スタートアップの本質

昨日は、アニス・ウッザマン氏からのお誘いもあり郷里の嘉穂劇場で世界60か国で開催されているスタートアップワールドカップの九州予選を見学する機会がありました。今回の予選ではスタートアップを目指す10社から4社ほどに選定され、アメリカである決勝に進出するまで勝ち上がっていきます。

プレゼンもユニークなものがありましたが、15分間ずつ講演されたミドリムシで有名なユーグレナの出雲充社長や、マイクロソフト社の澤円氏のプレゼンテーションです。

出雲社長からは、努力し挑戦することの価値を語られ、澤氏からはマインドセットや生き方について語られました。まさにスタートアップの本質とは何か、何のために起業するのか、そしてどうあるべきかという原点を語られておられました。

お二人に共通していたのは、できない理由を考えていてもできはしない。それにやれない理由などは何の障害にもならない。人生は一度きり、自分の生き方を貫くことに信念をもって正直に生きることというように私は感じました。

自分を貫いていくことはとても大変ですが、人生において何よりも大切なことです。それは決して頑固になれということではありません。自分を信じ続けるために努力と挑戦を続けていくということです。

誰もが不可能と思えるものでも、誰もが失敗するといったことであっても、自分自身が信じたものを自分自身が最期まであきらめずにやり切ること。後悔をしない生き方をしていくということです。

まさにこの地、この場、この空間で語られるスタートアップはかつての挑戦者たちへの追悼であり、新しい起業家へ向けたエールでもありました。

故郷でその情熱を燃やし、一期一会に生きようとする志をもった方々が集まりこれから一緒に何を挑戦するのか。これからの新たな時代の幕開けがとても楽しみです。

オリジナリティ

東京の渋谷に20年ほど住みながら福岡の故郷の行き来を毎月何度もしているとわかってくることがたくさんあります。

都会に長く住めば住むほどに、故郷の良さが分かってきます。最初は都会に憧れていてもそのうち地元の住みやすさや風土美の美しさに心が惹かれていきます。都会か否かかという比較がここでしたいわけではなく、それぞれの良さが分かってくるのです。

実際に地元に帰ってくると、お店などはみんな都会にあるような新しいもので似たようなものを真似してはそこで流行っています。都会では当たり前であることが田舎ではないので地元ではきっと新鮮なのでしょう。フランチャイズなどの大手企業の戦略もありますからより一層その傾向が強くなっています。そこではもともとの地元の個性よりも、都会的な似たような店舗デザインや料理が流行っています。

東京だと、日本中のあちこちの料理が食べられ地方のイメージの店舗デザインが多種多様にあります。さらには、田舎でしかないような建物を移設したり、自然物で装飾したりとこだわりがあります。おかしな話ですが本来は田舎や地元では当たり前のものを都会では採用し、逆に田舎では都会にしかないようなものを採用しているのです。

先日も東京から来たお客様を地元で最近人気で流行っているというお店に案内しましたが食べ終わったあとの感想で「表参道にありそう」とか「銀座に似た店があったよ」などを言われました。それだったら都会でいった店の方がいいという具合です。

わざわざ都会から田舎に来てまで都会的なものを体験しても都会の人は喜びません。同時にいくら都会で田舎でしかできないような自然の体験をしたとしても田舎の大自然には敵いません。

私は都会と地元を行き来していますから、都会にしかない良さ、地元にしかない良さも知っています。しかし実際にここまで都会と地元が混ざり合ってくると個性がなくなってきていることがわかります。日本人は個性をなくしていくことばかりにすべてをつぎ込んでいきますがもっと自分を信じて尖っていくべきです。世界ではそういう尖った人たちがその地域の魅力を引き出して掘り起こしていくからです。個性とはそのように磨かなければ出てこないのです。

そして明らかな個性がなければ、都会でも地元でも魅力はなくなります。どのように個性を磨くか、それが都会か地元かではなく大切な要素になるのです。子どもたちも同様に、都会的か地元的かではなく個性を磨き個性を発揮することで良さを出していくのが本来の魅力の発掘です。

引き続き、地元でオリジナリティを追求し風土の魅力を最大限に引き出していきたいと思います。

 

