自然の生き方

昨日は、自然農の田んぼで田植えを行いました。もうこの田んぼでの田植えは、8年目になりますが毎年楽しく豊かな時間を過ごせています。もちろん、昨年はイノシシに収穫前に入られて未収穫という大変な目にも遭いましたが懲りずに続けて8年も経つと経験が血肉になり様々なことを自然に感じ取れるようになっています。

自然というものはとても面白く、自然に近づいていけばいくほどに自然の仕組みが感得できるようになります。いつの時機にどの場所に何があるのか、そして何が組み合わさり、どう混ざれば何が生まれるのか、またその土地や風土の循環の癖や相性、さらには全体のバランスや心の機微にいたるまですべて手に取るように感得できます。

おかしな話ですが、達人の域に入るほどです。それくらい自然と一体になると、先々のことを今見通すかのような感覚になるのです。もちろん、自然ですから思い通りにはなりませんから謙虚さを磨かれます。しかし同時に、絶対的な安心感も同時に得られます。

それは様々な命と共に共生していくなかで、互いに活かし合いつながり合い存在し合うということの安心を感じることができるからです。

草をかけた土の中には大量の菌たちやミミズらが暮らしを営み、その上には虫たちや水生生物たちが暮らします。その循環のなかで稲はすくすくと育ち、光や風を浴びて鳥の声を聴き、山の恵みをうけ、人の見守りと愛情を感じながら立派な稲穂になり実をつけていきます。

この一つの循環の中に自分がいるという安心感は何物にも代えがたいものです。それを大切な仲間や家族と一緒に育んでいくという仕合せ。

私たちがもっとも遺し譲っていきたいものは何か、それはこの自然農の稲作の中にすべて生き方として籠っているのです。自然の生き方とは、自分もそのいのちと一緒に共生し合いながら育っていく生き方です。

如何に全体の一部となって自分を活かすかは、自然が観えているかという境地の会得が必要です。そのためには何度も田に入り、自分の手と目と感覚で自然のありように近づいていくしかありません。

大事にしたい子どもたちへの生き方を示していきたいと思います。

等価交換できない存在~徳循環~

この世の中は、なんでも等価交換できるわけではありません。価値に見合ったそれ相応のものと交換するというのは、あくまで人間の狭い視野で行われるものです。例えば、この自然界でいのちを活かしているあらゆるものと同等のものを用意することはできません。

人間が水や空気、太陽の恵みや大地とどう等価交換するのか。いくらお金があっても、それをお金とは交換できません。人間が作り上げた価値と交換はできても、自然や宇宙などのすべては本来交換することができないものです。

何でも価値や価格でばかりにそのものを測ろうとし、損をしたとか得をしたとかいうのはとても料簡の狭いものです。そのものの価値は、そのものの本当の価値を見出せる人にはわかります。それはお金では測れず、世の中の常識でも量れません。

むかしからそのものの価値を知る人たちは、善を行い徳を積みました。それは等価交換できないことを知り、少しでもその恩恵に報いようと感謝を循環させていったからです。

この世の理として、私たちは自然の大きな恩徳によって生きることができそれが失われればこの世を去るしかありません。さも人間が自然を牛耳っているように錯覚したとしても一度の災害ですべてを失う可能性もあるのが自然の猛威です。

だからこそ謙虚に交換できないものの価値を認め、いくらそれが宗教だと揶揄されようと、妄信的だと馬鹿にされようと、そういった交換できない価値のために祈り、その恩恵をいただける存在に感謝しながら生きていくことで私たちは傲慢になるのを抑制しみんなで平和を築いていくのです。

大前提として、等価交換できない偉大な存在をどれだけ身近に感じているか。ただ感謝のみという存在にどれだけ報いているか。ここが何より私たちの社會の在り方や暮らしの根本と深くかかわっていることを忘れてはいけません。

