お山の意志

昨日から京都の鞍馬山に来ています。私の人生においてこの鞍馬山との出会いは大変に大きく、人生の方向性を決めてくれた出会いであったのは間違いありません。

このお山は、日本の中でも私が深く敬愛するお山の一つであり自然の原型や原点がそのままに存在しているお山です。自然の原型というものは、自然のはじまりともいいます。いわばお山こそ、いのちの母であり、父です。そのお山からいのちの存在そのものを学び、私たちは自らを真に活かす道を学びます。

この鞍馬山といえば牛若丸に兵法を授けたといわれる天狗「魔王大僧正」が有名です。後に日本の八天狗に数えられた大天狗である「鞍馬山僧正坊」、もしくは魔王大僧正の配下が鞍馬山僧正坊であるとも言われるものです。

鞍馬山にある鞍馬寺の縁起は、奈良時代に艱難辛苦の末に唐から日本に渡り帰化した僧である鑑真の弟子・鑑禎(がんてい)が、ある夜に山城国の北方に霊山があると告げられる霊夢を見ます。鑑禎がその霊山を訪ねて行くと、山の上に宝の鞍を載せた白馬が見え、そこが鞍馬山でした。鞍馬山に入った鑑禎は女の姿をした鬼に襲われ殺されそうになりますが、そこに枯れた古木が倒れてきて鬼はつぶされ助かります。翌朝、そこには毘沙門天の木造があったことから、ここに毘沙門天を祀る鞍馬寺を建立したといいます。

鞍馬寺がはじまるずっと以前から、このお山は不思議な意志をもって働いているように思います。私たちが信仰するお山というものは、お山自体が一つの生命体であり、意志があるように思います。

日本の霊山の数々には、そのお山の持つ使命や個性があり今でも私たちを見守り導く存在です。私たちの先祖は、お山に入りお山から学びその教えを人類の道しるべとして下山し人々へ指導してきました。

私たちの先祖は山のことを単なる山とは思わず、お山であると尊敬し、お山を尊び、お山から得た様々なインスピレーションを生き方にまで昇華させていったのです。お山には、悠久の自然があり、雄大ないのちの循環があります。

短いスパンでだけ物事を考えて、目の前のことばかりに忙殺されているような日々において人間は時折、悠久の流れや自然の歴史を忘れてしまいます。どうでもいい些事に追われて大切な一度きりの人生やいのちを使い切ることを忘れてしまいます。

私たちはお山に入ることで、何か忘れてはならない大切なことを思い出し学び直すように思います。登山ではなく、まさに山人合一の境地に入るということでしょう。

鞍馬は、魔王尊がご鎮座するお山として「クラ+マ」というのではないかと思います。魔王とは、地球のいのちのことでしょう。地球のいのちの根源を感じるこのお山にくれば、自然に太陽な月の存在を身近に感じます。

三位一体の遺志を持つ、この鞍馬山から私は何よりも深い地球人として生き方を学びました。

「月のように美しく、太陽のようにあたたかく、地球のようにちからづよく」

まさにいのちの姿そのもの、尊天のままであることをお山で感じます。このお山で学んだことを、下山し人類の未来に向けて伝道していきたいと思います。

ご縁を大切にする人たち

目に見えないつながりというものが観える人たちがいます。この人たちは、ほとんど目には観えない方のつながり方だけを観て物事を判断していきます。言い換えれば、ご縁を大切にして生きている人たちです。

ご縁というものは、目に見えない糸のようなものです。同じ糸を手繰り寄せていきながら、みんな引き寄せられていきます。一見、何も関係がないように思えてみても実は大きな意味があります。それを知るには、悠久の時が必要です。しかしその悠久の時を味わいながら生きる人たちがいます。まさにこれもご縁を大切にする人たちです。

