巡礼の意味

もともとルーツを辿っていると、真実の歴史が表出してくるものです。何でも原点回帰というのは、そのことが何だったかを思い出すにも検証するにも効果があります。最初が何からはじまり今に至るのか、それを知ることが未来を予測することにもつながっているからです。

先祖というものを辿るというのもその方法の一つです。あるいは自分の故郷にある遺跡を辿ることもまた方法の一つです。これは歴史オタクだからやるのではなく、道を歩む一人の人間として歩んできた道を振り返るという大切な生きる目的を知る巡礼の道でもあります。

巡礼の起源は一般的に言われるのは4世紀にキリスト教が公認されるとき、そのキリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにイエス・キリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムの遺構に参拝するために信者が旅をするようになったことがはじまりといわれます。

また巡礼路で有名なのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路です。これはおもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道で800キロあります。

日本有名なのは四国にある弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路です。これは 阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路でもあります。

どのようにその人物が道を歩んできたか、そして信仰が広がったのかそれを遡りルーツを辿ることでその信仰の道のりを歩み学ぶのです。これは先祖も同様に、どのように今の自分に辿り着いたのかを学ぶための道です。

何を辿るのか、その辿るものによって理解していくものも変わります。例えば、私の住む故郷は古代に大和(山処)のクニのあったところです。英彦山を中心にして、王朝があり豊芦原瑞穂のクニのあったところだと遺跡によって語られます。

大和を辿れば、大和からどのように今の自分たちになっていたかを辿れます。どこを起点にして、何を学ぶのか、それが真実の歴史に通じているのです。

子どもたちは現代、教科書の歴史しか勉強しません。本来の歴史は、自分の中にあり、また足元、立っているところからはじまります。色々と国家教育との関連もありますが、自分のルーツを自分が大切に学び直すことは知恵を伝承することでもあり、徳を循環させていくことでもあります。

未来のためにも、自分のやるべきことで先祖への御恩返しをしていきたいと思います。

自然と不自然

物事というのは分断することで問題を発生させていくものです。一般的には、分析することで問題を解析していきますが解析することでさらに問題は細分化されていきます。細分化された問題を解決してもそれは部分最適ですが、それがかえって全体の問題を大きくしたりすることもあるのです。

環境問題なども、最たるものでよかれと思ってやっていたことが実はさらに環境を悪化させたということもあります。何が自然で何が不自然かということも現代の人間社会では変わってしまっていますからそう簡単に解決にはならないものです。

私は物事を解決するための方法は、先人の知恵に従うことだと思います。長い年月、数千年、数百年続いてきた存在がどのような体験をしてどのように対処してきたか。そこから学び直すというものです。

本来、歴史というものは学校で教わるようなものではなく生きる知恵として子々孫々まで伝承されていくものです。伝承されたものを守り続けることで、困難を乗り越え、試練を耐え、生き延びていくのです。

よく格言というものがあったりもします。その格言もまた、よくみたら物事を根源的に解決するための大切な知恵であることがわかるのです。

例えば、あるインディアンの教えに「7代先のことを考えて決める」というものがあります。約300年先にどうなるのかと思慮して決めごとをするというものです。これも環境問題が部分最適にならないための知恵に溢れています。時間をかけて地球は循環しているのだから、今のことに対処ばかりしていても物事は解決しません。というより、そもそも解決することもなく問題も本当はありません。本来は、自然であるだけです。

自然を尊重して、自然と共生していく世の中であれば問題もそれは必然になり自然になります。

子どもたちには何が自然で何が不自然かがわかる感性や知恵を学び、これからの未来で何が必要になるかを伝道していきたいと思います。

 

いのちの養生

昨日は、堀池高菜の漬け直しを行いました。春先に漬け込んだものをこの時期に漬け直せば来春までまた漬かります。長いものでは9年目に入ったものがあり、3年目や今年のものもあります。長い時間をかけて漬け続けるにはコツがあります。

私はもともとこの堀池高菜は、供養のために続けています。採算度外視で儲けるためにやっているわけではありまんから唯一無二のものです。

例えば、30年以上農薬も肥料の入れない畑で自然農で行いこの地域にしかない伝統固定種の種のみでつくります。樽は吉野杉で塩も平窯天日塩、また天然秋ウコン、蓋は楮の和紙で閉じています。そして発酵場は林の日陰の風通しの良い場所で備長炭と共に寝かせ続けます。