優先順位

経営者には勇気というものが求められるものです。それは優先順位を決める必要があるからです。生き方とは、優先順位を守るということですから具体的な経営には必ずその優先順位を選択するための勇気が出てきます。

経営学の父と呼ばれたPFドラッカー氏はこう言います。

「優先順位の決定には、いくつか重要な原則がある。すべて分析ではなく勇気に関わるものである。第一に、過去ではなく未来を選ぶ。第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。第三に、横並びではなく独自性をもつ。第四に、無難で容易なものではなく変革をもたらすものを選ぶ」

このどれもが先延ばしではなく、曖昧ではなく、本来の理念を定め何を今何にもっとも自分を使うべきかということが問われます。自分自身が決めた理念や初心を貫くと決めたなら自ずから優先順位は決まってきます。目の前の諸事に流されるのではなく、本来自分が最も決断をし実行すべきことが何かがはっきりとするのです。

そして優先順位をはっきりさせて実行するときにこそリーダーというものの存在の価値が明確になってきます。そしてPFドラッカー氏はリーダーの心得を「リーダーたることの第一の要件は、リーダーシップを仕事と見ることである」と説きます。そしてこういいます。

「リーダーシップとは、組織の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に確立することである。リーダーとは目標を定め、優先順位を決め、基準を定め、それを維持する者である」

まさに優先順位を守り続けるものこそがリーダーシップだということを定義しています。その上でリーダーに必要な欠かせない大切な資質をこういいます。

「リーダーたる者にとって最も基本的な資質は、真摯さである」

この真摯さというものは、自分自身を信頼することです。言い換えれば、自分の魂や心に嘘をつかない、自己自他に誠実であれというのです。つまり、リーダーとは生き方を優先し、働き方を導けということだと私は思います。

謙虚であることは、勇気が必要です。自分自身であるために常に日常で試されているものに立ち向かい、日々の試練によって理念や初心を磨き続けていかなければならないのです。

そして勇気は冒険がつきものです。冒険するのをやめたとき、人は同時に謙虚さも失うのかもしれません。

「日常化した毎日が心地よくなったときこそ、違ったことを行なうよう自らを駆り立てる必要がある。」
リーダーの生き方は、優先順位であることを改めて自戒し、納得のいく日々を歩んでたいと思います。

場道家の思い

昨日は福岡県朝倉市比良松で手掛けている古民家甦生の写真撮影を行いました。改めてビフォーアフターを体験していると、家が磨かれること甦ることに大きな仕合せを感じます。

私は建築家でも設計士でもありません。ただの人です。しかしそのただの人が、家と出会い、家に指導してもらい、家に磨いてもらえる。その家の持つ徳が引き出されていくことで私自身の徳もまた引き出されていく。まさに日本伝統の錬磨や研磨のように、お互いに磨き合える存在に出会えたことに何よりも幸せを感じます。

おかしなくらいに本物にこだわり、狂っているといわれるくらい家が喜んでいるかどうかにこだわっていく。ただの変人のようになっていますが、やはりそれでもそれだけ魂を篭めて取り組んだ仕事には空間に余韻が残ります。

私は大工でもなければ左官でもなく、職人でもありません。

しかし魂を篭めてその家と共に甦生し世の中を一緒に変えていこうとする志だけはあると信じています。志が一体何の役に立つのかと思われるかもしれません。目にも見えず、何もしていないようにも感じられます。志は、その「思い」にこそあります。思いがあるだけで何ができるのかといわれても、思いがなければ何もはじまらないとも言えます。

「思い」をどれだけ純粋に磨いたか、「思い」をどれだけ本気で高めたか。ここに私は魂の仕事の醍醐味があると信じているのです。

家が甦生し、その居心地の善い空間に佇んでいるとそこに永遠を感じます。家の暮らしがここからはじまると思うと、ワクワクしうれしく豊かな気持ちになります。家主のご家族が、一体どのような物語をここから紡いでいくのか。いつまでも福が訪れてほしいと願い祈る気持ちが滾々と湧いてきます。私が民家が好きな理由はここにあるのかもしれません。

私の本業は子どもの仕事をしているものですが、子どもの仕事といっても色々とあります。私の定義する子どもは、いのちの未来です。その子どもたちを見守る環境をつくることが本業で、私はそれを祈るときに仕合せを感じます。