子どもたちは生まれながらに、その価値の偉大さに気づいています。お父さんやお母さんの存在、自然の存在、あらゆるものへ感謝の気持ちで生きています。価値を測ったりすることもせず、ただその偉大な存在に甘え、偉大な存在と共生し、自分もその恩恵に報いるようにすくすくと成長をしていきます。

私たちの身近にいつも寄り添い、見守る存在はすべて「徳」です。この徳に貢献していこうとすることこそが「利子」を増やしていくことであり、その利子によって私たちはまた恩恵の一部に感謝というもので還元されていくことができるのです。

徳の循環の仕組みは、この価値を変換し無価値にし徳に還元することです。

子どもたちのためにも、このプロジェクト、覚悟をもってやり遂げたいと思います。

道徳元年

私たちの会社では、7年くらい前から「讃給」という取り組みをしています。これは給与明細とは別に、そのひと月でみんなで一緒に働く中で感謝を言葉にしてみんなで交換するという取り組みです。

なぜこれを始めたのかと思い返せば、単に給与は仕事との対価としてではなく天から頂いたものであるという認識。そしてそれは多くの方々の感謝の循環によって、自分もその一部の恩恵を受けることができているという事実、単にお金の価値では測れないものをもっと理解していこうとするために取り組んだように思います。

もう何年もやっていると、感謝の声をいただくことで自分が何で役にたっているのかがわかったり、みんながどのようなことを喜んでくれたか、そして自分もみんなにどのような感謝を感じているかが確認できます。

感謝が積みあがっていく安心感というものは、大きなもので人はどのようなつながり方をするのかでそのコミュニティの質も変化するように思います。

例えば、同志というコミュニティであったり、家族というコミュニティ、そして同じ趣味というコミュニティ、理念を共有するコミュニティ、その「つなぎ方」は様々にあります。単にお金を中心にしたつながりだけでは、お金の持っている価値のみのつながりになります。それを感謝というコミュニティを形成することで、新たな絆が生まれていくのです。

人は、それぞれに「何でつながるか」というものを持っています。私もスタートアップの時は、友人と起業したこともあり、お金を中心に給与が発生していくことで本来のつながり方とは別のつながり方で感謝がわからなくなって苦しんだことがあります。

損得や費用対効果などの等価交換の価値基準を持つお金が、どうしても全体の価値観に影響を与えてしまいます。私の場合は、理念や初心を決め目的を定めたことでお金は自分たちを助けてくれる一つの道具になりましたがそれが明確でなかった頃は何度もお金に左右されてしまいました。

お互いに喜び会うことや、お互いに幸せになることなど、人は一緒に暮らしていく中で感謝が中心になればなるほどに利他的な自己と出会います。人間の低次欲求で有名なマズローも自己超越欲求というものがあると言及しています。これは自己実現の過程で感じる「至高体験」という自我超越、自己忘却、無我、利害や二分法では測ることができない「利他」(自他一体の歓び」のようなものを感じることができるというのです。これを私は徳を積むという言い方をします。

理念や初心が確かに自分のものになればなるほどに、生き方だけなく働き方も大きく変化していきます。そして生き方が変わり働き方が変わった人は、徳を積むための仕事に取り組み始めます。

それは費用対効果とかでもなく、損得利害などでもなく、子どもたちのために徳を積もうとするのです。自分がそうされてきて今があるように、自分も子どもたちに同じようにつないでいこうとする真心。

まさに、自分を活かしてくださっているものへの感謝への恩返しをはじめるのです。それは単にお金では片づけることはできず、文化伝承や奉仕、恩の循環を通して行われるのです。

私が3年前から開催した恩袋会というものも、溜まった恩の袋から徳をひろげようとする取り組みの一つです。

時代の変わり目に、新しい経済がはじまります。その新しい経済はいいかえれば、新しい道徳のはじまりです。そういう意味で、令和元年は道徳元年でもあります。引き続き、自分の使命を全うしていきたいと思います。

自立の原点

人間には、体と心があります。最近は脳科学が進んだことで、この体と心のつながっている場所のことを脳の変化を見て様々な角度から分析することができるようになりました。例えば、脳内物質の何かが出ているとき、心身にどのような影響があるかということを計測することができるような感じです。

