感受性を磨く

人間には感性というものがあります。辞書には「物事を心に深く感じ取る働き」とあります。この感性というものの正体は一体何なのか。私たちは生きる目的=初心ということと向き合うとき、この感性を磨くことの大切さに改めて気付くように思います。

例えば、日々は誰にしろ訪れ、同じように24時間をかけて過ぎていきます。しかし、その一日をどのように感受するのかは人によって全く異なります。これは同じ環境、同じ状況、同じ体験をしたとしてもです。それだけ人は感性によって人生が異なっているともいえます。

私は毎日、何らかの事件が発生して何もない日はないほどに様々なことが発生するタイプのようで周囲にいる人たちは一緒に過ごすと大変だとよく言われます。確かに、自分でもよくもこんなにいろいろなことが発生するものだと感心するのですがこれは感性によって無意識下によって行われているもののように思います。近くにいることで周囲の人も感性が増幅するのかもしれません。

つまり感性が磨かれているからさらにその感受性が豊かになっていったということでもあります。そうすると、次第に学びや心のメッセージに向かって自ずから深く体験をするような出来事をますます呼び寄せていくのです。

人間は誰でも自分がこの世で体験したいと思っていることを自ずから実践することで感受性を高めていきます。それは言い換えれば、何のために生きるのかということを突き詰めていくことに似ています。

日々に何のために生きるのかと向き合う人は、次第に感受性が高まっていきます。そうすると、自分の運命や宿命、そして目的や本質に気づきやすくなっていきます。そして初心を持つようになり、その初心に帰るたびにアンテナが研ぎ澄まされ立っていきます。

その初心のアンテナが磨かれていけば感受する力もまた同時に高まっていきます。そうすると、自分の初心に適うものはどんなに僅かなものでもすべて受け取れるようになっていきます。すると次第に自分の人生に必要なことをすべて自覚でき、その意味付けをすることでさらに体験が濃く深くなっていくのです。

特段、テレビや映画やドラマで見かけるような激しい事件でなくても日々の微細なことまですべて事件のようにダイナミックに感受できるようになるのです。これが感受性が豊かになっていくということでしょう。

感受性とは、つまりその人の初心を自覚する力ということです。

子どものころにもって生まれた感受性がつぶされてしまうとなかなか元に戻らなくなっていきます。教育をはじめ刷り込みによって子どもたちは本来の感受性に蓋をされ貧しい感性に仕立てられていることもあります。

子どもたちが感受性を思い出せるよう、初心を伝承していきたいと思います。

喜捨の意味

喜捨(きしゃ)という禅語があります。これは仏陀の慈悲喜捨からの言葉であるとも言われます。他にもイスラム教などでも似たような言葉があるといいます。喜と捨てるという字の組み合わせですから、なぜ喜びを捨てるのかと思う人もいるかもしれません。

本当は私には、「喜=捨」ということ。つまり喜ぶことが捨てることであり、捨てることこそ喜ぶことだということだと解釈しています。

人は、自分が喜ぶことで他者やみんなが喜ぶことができるのならそれは至上の喜びであり徳であると思います。徳を積むというのは、自分自身が喜んでいることであり、それが相手の喜びになっているという自他一体の境地を実感できるということです。

自然は常に自他一体であり、それぞれのいのちが精いっぱい生きて喜ぶとき、自然界全体のいのちも同時に喜びます。つまりこの喜ぶというのは、いつも自分が仕合せを感じているのであり、その仕合せの中にいて喜びに満ちているという心境です。「ああ、これでいい、ああ、これで善かった」と心の声に従って自分自身が仕合せであることを噛みしめていくこと。まさにその中にこそ、喜捨の精神があるように思います。

決して自己犠牲をすることが良いことではなく、誰かのために自分は我慢することがいいことではないのです。自分の喜びを高めて磨いていけば、それが自ずから誰かの豊かさに貢献していく。つまり徳が循環するようになっていくのです。

そしてもう一つの捨てるという言葉。これは何を捨てたのか、それは自分、我慢です。仏教では「自分を高くみて、他人を軽んじる心」とも言われます。つまり自意識であり自分が特別な存在というように自分というものを勝手に自己認識してつくりだしているものです。自然界では、自分というものはなく万物が一体に存在しています。名前もなく、私はあなたであり、あなたは私です。もちろん役割というものがありますが、どれも平等にいのちは存在します。

