人類の失敗

先日、ある実験がアメリカで行われていることを知り自然の道理についてまた考える機会がありました。その実験は、蚊を遺伝子操作し子孫が生まれなくなるようにするものです。具体的には、遺伝子操作した雄の蚊を何千万匹と野に放ちその蚊が雌と交配することで子孫が生まれなくなり全滅させるというものです。

実験は1週間ごとに45万匹の遺伝子組み換えの蚊が放たれ27か月間行われました。結論としては失敗に終わったようで、雌の蚊が子孫を残せない雄を見分けて交配するようになったのではないかといわれています。当初は減少傾向があったそうですが、18か月後には元の数に戻ったそうです。

人間でもわかりますが、子孫を残せないとなると選択して子孫が残せるようなものを選ぶのはわかります。蚊はそうしないと思ったことがまず不思議ですが、自然の道理としては当然のことです。

問題はここからです。

本来、子孫を残せない蚊を放ったから遺伝子組み換えの蚊は同時にいなくなると仮定していましたが実際には交配するなかで野生の蚊から遺伝子組み換えられた蚊の遺伝子を受け継いだ個体が多数発見されたのです。その遺伝子組み換えられた蚊から同じ組み替えられた蚊が3~4パーセント誕生するようです。つまり人為的に遺伝子を改造された子孫がその後も引き継がれて野生に誕生しているということです。

この遺伝子を組み換えられた蚊のグループは、従来の蚊よりもさらに強い抵抗力や強毒性のようなものを持つことが考えられるそうです。

遺伝子を組み換えて操作するはずが、かえって手が付けられないものを作ってしまうという事実。これはコロナウイルスにも似たようなことが起きているのではないかと私は感じます。

人類は、この遺伝子組み換えという技術の危険性をよく理解せずに使いますが自然のバランスを壊せばどうなることがあるのかを必ず知る日が来るはずです。この遺伝子というものは、何億年も何千万年も前からある私たちの姿を創造するいのちの根源です。それを操作すれば、奇形をはじめあらゆる問題が発生します。

遺伝子を傷つけるようなもの、それを組み換えるようなものをすればこの世に本来存在するはずもなかったような不自然な存在が現れます。人工的に人為的につくられたものは、自然のバランスを崩すだけでなくかえってそれを今度また元に戻すために膨大な量のエネルギーや犠牲を払うことになります。

本来、自然を無視した人工物や人為的なものを取り払って自然に沿ったものにしていこうとなれば自然はバランスがととのいやすくなります。しかしその逆をやればどうなるかといえば、かえって人間にとって不都合なことばかりが発生するのです。

このまま、学び直すことなく人類が突き進めばそのうち「人類の失敗」という歴史が本に掲載される日も来るように思います。その失敗は、すべて以上のように自然界のバランスを崩した出来事や内容で埋め尽くされるはずです。

日本人の先人たちは、それをよく学んでいました。それによって山や川を大切にし、生き物たちや自然を深く崇拝し、自然と共生しながら永続し循環できるバランスの中心を持てる生き方、つまり伝統的な「暮らし」を実現させました。

最近、コロナウイルスは台湾モデルが世界に賞賛されていると聞きます。なぜ、日本がそうならないのか。残念に思います。どちらにしても、人類は失敗から学び改善するところに成長もあります。現実や事実を直視し、暮らしフルネス™が世界を導けるように実践を続けていきたいと思います。

資源のもと

私たちの身体をはじめ、この世のすべてのものは資源でできています。原資になっているものは土ですが、土から化けて形になり最後はまた土に還ります。そしてその土とは、水と火と木と石などあらゆるものが融和している存在です。

私たちは資源を使い、この世で生活をして暮らしを成り立たせています。自然は、それぞれ資源の共有によって共生し合い助け合ってその暮らしをより豊かにしています。

衣食住もまた資源を活用することでつくります。その資源のもとは、自然の他の生き物や存在から得ているものです。当たり前に食べている卵も、またお米もそのどれもが資源でありそれを使うためにはほかの資源の暮らしを保障する必要があるのです。

その仕組みを自覚していた先人たちは、如何に自然が豊かになるか、お互いの豊かさを活かし合っていけばいいかに知恵を絞りました。それが里山循環の仕組みであったり、現在の風土に見合った衣食住の仕組みであったりするのです。

お互いが資源であるからこそ、その資源を大切に活かしきろうとしたのです。私たちの人生も一生も資源を使うことでできています。この身体を使って何をするのか、どう豊かな人生を送るのか。つまりこの貴重な資源の使い道を選択できる自由が一人ひとりにあります。