実際には、根拠がないといわれても心と体が休まるとき、居心地がよいとき、私たちは穏やかでしあわせな感覚を得ることができます。それは例えば、美しい自然に触れた時や仲のよい人たちと結ばれている時、楽しい食事や安らかな眠りの時なども私たちはその穏やかでしあわせな感覚を得るのです。

私たちの思う「時」というものの中には、様々な記憶や感覚が同居しています。いい時も悪い時も、大変な時も穏やかな時も、この時の中に混然一体として心も体も深くかかわっています。

どのような時を過ごすのか、そしてその時にどのような意味をつけていくのか。

一度しかない人生の時の中で、居心地がよい人生を歩むためには自分を知る必要があります。どんな時がしあわせなのか、どんな時が楽しいのか、もっと自分に正直に自分を喜ばせることで自分のことをより深く実感できるようになります。

周囲をみては自分を我慢したり、周りの常識に振り回されて自分を歪ませてしまうと、しあわせや楽しいことまでわからなくなっていきます。一度しかない人生の中で、自分を中心に据えて生きていくことが自立の原点のように思います。

しあわせや楽しいを感じられる環境、心も安らぎ、体も寛ぐ、脳も活性化する、このような安心安全な暮らしを体験していくことで自立はさらに豊かに充実していきます。

引き続き、豊かな暮らしを自立の原点として子どもたちに譲っていきたいと思います。

教育の定義

先日、ある会議で千代田区立麹町中学校にユニークな校長先生がいることを知りました。名前は工藤勇一さんといいますが具体的にには、公立の中学校ながら宿題を廃止、定期テストの廃止、クラス担任の廃止を行いました。

なぜ公立の中学校でもそんなことができるのかと疑問に思う人も多いかもしれません。これまでの前例主義の常識が変革するというのは、並大抵のことではありません。

そもそも公立か私立かを前に、何のために子どもは学ぶのか、そこから目的を再定義し、学校をリ・デザインされたといいます。「何のために学校があるのか。私の答えはシンプルです。子どもたちが社会の中で生きていくためだ」と。

そして工藤さんはこのリ・デザインの具体的なイメージを周囲にわかりやすく理解してもらうために「現代の寺小屋」という言い方をしておられます。なぜなら寺小屋で社会を学び、そのまま社会に出て活躍するための真の教育が行われていたからだといいます。寺小屋では、先生が教えるというものを教育とは呼んでおらず子ども同士の学び合いこそを教育と定義していたと書かれているものもあったそうです。

本来、教育の定義を何にしているかで教育の手段も変わります。

そもそも教育の定義は、私にとっては社會のことです。現代の教育の定義は、個の学識のようになっていますが時代は進み、人工知能がこれから登場しますからますそれは意味のないものになっていきます。

そんな中、人間のもっとも得意な能力でこれから必要になるのは社會の中で協働し協力していくスキルになることが予想されます。チームで働き、支え助け合い、お互いを律しながら理念を優先して大きな目的を実現する力です。

個がバラバラで、自分の好き勝手なことばかりを要求し他を認めずに自分の権利と主張ばかりを押し通していてもチームになることはありません。自他を認めるためには、お互いに学び合い目的のために協力して互いに成長し仲間とよりよい社會を創造していく必要があります。つまり社會の中でどう生きていくかという「生き方と働き方」を身につけさせること、なぜなら生き方が働き方で働き方が生き方になりそれが社會で生きる力になるからです。

さらに対話を通して、多様性を認めることも社會を一円融合するために必要です。お互いの違いを尊重しながらも、本来の目的のためにそれぞれが学び合い折り合いをつけ居心地善いつながりを構築してく。つまり世界を平和にし、社會をよりよく発展させていくためのダイバーシティは必要なのです。

つまりこれからの生きる力を何と定義するか、これが明確であれば教育の定義は根底から変わります。時代時代に子どもたちが何の力が求められているか、それを予測して環境を見守るのが本来の教師の役割ではないかと私は思います。

