歴史の教訓

何かのご縁から歴史の後を辿ってみると今まで知らなかったことがたくさん掘り起こされてきます。むかし何があったのか、そしてどうして今こうなったのか。そのプロセスを学ぶ中にこそ、今の世の中で何を大切に生きていけばいいかという教訓や智慧なども学び直すことができます。

先日、福岡県添田町の英彦山にある銅の鳥居にご縁がありその力強い文字に深く魅せられました。これを洪浩然(号は雲海)が書かれたものです。この人物は文禄の役の際の被虜朝鮮人として12才のとき、鍋島直茂により、慶尚道 晋州から佐賀まで連れてこられた方です。その後、京都五山で学問を修めたのち、初代佐賀藩主 鍋島勝茂に仕えました。

明暦3年(1657)3月24日、鍋島勝茂が江戸で没したその報を受けて4月8日、洪浩然は上今宿の自邸で「忍 忍則心之宝 不忍身之殃」と揮毫し、子孫への遺訓として子に与え、阿弥陀寺で追腹を切って亡くなったとあります。この追腹とは主君を追って切腹することです。今では考えられないことかもしれませんが、大義のために自分を盡し主従一体の忠を生きた時代の価値観がなしたことかもしれません。

この洪浩然は朝鮮から連れて来られはしたものの一生をかけて大変な人生を歩んでいくなかで、この不遇不運の人生の中でも何を大切に生きていけば仕合せであるかを子孫たちに生きていくための「書」として絶筆を遺します。力強い文字の中に、人生を翻弄されても大切なものは「忍ぶ心」によって活かされたというのです。思い通りにいかない人生の中で、最期までに忍耐を貫いた生き方が観えてきます。

もともとこういう生き方の方だからこそ、鳥居の境界の文に相応しいと感じます。もともと鳥居は、神聖な場所(神域)と、外側の人間の暮らす場所(俗界)との境界を顕すといいます。そして神域に不浄なものが入ることを防ぐ、結界としての役割もあるといわれます。

吉野山にも銅の鳥居がありそこの扁額には「発心門」と書かれ修験者は鳥居に手を触れ「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山するといいます。

きっと英彦山も銅の鳥居もまたここに手をかけて、弥陀の浄土に入るぞうれしきと唱えていたのでしょう。

歴史は、そのものが教訓であり智慧そのものです。子孫たちにどのような願いで文字を刻むのか、そして伝えていくのか、まだまだ学ぶことばかりです。

徳を磨くチャンス

徳積堂が間もなく始動するにあたり、初心を確認する機会が増えています。自己との対話を通して、改めて心の調整を丁寧に紡いでいく毎日です。

徳というものの正体は、なかなか現代では伝わりにくく構想だけを話すとすぐに感謝ポイントや恩返しシステムなどと脳が判断できるもので理解されていきます。私はもともと実践を重視するタイプですが、世の中に現代の言葉で甦生し、今なら何をすれば徳を積めるのかの具体的な事例を伝え、仲間や同志たちと一緒にその豊かさを伝道していきたいと取り組む中で様々な葛藤も生まれます。

特に親しい人や、尊敬できる人たち、また親切な方々になかなか伝わらないときは時機ではないのではないかや、これで本当に良かったのかと自問自答することもあり、その時は静かに元の場所に回帰して徳についてまた自分なりの整理をしていきます。

目に見えないものを語るとき、現代ではそれは宗教の類であると分類わけられます。しかし、この世の中はご縁も同様に目には観えない「つながり」によって存在や関係が結ばれているものです。そしてその空間的にも歴史的にも深く結ばれた縁起によって私たちは自分の道を体験していくことができています。

徳というものもまた中庸であり、実態はわかるようでわからないものです。今朝がた、また整理しているとふと常岡一郎さんのことを思い出しました。この方もまた、徳を積み、自分を磨き切った人生を送られた方でした。同じ福岡県出身の方です。こういう言葉があります。

「徳と毒はよくにている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒が薬ということばもあるではないか。毒になることでも、そのにごりを取れば、徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引きうけるなら辛いことほど徳になる。」

