉は、「人はよく菜根を咬みえば、すなわち百事をなすべし」という故事からです。これは「堅い菜根をかみしめるように、苦しい境遇に耐えることができれば、人は多くのことを成し遂げることができる」という意味になります。普遍的な生き方を目指して実践した人物の言葉は暮らしフルネスを実践していくなかで、とても共通するところがあり心に沁みます。

そのいくつかをご紹介します。

「幸福は求めようとして、求められるものではない。常に喜びの気持ちをもって暮らすことこれが幸福を呼びこむ道である。」

「自分を反省する人にとっては、体験することのすべてが、自分を向上させる栄養剤となる。」

「静寂な環境のなかで、得られる心の静かさは、ほんものの静かさではない。活動のなかで、心の静かさを保ってこそ、最高のあり方を体得した者といえよう。」

「太陽が沈んでしまっても、それでもなお夕映えは美しく輝いている。だから、人生の晩年に当たって、君子たるものは、さらに精神を百倍にも奮い立たせて、りっぱに生きるようにすべきである。」

孔子は、世の中がもしも道徳的で素晴らしい状態のときに誰にもとりたてられないのであれば恥だと思えといったといいます。その逆に、世の中が不道徳なのに出世してとりたてられたら恥だと思えとも言いました。

君子は、常に静かさを保ちます。この静かさとは本当の仕合せを生きているともいえます。常に人の道を見失わず、人間として自分に与えられた真実の生を全うするのです。

幸福とは、単に誰かと比較して富をもっているとか、健康だとか、あるなしの基準で得るものではありません。自分のたった一度の与えられたその役割を味わい噛みしめ、その生に対して素直に謙虚に感謝と喜びで生き切るということです。

そしてこうも言います。

「せっかちで心が粗雑だと、一つの事さえ成し遂げられない。なごやかで平静だと、多くの幸いが自然に集まる」

「最も高遠な真理というものは、最も平凡なものの中に宿っており、至難な事柄は最も平易なものの中から出てくる」

「古人の書物を読んでいながら、聖賢の精神にふれなかったならば、それは単なる文字の奴隷であるにすぎない」

どの言葉も、魂に響きます。まさに普遍的な生き方から出てくる言葉は、理屈ではなく本質です。言葉の奴隷、文字の奴隷、周囲の奴隷、時代の奴隷、人は縛られているものばかりです。しかしそういうものを開放するとき、心は本来の真心に回帰します。

人生の中で、文字や言葉には何度も出会いますが聖賢の精神は日々の当たり前の暮らしの中で出会います。それが暮らしフルネスの本懐でもあり、徳の本体です。

子どもたちのためにも、徳を磨き、徳を積み、徳を高められるように当たり前の暮らしから反省と改善を継続していきたいと思います。

思い邪なし

実力という言葉があります。これは必要な時に発揮される力のことです。日々に最善を盡していく中でその人がその目的を達成するために必要な力が具わっていきます。つまり必要に迫られるとき、その力は具わるということです。

では何が必要で何が不必要なのか、人は不必要なものを持てば持つほどに実力が不足していきます。自分の実力がわからなくなるからです。本当に実力があれば運が巡ってきます。そう考えると、運も実力のうちという言葉はその人が努力して得たことが運につながったということです。

では、何を努力してきたかということになります。王陽明の言葉が参考になります。そこにはこうあります。

「修行は一進一退するのが当然である。他人の非難や嘲笑、または栄誉に関わりなく私欲を取り除き、本来持っている善心に沿って生きる修行を怠らなければ、必ず実力を得るようになる。」
「日常生活や仕事においても、私欲が大きくなっていないか絶えず確認しなければならない。仕事や日常生活においても私欲に克ち本来持っている善心を発揮しなければならない。」
「仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。」
つまり知良致こそ、実力の本体です。そしてこうもいいます。
「努力することを手がけたばかりで、どうして腹のなかまで光りかがやくようにできようか。たとえば、ほとばしっている濁流を瓶の中に貯えたばかりのときは、はじめは流れがとまっても、やはり混濁した水である。流れをとめて澄ますことしばらくすると、自然と不純物はすっかりなくなって、もとのきれいな水になるようなものである。きみはひとえに良知に立脚して努力しなさい。良知が発現されること久しければ、まっくろなものも自然と光りかがやくようになる。いま速効を求めようとするのは、むしろなくもがなの作為であって、努力したことにはならないよ。」
速攻を求めるのは不自然であり、長い時間をかけて純粋さを発揮していくこと。つまり清め澄ませていくこと。最後にこうもいいます。
「古今の聖賢のあらゆる議論の端々に至るまで全て、思いに邪なし、の一言で要約できる。これ以上、何を言うことがあろう。これこそ、一を知って百に通じる功夫なのだ。」
この「思い邪なし」jこそが、日々の鍛錬であり修養の本懐です。私も学んでも学んでも至りません。しかしそれこそが修行であると念じて、今日も一日、真摯に精進していきたいと思います。