また一期一会といって、今此処この瞬間のみを生きる人たちがいます。常に生き方を優先し、頭で考えたような他人との比較や評価などを気にせず自分の魂の声に従って自分自身の判断や行動を決めていきます。他人からどう思われるかではなく、自分はどうありたいかという信念に生きています。だからこそ今というものを一期一会に味わい盡します。これもまたご縁を大切にする人たちです。

ご縁というものは、奇跡的で不思議なものです。

あの時、あの瞬間、あの出会いがなければ今がありません。

これを逆算すれば、今までの人生、すべてその出会いと別れが決めたのです。出会いや別れにこそ真心を籠める人たちもまたご縁を大切にする人たちなのです。

そう考えてみると、ご縁を大切にする人とは生き方を優先する人たちのことです。生き方を大切にするからこそ、ご縁もまた大切にされていきます。

柳生家の家訓に、「小才は、縁に出合って縁に気づかず。中才は、縁に気づいて縁を活かさず。大才は、袖すり合うた縁をも活かす」があります。

袖すり合うた縁をも活かすとは、常に生き方を優先する人物こそが大人物であるということでしょう。私も、思い返すとご縁に活かされ続けた人生でした。ご縁を大切にしこれからも生き方を磨いていきたいと思います。

場を磨く

人間は、どうしても他と比較したり他人の評価を気にするものです。そもそも何のためにということをいくら決めていたとしても、そういう他人の目に晒されているうちに自分の初心を忘れてしまうものです。

何のためということがあれば、その人の本当にやろうとしていることにつながるためそこに迷いが消えていきます。逆を言えば、人は目的を忘れることを迷うといっているのであり目的を大事に初心を忘れなければ迷うことはないということです。

吉田松陰にこのような言葉が遺っています。

「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。」

この爽快であるというのは、迷いがないこと。悔いのない生き方、成長する生き方を優先している人だからこそやつれるようなことがないということです。

どんなことも初心を忘れなければそれは成長の糧になり、学びの意味につながるのです。まさに一度きりの人生、どんな時も明るく朗らかにいのちを燃やしていくのが人生の意味につながります。

思えば私は17歳のころからずっと吉田松陰の書に薫陶を受けてきました。松陰神社に行けば、一つ必ずインスピレーションをいただきそれを学びの目標にしてきました。何か事を成そうとするとき、心の支えの中にはこの吉田松陰の言葉があります。

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」

「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。」

BAの開校に向けて、私は覚悟を磨く決心をしています。そしてそれは遺志を継ぐ思いからです。最後にこの言葉で締めくくります。

「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」

ハタラキを守り、ハタラキを弘め、子どもたちの未来のために世界の方向性を易えていくために場を磨いていきたいと思います。

風土の智慧

昨日は自然農の高菜の畑で除草を行いました。郷里の伝統野菜の継承のためにコツコツと育ててきましたが、ここ数年、連作障害などもあり土が弱りどうしても虫や雑草に負けてしまうことばかりでした。

今年は、土の甦生にも取り組むためマルチを敷いて様子を見ていましたがなんとか半分ほどは雑草とも共生し葉を出してくれていました。やはり8年くらい続けていると、高菜を好む虫たちが大量に発生してきます。

昨年は初期の頃の新芽の際にほとんど虫が先に食べてしまいまったく伸びていくことはありませんでした。手で取ってもとってもきりがなく、土の醸成と風通しが如何に大切なのかを学びました。つまり風土の智慧を得たということです。

この風土の智慧は、単に頭で理解できるものではありません、確かに身体全体で自然から体験により得るものです。智慧というものは、須らくこの体験というものが必要です。

体験が智慧を育て、智慧が体験を高めていきます。

風土の智慧は、風通しの価値に気づくこと、そして土の発酵の価値に気づくことです。この風を通すのは光であり、土を守るのは水であり、それらの調和には日と夜が必要です。そしていのちは、その中でゆりかごのように元氣を与えられて育ちます。