「とく」に濁点が入ることで、「どく」ともなる。多少の毒は薬になり、良薬苦しともいえる。何も毒がないものは徳にもならない可能性もある。大事なことは、その毒の濁りを洗い清め禊ぎ祓い、徳にしていけばいいのである。最初から毒だからと避けて清らかなところにだけいてもそれは徳にはならないものかもしれません。泥沼の中の美しい蓮のように、私たちにとって大事なことはただ清らかなところで善いことをすればいいのではなく、それがたとえ自分にとっては苦労であっても勇んで訪れてきたご縁に素直な心で取り組んでいくこと。やりたいことのためにやりたくないことを我慢するのではなく、やりたくないこともまた喜んで勇んで引き受ける。あらゆる我執をも手放して、濁った心を見つめてそれを磨いて光らせる正直な想いで引き受けて至善に転換していく。そういう取り組む姿勢や実践の積み重ねによって感謝と歓喜が湧いてきてこそ徳になるのだと。つまり、毒を自分の身体を通して徳にしようという祈りの心の中にこそ徳を醸成する要諦があるということなのでしょう。

これは私の意訳ですから文章をどうとるかは、それぞれの人の解釈ですが徳積みとは禍を転じて福にすることであり、故事の人間万事塞翁が馬のような生き方をするときに出会えるものだと私は思います。つまり素直さこそが明るさであり、その明るさによって濾過されたものが人々の幸福を増やしていくのです。

初心は常に子どもたちの未来のために取り組んでいますから、すべてのご縁を活かし徳を磨くチャンスに換えていきたいと思います。

暮らしのリズム

暮らしのリズムというものがあります。これは単に、自分の生活リズムのことを言うのではありません。この暮らしのリズムは、自然と調和するリズムのことです。暮らしフルネスではこの暮らしのリズムを中心に据えています。

例えば、私は伝統的な高菜漬けをつくっています。高菜をつくるためには、まず種どりをしなければなりません。今の時期は、花が咲いています。菜の花ですが、高菜はその名の通り高く伸びて花を咲かせます。私の背丈ほどの高さまで伸びていき花が咲きます。

その花が梅雨前には種になり、その種を採取して秋の風が吹き始めるまで冷暗所で保存します。その後は、秋に種を蒔き冬の間に育つのを見守り桜の花が咲く前によく育った高菜を根っこだけ残して新芽が出る前に収穫をします。あとは先ほどの花が咲き種を取る分だけを残しておきます。

そこから高菜漬けに入るのですが、収穫したものをよく天日干しをし仮漬けをします。この仮漬けは塩をまぶして重しを載せて1週間ほど水に漬かるまで丁寧に漬物石と塩を調整します。その後は、本漬けといって杉樽にまた塩をまぶし、ウコンを混ぜて漬けていきます。すると秋前には漬かった高菜漬けを食べ始めることができます。冬の貴重な食糧であり、ご飯がとてもすすみます。

暮らしのリズムというのはこのように、自然のリズムに合わせること、そしてそれを具体的に私たちの身体に取り込んでいくリズムの和合によって成り立ちます。まず、土に触れ、植物の一生にかかわること。そのうえで、それを上手に取り込むために自然の生き物、ここでは発酵ですから微生物のめぐりにかかわること。それらの自然物との一生とつながりながら生きていくこと。

これが私の言う、暮らしフルネスでの暮らしのリズムを言います。

現代人は、暮らしのリズムがなくなってきました。簡単に買い、自然とも触れず、自分たちの都合でリズムを組み立てます。そうすることで、季節感もなくなり、巡りも歪になり、生活リズムも整うことがありません。これでは、自然の無限の恩恵を授かることができなくなりその分、またお金を使って無理をしてととのうための試行錯誤ばかりをしなければなりません。

ととのうのにサウナも流行っていますが、私はサウナはあくまで一時的にととのう環境を与えますが暮らしが整わなければ結局はまた同じことの繰り返しでお金と時間ばかりを使い調和することが難しくなります。