ある人は、資源を使い私利私欲を満たすためだけに使います。またある人は、それを社会貢献のために使おうとします。本来、貴重な資源を使って私たちは暮らしているのですからその資源がまたほかの資源を豊かにし共生していくことの方が仕合せを感じます。なぜなら、ずっと活かされる存在であり続けることができるからです。

それは言い換えれば永遠のいのちを持っていることを実感できるからでもあります。自分の資源がいただいたもので存在できており、またその資源が子孫や他をずっと活かすためにあると思えるからです。

私たちは資源という見方をすれば、多くの存在の助けによってできた資源です。その資源への恩恵や徳をどのようにお返ししていくか。気づいた人たちはそのために一所懸命にその土地で恩返しをしていきます。それが故郷の資源に還っていくことです。資源を使い消費することばかりを楽しむのではなく、新たな資源を産み出し、その資源でふるさとが豊かになるような取り組みをみんなではじめていくことです。

子どもたちにさらに豊かな資源が譲り遺せるように、真摯に手入れや修繕を通してその意味を伝道していきたいと思います。

 

愛の鞭

現在、コロナウイルスの出現によって人類は今までの生き方を見直す機会に差し掛かっています。もともとコロナウイルスが出る前から、環境問題のことでこのままでは地球の資源が持たないということは騒がれていました。SGDsを含め、なんとか延命措置をしてそのうちになんとか対策を立てようと識者たちも必死に訴えかけてきました。

しかし人間の欲望や欲求は、現代の競争原理に飲み込まれ誰もが損をしたくないと抜け駆けする状態であり止まる気配もありません。コロナウイルスにおいても、ワクチン合戦や経済戦争は白熱するばかりでもはや打つ手がないほどです。

本来、ウイルスは自然界のもので時間が経てば必ず収束するものです。これは自然農をしているからわかるのですが、天敵というものはバランスを保つために現れ、バランスが整ったらまた元の状態に戻っていきます。

地球は常に全体快適になるように、あらゆるものに対して平等な環境を提供します。言い換えれば、「自然と共生する仕組み」で動いています。自然と共生することを拒み、対立して今の価値観を世界に広げてきてここで竟に自然の許容量の限界値に達しているのでしょう。

それでもこのまま突き進むのかということを問われているのがこのコロナウイルスの出来事だと私は感じます。現状では、人類はよほどのことがない限りは抜け駆け競争をやめてまで自然と共生する気配はありません。早々にワクチンを打って経済活動を復活させて何もなかったことのようにしてしまいたいのかもしれません。

しかしそこまでして戻ってきた世界は、また以前と同様に環境破壊を続けて資源を使い尽くすまで消費を繰り返し最後は人間だけ残ってしまうという状態に戻ります。

果たして本当にこれでいいのか、根源的な問題を未解決のままにコロナウイルスをもしも排除できたとしても第二第三の天敵の矢が人類に降り注いでくるのは火を見るよりも明らかです。

だからこそ、私は自然との共生をしながら生きていく道を子どもたちに遺していこうと挑戦をしています。一見そこまで極端にしなくてもと思われるかもしれませんが、極端に見えるのは今の価値観から見たら極端に見えるだけで実際には当たり前のことをやっているだけです。

古いものを手入れしながら修繕し、長持ちして資源を保存しつつ、あらゆる暮らしを都市化されたものに依存せずに足るを知る風土とのつながりの豊かさで味わえるようにする。そして文明の最先端技術を学び、取り入れながら文化とのバランスを保ちながら心穏やかに場を磨いて地球を美してしていく努力を怠らない。

あくまで仮定ですが、もしも聖徳太子がこの時代に生きていたらどうしただろうか。きっと日本の文化、歴史からの知恵、そして自然との共生をしながら適切に文明の恩恵を取り入れ人類の精神性を磨いたように思うのです。自然との共生とは、自然の道であり、かむながらの道のことです。

これを実践し続けることで、地球はより美しい自然を保ち、人類もまたその地球において豊かさの一端を担います。この世の楽園を実現させたはずなのです。

私の直観ですが、コロナウイルスでもここまでということになればこのあとに備える必要を感じます。さらなる天敵が現れ、人類は滅亡の危機を迎えるかもしれません。しかしこれは人類にとっては非常な災難ですが、地球にとってはバランスを保ち、人類が仕合せになるための愛の鞭のようなものなのでしょう。