如何に人間がスマート農法などといって便利な機会で科学的につくっても、そんないのちの中にはいのちの充実はありません。元氣のない野菜を食べても、私たちは元気になることはありません。この元氣の素は、風土の智慧を存分に得ている中で育まれるのです。

そしてその風土には、関係性を持った人間の愛情が必要です。私たちは循環の一部になることで身体にその自然の一部を吸収し元氣をいただくからです。日々の食事で何をいただいているのか、決して忘れてはなりません。

農業は自然の一部になるわけですから、自然が元氣に調和すればするほどその一部としての私たちも元氣になってきます。畑が元氣になっていくのを観るのはとても仕合せです。

この後はカブラハバチの幼虫が増えてきますからまだまだ油断はできません。手で一つ一つ取ったらあとはうちの烏骨鶏たちの餌になります。うちの烏骨鶏もまた循環の一部です。

自然から風土の智慧を学び直し、この体験を世の中の経世済民に還元していきたいと思います。

変化する機会

近年、自然の猛威はさらに高まっており日本も台風や水害などの規模が拡大してきています。はっきりとした科学的なデータはありませんが、南極や北極の氷があれだけ急速に融けていき大量の水が海に放出されていきますがその水が一体どこにいったのかと思えばすぐに理解できます。

私たちの住んでいる地球は、水の惑星であり水が海から空へと循環してめぐりを続けています。その水量が上がれば当然、空から降ってくる水量も増えてくるのは自明の理です。海水温の上昇は蒸発する量も増やしますからその分、空の中にある水分量は確実に増加しています。

さらに台風は上空との寒暖差で起きますから、海水温が上がればそれだけ風の威力も上がります。マスコミやテレビのコメンテーターの部分最適の話ばかりを聞いているとなんとなく右から左に情報が流れますが自分の身近な自然現象に置き換えてみれば如何に今の環境変化が危険の方に傾いているのかはすぐにわかります。

私たち人間は、視野狭窄で短絡的になりがちですから急速な変化や危機は察知しますが長期的で緩やか、そして巨大な変化に対しては気づきにくくなっています。

そういえば「ゆでがえる理論」というものを思い出しました。この「ゆでガエル理論」はゆっくりと進行する危機や環境変化に対応することの難しさを戒めるたとえ話です。カエルを熱湯の中に入れると驚いて飛び出しますが、常温の水に入れて徐々に熱すると、カエルはその温度変化に慣れていき、生命の危機と気づかないうちにゆであがって死んでしまうという具合です。

急激な熱湯や冷水には反応できても、少しずつ起きる変化には気づかないで手遅れになるということです。これは生活習慣病も然り、思考のマンネリ化も然り、そして時代と錯誤していくのも然り、加齢して筋力が衰えていくのも然り、これは誰もが陥ることのように思います。

だからこそどうあるか、ここが試練のところだと思います。

変化とは、自分が変わっていくことです。自分が変わっていくのは、自分自身が何かをやめるということです。そして何かを変えるということです。気づいたらすぐに帰るということです。そのために行動をするということです。やめていないなら変わらない、何をやめるか、それまでの生き方をやめるということです。

人間が変化できなくなるのは、生き方が周りの環境によってぬるま湯になっていくからです。そうやってジワジワとぬるま湯に慣れていくうちに自分の生き方までぬるま湯に合わせて変わってしまっているからです。

初心を保つことや、信念にブレないこと、そして自分の決めた心に従うのは本気の主体性や自分自身の生き方への正対をし続けなければできないように思います。

災害から何を学ぶか、かつての人たちは災害をただの災害にせずそこから大きく変化する切っ掛けにして進化成長し続けました。

子どもたちのためにも、この変化に対してどう生きていくか。すべての災害は変化する機会になりますから先人に倣い、子孫へのお手本になれるように精進していきたいと思います。

与贈循環の場

一緒に働く仲間が「与贈」についてブログで紹介してくれていました。私もこの言葉を知ったのは数週間前です。彼の説明では「自らの一切の利益を求めず、自らのいのちを何かのために使うこと。」、私はこれを真心とも呼びます。