こんな環境の中で育っていますから菌もイキイキしています。はじめて3年目くらいまでは腐敗することがありましたが今ではほとんどそれもありません。手塩にかけて塩梅をみながら丁寧に関わっていく。ずっと生きているものとして関わりますから大切に一緒に育っている家族のようなものです。

現代は、大量生産、大量消費で儲かるためにあらゆる作業を省いて効率優先、合理化優先していきます。すべては売り物、そして買い物にするために加工するのです。

私は加工することは儲かるためだとは思っていません。加工するのは、大切に扱うためのプロセスだと思っているのです。私が手掛けるこの堀池高菜は生産、加工という名の家族と共に暮らす豊かで仕合せな営みなのです。

その営みのなかで出来上がったものだからこそ、舌先三寸では味わえない深い滋味があります。その滋味を感じていただける人たちからは、本当に喜ばれ、運がよくなりそうだと感動されます。

この場所、この土地ならではの風味は風土がつくります。

そしてその風土で育ち、風味をわかる人だからこそ滋味が出せるのです。身土不二という言葉もあります。これは『体と土とは一つである』という意味です。私たちは土を食べる化け物ですからその土地の味はその土の味でもあります。

今では遠くの食べ物をどこでも便利に食べれるようになりました。しかし本来、食事というのは食養であり大切ないのちの養生の根源です。

だからこそこの土地に来て、この土地で自然に食べてもらうことこそがその土地のいのちを味わうことになります。

私がやっていることは、今の資本主義社会でやっている儲けるための食事とは異なるものになります。だからこそ儲からないし売れないし売らないのでは誤解され、道楽や趣味のようにいわれます。しかし本来、伝統文化や伝承というものはそのためにやっているのではなく、先祖代々、豊かに暮らし仕合せにいきる知恵を自分も同様に生きているということを守っているだけです。

子どもたちや次世代、子孫へ知恵が伝わり同じような仕合せが繰り返されるように今の時代の価値観に流されずに本質を保ち喜びを楽しむのです。これからますます遣り甲斐も生き甲斐も増えていきますから大切にいのちを養生していきたいと思います。

 

戦争の時代

ロシアとウクライナの戦争がさらに進行しています。世界を巻き込んだ戦争、第3次世界大戦はすでにはじまっています。もともと第一次、第二次世界大戦のときもやっている最中はそういう意識ではなく終わってみてあれは世界大戦だったとなっていたのです。

どの国が先に本気で火ぶたを切るのか、これはもはやロシアであることは間違いないことです。もう随分長い間、平和が続き私たちも戦争の記憶がなくなった人たちばかりです。まさか自分が戦争に巻き込まれるはずはないと考えるものですが、実際にはみんなそのまさかで巻き込まれます。

自分だけはみんな巻き込まれないはずと安全バイアスが働きますが実際には全体を巻き込んでいますから他人事ではありません。

昨日もニュースで、ロシアで召集令状が出され一日にして大勢の人たちが戦地に輸送されていきました。家族、恋人や妻子と別れていく様子は映像をみていて心が酷く傷みました。行きたくない戦争、政治的に行われた戦争に強制的に参加させる。参加しなければ刑務所で刑期10年といいます。この刑期も果たしてどのような刑期なのか、無理やり理由をつけては戦地に送り出されることも予想できます。すでに、10万人ほどのロシアの兵隊も死者がでていて戦況は悪くなるばかり。それでも諦めずに兵隊を送り続けてあとどれくらいの人が死ねば戦争をやめようとするのか。為政者によって戦争が行われるというのは歴史の事実であり時代が変わっても何も変わりません。

戦争の歴史を深めると、その理由はほとんどが為政者の都合です。皇帝といわれるような独裁者が権力を握りしめ独断で行うもの、あるいは内部が腐った組織、その民衆の依存した既得権益者たちの操り人形のような組織、他には集団的無責任で保身だけにひたすら走る組織、キリがありませんが発端は思考停止になっているところからはじまります。もっとシンプルにいえば「まともではない」状態に意識が入っているのです。

戦争をしている当事者、もしくは巻き込まれた人たちは保身がちらつきますから身の危険を感じてまともではなくなります。安心安全なところにいる人からすれば、そんなことはないだろうと思いますがまともではない人たちになっているのだからそんな理屈は通じません。気が付いたら巻き込まれているのです。