私たちも社會の一員として、自分たちのなすべきことに専念していきたいと思います。

シェア=共有 (自然循環の仕組み)

シェアリングエコノミー(共有経済)というものがあります。これは一般的にはヒト・モノ・場所・乗り物・お金などを含む個人が所有する活用可能な資産をインターネットを介して個人間で貸し借りや交換することで成り立つ経済の仕組みのことをいいます。

このシェアリングエコノミーの市場は今後は国内でも急速に拡大していくと考えられ、一般社団法人シェアリングエコノミー協会と株式会社情報通信総合研究所(ICR)と共同で日本のシェアリングサービスに関する市場調査をしたところ、2018年度のシェアリングエコノミー経済規模が1兆8,874億円を超え、さらに2030年度には11兆1,275億円と約6倍になると予測されています。

本来、個人間や社会全体で「シェア(共有)」しようという考え方は、決して今にはじまったことではありません。今までの日本でも、支え合いや助け合いの中でそれは当たり前に行われていたものでした。それが次第に個人主義が進み、関係が途絶え、それを新たにビジネスとして担うようになってきたとも言えます。

特に今の時代のように、大量生産され物質文明が発展し物があふれかえってしまった世の中においては物を新しく買うよりも物を共有して活用した方がいいと考える人が増えるのも当然とも言えます。

一度しか使わないものを一度切りで購入して、要らなくなったら処分というのではそれにかかるコストも大きくみんなでシェアした方がお互いにメリットがあります。そのメリットをシェアする中で新しいつながりが生まれ、社会に助け合いや支え合いが生まれるきっかけになるかもしれません。

現在は、シェアするための法の整備や安全性などいろいろと課題もありますがそれも次第に改善されより一層ビジネスが多様に発展するのは時間の問題です。所有から共有へというのは地球の資源が次第に枯渇していく中で、市場も過渡期になり必要に迫られてきたからだとも言えます。そして人と人の間の「つながり」が歪んだ個人主義により断絶されてきた中で、そのつながりを新たにシェアし直そうという人間の心の本能もあるように私は思います。

これらのシェアの概念構造は、突き詰めていけばいくほどに自然の循環の仕組みが働きます。子どもたちに譲り遺したい未来へ向けて、色々と学び直して挑戦してみたいと思います。

 

 

グローバルリーダー

昨日、米国に本社を置くマッキンゼー・アンド・カンパニーでコンサルティングを経験し、医師でもありながら企業経営をされておられる方とのご縁がありました。

このマッキンゼー・アンド・カンパニーとはそもそも何かといえば、シカゴ大学の会計学教授だったジェームズ・マッキンゼー氏が、会計や財務に力点を置いたコンサルファームを1926年に設立しました。その後、1933年に入社した弁護士出身のマービン・バウワー氏が大企業の戦略策定に比重を置くスタイルを確立し、60年以上にわたってマッキンゼーをグローバル企業に成長させました。現在では米国、欧州、アジア、南米、東欧など世界60カ国に105以上の支社を持つグローバルな戦略系コンサルティングファームとして君臨し全世界の主要企業を対象に、年間1,600件以上のコンサルティング・プロジェクトを手掛けている企業です。

最近は、グローバルリーダーという言葉もよくきくことが増えてきました。このグローバルリーダーとは、国や地域、文化を跨ぐような多様性のある環境で、ビジネスリーダーとして活躍できる人材のことを指しています。つまりは、グローバル化した世界において世界の方々と共に活躍できるような世界的リーダーの一員ということです。

マッキンゼー出身の日本人の経営者に大前研一さんがいます。その方の言葉には、このグローバルリーダーの資質を語っておられるように思います。そのいくつかをご紹介します。

「国に頼らず、会社にも頼らず、日々勉強を続けることで、自分の「名札」にいかにして「値札」を付けるかを常に考えて働くこと。それこそが真の働き方改革であり、そういう人材はいつ、世界のどこへ行っても活躍し続けることができるだろう。」