私の思う真心は、一般的に言う頭と心の心ではありません。この真心は、自他一体の境地のことでありそのものと同化している状態、地球そのもの、宇宙そのものに同化している境地の時に出てくる心のことをいいます。

例えば、自分と境界線を分けているものが取り払われたとき私たちはその場と一体になっています。場が自分であるのか、自分が場になったのか、それはわからないほどに自然一体になります。この自然一体の状態のときのことを私は、「かんながら」と呼びます。

つまりは、まるで神様の依り代になったかのように純粋な心、そこには自他の別もなく、空と海が混じり合ったような透明な存在になっていきます。

私たちはなんでも名前をつけては物事の認識していきます。そして文字を書いてはそのものを説明していくようになりました。しかし、この世にあるものはすべて何かが変化した仮の姿でありその元はすべて同源のものです。

目の前にあるすべての道具も、自分の体も、そして天地自然界にあるすべてのものも、さらにはこの意識であったり、宇宙であってもそれは同源だったものが変化して形として顕れたものです。それに名前をつけていくら別のものにしたとしても、その本質は無であるのです。

この無が循環するところに場が生まれます。この無とは、有る無しの無を言うのではありません。元は同じであるという同源という意味、もしくは原点でもいい、その元のままという意味での無のことを言っています。

私たちがなぜ物を大切にする必要があるのか、そして如何に善きものを循環させていく必要があるのか、それは変化に偉大な影響を与え合っている存在であるからです。この善きものこそが、魂の故郷が住んでいる場所であり、その懐かしい「場」に出会うことで人々はいのちの本体に出会います。

私が家を直すのも、子ども心を守るのも、人類の智慧を伝承しようとするのもまた、この与贈循環を「場」によって顕現させていのちの安らぎやよろこび、しあわせの道を伝道していこうとしているからです。

徳が循環する世の中こそが、私たちの永続的な未来を保障するのです。

引き続き、一期一会に自分の人生を全うしていきたいと思います。

 

面白い人

先日、天神祭でご縁のあった逆手塾の和田芳治さんがお亡くなりになりました。昨年お会いしてからまるで流れ星のようにあっという間に光り輝いていなくなられました。私にとっては、とても大きなご縁になりあの唄声や温かい励ましの眼差しや声が心に響き続けています。

いつかは私も天に帰る時が来ますが、その時までいただいた言葉を大切に胸にしまいその言葉をお守りにして歩み切っていきたいと思います。

今回、弔辞の中で「時が過ぎてみて時がわかり、友が去ってみて友がわかる」という言葉を知りました。いるときはあたりまえだと思っていたものが、いなくなってはじめてその存在の大きさを知る。

本来、私たちはいかに大切なものに囲まれて生きてきたかそれを忘れるものです。あるのものがあたりまえになって、それ以外のものを追い求めようとする。しかし本来は、あるものは得難いものばかりであたりまえではないことに気づけばそこに確かな仕合せや幸福はあります。

ないものねだりではなく、あるものに感謝するから「面白い」と感じるように私は思います。和田芳治さんは、私に面白いことをやること、自分が楽しいことをやることの価値を見せてくださいました。あの頃より、今はその意味が確かに観えています。

人生というものは一度きりなのは誰もがあたりまえに知っています。しかしそのあたりまえに気づいているか、なくなってみてわかるでは遅すぎるのです。二度とないからこそ、如何にその人生を喜びに満たしていくかは生き方次第、自分次第なのです。

悔いのない人生を送ろうとするのは、挑戦を続ける人生を送り続けるのはきっと、私の中にそのあたりまえがあたりまえではないことに気づいている自分というものがあるからかもしれません。