自分の慢心や高慢な心は、自分というものを超えた存在を意識して自分の我欲を捨てていくときに磨かれていきます。つまり自分さえよければいいという慢心を捨てるときに私たちは仕合せを感じることができるのです。世の中には、一緒に生きてともに支え合い助け合う仲間がいます。離れていても、会ったことがなくても、そして直接的に関係がなかったにせよ、魂や心で結ばれている存在というものもあります。言い換えれば、先祖のつながりであったり、何かを介して同じ目的のために生きたことがある同志や朋友だったりもします。

そういう人と繋がり結ばれていると実感することで、一人ではないことに気づき、みんなの仕合せを実感するのです。その時、私たちはあらゆるものが手放せるようになります。その最初に手放すのが自分自身の我欲なのでしょう。欲が問題ではなく、我が問題であり大欲は無私であるように小さな我を手放すのです。

この小さな我とは、目先のことであるのは間違いありません。

長い目で、広い視野で、歴史を見通し、本来のあるべきもののためにいのちを活かそうとする。それは徳に目覚め徳に生きるということでしょう。

子どもたちのために、一緒に生きる仲間がいることに私も喜捨の精神を学びました。この志や応援を心に抱え、さらなる徳を磨くための挑戦を皆さんと一緒に続けていきたいと思います。

ありがとうございました。

参道の甦生

先日、福岡にある英彦山の参道を歩いて社殿まで訪問する機会がありました。雨が上がったすぐ後だったので、濡れた石や岩、そして砂利から清浄な雰囲気が醸し出していました。

雨垂れによって、石のあちこちに小さな穴がありました。長い年月をかけて、木から滴ってくる雫が石に落ちることでこれらはでてきます。参道は、長い年月を経た美しさに満ちており参拝する往来で私たちは悠久の歴史を感じ、自然の持つ壮大な営みに触れて様々な執着が取り払われていくようにも思います。

参道でウィキペディアを調べるとこうあります。

「参道にある灯籠、常夜灯はもともとは仏教寺院のものであり、平安時代以降、神社にも浸透したものである。また参道に敷かれる玉砂利は、玉が「たましい(魂)」「みたま(御霊)」「美しい」という意を持ち、砂利は「さざれ(細石)」の意を持ち、その場を清浄する意味を持っている。敷くことによってその場所を祓い清める意味があり、なお参道を進み清浄な石を踏みしめて本殿に進むことによって、汚れた身を清め心を鎮めて、最高の状態で祈りが出来るようにしてある」

この参道という仕組みは、とても大切な智慧であるように私は思います。目的地についていきなり参拝ではなく、そこまでの道を歩かせるという智慧です。

私たちの人生は、歩くことと似ていて目的地に向けて自分の足で一歩一歩と進んでいきます。乗り物にのって簡単に目的地にたどり着くのではなく、まさに自分の身体だけを使い歩いてたどり着いていくのです。

歩いては拝み、また歩いては拝むという繰り返しで私たちはその日その日に発生した穢れを祓って浄化して甦生し続けていきます。魂はもともと透明であり、その透明に様々なものが纏わりついていくのでそれを透明にし続ける智慧が必要なのです。それを繰り返すためには、砥石のようなものが必要で私たちは研磨することでまたもとの状態に回帰していきます。

もとの状態というのは、神様と一体になっている姿であるともいえます。言い換えれば、赤ちゃんのときの自分です。赤ちゃんのままの魂でいられるように私たちは様々な体験をしてもその本体をいつまでも忘れないようにしているのです。

魂とはここでは玉石のことで、玉石を磨き合いながら研ぎ澄ませて心身を浄化するということ。それを美しい参道を歩むことで思い出しているのです。そして参道を囲み見守る宿坊での暮らしは、まさに先達が実践するこの世での歩み方の体現であり、私たちはその先人の知恵や精進の姿に生き様を見直し参考にしまた現世でのあり方を磨いていくのです。

修験という山の参道には、私たちの生きる道、生きるための智慧が遺っています。

参道の甦生は、人々の生き方の甦生です。

子どもたちのためにも、美しい生き方を参道によって伝承できるように取り組んでいきたいと思います。

一枚板の価値

藁ぶき古民家にご縁をいただいた古木の一枚板のテーブルを入れてこれから甦生していきます。もともとこの一枚板というのは、長く育った古の大木から取り出されたものです。そこには偉大な生命力を感じ、いつまでも長くいのちをつないできた歴史を感じます。