召集令状一つにしても、明治頃は市役所が赤紙といってそれを自宅にもって「おめでとうございます」とあいさつに来ます。それを受けて逃げれば家族全員が非国民として差別され、受けたら家に旗をたてて英雄と称えられます。もはやこれだけでもまともではありませんが、戦争とはそういうことです。ロシアでは、選択肢は戦争で罪のない人を殺すか、あるいは刑務所に入るか、もしくは海外逃亡しかありません。他にはいつも時代も同じですが、政治力や資金力、コネや賄賂などを渡して戦争でも死なないような職種や配属をさせたり、兵役を逃れられるように話をつける人たちが逃げられることです。実際に政治の中枢にいる家族や子どもは守られるという構図です。

人間はいつの時代も似たようなことを繰り返します。権力や権威は何のためにあるのか、本来は人々の生活を守るためにあるものが権力闘争や利権に巻き込まれ結果、大勢の人が悲惨な戦争に巻き込まれます。

そうならないように本来は、教育があり人間学があり道徳を習慣にする文化があったはずです。今思い返せば、世界経済が破綻寸前まで紙幣を発行し、感染症で人々のつながりが分断され、自然災害が追い打ちをかけ、大国間の戦争が発生する。もはや歴史通りであり、シナリオそのままです。

この先、どう生きるのか。

失敗から何も学ばない人間だとしても、失敗を未然に防ぐためにできることはあるはずです。それは現代のように情報で世界がすぐにつながるのだから、一人一人の意識と行動が変革を促すはずです。

私がDAOや徳循環、ブロックチェーンのテクノジーに可能性を見出すのもその部分です。気づいていないのだから、気づいた人が草莽崛起することしか今はありません。

残りの後半の人生、今まで学んだことを活かし、やるべきこと、使命を果たしていきたいと思います。

人間というもの

人間は長い時間をかけて様々なことを体験してきました。少し前でも時代が今とは異なり、流れている時間も環境も違います。もっと以前、太古の時代にとなるとさらにすべてが異なります。時代時代に、環境や状況、便利さや時間などもすべて変化しますからその時代にしか体験できないことをしているともいえます。

今では、車も飛行機もインターネットもありますがむかしは動物に乗り、自然界の道具で合図を送り合っていました。人間の住んでいる地域も狭く小さく、一生をその環境の周囲で過ごしていたものもあります。大きく変化したのは、人間の移動範囲が広がり、繋がりも拡大したことでしょう。宇宙にも地球から色々なものを飛ばせるようになっていますから活動範囲を広げていくのはこの先も続くのでしょう。

しかし一つだけ変わらないことがあります。それは人の営みです。暮らしの中で様々な体験をして喜怒哀楽を味わう。そして人生という一つの体験を初めて終えていく。肉体を持ち、最後に死が訪れるまでの物語は誰にも等しく訪れますしこれは変わってはいません。

例えば、今のように台風を予測して災害対策をして不安で待っているとします。これが同じように台風を予測し災害対策ができるテクノロジーが古代もあったとしても人間の心境は変わっていません。家族を心配し、自然の畏敬を思い、生きていられることへの感謝を味わう。何百年も何千年も、どの時代も同じように同じ体験を続けてきました。

つまりはここからひも解けるのは、似たような体験を通して私たちは学び、体験を通して知恵を得てはそれを忘れないようにまた同じ体験を続けていくのです。テクノロジーによって乗り越えられたように見えても、実際には人の心は変わっていません。そして当然、幸福も喜びも仕合せも変わっていません。悲しみもまた苦しみも変わらないのです。それが時代という形を換えては、感じ方が変化しているだけともいえます。

だからこそ人間は、時代時代に原点回帰して本来の目的を思い出すことで協力し合って生き延びていく必要があります。どうお金を得ようかや有名になろうかではなく、どう生き残るかということを学び続けることがいるのです。

当たり前に生きられるようになった気がする今の時代だからこそ、どう生き延びるのかということを世界は協力して取り組んでいく必要があります。それは同時に、どういう生き方にしていくのかという目的に取り組んでいくということです。

環境や時代に流されず、人間としての本質をよく見つめ直すことがこの先の時代を生き延びる知恵になります。

子どもたち、子孫のために徳の循環する経済を甦生させ私の役割を全うしたいと思います。

伝道の歴史

現在、日本の法律によってあらゆるところに歪が出ています。それが産業構造に大きな影響を与えています。規制したことによって、ある人たちは既得権益が出ますがそれによって社会や自然にも大きな害が発生してもその声が既得権益の大きさによってつぶされていくのです。

これは環境問題もほとんど同じですし、身近では空き家の問題や耕作放棄地の問題も同様です。実際に病気であれば、病気になるような環境があるなかでそれをなんとか治療しろという具合ですから根源的には治癒することはありません。