私は一つのリーダーとして、人と異なる道を往くつもりです。

すべての人類は実験のようなものです。私の一生もまた一つの実験ですから、我が道を切り拓いて子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

自分で考える

人は自立していく上で大切なのは「自分で考える」ということです。この自分で考えるというのは言い換えれば「自分で気づく」という力のことです。人生はあらゆることが自分の中での気づきや発見で彩られていきますから誰かの人生を代わることはできません。

常に自分が自分の人生の主人公になって生きていく必要があるのです。その時、大切なのがこの自分を生きるために、自分で気づく人になるということです。

自分で気づく人というのは、説明が要りません。よく私は変わったことばかりをしているように周囲が見えるようで、またとても遠くのことのために歴史を遡り、損得を度外視して行動していきますから意味不明のことをやっているようにしか感じられないのかもしれません。

その時、説明をするようにいろいろと聞かれますが説明はしても全体のことが伝わるというのはほんのごく一部だけです。その時に、説明がわかりにくいという人もいます。説明ができないからよくないというのです。

確かに人に伝える技術というものを持つことで、わかりやすく誰にでもわかるようにすることは大切です。しかし、それはテレビや報道、記事など、もしくは広告宣伝をする時などにはいいかもしれませんが志や実践、もしくは学ぶということにおいては説明よりも気づくことの方が大切なのです。

気づくというのは、説明は要りません。自分の中で、その実践に近づいていき自らがその本質を掴むために気づくのです。気づくことで、人は真に成長しますし、気づきによって本当のことを掴むことができます。

つまりどんなに説明しても理解できないのは、説明する側の問題ではなく気づく側の問題だということなのです。私は今までの人生で、人生の達人といわれるような一道を究めた人たちに何人かお会いして学びをいただく機会がありました。

その人の説明の仕方がわかるかどうかではなく、どうやって近づこうか、どうしたらこの人の学びの深淵に触れることができるのかと謙虚に気づこうと真摯に取り組んできました。

その人の存在から醸し出される片鱗を感じ取り、言葉にならない実践や生き方などを直観して気づきで近づいてはじめて少しだけ悟りに触れるという具合です。それでも実践してまたお会いすると、気づきの差が観えてさらに学びを深めようとする意欲が高まります。

これを説明してくださいとは言いませんし、わからないのは相手の説明が悪いなどとは決して思うこ思うことはありません。最初から説明してもらおうという学びもないし、そんなに甘えていたら自分で考える力が失われてしまうのです。

今の教育は、なんでも先生や上の人が下の人に教えることが当たり前だということになっています。そして気づくことよりも、教え方がいいとか悪いとか相手のせいにばかりしては自分で気づくことの大切さが伝わっていません。自分の問題だと気づかないくらい、気づくことが失われているともいえます。

畢竟、人生は「気づく」ことができるかどうかで意味が変わります。そして自分で考える喜びや気づくことの仕合せが人生を真に豊かにするのです。

子どもたちのためにも、自ら気づける生き方を伝道していきたいと思います。

持たない豊かさと、磨ける喜び

現在、家に住むのに持ち家とするのか賃貸とするのか、そしてシェアするのかと選択肢が増えてきています。バブル時機から持ち家信仰が広がり、家をもって一人前とされてきましたが実際には家を持つのにローンを組んでそれを支払うために働くという人も多いように思います。

先祖は、家を建てるというのは大変費用も労力もかかりましたから子孫へと家を譲渡していく過程で負担を減らす工夫をしてきました。和の建築が、間取りを自由に換えれるのはその時々で家族構成が変わっていくからでもあります。

現代は住宅事情がかわり、新築を建て続ける仕組みが動いていますから持ち家にせよ賃貸にせよ、すぐに手が出せる仕組みになっています。ただ、簡単に買えるからと買っても家は単なる物の売り買いのようにはいかず、手入れや修繕も必要になります。

車でもそうですが、買って終わりではなく車検をはじめガソリン代、整備代、そのほか、事故に遭遇したときの修理代などを考えると総額は大きくなります。家となると、もっと手間暇も修繕費もかかり維持するのは大変なことです。

住んでいれば、日々に小さな手入れをしますが空き家になってしまえばあっという間に朽ちていきます。人工的に人間が何かをしてつくったものは、どんなものでも必ず手入れしないと朽ちていくのがこの世の道理です。