まさにこの古木の一枚板は古民家に相応しいテーブルであり、ここでこれからどのような暮らしがはじまりそこでどのような団欒があるのか。ここで暮らす人を支え、豊かさの一つの象徴となるようにテーブルには特にこだわりを持たせました。

もともと一枚板は一生ものといわれるように、それだけ価値のあるものです。費用も高額で数十万から数百万するものもあります。なぜ高いのかといえばそれは希少でありかつ長持ちするからです。

本来、古民家というのはどのような定義をしているのかはわかりませんが私にすればこの一枚板のようなものと同質のものであると感じています。

長い年月を経て、艱難辛苦を乗り越えて育った立派な大木を木挽き職人がしっかりと丁寧に選別し丁寧に取り出していく。それを見事なまでに磨き上げ仕上げたものが一枚板です。当然、長持ちするのは当たり前で数百年を持ちこたえるものもたくさんあります。

木は一般的には、木の時に生きた年数以上は耐久できるといわれます。樹齢200年であれば、200年はもつのです。というと、古民家で使われている素材(私の言う古民家は年数ではなく日本の本物の民家のことを言う)は、同様に数百年単位の木材を使って梁や棟に使われています。

それだけ長持ちし、寿命があるということです。つまりそれだけ価値があり高額であるものなのです。しかし実際に今では、新築信仰で張りぼてばかりをつくり古民家の価値はほとんどありません。むしろ迷惑な存在のように扱われます。

これは本物がダメになったのではなく、本物の価値をわからなくなった人が増えただけともいえます。なんという悲惨な時代だろうかと思うことばかりですが、町に出れば安価で偽物、便利ですぐにダメになるもの。量産型で画一的で希少なものなどはほとんどありません。

そんなものを使っても、すぐに壊れますし、先ほどの一枚板のテーブルのように暮らしの中心を支える大切なものとして働きはどうなのだろうかと思います。

善いものがわかる、つまり本物を知るというのは私は人生において何よりも重要なことであろうと思います。私の甦生する古民家が、なぜ皆さんに喜ばれ感動されるのかといえば別にセンスがいいからやデザインがいいからというわけではなく、本物にこだわっているからだともいえます。

その本物は何でも本物という自然物だけにこだわっているわけではありません。時代的に文明のものを使って仕上げますからそこには自然物ではなく人工物です。しかしこの時の本物という私の言葉は、「本質的か」ということも本物の理由の一つにしています。

つまり何のためにやるのかということにこだわっているということです。

長くなりましたが、一枚板というものを通してこれからこの説明をするときにはこの古民家の価値と一緒に伝道していけるように思います。木造建築の価値、木の持つ徳を子どもたちにつないでいきたいと思います。

苦労し甲斐~メリハリのある人生~

人生には「苦労し甲斐」というものがあるように思います。時が経ち、後で振り返ったときに苦労した甲斐があったなと感じるもののことです。苦労したからこそ、得たものがあります。それはそこまでに経てきた体験からの気づきであったり、智慧であったり、そして技術であったり心身の練磨による成長であったりです。

これをやろうとすれば苦労すると最初に誰もがわかっていてもそれを厭わずに挑戦し突進していく。そこに人生の真の妙味があるように思うのです。

人生の妙味を知る人こそ、苦労し甲斐を知る人でもあります。

周りからすれば、何でこんなことをと思っていますがそこには苦労によって誰でもわからない境地に生きているからです。私の場合は、未来の子孫のためにと初心を定めていますからそのためには苦労を厭わずに何でも来たものは選ばずにご縁と導きを信じて取り組んでいきます。

過去の経験や何かそれを実現する才能などは特にありませんから、毎回新しいことに挑戦することになります。周りからは、苦労するよと言われてもそうですねと笑いながら取り組んでいきます。失敗したり困難があると、ほれ見たことかといわれることもありますがそんなことは最初から分かっていることだから特段何も影響はありません。

問題は、この苦労は苦労のし甲斐があるかどうかというところが重要なのです。そしてそれは「道」として必ず通らなければならないのであれば正面から向き合って取り組んで味わい通過、もしくは突破していくだけです。