対処療法で少しうまくいけば、国がそれを取り上げて莫大な費用をかけてそれを標準化しますが根本的な解決になっていないためまたすぐに次の問題が発生し違う既得権益を得る構造が発生し元の木阿弥です。

空き家で例えれば、新築を建てることを国も不動産も建築業者も優先します。すると新築を建てるたびに空き家が増えていきます。当たり前ですが、作るから前のが使われなくなるのです。そして中古物件といっても、現代住宅は長期的に使うようにではなく使い捨てるようなつくりをしていますから直すにもきちんと直せません。費用も高く、新築を建てる方がいいとなるのです。

これは消費文明の特徴であり、大量生産大量消費することで経済を発展させてお金を常に稼ぎ続けなければ国家が維持できないからです。自転車操業のように走り続ける仕組み、そしてそれを支えるための法律、そういうものがある中で、自転車を止めましょうといっても誰も止めません。その自転車を工夫してうまく走らせるようにみんな知恵を絞ります。前提となっているそもそも自転車を走らせるのを一度、止めてみようという選択肢はないということです。前提になっているものは無視をするというのが歪みの実態でもあります。見たくないものはみんなで見ないようにする。暗黙の了解でそれは無視して通り過ぎるようにする。そのための知恵を絞っています。

しかしいつまでも人類全体で本当はそんなことに知恵を絞るのがいいことなのか、それが最先端だと注目されることが果たしていいことなのか。

人類本来の知恵は、過去の歴史に学び、みんなで今を決断することだと思います。そのために必要な知恵は、気づいた人が決断した生き方をして背中を見せることです。一人が気づけば、さらに別の一人が気づきます。そうやって気づく人が増えていけば、次第に気づく人たちが根源的な問題を発信しはじめます。

最初は既得権益がある人たちから邪魔者扱いされますが、それも時代の限界がきますからそうなったらみんな方向転換をします。問題は、時代に左右されず本当のこと、本質をやり通す覚悟です。

対処療法を止める方法は覚悟しかありません。そして覚悟は勇気が必要です。勇気を出すことで人は方向を何度も換えてきました。そういう先人たちの生き方を倣い、今の時代だからこそ子孫や未来のために今しかできないことを一人一人の立っている其場所で実践していくのです。

私も実践を深め、一人正対して取り組んで気づきを伝道していきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

仕組みと伝承

時代の変遷と共にあらゆる定義もかわりますが役割も同時にかわってきます。ちょうど、今週は鏡磨きのこともあり江戸時代くらいからのことを調べる機会が増えました。その中で、殉死というものがあったり、襲名など、そのころの特徴を考えることがありました。

今ではありえないことですが、その当時であれば当然だった背景には時代の価値観があったことは間違いありません。殉死であれば、戦国時代前からの死を共にするという忠義の思想があったこと。死が当たり前に身近にあったからこそ、真摯に生きるための仕組みとしての殉死があったように思います。あた襲名もまた家という仕組みで一族で助け合い生きる、またどのように生きるのかといった生き方も守ってきた価値観があることがわかります。一家の恥じや一家の名前に泥を塗るという言葉もあるようにその家に関わる一人がやったことは家全体に影響を与えました。それだけ家督というようにすべての家のことは一家長の責任であったことも観えてきます。

現代では、家や父親の役割なども変化してきました。昭和の頃、私が覚えている範囲でも祖父は厳格で怖い存在でした。祖父を中心に親族が集まり、法事を含め年間行事もたくさんありました。しかし祖父が亡くなってからはその仕組みもなくなり、たまに集まってもむかしのような形式的なものではなくなりました。

こうやって時代の背景と共に価値観も変化し、それまでの仕組みも変化してきます。この仕組みの変化というものを感じている人は少ないように思います。本来、私たちは時代の変化と呼んでいるものはこの仕組みの変化と価値観の変化が大きいように思います。

時代が変わるのは、それまでの仕組みが変わるということです。

仕組みが先にかわり、次第に環境に影響を及ぼし、そして価値観を換えていきます。そういうものをよく見抜いてこの先、どのように振る舞うか、そしてどのように予測するのかを省みるのです。

現代は、コロナで仕事の仕組みも変わりました。そして人との接し方も変わりました。それがどのような変化になっていくのかを予想していくことは大切なことです。時代の変化に順応するところと、時代を新しく創っていくこと。自分たちがどんな時代にしていくのかという仕組みの中にこそ知恵があります。