いつまでも空間に子孫の繁栄を願う徳が活き続けられるように、私は場道家としての役割を真摯に果たしていきたいと思います。

いのちの音

昨日は、聴福庵でスイス人のトロンボーンの奏者と日本人の16歳の歌手のセッションがありました。言葉も通じず、年齢差もかなりありますがその二人が音楽を通して新しいものを創造する場に立ち会えたことは仕合せでした。

今回のテーマは、家の声を聴くことでしたがとても印象的だったのは奏者が即興で家の中のあちこちに音を聴かせ同時に家の声を響かせ聴くというセッションでした。家の中にある古い道具たちが共鳴しているようで、みんなで音を響かせようと誘っている様子に楽しい気持ちが沸きました。

また歌手の方は、むかしの懐かしい唄をアカペラで奏でてくれてその唄によって心に情景や情緒が沁みこんできました。純粋な想いや澄んだ歌声に家も参加者も魅了されました。

幼い子どもたちも一緒に音楽を楽しみ、色々な場所に移動しては色々な角度から熱心に聴き入っている様子に音楽の可能性を改めて学び直しました。

よく考えてみると、私たちの暮らしは様々な音に恵まれています。生きていれば、色々な音を感じています。このキーボードを打つ小さな音たちや、私の呼吸の音、そして心臓の鼓動、鳥たちの声や朝陽が昇る音、そして地球の音、あらゆるいのちの音を私たちは日々に聴いているのです。

日々に人に出会えば、それぞれの仕事の道具たちが奏でる音、そこで働く人たちが一緒に語り合い協力する音であったり、争いや不満の競争や孤立の音であったり、言語ではなく心は音で聴いています。

音を静かに聴けば、本当の音が聴こえてくる。

耳がテレビや電子音、その他の雑多な忙しい生活でセンスが衰えていきますが本来の私たちの耳は心を通じていのちの音を聴き分けていたのでしょう。

改めて音楽の深さや魅力を知り、いのちの接し方があることを学びました。子どもたちにいのちの音が伝承できるようにこれからも学び続けていきたいと思います。

 

音を楽しむこと

古民家甦生を行いながら出会った道具の中に、様々な音を奏でるものがあります。音は、それぞれに独特の響きがありうっとりするものや、心が澄まされるもの、気持ちが引き締まるもの、様々です。

それらの音を心で聴き入っていると、なんともいえない楽しみに出会います。まさに音楽の原点はこれらの音の響きを味わい盡す中に存在しているように私は思います。

例えば、現在古民家でご縁があって飾られたり祀られていたりする道具には拍子木や、銅鑼、おりんや風鈴、団扇太鼓や陣太鼓などもあります。人に何かを知らせるために用いられたり、風情を味わうために用いられたり、魔除けで使われたり、お経を讀むときの法具であったり、御祭りのときや戦場での合図であったり、音はそれぞれの用途によって様々な音色を奏でます。

古来、私たちの民族は様々な音を楽器にしてコミュニケーションを行っていました。言葉がたとえ通じない生きものたち同士であっても、その音の響きから通じ合う共通の感覚を持ち合わせていました。

優しい音、怖い音、警戒の音、安らぎの音、危険な音、それらの音の本質を見極め、音を暮らしの中に取り込んでいきました。現代はメロディーやリズムばかりに目が行きがちですが、本来の耳で聴く原始的な音に対してもっと懐かしみ親しむ必要があるのではないかと私は感じます。

なぜなら音は、私たちのいのちの姿の顕現したものだからです。生き方に触れて人はいのちと出会います。いのちは音であり、音がいのちを伝えますから音を楽しむことはいのちを楽しむことにほかなりません。

本日は、不思議なご縁に導かれて聴福庵でスイス人の音楽を愛するミュージシャンと地元で4歳頃から唄を歌い、人々を唄で仕合せにしたいと夢見ている若い日本人の歌手がセッションをします。言葉の壁も超え、歳の差も超え、音を中心につながりみんなと音楽を楽しみます。

日本には天地開闢から八紘一宇という理念がありますが、世界人類が平和であることを祈るのにこの「音楽」はとても美しく素晴らしい和を奏でる道具であることは誰もが認めるところです。聴福庵が子どもたちの未来に向けて、一つの舞台として活躍してくれるのが楽しみです。