だから本当は、自分が「持つ」のなら手入れができるかどうかを先に考えなければならないのです。そうでなければ持たない方がまだ手入れが行き届きます。ある一定上の物が増えてしまえば人は手入れすることができなくなり荒廃していきます。

増えないようにすることと、手入れできる範囲で足るを知り持たないようにすることが物を大切にするための心得の一つになるのかもしれません。しかし、持つことは同時に磨いていくことでもあります。いろいろなものが増えて磨けることは仕合せなことでもあります。

掃除ばかりしているように思われますが、手入れの豊かさ、修繕の美しさ、そして大切に甦生させる喜びは寿命が伸びる思いがして格別でもあります。

人類が物を増やさず、分相応の中でも最高の幸福が得られるように暮らしフルネスの実践を楽しんでいきたいと思います。

ご縁かどうかだけ

今、私が住んでいるところは元々は誰かの持ち物だった古い民家です。かつてどのような人たちがここに住みどのような家族があって暮らしをしていたのかは想像することしかできません。しかし不思議ですが、住んでいるとその佇まいから何か余韻のようなものを感じることができます。

それは自分が喜ぶような暮らしをするとき、またはそこに迎え入れたご縁のある方々が来られているとき、また或いは、道具や家を手入れし磨いている時に実感するものです。

この世には本来、まったく縁のない新しいものなどは存在しません。私たちが生まれた以前からあったものを加工して新しくすることはできますがそれはまったく新しいものではなく今まであったものを甦生し組み合わせただけということになります。

大事なことは甦生し組み合わせたということ、つまりご縁を結んだということでしょう。

私はもともとご縁で物事を決断していくタイプです。よく戦略的だとか企画提案がどうこうだと言われますが、先にそんなことを頭で考えているわけではありません。今、来ているご縁に忠実であるだけでそこに真心を尽くしたいと取り組んでいたらアイデアが出て、また運のよい方へ導かれてきただけです。

計算はほとんどしておらず、損得も考えない。ただご縁かどうかだけを忠実に意識しているだけとも言えます。

しかしこの「ご縁かどうかだけ」というのが善いのです。

ほとんどのご縁は、私の場合ですが大変なものばかりです。自分の想定外の出来事や、予想もしなかった苦労が降りかかってきます。それを真に向けて引き受けたら真摯に汗水涙をたらしながら取り組んでいくだけです。

そうすると、時間が経ってみたらそれが自分の本当にやりたかったことだったりすることに気付けます。単に自分がやりたいことは願望であったり、欲望であったりすることもあります。しかし、思っていることが招いてくるのはほとんどはご縁です。

私の場合は一期一会が座右ですから、ご縁から来たものを大切にするという生き方だけであまり自分から先んじてご縁を拡大させていこうとは思わないタイプのようにも思います。

このブログも広めるために書いているのではなく、日々の一期一会のご縁を大切にして引き受けていることを綴って結んでいるだけだとも言えます。

子どもたちに、生き方を譲り残していけるように精進していきたいと思います。

幸福の原点

昨日は、福岡にある自然農のむかしの田んぼで田植えを行いました。ここは無肥料無農薬で、山水をかけ流しているため沢蟹やエビなどの生き物たちがたくさんいます。

今回は神事も兼ねて田植えをしましたから早乙女の衣装も用意して田植え歌も流しつつ執り行いました。この早乙女というのは、世界大百科事典によればこうあります。

「田植に,苗を本田に植える仕事をする女性をいう。ウエメ(植女),ソウトメ,ショトメなどともいう。本来は,田植に際して田の神を祭る特定の女性を指したものと考えられる。かつては田主(たあるじ)の家族の若い女性を家早乙女,内早乙女などと呼びこれにあてたらしい。相互扶助を目的としたゆい組の女性だけを早乙女と呼ぶ例もある。いずれも敬称として用いられている。田植に女性の労働が重んじられたこともあり,しだいに田植に参加する女性すべてを早乙女と呼ぶようになったと思われる。」

また百科事典ペディアによればこうも書かれます。

「田植に従事する女性。古くは植女(うえめ)ともいい,田植女の総称ではなく,田の神に奉仕する特定の女性をさした。田の神を早男(そうとく)と呼ぶのがそれを暗示する。田植は,豊作を祈る祭の日でもあるので,早乙女の服装は地方によって異なるが,普通,紺の単(ひとえ)に赤だすき,白手ぬぐいをかぶって新しい菅笠(すげがさ)をつける。」