いのちのバトン

いのちのバトンというものがあります。私はよく誰かのバトンを受け取ることが多く、後を任せて託されることばかりです。そのバトンは生前ほとんど関わっていないのに託されいなくなったあとに深い関係になり親しくなるバトンもあれば、長い年月、ご指導していただきその教えを学びそれを実践するなかで託されるバトンもあります。他にも、一度もお会いしていないのになぜか同じことを同じ場所で託されているバトンもあります。

このバトンは、リレーで使う棒のことで他には指揮棒や杖などの意味もあります。これを渡され次の人に渡してはじめてバトンはつながれていきます。バトンは、次のことをするから渡すバトンもあれば身体がなくなるから心で一緒に歩んでいこうとするバトンもあります。どちらにしても、バトンにいのちが宿っています。そのいのちのバトンを託されたものと託したものはいのちを分かち合い共に歩み続ける関係であるのです。

バトンを渡したらあとは関係がないということではありません、またバトンを託されたら託した人はいなくなったのではありません。これは一蓮托生になったということです。この一蓮托生は、仏教の言葉で死後、極楽浄土で同じ 蓮華の上に生まれることを指します。この意味が転じて、ものごとの善悪や結果のよしあしに関係なく永遠に最期まで行動、運命を共にすることをいいます。これはいのちがつながりが永遠になっているということです。

よく考えてみると、人のご縁というものはそういうものです。

今の自分はいのちのバトンをつないでいただいた存在としてこの世に生を受けます。そして死後もまた自分のバトンを誰かに託して共にいのちを分け合い存在し続けていきます。いくら頭で忘れても、いのちのバトンを託された中で暮らし続けています。

私たちが使うこの言葉や文字、そして生活文化、あらゆるものはいのちのバトンを託されたものです。それを私たちは頂戴しながら道を歩み続けます。

もしも自分がいなくなってもよろしくお願いしますと、頂いた偉大な恩恵や光を多くの人たちに渡していきます。そうやって道を照らし道統を継いでいくのです。

それが道の偉大さであり、いのちのバトンの有難さです。

私も偉大なメンターを今年の7月に亡くしました。15年以上、有難いご指導をいただき見守ってくださいました。今でも目を閉じればすぐに心に存在が映り声も聴こえます。不思議なことですが、この世を去られた瞬間にご指導いただいた長年の言葉や意味が自分そのものの言葉や意味になりました。まるでいのちが一つになったかのような感覚です。今までその人の言葉と思っていたものが、自分の言葉と和するのです。これがバトンを託される感覚なのかと改めて直観しました。

このいのちのバトンというものの本質は、バトンこそいのちであるということかもしれません。

人間は無私無我の境地で悟り、存在そのものに意識を合わせればそこにあるのは「いのちのバトンのみ」です。これからの私の役割もまた、そのいのちのバトンと共にあります。

いただいたご縁に深く感謝し、私の役割を精いっぱい果たしてまたあの世とこの世に報徳と朗報を伝道していきたいと思います。

節目は終わりではなく、新たなはじまり、これからも共に精進せよということです。今までご指導に心から感謝しています、そしてこれからも新たによろしくお願いします。

一期一会

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

道中学

今の私のことを振り返ってみると、過去に出会った人の影響を受けて形成されていることがわかります。素晴らしい生き方をしていた憧れの方々、あるいは反面教師にした方々、自分がどう生きたいかということを思いここまで来ました。

思い返せば、生き方というものが人生を決めるもっとも大切なものであることに気づきます。そのわりにあまり語られることがないのもこの生き方というものです。そして生き方が決まれば、次はあり方が決まり、そして働き方なども決まります。最後は死に方というものも決まるのです。

私たちは産まれてきて死ぬまで日々にどう生きるかということを問われ続けています。未来のことを憂うばかり、過去のことを後悔するばかりでは今に集中することはできません。今とは、日々のどう生きるかの答えです。その答えを日々に生きていくのだから、一生懸命である以外はありません。

一生懸命とは何かということを考えていると、全身全霊という言葉が浮かびます。全神経、五感総動員して全集中するという具合です。直観も働かせ、イキイキと青春の今に存在するのです。

サミュエルウルマンの誌にあるように、心の若さを持ち続けて学び続けて已まない人生が一つの一生懸命というものでしょう。どうしても日々の目先のことに流されていると、次第に流されて大切な初志や理念、初心を忘れてしまうものです。

そうならないようにと振り返りをして、また今日を再スタートする。いつも新鮮で創造する一日であるのなら、人生は常に青春そのものということでしょう。

私の尊敬してきた人たちはみんなそんな日々を生きてきました。どんな日々も自分の志を磨き高め、そして夢に前進していると学び続けておられました。亡くなるその時まで、感謝と青春の学びの日々です。

憧れた人たちのように今を生きる。

先人も同じような日々を送ってきたと思うと、今も一緒に心の中で歩んでくださっていることを思います。道中の出会いやご縁をいつまでも大切にしていきたいと思います。道を歩む日々に心から感謝しています。