天敵と不快

庭木の剪定をしていると、様々な毛虫がいてその毒による皮膚炎になることがあります。毎回毎回、つい暑いからと素肌の出たままの洋服でやってしまいその後に皮膚炎になり痒い思いをするのですがなぜか予防することを忘れてしまいます。

この毛虫は、蝶や蛾の幼虫ですが卵から成虫になるまでの間に何十万もの毒針毛を持ちます。特に身近でよく私が被害を受けるのはチャドクガで、この幼虫の毒針毛はわずか0.1ミリの微細な毒針で、幼虫が持つ毒針は50万本あるともいいます。

この毛虫ですが一般的に毛が多いものを「毛虫」、毛が少ないものを「いも虫」と呼ぶことが多いようですが、明確な線引はされていないようです。

それに日本に記録されているだけでも数千もありますが毛虫はその中でも数が少なく2割程しかありません。その20パーセントの毛虫のうち、人を刺すなど害のある「毒毛虫」はそこからまた2パーセント程度しかいません。

しかし身近にいつもこの毒毛虫がいるというのは、日本人が身近で愛でる植栽や樹木と共にこの毒毛虫が広がっているということかもしれません。種別の量よりも、実際に身近に存在する量の方が多く感じますから私にとってはこの毒毛虫のチャドクガやイラガの方が年中見かけます。

これらの蛾の天敵は、寄生蜂や蠅、スズメバチや鳥ですがそれらは毒は関係がありません、むしろこの毛虫の毒針は人間に影響がありますからひょっとしたら人間対策なのかもしれません。

なぜその昆虫が発達の過程で毒をもつようになったのか、まだまだ未解明な部分がたくさんあります。天敵が不快と思えるような姿に進化していくことで、食べられないように工夫してきたのでしょう。

そう考えると、人間にとって不快と思えるような生きものや昆虫などが人間のことを天敵と思っているのかもしれません。

身近な自然から学び、子どもたちに一緒に生きてきた生物たちの智慧を伝承していきたいと思います。

 

e-ZUKA Tech Night

昨日は、故郷で一緒に協力している友人たちの会社の実施する「e-ZUKA Tech Night」に参加してきました。すでに49回の開催の歴史があり、場の雰囲気の中に当時から連綿と続いてきている初志を感じることができました。

過去のアーカイブを読んでいたら「飯塚から世界へ!をキーワードにソフトウェア技術者たちが集結し、テクノロジーについてディープに語り合う場、e-ZUKA Tech Night。」と書かれている文章がありました。

実際に参加すると、単なる技術的な話だけではなく若い技術者を温かく見守り育成していこうという雰囲気に包まれていました。九州工業大学や近畿大学の教授の先生や、生徒たちも参加していたり、専門学校や社会人まで、自由に参加し一生懸命にそれぞれのプレゼンテーションや自分の研究発表、ライトニングトークなどを熱心に温かい雰囲気で笑いあり、感動ありで一緒に学び合っていました。

この友人の会社の創業メンバーだった故高橋剛さんがはじめてコツコツと取り組まれてきたイベントですがそこから大勢の人たちが学び巣立って日本、また世界で活躍しています。まさに飯塚から世界への言葉通りに、若い技術者たちが志を持って技術を学び思いをつなげてくれています。

「何のために技術を学ぶのか。」

故高橋剛さんが私たちにそれを語りかけてくる気がします。彼は「コードに魂が宿る」とも言っていましたが、そこに日本の、いや、日本人のモノづくりの原点を感じます。

人格を磨いた人間が、人間を修め、善き技術によって世界をさらに今よりも美しく豊かにしていくということ。大切なのは、その技術を用いる側も、育てる側も、守る側も技術者たちだということ。

彼の志に触れることで、若い人たちはますます技術者であることに誇りと自信を持っていきます。彼は志半ばで斃れましたが、その遺志は彼の仲間たちや教え子たち、有人たちが受け継いでくれています。

私も現在、故高橋剛さんの遺志を実現するための学校を創っている最中ですが想いや雰囲気を感じる取ることができました。私も自分の場で純粋な想いと共に彼の遺志と共に飯塚から世界へ挑戦していきたいと思います。

 

社会を保育する

渋沢栄一がどのような人物たちを育成していたか、そしてどのような目利きであったのか。それを残された言葉から洞察してみると、その観点が如何に道徳を重んじたのかということがわかります。