私が石風呂を使うのは、一時的に五感の調和をととのえるのですが本来はそこから暮らしに導入させていく必要があると思っているのです。暮らしのリズムをととのっていくためには、自然と一体になった暮らしの中に入りながら日々の人間社会での生活を味わう環境をととのえていく必要があります。

そこで私は「場」を用意し、暮らしフルネスの体験からそれに気づき改善する環境を提案しているということです。暮らしのリズムは、暮らしフルネスにとって大事な要素です。

引き続き、子どもたちが暮らしのリズムで生きる仕合せや喜びが実感できるように丁寧に自分のいるこの場を整え続けていきたいと思います。

 

徳積堂カフェの理念

人道という言葉があります。今はあまり何が人道なのかということを今は議論されることがなくなっています。なので人道の定義も人それぞれで曖昧です。逆に、外道という言葉もあります。人として道を外れることをいいますが、一般的に法律に逆らうことや罪を犯したときに使われます。

しかし人間が法律をつくっている場合、それを破るから人道に反したとは言えないこともあるように思います。歴史を省みればすぐに自明しますが人間は多数派や権力者によって法を操作することができるからです。人間の都合で法と言ってしまっても、それは自然界では通用しないものがほとんどです。

ここで「自然」という一つの真理と基準を設けてみて考えてみるとどうでしょうか。すると一つの境地が観えてみます。その境地を会得し自然に精通しながら人の道を説いた日本の偉人に二宮尊徳がいます。

二宮尊徳は、天道と人道はここで別ものであるとはっきりとこう説きました。

「天の理とは、たとえば春は生じ、秋は枯れ、火は乾いたところにつき、水は低いところに流れる、というように毎日常に変わらないことだが、それに対して、人の道とは、毎日人の力を尽し、保護して出来上がる。従って、人の道は、天道の自然に任せておけば、たちまち廃れてしまって行われなくなってしまう。だから人道というのは、情欲に心が支配されるときは成り立たないものである。」

自然は自然で道理があり、道理そのもので道理に反することがない。しかし人はそこに逆らっているのだから自然に従ってしまえばたちまち人道はなくなってしまうのだと。

つまり人の道とは、この天道といわれる自然の中でいかに人間の世界が安心して暮らしていけるように日々「修繕」(手入れ)を続けるかだということを言うのです。例えば、そのまま何もせずに自然にしていたら天の道によって建物も作物もみんな自然淘汰されてそのうちもとの土に還っていくのでしょう。そうならないのは、人間がそこに修繕や手入れをしていくからいつまでもその建物も作物もなくならずに徳が循環されその恩恵享受され維持されるというのです。

さらにこうも言います。

「人道は物を修繕するの途(みち)なり。之を怠れば法の無き昔に帰る。是即ち禽獣なり。」

つまり真の法とは人間が自然の中で生きていくための人道であるのです。そしてその方法は「修繕」にこそあると何度もいいます。確かに人間が何の修繕もしなくなり人間が好き勝手に情欲にまかせてやりたい放題に生きていたらそのうちすべては土に還っていき人間もまたそのうちいなくなっていきます。

人類は「人としてのお手入れ」をし続けることで、この世をいつまでも美しく平和に保ちこの世で自由な存在として許されていきます。利他であることも、幸福であることも原点はすべてこの「修繕」からはじまります。修繕はまさに徳の循環そのものになるのです。

徳積堂カフェがまもなくオープンしますが、この場は人道を尊び、徳循環をするための社会実験場として挑戦をはじめます。その理念のシンボルとして、手入れ修繕したものに囲まれ、徳を実感できる仕組みが体験できるようになっています。

子どもたちのためにも、徳を循環させ人がいつまでもこの世で平和に仕合せに生き続けることができるようにこの場所から世界を易えていきたいと思います。

 

つないでいく貴重な存在

私たちは先人たちが譲ってくださったもので生活を営んでいくことができます。それは例えば、土地、家、環境、使っている道具、田畑や食料、また生活文化などもすべて先人が子孫に譲り遺してくださったものです。