そうして振り返ったとき、今の自分が育てていただいたこと。今の自分の信念や勇気、そして生き方や生き様を創造してくださったことに感謝できるのです。

人生は一期一会であり、今は唯一無二です。

何事も遣り甲斐があることに挑むことが、メリハリのある人生が送れるということになります。このメリハリとは、緩むことと張ること、つまり弓のように適度に弦がはっている状態をいいます。いい意味で、充実して心身が調和している状態のことです。

何かに集中するというのは、そのものを実現するために真剣に打ち込んで苦労をしていくということです。苦労のない人生は、ハリがありません。ハリのある人生は、苦労を通して人生の妙味を知りそしてそれをゆったりと振り返りその時の思い出を豊かに味わい感謝していく生き方です。

これは苦労のし甲斐があると、偉大な目的に向かって生きるとき人は人生が真に豊かになり充実するのです。若さ、情熱、青春は苦労と共にあります。大変でも目的に生きる苦労の多い人生の価値を、子どもたちに伝承していきたいと思います。

お手入れの循環

最近、捨てないということについての動きが活発になってきています。資源が枯渇してくればくるほど、資源のリサイクル化は進んでいきます。しかし実際には、膨大な量を生産していれば捨てなければこの世はまるでゴミ溜のようになっていきます。

現在は、資本主義経済を循環させることが大前提ですから両立するというのは如何に経済を回すかということですがそれでは本当の意味で解決することはありません。

私は捨てないということよりも、本物にするということだけで十分解決すると感じています。

例えば、日本には伝統職人さんたちがいます。彼らは、自然物を上手に活かし、里山循環の中にしっかりと溶け込み、自然の一部としての役割を見事に果たしています。藁ぶき職人であれば、その地域の藁やカヤ、葦などを用いて家の屋根を葺きます。また左官は田んぼの土などを活かして土壁を塗ります。また森林を手入れし炭焼きをし、大工さんらはその木を用いて家を建てます。竹の手入れによって数々の暮らしの道具を人々はつくります。かつて、私たちは「何が本物であるか」を知っていたのです。

その時、私たちは捨てるのでもなく作り続けるのでもなく「手入れする」ということだけに専念したのです。

私は今の時代、もしも世界が変わりこの人類の方向性を導けるとしたらこの「手入れ」をするということだと確信しているのです。そのことから、徳積財団を設立し、暮らしフルネスを起草し、「お手入れ」のための活動と実践をこの地から発信しています。

物を大事にすること、もったいなくいのちをいただき伸ばすこと、このすべては「お手入れ」する心から育つものです。自分の心をお手入れし、身体をお手入れし、そしてお導きやご縁にお手入れする。当たり前のことかもしれませんが、自然はみんなでお手入れをすることで循環を守り続けてきたのです。

現代はこのお手入れの反対のことをみんなでやってます。やりっぱなし、なげっぱなし、捨てっぱなしで作りっぱなし、これがゴミの正体であることに気づく必要があると私は思います。

日本にはそもそもゴミという概念がありませんでした。八百万の神々の一つであり、それが他の神様のお役に立つ大切な存在でした。だからこそ、ここ日本からこの思想や生き方を伝道していくのが今の世代の使命だと感じています。

子どもたちがこの先、100年後、1000年後、どれだけの自然に見守られているのか。自然の回復力と人間の魂の真の成長を信じて、子どもたちのために日々のお手入れ、修繕を伝承していきたいと思います。

紫陽花の不思議

この時期は、あちこちで綺麗に咲く紫陽花の花を見かけます。いろいろな形や色に変化していく様子は、まさにこの季節の雰囲気を明るくしてくれます。幼いころは、紫陽花が咲くころにはカタツムリを探しにいきました。比較的大きな、カタツムリをみつけては紫陽花の主人のように振る舞う様子に不思議を覚えた記憶があります。