いくつかご紹介したいと思います。

「商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守るということだ。」

「一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。」

「真の富とは道徳に基づくものでなければ決して永くは続かない。」

商売はどうあるべきかという信条が観えます。また、どのような情熱で仕事に取り組むべきかについてはこういいます。

「ただそれを知っただけでは上手くいかない。好きになればその道に向かって進む。もしそれを心から楽しむことが出来れば、いかなる困難にもくじけることなく進むことができるのだ。」

「そもそも多能は聖人の本色ではないとしても、多能なるくらいの種々の経験ある人にあらざれば真正の聖人となり得ざるべし。」

また日本人としてどう生きるか、その社会人としての生き方としてはこういいます。

「日本では人知れず善いことをするのが上である。自分の責任はもちろん、他人の責任までも追うことが武士道の真髄とされる。」

自他に責任を持つことが武士道である、日本人ならわかる言葉だと思います。また自己修養についてもこう言います。

「心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば、心は穏やかで余裕を持つことができるのだ。」

「限りある資産を頼りにするよりも、限りない資本を活用する心掛けが肝要である。限りない資本を活用する資格とは何であるか。それは信用である。」

信用できる人物かどうかは、以上のような言葉から何を観ていたのかがわかります。同時に社會をどのように育てるか、それをこういいます。

「一家一人の為に発する怒りは小なる怒りにて、一国の為に発する怒りは大いなる怒りである。大いなる怒りは、国家社会の進歩発展を促す。」

「余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする。」

利益本位ではなく、これは社會のために必要な事業であると思ったらその事業を起こし、育て投資し、それを助ける。まさに、世界全体、国家全体、社会を保育するためにすべてを懸けた人生だったようにも思います。

そしてどのような人物だったか、この言葉から直観します。

「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」

産業人として、渋沢栄一の初心の真心を学び直したいと思います。

 

産業の本質

かつて「近代日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一がいます。この人物は意欲ある有能な人材の後ろ盾になって500を超える会社の創設にかかわっています。現在でいうスタートアップするための応援を行った人物とも言えます。

このスタートアップという言葉は、日本のビジネスの場では「立ち上げ」や「起業」などの意味で使われています。そしてビジネスの場で使うスタートアップという言葉はアメリカのシリコンバレーからきたものだといわれます。

日本国内では「比較的新しいビジネスで急成長し、市場開拓フェーズにある企業や事業」として使われているといいます。スタートアップは単に新しいと言うだけでなく「世の中に新しい価値をプラスし、人びとの役に立つ」ことが前提になっています。そこにイノベーションや社会貢献を目的にしているかというのがスタートアップと定義されます。

またよくスタートアップと比べられる言葉にベンチャーというものもありますが、これはVenture Capitalなど投資をする企業や人のことを指すといいます。日本でいうベンチャーは、和製英語になっていて新しい技術や知識を軸に、大企業では実施しずらい小回りの効く経営や、思い切った決断をする中小企業のこと指しています。

そのどちらも大切なのは、それを起業する人物たちです。

どのような人たちが何をするのか、その人物を見極めてその人物が正しく産業を興し人類の真の発達に貢献する人たちにする。それを渋沢栄一は、保育したように思うのです。このような人物が明治国家誕生のための父たち(ファーザーズ)を育てました。

例えば、製茶の父や、養蚕の父、製糸業の父など、ファーザーズを誕生させていったのです。今の日本の産業が発展したのは、この明治の国造りのときに活躍したスタートアップやベンチャーの志士たちを見抜き、そこに偉大なインスピレーションやアドバイス、バックアップを行ったことで実現したのです。

個々の業績ばかりに注目されていますが、実際には人間を教育し育て、そして保育し、その人物が国家や世界のために活躍するように導いた人物があったから日本をはじめ世界の産業が発達したのでしょう。

目的が明確になっているからこそ、スタートアップもベンチャーもその本質が実現するのでしょう。道徳と経済の一致、論語と算盤を説いて経営者を導いてきた渋沢栄一の生き方にとても共感します。

最後に、渋沢栄一から学んだ言葉です。

「人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は善人となる。」

すべては原点、何のためにやるのかがあっての企業であることを、子どもたちに伝承していきたいと思います。