発明品なども同様に、先人が知恵を絞り発明したからこそ私たちはそれを今も活用することができています。エネルギーなどの電気や石油もまた、発明されたものの一つです。

当たり前に私たちは使っているもののほとんどが、先人たちが譲り遺してくださったものです。それをどう大切にして、また同様に私たちは次世代へとつないでいくのか。これは先人の知恵の恩恵に触れる人たちを中心に行われていきます。

伝統職人たちは、まさに先人の知恵の伝承者でもあります。左官をはじめ、刀鍛冶、また鰹節職人などもこれらの先人の知恵を学び続けています。いくらその時代に世の中に必要とされなくなったとしても、その知恵は非常に大切なものなのでそれを次世代へと渡さなければなりません。

時代がまたそれを必要とする日が必ず来ますから、その技術の継承は重要なのです。

そう考えてみると、歴史の中では何度も失われそうになったことがあるように思います。例えば、戦乱で滅亡したり、或いは疫病が流行り、また或いは飢饉があったりして人口が減り伝承できない状態になったこともあるように思うのです。

それでも今でも遺された先人の知恵に触れるときに、私はそれまでつないできてくださった方々の有難い存在と恩恵を深く感じます。よくぞ、ここまでつないでくださったという具合にです。

私たちの体も本当は同様に先祖や先人たちがずっと子どもを育て見守りつないできた存在です。よくぞ私までつないでくださったと実感するのです。そういう実感が感謝になり、同様につないでいこうという気持ちになるのです。

私が取り組んでいる甦生は、単なる現代に適応できるように温故知新することだけではありません。甦生はつなげていくことであり、感謝の伝承を結んでいくことでもあるのです。

子どもたちが未来に、これらの先人の徳がしっかりと譲られていけるように私がやれることを命を懸けて取り組み、仲間や同志を集めていきたいと思います。

藁ぶき古民家の土壁の解体と再生

昨日、藁ぶき古民家の甦生で土壁の解体をしましたが中から百数十年前の竹小舞が出てきました。この竹小舞とは、土壁の下地に使う細い竹のことをいいます。 土壁の下地のことを小舞といい、竹で格子状に編み込んで構成します。

この小舞の下地は法隆寺の建立の時代から存在し、竹が小舞として使われるのは鎌倉時代以降だといわれます。正確には、この壁の工法は「竹小舞下地壁」といいます。

この竹小舞に使う土を荒壁土といいます。これは良質の荒木田土に押し切りで切った藁を混ぜ練った物を寝かして発酵させたものを使います。ほとんどの藁は溶けていきますがこの発酵することによって強度も増えますし持ちもよくなります。そして出来上がった土にさらに藁を足して練り込んで塗り込んでいきます。

実はこの荒土壁は、何度も何度も再生することができます。例えば、500年の古民家であればいろいろな風雨によって傷んでもまた解体して混ぜて発酵させて塗り込めば元通りです。永遠に再生可能な材料によって家が保たれています。

またその土壁の中の竹だから腐らずに傷まずに朽ちずに使い続けることができます。先人の知恵は偉大で、現在では持続可能などと叫ばれていますがむかしはそもそも永遠であることが当たり前だったのです。

地球に住んでいるものたちは、常に循環するものを観続けてきました。ちゃんと廻ってくるものの邪魔をせずに自然の恩恵を享受されていました。現代は、消費文明ですから捨てるものばかりつくり、再生できないものばかりを流通させています。

本来のこの日本の土壁の再生から学ぶことが多いと私は思います。この土は、田んぼの土や河川などの粘土質で発酵するもの。藁も発酵を促していくものです。発酵する技術があることで、いつまでも腐敗やカビなどが発生せずに家が長持ちします。

漆喰もアルカリ性ですからカビが生えません。この辺も先人の知恵で、高温多湿の日本の風土では水が澱むことを厳禁にしていました。なので、風水を重んじ、古民家周辺の地域も風がよく通り、水がちゃんと流れるように設計して配置されていました。まさに澱まない仕組みと智慧で環境を構成していたのです。