子どもたちに遺したい未来を伝承創造していきたいと思います。

徳の循環する世

世界中で気候変動の影響を感じる映像が出てきます。どこかで大雨が降ればどこかが干ばつになります。地球は一つとしてバランスをとりますから、環境が変わっていくのは今にはじまったことではありません。

どの国境でどの立地にあるかで私たちは住みやすいところもあれば住みにくいところもでてきます。ある場所は極寒の地、またある場所は砂漠、またある場所は火山や湿地であったりもします。人類は、その場所を離れていくものもあればその場所で知恵を出し工夫して順応したものもあります。それもまた選択の歴史であり、今も私たちは新たに選択を迫られています。ひょっとしたらこの先、地中や地球外、あるいは仮想空間などに移動していこうなどという未来もあるかもしれません。栄枯盛衰、これは自然の摂理です。どの時代、どの場所にいても、如何に自然と共生していくかは私たちの使命でもあります。

そして環境の変化で大変苦難の時代があったとしても、人類はその中でも仕合せを求めて生を全うしていきました。私たちの生命はどんな環境下であっても仕合せに生きているものもあれば、その逆もあります。大事なのは、使命を全うするということです。

そして使命を全うするには自分というものを知る必要があります。自分を知るには、自分の根を知る必要があります。根は地球につながっているところに存在します。まるで先祖から今の私たちに結ばれているように根もまた張り巡らせています。

まさにこの時代、この変化の時をどのように協力して乗り越えていくか。自立分散型、いわゆるDAO的なつながりのなかでどうみんなで調和していくか。太古の時代から、私たちは「和」にその解決法を見出してきました。人間も喜び、また自然も喜ぶ道。かんながらの道です。

私が思う、自然との関わりというのは、私たちの暮らしを本来の全生命が喜び合えるものに還るものです。それは徳が循環するような世の中にしていくことです。これをもう忘れてしまっている現代においては、何が自然を喜ばせるのか、そして自然とは何かというところの定義から学び直す必要があります。

暮らしフルネスはその道に入るための一つの扉です。

子どもたちに、いつまでも仕合せや福が結ばれていくように徳の循環する世の中に近づけていきたいと思います。

歴史を前に進める

過去の歴史の中には、時が止まっているままのものがあります。本来、何もなかったところに人が物語をつくります。そしてその物語は、そこで終わってしまうものか、それとも続いていくものか、もしくはまた再開させるのかはその歴史の物語を受け継いだ人の判断になります。人は、このように自由に時を止めたり動かしたりしていくものですがそれは物語の中にいる人たちでしか繋いでいくことはできません。

いくら文字でそれを知識として分析しても、それは止まった歴史です。生きている歴史は知識ではなく知恵として受け継がれていきます。歴史を受け取った人のその後の行動で甦生するからです。これを遺志を継ぐともいいます。

その前の歴史がどのようなものであったか、それを学んだ人がその歴史を前に進めていきます。その人が進められるところまでを進めたら、それを継いだ人がさらに前に歴史を進めます。こうやって過去にどのような悲しい歴史があったとしても、それを転じてそのことによってさらに素晴らしい未来が訪れるように歴史を変えていく人たちが現れることで過去の歴史も肯定されます。

この時、悲惨な歴史も未来がそれによって善くなっているというのならただ可哀そうな存在にはなりません。後世の人からは感謝され、大切に思われ、偉大な先祖であったと慕われ尊敬されることもあります。しかし時を止めたままにしたり、悪いことのままで終わらせてしまうと人は歴史に学ぶことができません。

世の中には終わらせてはいけない大切な知恵が入った歴史がたくさんあります。私の周りにも、子孫の仕合せを願い取り組んできた先人たちの想いを深く感じるような場所がたくさんあります。

その方々からの遺志を感じ、過去の歴史の続きを紡いでほしいといった願いや祈りを感じることもあります。今の私をはじめ、私たちが生きているのは先人たちが人生をかけて大切ないのちを使ってくださっているからでもあります。

その願いや祈りは、世代を超え、身体をこえて伝わっていくものです。これを伝承ともいいます。伝承するというのは、歴史を生きてその歴史をさらに善いものへと転換していく私たちの生きる意味でもあります。

自分のことばかりを考えて、世代を省みて未来を思わなければ歴史はそこで途切れてしまいます。自分の中にあるあらゆる想いや祈り、そして願いを忘れず一つ一つの歴史を丁寧に紡ぎ修繕し、お手入れしながら子どもたちに譲っていきたいと思います。