「ロジカル・シンキングは、答えの範囲を取捨選択して狭めていくときには有効だが、それでは発想は広がらない。誰も気づかないような答えを出すときにものをいうのは、想像力や直感だ。」

「問題はあらかじめ模範回答があると信じて、それを見つけると問題は解決したと安心してしまう。しかし、こういう頭の使い方はまったく役に立たない。なぜなら、21世紀の問題の答えはひとつではないからだ。」

「コンサルティングでも、複数のコンサルタントを雇っている会社の仕事はしないことにしている。それから、「ウチの会社はこういうことがやりたいので、A社さん、B社さん、C社さん、提案書と見積書を出してください」という入札仕事も絶対にやらない。「大前さんしかいない」と言ってくれなければ、考え始めない。自分の人生の大切な時間を割いて、相手のために命がけで考える神聖な仕事である。量販店の売り物ではない。」

「私のコンサルティングの基本は「自分が社長だったらどうするか」である。現場に足しげく通って綿密なフィールドインタビューを繰り返し、経営トップが知りえないような情報をかき集めて、問題点の背景にある原因のさらにまたその原因や課題を炎り出していく。そして自分が経営トップならどう対処するかを客観的に判断して、具体的でわかりやすい提言をひとつにまとめていく。そうやって経営者にアドバイスすれば、私も経営者もお互い悔いが残らない。結果として、そのアドバイスが間違っていたとしても、「あなたは本当に私のために、私に代わっていろいろ考えてくれた。私もそれに基づいて決断した」と相手側も納得してくれるからだ。」

他にもありますが、世界で共通する一流のビジネスマンたちは常に同じ土俵で物事を語っておられます。最後に、グローバルリーダーに関する大前研一さんの言葉です。

「グローバルリーダーといっても、スタイルは決して同じではない。だが、共通点もある。それはものごとの本質を見抜き、答えを自分で考え出せるというところだ。」

答えを自分で考えだすということは、オリジナルであるということです。そのオリジナルとはまさに変人であるとも言えます。坂本竜馬も、吉田松陰も、歴史上に現れるすべての時代のリーダー(変革者)たちはすべてオリジナルそのものでした。

子どもたちが安心して自分を全うできるようグローバルリーダーから学び、オリジナリティの追求を楽しんでいきたいと思います。

発達の最適化

先日、ある会議で脳科学の話しになり「シナプスの刈り込み」という言葉を知りました。脳科学辞典にはこのように記されています。

「シナプス刈り込みとは、必要なシナプス結合だけが強められ、不要なシナプス結合は除去される現象である。発生、発達期の動物の脳内ではある段階になると神経結合(シナプス)が形成され始める。生後間もない時期の動物の脳では、過剰にシナプスが形成され、その密度は成熟動物でみられるよりもずっと高い。生後の発達過程において、このうち必要な結合だけが強められ、不要な結合は除去されて、成熟した機能的な神経回路が完成する。この過程は「シナプス刈り込み」と呼ばれており、生後発達期の神経回路に見られる普遍的な現象であると考えられている。」

そもそもこのシナプスとは、神経細胞と神経細胞との接続部、その接続関係のことをいいます。この神経細胞のことをニューロンといい、それをつなぎ伝達される興奮の増幅や抑制をシナプスが司っているわけです。

人は生まれてから最初に脳の神経細胞を発達させ膨大な量のシナプス結合をしていきます。果てしなく膨大な結合をしていきますが、ある一定のところまで発達したら今度は不要なものだけそぎ落としていくという具合に最適化していくのです。

そうすると自分の人生に必要なだけの神経回路を構築し、その結合部の通り道を標準化して成熟した場所を用意していくのです。まるであらゆる混乱した雑多な都市を、シンプルに自分に最適な都市計画通りに新たな都市を構築するかのようにです。