今回、この荒壁の土をまた再生してひび割れや壊れた場所を補正していきます。そしてまたいつかこの古民家を再生するとき、子孫たちは私たちがどのように再生したのかを観て家が大事にされていることを知るように思います。

こうやって言葉だけではなく、先人の生き方で私たちは文化を伝承してきたように思います。子どもたちのためにも、今の自分たちが譲り遺していきたい未来を丁寧に紡いでいきたいと思います。

ブロックチェーンと徳

現在、ブロックチェーンをつかって新しい取り組みをはじめています。世の中ではビットコインなどの暗号化技術に使われていることで有名ですがシンプルにいえば改ざんできない台帳というイメージが近いように思います。

用意に改ざんできませんから、それだけ信用や信頼を提供するものということです。これからこの技術を用いて何が生まれるかは、社会の変化に合わせてアイデアをそれぞれが出していきますから確かにこれからの未来に大きな影響を与える技術であることは間違いありません。

特に新しい経済の在り方においては、でこの技術が使われる可能性を秘めています。現在は成熟期に入っていますから、この辺でまた原点回帰していく必要があります。歴史は何度も原点回帰をしながららせん状に発達していきますから経済も社会もこれからまた原点回帰がはじまるのです。

例えば、通貨の原点回帰とは何か。もともと通貨が必要になったのは物々交換の中でその時に交換できるものがない場合に、のちの信用の証として貝を交換したことが通貨のはじまりともいわれます。そこから貝貨という貝殻を用いた貨幣が誕生しました。 特にタカラガイは豊産、繁栄、再生、富などを象徴し、キイロダカラとハナビラダカラなどが使われました。

お祈りで私たちが手を合わせるのも、貝を合わせるところから来ているともいいます。日本でもハマグリなどが縁起物として使われますが、これも必ずぴったりと合いますから間違いない証として用いられました。

実は改ざんできないという意味は、このぴったりと合致するというところから嘘偽りのなく信用・信頼できますという証明の仕組みを顕しているのです。そこから、私たちは貝が紙幣に変わり今では通貨を用いて経済も社会も発展させていったのです。

しかし現代はどうなっているのか。

地球何個分が買えるほどの紙幣を発行し、今の世界は通貨であふれかえっています。これでもかと通貨を発行しては、嘘偽りの状態で事実と異なる状態で混乱を極めています。物々交換でいえば、交換できる資源がもうなくなっているのに貝殻だけはたくさん渡していつか交換すると先送りしているような状況なのです。

その貝殻がもしも証明できる価値がなくなってしまえば、物々交換はできませんからそこですべてゴミのように溢れかえります。現在の環境問題と同様に先送りして延命治療をするだけをしていてもいつかは必ず終焉を迎えます。そうならないように、私たちは原点回帰してもう一度、原初の初心に立ち返る必要があるのです。

私はそれをブロックチェーン技術を用い実現しようとしています。

具体的には、むかしの人たちの智慧の一つである「天の蔵に徳を積む」という考え方を用いるのです。これは私たちは等価交換という評価によって今の社会を動かしていますが、実際にこの世の中には等価交換できないものも同時に発生しています。

それが「陰徳」というものです。この陰徳は、私たちはお祈りをするのと同じで直接的には見返りがありません。しかし間接的に、また全体的にその祈りは別のかたちになって縁起を結んでいきます。つまり、そこで使われている対価は別の大きな場所へと転換されて移動していくのです。

むかしは蔵といえば、今でいう銀行です。銀行にはお金しかいきませんが、本来は天の銀行のようなものがありそこにお金では換算できないものが貯められているということを信じていました。

実は本来の信用・信頼の社会というものは、人徳というものが重要でした。信頼でき信用できる人だからこそ、その人に託したりその人の願いを適える絆を持ったのです。人は信用・信頼しあうことでここまで発展をしてきた民族です。その民族が、急速に欲望に負けてその徳を荒廃させていったのはこの通貨という道具を単なるモノとして扱っていったからです。もしくは使えなくなったものをゴミとして捨てるところが影響なのです。