改めて紫陽花のことを深めてみるとその名前から不思議であることがわかります。

詳しいことはウィキペディアにもありますが、それもまたはっきりしない内容です。そこにはこうあります。

「アジサイの語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」がなまったものとする説である[8]。そのほか、「味」は評価を、「狭藍」は花の色を示すという谷川士清の説、「集まって咲くもの」とする山本章夫の説(『万葉古今動植物正名』)、「厚咲き」が転じたものであるという貝原益軒の説がある。花の色がよく変わることから、「七変化」「八仙花」とも呼ばれる。日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている。草冠の下に「便」を置いた字が『新撰字鏡』にはみられ、「安知佐井」のほか「止毛久佐」の字があてられている。アジサイ研究家の山本武臣は、アジサイの葉が便所で使われる地域のあることから、止毛久佐は普通トモクサと読むが、シモクサとも読むことができると指摘している。また『言塵集』にはアジサイの別名として「またぶりぐさ」が挙げられている。シーボルトはアジサイ属の新種に自分の妻「おタキさん」の名をとって Hydrangea otaksa と命名し、物議をかもした。これは Hydrangea macrophylla と同種であった。」

なんともはっきりしない由来ばかりで、しかも間違って使われている事例ばかり。まさに七変化の象徴のような花であるのを感じます。

うちの庭にあるものは、野生種のヤマアジサイです。独特な形をしていて、緑と花が交互に折り重なるように咲いているので透かしもあり涼し気です。

このヤマアジサイは九州や四国に分布している種だそうで、むかしから私の故郷の地域の山や沢に咲いていたのでしょう。それがうちの庭にもあるというのは、どのようにここに運ばれて来たのかわかりませんが時と場を感じます。

こうやって、その土地に相応しいものやいつまでも変わらずに存在するもの。変化しないものと変化するもの。紫陽花から色々と学び直す機会を得ています。

子どもたちにも紫陽花の美しさを豊かに鑑賞するゆったりとした時間を持てるよう環境を用意して見守っていきたいと思います。

私の目的

私はこの「場の道場(BA)」で、日本の伝統的な文化を継承して温故知新しながら最先端の取り組みと融合させています。なぜこのようなことをするのかといえば、目的は明確で子どものためにということです。

この子どものためといっても、単なる一般的な世の中で使う子どものためではありません。もっと広義で子孫のためといった方がいいのかもしれません。子孫たちが安心して世界の中で自分らしく自分を生きていけるように先祖の思いやりをつなごうとしているのです。

私の暮らすこの場には、古いものと新しいものが共存し共生しています。よく言われるのが、ハイブリット型や善いところ取りなどとも評されます。しかしそれは、ちゃんと日本人の精神や魂、生き方を大切にしながら時代の中で創造されてきたものとの調和した暮らしを実践しているだけのことです。

先祖は、私たち子孫のために色々と深く考えてくれて偉大な思いやりを遺してくれています。その先祖の生き様や人生を無駄にしないのが、私たち子孫たちの責務であり使命であるはずです。

今の時代は、そんなことを思わず刹那的に今の自分の人生や世代だけがよければいいという短絡的な生き方が増えています。どれもこれもすべてその原因は、忙しくなることで暮らしを手放したことに起因しています。

暮らしがなくなれば、先祖の思いやりも届かないところにいってしまいます。私たちの先祖は、決して単なる文字や記録で子孫が守れるとは思っていませんでした。なので色々と工夫して知恵を働かせたのです。

その一つが、日本の家屋であり日本の伝統行事であり、まさに衣食住を含むこれらの「暮らし」にその仕組みをを入れたのです。

そしてそれを甦生し続けて温故知新する人物を、道を通して育成してきたのです。私が場の道場を開いた理由、そしてなぜ今、ここに「場」を誕生させようとするのかはその手段の一つであり目的を実現するためです。

子どもの仕事をしてきたからこそ、何をすることがもっとも「子ども=子孫」のためになるのかと四六時中ずっと思い続けてきました。そうすることで先祖とつながり、子孫へ譲り遺していく初心伝承文化に気づいたのです。

これから目的に人を集めるための動画を撮影していきますが、目的を忘れずに丁寧に取り組んでいきたいと思います。

甦生の技術

この世の中には、時間というものがあると信じられています。他にも自分というものがあるとも信じられています。つまり人は何かを信じればそれがあると信じるようにできています。

実際にないものであっても、自分があると信じればそれがあるのです。

その中には、本当に現実としてあるものと、空想の中であると信じているものがあります。ある種の思い込みといえば、ほとんどすべてはこの世の中は思い込みでできていますが思い込みを超えるような発見があるとき人は真実に気づくように思います。