それでも数百億個のニューロンを維持するのに、人間は大変なエネルギーを消費していきます。人間は意識を維持し活動するエネルギーの20パーセントは脳で消費されているとも言えます。膨大な情報を処理する脳のことを改めて科学で知ることは私たちの人類の発達の仕組みを知るためにも効果的なことです。

話をシナプスの刈り込みに戻しますが、このそぎ落としていく作業というのは人生においても同様に人格を磨く中で同じことが行われます。幼少期、少年期、青年期、壮年期、老年期などをそれぞれの人生の期間において様々な体験をし、自分に必要なものかそうではないものかを刈り込んでいきます。

膨大な体験を通して、自分に必要かどうか、不要かを自己認知してそれを最適化していくなかで人格が成熟していくからです。その刈り込みを、誰かによって刷り込まれると本来刈り込む必要があるところをそのまま残し、そうではない不要なものばかりが残ってしまうこともあるように思います。

脳がバランスを崩すのは、本来の最適化が阻害されるからかもしれません。子どもたちが安心して発達するには、この刈り込みを自然に行われていくための工夫が必要ではないかと私は思います。それはそのままでいい、素のままでいいという状態において、本人自身が善悪是非を問わず、自らそれをやり遂げたときに成熟に向かっていくからです。

安心した環境や見守られているなかで信じられていればいるほど、刈り込みは自然に和していくように思います。それが抑圧されたり、恐怖を与えられたり、不安な状態は刈り込みもまた歪になっていくのかもしれません。

子どもの発達と脳科学を参考にしながら、本来の人間の成長を洞察してみたいと思います。

役割を果たす

ITを使った仕事には、上流工程と下流工程というものがあります。上流工程というものは、SEと呼ばれるシステムエンジニアが行いますがこれは高度な技術だけではなく、要件定義から設計、コミュニケーション、そして大きな責任やプレッシャーがかかります。

そして下流工程というものは、そのSEの指示に合わせて作業を正確にスケジュールに合わせて取り組んでいく人たちです。これはITだけに限らず、家を建てるとすぐにわかりますが棟梁がいて、大工さんや左官さんがいて、今では業種がさらに細分化し、建築士やコンサルタント、ディレクターなど多くの職業が参加します。

しかしよく見ればすぐにわかりますが誰が上流工程で誰が下流工程をやっているのかがわかります。仕事はすべて協力しなければ成り立たないのは前提ですが、やっている仕事の種類と責任が異なってくるのです。

例えば、大工さんであれば日給や時給で働きます。朝8時からきっちり6時に終わります。この短い時間に如何に効率よく質の高い仕事をするかに集中していきます。その作業を取り仕切る棟梁はほとんど作業はしません。その分、その作業する人に的確な指示を与え、その指示通りにできているかを把握し管理して手助けをします。棟梁の給与は時給ではありません、なぜなら作業をする時間も効率も求められず求められているのは、幅広い知識や経験、そして家主や職人たちとのコミュニケーションが必要になります。つまりは作業を理解できるのは当然のことながら、その作業を超えて大切な役割を果たしているからです。

この仕事はとても難しく、作業する人たちの気持ちをまとめあげたり、協力者を探してきたり、ケガや病気を未然に防いだり、本質を維持したり、理念からブレないようにしたり、あらゆる全体のことに尽力していきます。それを時給で計算することができず、まさに四六時中神経を使い、常に学び続けて成長しなければ時代の変化やニーズに対応していくことができないからです。

しかしだからといって今の時代は、スペシャリストの一名だけですべて完璧に対応していくことはできません。多様化した世の中では、あらゆる意見を吸収しチームで働くことを目指す必要があるからです。

このチームとは、役割は分かれていてもみんなで自主協働して一つのことに取り組んでいくということです。その中には、上流工程の仕事もあれば、下流工程の仕事もあります。しかし、上流と下流が手を取り合って、みんなで智慧を出し合ってチームで働いていく。もちろん、給与も時間も立場も異なりますがお互いの仕事を尊重して助け合っていくことでチームはさらにより良いものへ発展していきます。