私はブロックチェーンによって、徳循環の世の中を甦生させていこうと思い「BA」(ブロックチェーンアウェイクニング)を設立しました。先人の智慧と現代の最先端を用い、温故知新した原点貝貨としての役割を持つものをこれから発明していきます。

子どもたちの未来に、延命治療ではなく根源治癒が働くようにこの「場」から挑戦をしていきたいと思います。興味があり賛同する仲間をこの「BA」に集めていきたいと思います。

健康第一義

人は健康でなければ、何をやっても楽しくはありません。健康とは、身体だけに限らず、心や精神の健康もあります。つまり健康とは全体調和してバランスが取れている状態であり、すべてがととのい落ち着いて和合している状態のことです。

まるで穏やかな日和で心地よさを感じて仕合せを味わうように、すべてが調和して平和を感じて味わうとき私たちは健康のありがたさを感じます。調和が健康というのは、人間であれば必ず体験したことがあると思います。

常に今の状態をよく観察して変化に合わせて自分を調和しととのえていくこと。これは暮らしをととのえていく中で磨かれていくものです。もちろんサウナなどでととのうこともありますが、それは現代社会の過酷なスピード社会の中での一時的なととのいであり、本来は恒久的に暮らしを楽しみ、味わい、すべてが調和し続けるようであることが本当の意味でととのうことになるのでしょう。

そのためにはまずは、私たちは生老病死といった逃れなれないものと常に調和していく必要がありますから常に気を付ける必要があります。私も最近は、老いを実感することが多くなり、老いのことについて向き合うことも増えています。

江戸時代の俳人、国学者でもあり武士でもあった「横井也有(よこいやゆう)」という人物がいます。この人が記した、健康十訓はずっと健康で長生きするときの参考になったといいます。少し紹介すると、

『健康十訓』
一.少肉多菜(肉を控えて野菜を多く摂りましょう。)
二.少塩多酢(塩分を控えて酢を多く摂りましょう。)
三.少糖多果(砂糖を控えて果物を多く摂りましょう。)
四.少食多噛(満腹になるまで食べずよく噛んで食べましょう。)
五.少衣多浴(厚着を控えて日光浴し風呂に入りましょう。)
六.少車多走(車ばかり乗らず自分の脚で歩きましょう。)
七.少憂多眠(くよくよせずたくさん眠りましょう。)
八.少憤多笑(いらいら怒らず朗らかに笑いましょう。)
九.少言多行(文句ばかり言わずにまずは実行しましょう。)
十.少欲多施(自身の欲望を控え周りの人々に尽くしましょう。)

とあります。まさに、日々の暮らしをととのえるために何を気を付けて生きていけばいいのかを記しています。今でも、この真理は変わっていません。私たちの心と体と精神の健康は、常にこの日々の手入れにこそあります。お借りして滞在しているこの自分をどう丁寧に手入れしながら活用していくか、これはすべての人類の課題ですから学ぶことばかりです。きっと江戸時代の人も、わかってはいるけれどつい欲に任せて生活することで病気になり不健康になったのでしょう。

人間はつい調子にのってしまいますから、若い時はできても歳をとるとそうはいかなくなるものです。老いと向き合うことが増えると、当たり前ではなかった健康と向き合い感謝することが増えますから歳をとることもまた素晴らしいことだと感じます。

最後に、この横井也有のこの言葉で締めくくります。

「老は忘るべし。又老は忘るべからず。」

歳をとって老いていくことは気にせずに情熱と気力を充実させていく暮らしをしながらも、老いていくことは忘れずに丁寧な暮らしを通してととのえていくのですよと。

300年前の人の格言ですが、心に沁みます。子どもたちのためにも、暮らしの実践を伝承していきたいと思います。

心の原風景と枯山水

現在、徳積堂カフェの庭園の枯山水に取り掛かっていますがここは甦生中の藁ぶき古民家で使わなくなった石を運んで配置し造園しています。この枯山水とは、日本庭園や日本画の様式のことをいいます。