この早乙女は古来から里山の「結(ゆい)」の仕組みとセットで存在し、早乙女たちがそれぞれの田んぼに移動しながらみんなの田植えを手伝いながら神事をし田んぼの神様に喜んでいただきながら豊作を祈り、その場の人たちの仲間を集めながら相互扶助の精神を醸成する役割を果たしたようです。

家々の田んぼをみんなで手伝いながら田植えをするために、早乙女たちが家々の田んぼを巡りながらみんなで明るく楽しい時間を過ごしていたことが目に映ります。豊作を信じて、おめでとうございますという声掛けとともに田植え歌のリズムに乗せて手伝いに来た人たちといっしょに家々の田んぼの稲の苗を植えていく。

きっと、稲もみんなで育てる、田んぼもみんなで守るという意識をもって一緒にその場を磨いていたように思います。田植えをしてからは、草とりから畔の手入れ、そして収穫、はさかけ、籾摺り、脱穀、新嘗祭、しめ縄づくり、藁ぶき屋根の補修などさらに一緒に暮らしていく中での協働作業の機会が増えていきます。

お米という字は、八十八の手間暇がかかるという意味でできた漢字だといえますがその手間暇が協働で一緒に暮らすためのものであるのならこれこそが人類の真の豊かさであることがわかります。

物質的な豊かさや金銭的な豊かさとは別に、暮らしを共にして仲間と助け合い見守りあう豊かさは古今の普遍の幸福の原点です。

今年も稲の巡りとともにしながら暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

ふるさとの甦生

私たちは自分たちの「いのち」をいつも見守ってくれている「ふるさと」のことを忘れると、当たり前ではない偉大な「御恩」に気づかなくなっていくものです。今の自分があるのは、御恩の集積の結果でありそれになんとかお返しをしたいと思う心の中にふるさとがあるからです。

今、ふるさとへの恩返しといえばふるさと納税のことなどが言われますが決してふるさとに納税したからといってご恩返しができたということではないと私は思います。一つの手段ですが、かえってそのふるさと納税の問題で村や町が資本主義の影響で荒れてしまいさらにふるさとが消滅していった事例も増えているように思います。

なんでもまず前提に「お金」のことを考える世の中になってから、都市を運営する方法で田舎もやろうとしだしてから田舎の魅力も同時に失われてきたように思います。

本来は、それぞれが個々人でふるさとのために何ができるかをよく考えて取り組んでいくことからはじめることだと私は思います。そのために資金も必要ですが、できるところからはじめていけば仲間が増えてそのうちふるさとが喜び、人も喜び、御恩も喜んでいくように思います。

そのふるさとへの御恩返しにおいて、もっとも大切なことは「魅力」を磨きなおすことです。これは、そこに住む人たちができることですし、ふるさとに戻ってきた人、もしくはそこを新たなふるさとにしようと移住する人たちでもできることです。

それは、その場所の単なる過去の栄光や遺跡を自慢することではありません。もしくは、なんとなく目新しいものや人気があるもの、流行のものを出すことが魅力ではありません。

魅力とは徳を磨いていくことで発揮されるものです。そもそもこの徳と魅力は似ているところがあります。そのままでは魅力は輝くことはありません、あくまで磨いていくことで魅力は高まって光っていきます。

「あなたは自分のふるさとの魅力を磨いていますか?」 そして、「あなたは自分自身の魅力を磨きましたか?」

この二つの問いだけで、私たちは徳というものの存在やふるさとへの御恩返しにつながっていくと私は感じているのです。その場所を、今までよりももっと素晴らしい場所にしていく。もしくは自分の徳を磨き、子孫たちにその徳をもっと素晴らしいものにして譲渡していく。

与えられたものに不満を言ったり、不足を嘆くのではなく磨くのです。それは足るを知り、あなたにしか与えられていないたった一つの天与の道を磨くのです。そうすることが、ふるさとへの御恩返しになるのです。

実際、毎日のように見学者が来て話を聴きにきて説明しますが私が取り組んでいることは実は誰にでもできることです。ふるさとのことを愛する心は、感謝に生きる心でもあります。その心をもっている人は豊かであり仕合せです。その仕合せが末永く継続できるように私たちはふるさとへ御恩返ししていく必要があります。それが子どもたちの仕合せな未来への約束でもあります。

仕事でやることではなく、心をもって魅力を磨くことは個々人でできるのです。

みんなでそうやってふるさとを磨いていけば、光り輝き出したふるさとを観て元氣になっていく人たちが増えていきます。ふるさとが甦生すれば、その土地だけではなく人々も元氣になっていくのです。