チームの成長こそが、仕事の質を高め、仕事の成功を実現するのです。

個人主義が蔓延し、権利ばかりを主張する人も増えていますが本来は個人だけで生きていける世の中などはありません。多くの人たちのお陰様で活かされて生きていくことができるからこそ自分も社会のチームの一員として、まずは所属する組織のチームにどれだけ貢献しているか、そしてそのチームがどれだけ社会に貢献しているかに自主協力し協働していくことが役割を生きるということです。

人間としての成長とは、この役割意識を磨いてご迷惑をおかけしていることを自覚しご迷惑をおかけしないような人になっていこうと人格を高めていくことかもしれません。

社會や会社、チームの中での自分の本当の役割とは何か、突き詰めていく人こそが大切な役割を確実に果たす人になるのでしょう。自分とは何か、何が期待されているのか、役割意識を正しく持つことがその人物の成長を決めていきます。

役割の真実をこどもたちに伝えていきたいと思います。

 

感情の掃除

人間は感情の生き物だといわれます。感情はあるがままに感じるもので、それを我慢したり無理をしたりするとかえって負の感情として残るものです。世の中には、口が悪い人がいて傲慢に上から大声で怒鳴るように感情をぶつけてくる人がいます。こういう人に対して苦手な人が多いと思いますが、それを我慢していたら無理がたたりパワハラで苦しくなったりするものです。

また怒鳴っている本人は、自分のイライラや怒りが周りに多大なネガティブな印象を与えた事に意外と気付いていなかったりします。その一言で、すべてを台無しにしていることを自覚しておらずそれで人生が暗転していくことに気づいていないのです。

台無しという言葉の由来は、仏像などを安置する台座がなくなれば仏像の威厳がなくなってしまうことで面目がないとか形をなさなくなるという意味です。つまりはその人自身がせっかく善いところが出ていても、その一言や怒りの感情をぶつけることでそれが消え失せてしまうことです。

一般的には、それらの感情をぶつけられても言われた方は我慢をして諦めようとしますが実際にはいつまでも心の中に残りますし、いつまでもその言葉を根に持つことになります。感情が消えないのです。その理由は、嫌だったことをそのままに受け止めなかったことから消えなくなります。

嫌だったこと、憎かったこと、つらかったこと、それを大声の人の恐怖で我慢するからそれが残るのです。言い返すことは難しいかもしれませんが、憎いことは憎い、嫌なことは嫌だと我慢せず吐き出すことでその感情は相殺されていくものです。

言った方は台無しになったことも気づかず、自分が酷いことを言って信用を失ったことにも気づかずにあっけらかんとしていますが、言われた方はいつまでも覚えているものです。

言われた方も、それで傷ついてそれを恐れになりトラウマになれば感情はいつまでの残りますからそうならないように気を付けなければなりません。

感情は感じたものに対して素直に味わい、自分の感情を吐露するときにゼロベースにリセットされます。大事なのは、感情を吐露することで本心を我慢しないということです。それで消し合うことで、再び素直な自分を維持することができるように思います。

「一方的に切れたもの勝ちや怒鳴ったもの勝ち」みたいな歪な価値観もありますが、実際に大きな損をするのは切れた方ですし怒鳴った方です。特に、最近の研究でも不平不満や愚痴、切れる人は肉体が老けるのが非常に早くなるということもはっきりしてきています。

自分を誤認せず、自分自身のことをゼロベースで理解し直すことは自分というものを素直にして運を高めていくためには大切な素養です。足るを知らず、いただいた好運やご縁、おかげ様や感謝を忘れると人間関係に必ず錆や綻びが出てきます。自分が正しいと狭い了見になっていないか、相手が悪いと決めつけて真実を見失っていないか。人間は常に自分を素直にすることに真剣にならなければ運は好転していかないということでしょう。

そして錆を磨いて綺麗にするのも掃除ですが、感情を素直に消化していくことも掃除の一つです。感情の掃除をしながら、楽しく豊かで美しい日々を味わっていきたいと思います。