先に逝った同志を偲びつつ、私も今回の人生でやるべきことをやり切ってからまたお会いしたいと思います。ご指導ありがとうございました、ご冥福を心よりお祈りいたします。

善の本体

孟子に「性善説」というものがあります。これは人間の本性を善とするという考え方のことです。そもそもすべての人間の心には本来善への可能性が内在し、その兆しを四端(したん)といい(惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ))の情としました。この四端を拡大していけば、人間の善性は仁義礼智という形で完全に発揮できるといったのです。

この4つの感情とは現代語にすれば、あわれみいたましく思う心、不善を恥じにくむ心、目上にへりくだり譲る心、正邪を判断する心のことでこれは最初から持っているというのです。

人間が素直になれば、これらの感情は持っているというのは生まれたばかりのいのちにはその道理が備わっているという言い方なのです。確かに、生きていくうえで必要な道理というものがあります。

それはこの自然界、宇宙においても従わなければならない絶対的なものがあります。この地球に生まれた以上、これがなくては生きていくことができないというものはもともと備わっているはずです。

水や空気、光や熱なども当たり前すぎて気づきませんが、生きていくためには欠かせません。これらは情となり心となり、私たちのいのちと密接につながっているように思うのです。

そしてそれらを総称して孟子は「善」というのではないかと思うのです。つまりいのちは水であり、水が善であるということ。

老子に「上善水如」があります。

これは最高のは水であるとし、万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善と称えます。

つまりは、善であるというのは水のような存在のことであるということです。人間は生まれながら水を持っている、その水には性質として低きに流れるというものがある。だからこそ、水は環境を受けて変化する。環境としてこの世にある道理を色濃く受けて善になるということでしょう。

つまり「善」は、宇宙における万物自然の道理のことです。

いのちはどんないのちも道理に逆らうことはできません、いのちは道理に従うことでそのものの本来の本性が引き出されていきます。本性を引き出すとは天命を生きると同義語です。

人間は水のように澄んだ存在に近づけば近づくほど、より本性の価値になっていくということです。本性の価値とは地球といういのちの姿です。無為自然とも言います。

善を循環していけるように、新しい仕組みを考案中です。

子どもたちが安心してこの先もずっとありのままであるがままに暮らしていけるように今できることの最善をいのちを懸けて取り組んでいきたいと思います。

 

最幸の学校~本物の実力~

昨日、3年間をかけてコンサルティングをしているある高校の卒業式に参加しました。ここは明確な理念を掲げを子どもたちと大人が一緒に学び合い成長していくことを実践している学校です。

世界が科学技術の発展によって一つにつながっていく時代、いかにグローバルな視座でこの先の時代を子どもたちが創造していくのか。それを深く考え抜いた現理事長が「心の持ち方を学ぶ」という一語に魂を籠めて具体的な教育方法として多様性の発揮や個性の尊重、主体性や協力といった本質的な人間の「成長」に軸足を置いて私たちの知恵の結晶でもある一円「対話」という仕組みを使い学校の改革に一緒に取り組んでおります。

私もこの3年間の集大成として、卒業式の一円対話に参加しましたが生徒たちは最初に打ち立てた自分の初心を見事に3年間守り通し、立派に人として「成長」していたのを実感しました。その証拠に、一人ひとりが丁寧に3年間の学びを発表していきましたがその非常にオープンで自由に発言していく人の言葉の中に「心の持ち方」をしっかりと学んだことが凝縮されていました。

そして生徒も先生も一緒に学ぶだけでなく、最後は保護者も一体になって心の持ち方を学び合う姿にこの学校の「本物の実力」を感じることができました。そして生徒たちが初心を語るとき、その初心がこの3年間で全員実現したと自分の言葉で語るその自信に溢れる姿に一人ひとりの「誇り」を感じました。「誇らしい」という言葉は、その人が自分らしく自分の足で歩んでいると感じた時、私はその言葉を用います。つまり生徒たちはみんなこの3年間の学校生活を通して自己と深く正対し「人としての自信」を身に着けたのです。これはこの先の未来において、何よりも重要な時間を過ごしたことになるのは明白です。学問本来の醍醐味とは、この「初心に費やした時間」を言うのです。それが「自ら道を拓く」ということだからです。