日本が元氣になれば世界も元氣になります。

元氣になれば、人間は足るを知り自然との共生のすばらしさ、平和の美しさ、本物や伝統文化の価値を実感しなおすことができます。

引き続き、この場からふるさとの甦生を楽しんでいきたいと思います。

 

暮らしの習慣

一般的なスケジュール(予定)とは別にルーティン(習慣)というものがあります。スケジュールは、決められたものを計画通りに実行していくことをいいますが習慣は暮らしの中で取り組む繰り返しの実践のような位置づけで用いられます。

ルーティン(習慣)を持っている人は、そこに一つのリズムも持っています。毎日を整えていくための一つとしてこの習慣を大切にすることはとても重要なことだと思います。

例えば、私はこのブログを毎朝欠かさず書いています。前の日、もしくは直前までに振り返りをし日々を省みてそこから気づいたことや発見したことを深めたり実践を磨いています。日々に取り組むことで、毎日のリズムができ同時に意識を磨いていくことができています。

この意識には、変化というものを捉えるというものもあります。同じことを徹底的に磨き続けることで前のこととは異なっているものの発見がたくさんあります。同じことをしていても決して同じことは起きることはなく、必ず何らかの変化を感じ取ることができます。

このブログの場合は、以前と同じテーマで書いているのにも関わらず10年前の記事と今書く記事では内容が同じでも表現の仕方や理解の深さ、また言葉の磨き方が変わってしまっています。自分でそこではじめて、日々のルーティン(習慣)によって磨かれたということを実感するのです。

私たちはルーティンを通して自分を磨いていくことができます、別の言い方をすると暮らしの習慣によって自分を変えていくことができるということです。理想の自分、目指している姿に近づけていくためにどのようなルーティンを暮らしの中で実現するのかを決める必要があります。

ここでのどんな暮らしをしていくのかは、つまりどんな自分をつくっていくのかと同義語ということでしょう。

暮らしフルネス™は、この自分を磨いていくための実践をどう豊かなもので満たしていくかということでもあります。足るを知る暮らしのルーティン、自然と共生するルーティン、自分を整えていくためのルーティン、あらゆるルーティン(習慣)は私たちの人生を深く支えているのでしょう。

本物の変化は小さなルーティンの積み重ねと磨き合いによって起こります。これから新しくはじめる新たなルーティンが子どもたちの未来をより豊かにしていくように祈りつつ行動を開始していきたいと思います。

 

 

ご縁に導かれるということ

人はご縁に導かれて人生を歩んでいくものです。しかし実際に日常を生きていると、そのつながりを感じる間もないほどに多くの出会いがあり別れがあり日々は前進していきますから感じにくいものです。

例えば、ある出会いがないと次の出会いにつながらないということはみんな体験しているものです。不思議なもので、出会った人が次の出会いと深い関係性を持っています。それと直観のいい人は、感覚的に察知してご縁を大切にしていくのです。すると、早ければすぐに、遅くても数年後には一緒にそのご縁を活かしあうような出来事や物語とつながっていきます。

私は直観が鋭い方かもしれませんが、気になるご縁を先に感知していきます。何かその人との未来が実感するものがあるのです。頭では考えられないかもしれませんが、心が感応して不思議なご縁を感じていきます。このご縁は別に自分に対してメリットとかデメリットがとかではなく「ご縁がある」と感じるものです。

そう考えてみると、ご縁があるとはご縁に導かれ続けることに委ね続けるということでしょう。ご縁があるのはその時、その場所、その組み合わせでなければならず、まさに絶妙に一期一会にご縁を結び合うのです。それがお互いのいのちや魂に深い影響を与えてさらにこの世で大切な役割を果たすための触媒になっていくのです。

仏教でいう山川草木悉皆成仏というのでしょうか。みんなが触媒となってお互いに深い関係を結んでいくという世界。これが私たちのいのちの仕組みということなのでしょう。だからこそ、ご縁というものを感じることが何よりも大切なのです。自分が知らず知らずのうちに与えたご縁がその人にとっての深いご縁になり世界がまた変わっていく。逆に、与えられたご縁によって自分の世界が変わり、そのことを触媒としてまた別の世界に導かれていく。

だからこそ私たちはご縁を大切に人生を生き切る必要があるのです。

私も、この数年で出会う人も語り合う話も、具体的な関わりも大きく変化してきました。ここからまた新たなご縁が深まり始めています。二度とないこのご縁を大切に導かれていきたいと思います。