枯山水は水のない庭のことで池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式となっています。具体的には白砂や小石を敷いて水面に見立ててます。橋が架かっていればその下は水が流れているという具合です。石の表面の模様で水の流れを表現しています。

聴福庵の庭にも、枯山水を参考に白川砂利をいれて落ち着いた川の流れを表現しています。これは心の世界をととのえて静寂を楽しむための工夫にもなっています。

この枯山水のはじまりは日本に中国から禅宗が伝えられ、鎌倉時代に本格的に広まり、日本に最初の本格的枯山水が京都の禅寺・西芳寺に禅僧・夢窓疎石(むそう・そせき)によってつくられたことで有名です。

様式には、平庭式といって平らな庭に造られた枯山水。準平庭式といって平庭式に小高い山を加えた枯山水。また築山式といって斜面を生かして作られた枯山水。枯池式といった石を組んで池を表現した枯山水。枯流れ式といった小石や砂で水の流れを表現した枯山水。他にも特殊な枯山水があります。

今回、私が手掛ける分は築山式と彼流れ式、準平庭式などを組み合わせた特殊な枯山水になります。

そもそも枯山水は、ある心の情景を石で表現します。石は変化の中で形が変わっていかないところから古代の人たちは普遍的なものや永遠・永久の存在だとして崇めてきました。

その石が創り出し、織りなす姿は心の原風景をこの世に顕現させるものです。

苔との相性がいいのもまた、悠久の時を共にある存在だからかもしれません。私は徳積堂は、徳を実践する場として建立しましたがこの庭にはその徳を実感できるものにしようと思っています。

時代が変化しても、変わらないものがある。

その変わらないものの悠久の歴史や偉大な存在に徳のもつ畏敬を感じます。子どもたちにその意味を伝承していけるように丹精を込めて取り掛かっていきたいと思います。

 

神さびた道の甦生

昨日、写真家のエバレットブラウンさんと一緒に英彦山の玉屋神社に参拝するご縁がありました。水害もあって参道はだいぶ傷んでいましたがかつての修験道の山伏たちが歩いた道ですから終始神さびた感じの神秘的な時間を過ごすことができました。

苔むしている巨石群、そして美しく清らかな水の流れとせせらぎ、神域を感じながらあるいているとそこにかんながらの道が続いていることを実感します。

法螺貝を立てては歩き、ただ自然の中に心を研ぎ澄ませていると悠久の時間の流れを感じるものです。そういえば、子どものころにこのような神秘的な場所で別の何か偉大な空間が今居る場所に存在していることを何度も実感したことがありました。

目に見える景色とは別の何か、心でしか観えない景色が同じ場所に広がっている感覚のことです。

例えば、私たちは人間中心の世の中に生きていて物事のとらえ方一つ人間の物差しだけで見えています。動物側からこの世をみたら人間はどう見えるのか、他にも虫たちや植物たちからみたらどう見えるのか。さらに古代からの時の流や先人たちから見たら今がどう見えるのか。自分からしかない主観の世界の逆は客観的な世界だけではありません。そこには絶対的な世界というものがあるように思います。

この絶対的な世界というものは、宇宙のようなものです。

私たちは宇宙の中に存在して宇宙の一部として暮らしています。その宇宙には私たちとは別の時空や次元をもっていて常に宇宙から見た世界が広がっています。その宇宙から見た世界から今ここを眺めてみると先ほどのような神秘的な神さびた世界が広がっているのです。

私たちは本来、その宇宙と交信をし宇宙からの智慧を授かってこの世に存在しています。そういうものを感受していたのがかつての山伏たちでもあり、修験の奥深さではないかと私は思います。

一つの体験をどの次元で味わうのか、そしてそれをどう感受し暮らしに活かすのか。

この道を学び知るのは、その絶対的な世界に触れるとこからはじまるように思います。現代人たちが目先の世界に囚われて忘れがちな本来の神さびた道を甦生させていきたいと思います。