そして、私自身もまたこの生徒や先生、学校から深く学び直しています。なぜなら心の持ち方は生き方であり、生き方を学ぶのは決して能力や資格、知識なのではなく「共に今を生きる人間として学ぼう」とする生きた学問だからです。また単なる成功を望むのではなく、幸福を感じ直すための本物の学問です。このような学問を、現代のような一斉画一教育や知識偏重型の刷り込み教育が横行する世の中において、そのバランスを保ちながらも子どもの生きる力を尊重するこの実力がある学校が日本にあることが私の心の誇りにもなりました。

善い志事に恵まれ、善い同志に恵まれ、善い仲間に恵まれたことに何よりも感謝したいと思います。卒業というのは、次のステップ、次のステージに「挑戦するための門出」でもあります。

時空は前へ前へと進んでいきますから、振り返りをしつつも決して立ち止まることなく初心を守り続け夢の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

このような一人ひとりの人生を尊重していくような最幸の学校が、世界に増えていくことを祈り、私も自分の使命に全うしていきたいと思います。

一期一会に深く感謝しています。

人類の過渡期~3つ子の魂~

人間が自然な存在としてこの世にあるのは、「生まれ持ったものを磨く」ときに認識するものです。その生まれ持ったものは、その人にしか与えられない天からの使命でもあり恩恵でもあります。人間はその生まれ持ったものを磨くことで世の中に役に立つ存在になれば自然体でこの世の中を自由に自立していくことができるからです。

誰もが正直に素直に自然体で生きられる、共存共栄する世の中はまずこの生まれ持ったものを磨くことを受容されている世の中かどうかで決まります。

私の本業で関わっている幼児の世界は、日本に古くからある諺の一つで「三つ子の魂百まで」と言われ、西洋の諺にも「The child is father of the man」(子どもは人類の父)」と言われ、それだけこの時期に与える影響は一生、また人類の未来に影響を与えると言われます。

その時期の子どもたちがどのような環境であったか、またどのような社會であったかは、人類をはじめ、その人の人生の左右する一大事であるのです。

脳のニューロンの数は1歳の時にピークを迎え、3歳までには個性の要になる人格形成や言語能力も形成されるほど急成長の時期です。この時期に、天性のものを磨くことを見守られるたかどうかはその後のその子の一生に大変大きな影響を与えてしまうのです。

また心においては、さらに影響が大きく心の根もその時期に育っていきます。だからこそその土壌がどのようになっているかが人類の未来を変えてしまうのです。私が乳幼児期にこだわる理由はここにあります。

この時期の子どもたちが自然体で正直で素直に健全に伸びるような見守られた環境があるかどうかで仕合せかどうかが決まり、世界が変わるかどうかが決まります。人類は長い時間をかけて伝承という仕組みを用いて今よりもさらに善くなる未来を創造してきました。この循環の仕組みは天の法理であり、いのちはこのようにバトンを繋ぎながら世界を創造し続けてきたからです。

子どもが天から与えられたものをどう削ぎ落さずに磨いていくことができるか、本来はそれが教育者の役割であったはずです。いつからか削ぎ落してはならないものを無理に削ぎ落させ、別の人生を刷り込み、その他大勢になるように洗脳するようになればその子らしさが失われるだけではなく、本来のその人が失われることもあります。

自分らしく生きるというのは、自然体のままでいい人を増やす社會にするということです。自然体のままで許される社會は、「それぞれが生まれ持ったものを磨き合う社會にする」ということです。

私が見守ることに人生を懸けるのもその理由に尽きます。

人類の過渡期に、今こそ子どもたちの環境を見直す必要性を感じています。長い目で観て、一緒にこの使命を共にしてくれる仲間を求めています。それぞれが安心して心の中の平和を保てる時代になるように協力していきましょう。