その時、目から鱗が落ちるような体験、また我に返ったような体験、自分というものを超えた偉大な存在になったような体験などがあるように思うのです。思い込みから解放されるとき、人間は今まで見えなかったものが観えるようになるのです。

例えば、「いのち」というものがあります。

一般的には、動物のように呼吸をして心臓を動かし活動しているものはいのちがあると信じています。その活動が停止したらいのちはなくなったといいます。植物であれば、花を咲かせていたらいのちがあるとし、枯れてしまえばいのちがないとしています。つまり動と静によって、いのちがあることとないことを使い分けているともいえます。

しかし、もしも静であることがいのちがあることで動であることがいのちがないとしたら混乱すると思います。例えば、石であればじっとしていればいのちがあり、壊れていけばいのちがなくなっていくということになります。他にも、静かな湖畔はいのちがあり、蒸発してなくなればいのちがないという具合です。

簡単に動と静で生き死にはすべて語ることはできません。

ここに一つ、「甦生」というものがあります。それは「いのち」そのものを観るために動静そのものとは離れた絶対的に存在する何かを可視化する技術です。私は甦生と浄化の道を究めていくものですから、いのちそのものの存在をどう磨いて徳を引き出し、それを活かすかということを生業にしています。

甦生というのは、時空を超えてあるものを世代を超えても受け継がれた存在を永続的に守り続ける力のことでもあります。甦生させていくことで、私たちは伝統を守り続けることができ、いつまでもいのちを輝かせていくことができるのです。

子どもたちにこのことを伝えていくために、映像を遺してみたいと思います。今、来ているご縁を一つ一つ噛みしめながら自分のやるべきことに専念していきたいと思います。

お互いの持ち味を生かす経営

人間には誰にも短所というものがあります。そのことで色々と失敗も重ねますし、苦労することがあります。しかし同時にそれは偉大な長所になる可能性もあります。短所を怖がるばかりに、長所を伸ばさなくなればその人も周囲も大きな損失になるのは間違いありません。

本来、誰にも負けないものを持っているものがその長所でもあります。例えば、プロであればこの分野は自分の真骨頂であると磨き上げられたものがあります。私も、色々と長所がありそれをひたむきに努力して伸ばしてきました。

特に発達の偏りがあるため、集中力が徹底しており一度深め始めるとほかのことはほとんど考えなくその一点を突破するために全集中していきます。しかし同時に、その時は隙だらけであり何かがあればひとたまりもありません。

私の場合はとても運が善いことに、善い仲間にいつも恵まれて常日頃からカバーをしてもらっています。結局、一人ではどうしても強みが出るときは弱みが出ていくように完璧になることはありません。だからこそ、仲間がいて弱みをカバーしてくれてその強みを肯定して活かしてくれるのです。

つまり能力を活かしあう関係というものは、大前提にお互いの弱みと強みを知りそれぞれに得意不得意を共有してともにフォローやカバーをし合って目的に向かって協働する価値観や風土が備わっているということです。

現代では、すぐに一人でなんでもできて当然というような価値観があり組織を蝕んでいます。それは教育によって、一人でできる人をつくろうとしたことで仕上がってきた組織間でもあります。上の偉い人が完璧であることを求めることであったり、カバーし合えばいいものを否定したり指摘したりして無理やりにでも矯正させようとします。

簡単な話ですが、手足が長い人に小さな細々としたことをやらせたり、力が弱い人に無理やり重たいものを運ばせたり、おっとりした性格の人にキビキビと指示管理させたりするのはこれはもうほぼ虐待の類です。しかしその人たちも自分がやらされてきたからかそう思うのか、やられて嫌だったというのにそういうことを他人に強要することが如何に多いかと感じます。

何より、人はお互いにそれぞれ自分にしかない自分らしい能力を持って生まれてここまで来たのです。それを上手に活かし、そうでないものはほかの能力のある人がカバーし合えばみんなでその能力に感謝し合えるような温かい関係が結べるように思います。

お互いの持ち味を生かす経営というものは、お互いの得意分野でやり遂げる覚悟を持ち、お互いの苦手分野はカバーしあう思いやりを持つということでしょう。

子どもたちがそれぞれの持ち味が発揮され、豊かに幸福な人間関係の中で世の中をやさしく平和にしていけるように自分たちがまずそのモデルを示していきたいと思います。