世の中で一番

心訓七則というものがあります。福沢諭吉が弘めたものですが作者は誰かはよくわかっていないようです。どちらにしても、これはとても心の持ち方に対して大切な教えが入っているものです。

一、世の中で一番楽しく立派なことは、一生を貫く仕事を持つことである

一、世の中で一番みじめなことは、教養のないことである

一、世の中で一番さびしいことは、仕事のないことである

一、世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことである

一、世の中で一番尊いことは、人に奉仕して決して恩を着せないことである

一、世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことである

一、世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことである

この「世の中で一番」というのは、他にはないものということです。つまりそれ以外はないものという意味になります。例えば、ある人は世の中で一番大切なものは利他であるとします。すると、それ以外は実は必要ないとしているのです。またある人は、世の中で一番大切なものは義だといいます。それも同様に、それ以外は自分の人生においては取るに足らないものということです。

人間は、誰もが初心というものを持っています。他の言い方では業と呼んだ人もいます。その人の使命、人生の役割がその人の世の中で一番であるのです。

この心訓七則ですが、ここでは強調するために世の中で一番と使われていますからこんなに一番ばかりが並んだら本来はおかしなことになります。だからこれは並べて読むものです。

「一生を貫く仕事を持ち、教養があり、他人の生活と比較せず自分を生き抜き、利他に善き、すべてのものにいのちがあるものとして愛情深く接し、正直に生きていくこと。」これがもっとも世の中で一番の生き方であるということを感じさせるためのものです。

理想の生き方として、日本人の伝統的な美しい暮らしを営む人々が世の中で最も尊いと言っているようにも思います。そこから離れないこと、そういう人間にならないように心がけようと戒めているともいえます。

よく考えれば、この逆は「仕事がなく、教養もなく、他人とばかり比べては自分のことばかりを優先し、物を粗末にして嘘ばかりついている生き方。」これを戒めているのです。

学問をしていくのは、志を磨き、精神の働きを高めるためでもあるといいます。まさに、人間は生き方が仕合せを決めますから時代が変わってもその本質は変わりません。しかし環境や場が濁ってくると、それもできなくなってくるのでしょう。

場を磨き高めること、これらの学問の本懐を守り続けることにもつながります。子どもたちが安心して素直に正直に成長していけるように、見守り続けていきたいと思います。

徳積の一灯

仏陀に「貧者の一灯」という物語があります。これは簡単に言うと古代インドの阿闍世王が招待した釈迦のために、宮殿から祇園精舎への帰り道を大量の灯火で明るく照らそうと布施を声掛けします。貧乏な老婆も自分も釈迦のためにとお金を工面して一本の灯火を布施する。阿闍世王の灯火は徐々に消えていったが、老婆の灯火は朝まで消えなかったという話です。

それぞれの解釈の仕方がありますが、この物語はその中身がとても重要な話です。食べるものがなくて貧しくても布施をしようとしたこと、釈迦の教えを説いて布施をする人を集めたこと、単に油や火をつけたのではなく永遠に消えない信仰という火をつけたこと。どんな大量の油や火よりも真心を籠めて徳を積んできた火は尊いということ。世の中のために世界のために未来永劫の子孫のためにという偉大な心で取り組んだこと。ないからできないではなく、徳を実践しようと心掛けたことなどがあります。

釈迦は、説法もしますが実践をされた方です。それは姿からもわかります。布切れ一枚しか持たず、道を歩み、最期まで徳を実践されました。この徳は、仏教では布施ともいい、わかるよりも行動で示されました。

有名な布施には、「無財の七施」というものがあります。言い換えれば、徳を積むための「七つの実践」ということです。眼施、和顔施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施の七つです。

眼施(がんせ)は、常にやさしいまなざしでいる実践。

和顔施(わがんせ)は、いつも和やかに笑顔で人と接する実践。

言辞施(ごんじせ)は、優しい言葉で人と接する実践。

身施(しんせ)、自分の身体で奉仕する実践。

心施(しんせ)は、他の人に対して心配りをする実践。

床座施(しょうざせ)は、席や地位を譲る実践。

房舎施(ぼうじゃせ)は、自分の家や部屋を提供する実践のことです。

これは、他人を自分だと思って大切にする実践。自他一体の境地を顕すものです。私たちは自分を大切にするように他人を大切にするときに徳は積めます。決してお金をたくさん持っていなくても、財産に恵まれていなくても徳は積めます。言い換えるのなら、ないからこそ徳の実践はさらに豊かになります。

簡単にできないからこそ磨かれるものであり、それがもっとシンプルで根源的であるからこそ私たちは迷いなく生きていくための真理に近づいていくともいえます。

大切なのは真心で「一緒に積んでいこう」「共に磨こう」というあるないにかかわらず、実践するという純度の高い一灯に真の意味があるように私は思うのです。この貧者は果たして本当に貧者なのか、真の豊かな心を持つ「心の長者=仏陀」ではないかと思うのです。

昨日のブログで心の長者のことを書きましたが、この心の長者は心の豊かな者のことです。そしてこの心の豊かな者の正体は、この貧者の一灯の実践をする人ということだと私は確信しました。まさに仏陀は、誰にもできることであり、みんなが勇気を出して踏み出せばそこには仏陀があるのです。

徳の仲間ができることは、仏陀を産み出すことであり仏陀はそれを同じ人として平等なところで語っているのです。

これからいよいよ地球環境の変化の著しい人類の行く末を決める大きな分岐点に、この貧者の一灯はこの世を明るく照ら光明になるでしょう。子どもたちのためにも、徳を積むことの意味を実践して伝承していきたいと思います。

螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

ZEN

今日、11月1日は釈宗演氏の命日です。この人物は、日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として有名です。ちょうどZEN2.0とご縁ができ、鎌倉に学び直す機会ができましたので改めて深め直してみたいと思います。

釈宗演氏は安政6年(1859)福井県高浜町に生まれ20歳のときに鎌倉円覚寺に修行の場を移し25歳で今北洪川老師より印可を受けています。その後は、27歳で慶應義塾にて福沢諭吉より洋学を学び29歳のときにスリラカに留学します。そして明治25年(1892)34歳で円覚寺派管長に就任します。

1893年にはシカゴで開催された第1回万国宗教会議に日本の仏教代表として参加し日本人として初めて欧米諸国の人々の前で仏教についての講演をされたといいます。その後は47歳で建長寺・円覚寺の管長を退き、廃寺寸前であった東慶寺の復興をされたといいます。大正8年(1919)、11月1日、61歳で遷化されました。

この釈宗演氏の遺した修養座右の銘は私の提唱する「暮らしフルネス」に通じるものがあるのでご紹介します。

1)「早く起き未だ衣を改めず、静坐一炷香」
早起きして、40~45分くらい線香の香に包まれて背筋を伸ばし、肩の力を抜いて正座しながら、静かな時間を過ごしましょう。

2)「既に衣帯を著くるば必ず神仏を礼す」
着替えたら、神仏に手を合わせましょう。

3)「眠は時を違えず、食は飽くに至らず」
就寝時間は規則正しく、食事は食べ過ぎないようにしましょう。

4)「客に接するは独り処るが如くし、独り処るは客に接するが如くす」
人前では独りでいるときのように、ありのままの自分を出し、独りのときは、人前にいるかのように、慎みを忘れずに過ごしましょう。

5)「尋常苟くも言わず、言えば則ち必ず行う」
禅は必要ないものを捨て去ることが修行だから、余計なことは口にせず、言ったことは必ず実行しましょう。

6)「機に臨みて譲ること莫かれ、事に当りて再思ず」
「機」とは仏の教えに従って活動する心を意味する。その心を譲ることなく、なにごともよく考えて行動しましょう。

7)「妄りに過去を想うこと莫かれ、遠く将来を慮れ」
過去にとらわれず、これからどうするかを考えましょう。

8)「丈夫の気を負い、小児の心を抱け」
立派な大人の気概をもちつつ、同時に子どものような純真無垢な心も忘れないようにしましょう。

9)「寝に就くは棺を蓋うが如くし、蓐を離るるは履を脱ぐが如くす」
寝るときは、お棺に入るときのように静かに寝よう。起きるときは、靴を脱ぐときのようにさっと起きましょう。

孔子の大学にある、天子から庶民にいたるまで如何に暮らしを整えていくのかというのは普遍的な道理です。この釈宗演氏もこの日々の暮らしの実践を重んじていたのがわかります。

明治の廃仏毀釈で仏教はとても荒廃しました。現代の仏教が原点回帰して発展したのにこのZENは日本だけではなく世界的に大きく貢献しました。一期一会に今の環境を受け容れ、敢えて世界への布教し日本に回帰するという生き方。

学ばせてもらうことばかりです。ご縁を大切に、英彦山甦生の参考にしていきたいと思います。

場力

世界には同じようなことをやっている人がいるものです。昨日もアメリカから2名の方が、聴福庵に見学に来られましたが通じ合う話が多く楽しい時間を過ごすことができました。

不思議ですが、似た人たちや同じ目的を持っている人はいつも同じことを考え波動もまた似ているものです。しかし、同時に似ているからことお互いの異なりから発見することも多くあります。

つまり何が似ていて、何が似ていないのかが合わせ鏡のようにわかるということです。その似ているものの普遍性が何で、似ていないものからたくさんのことを発見し学ぶことができるのです。

私自身も昨日は、何か力になればとオープンにお伝えしましたが私の方が学ぶことが多かったように思います。

場づくりというのは、その場で何をするかということに由ります。

つまり何のためにその場をつくるか、そして何がその場で発生していくようにするのか。そこにはその場の思想というものがあるのです。その場の思想は、思想が先か、場が先かというとこれは表裏一体です。

なのでその場がどうなるかは、常に思想と場に磨きをかけて光らせ続けていく必要があるのです。場力があるとよく人に言われるのは、その主人の思想力があるということでもあり、同時にそれは場によく反映されているということです。

この場は、その思想全体の集中する舞台ですからその舞台には役者が集まるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるようにここから変化を伝道していきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

本懐に向かう

面白いことをしている人の周りには面白い人が集まってきます。価値は価値を呼び、その価値がその人のスケールになっていくからです。類は友を呼ぶともいいますが、人脈を聴くと大体、近い人たちのコミュニティは繋がっています。

たとえば、私はジャンル分けしにくいタイプのようで周りが何の人かということを一言で語れるものがありません。変な人とか、ユニークな人とか、発明家とか、いう人もいますが実際には名前でしか呼ばれません。何屋さんかわからないといのは、会社の時から言われていましたが目的がはっきりとある人は手段は何でも使うので結果的にそうなってしまうのでしょう。

一般的には、職業によって分類わけされてこの人はこの職業の人と呼ばれます。しかし話をよく聴いてみればその職業はみんな手段です。その手段を見てその人のイメージを思い込んでも、実際には本質とは異なることがほとんどです。

なので大切なのは、話を聴いてみることです。それも深く目的や本質を確認することです。そうやって人を見直してみると、自分と同じ志の人が周りに集まっていることに気づきます。それぞれに手段は異なりますが、目指しているものが似ているのです。似ているから、一緒にやっていて楽しいし、協力し合うことで心が喜び合うのです。

もちろん人格的に魅力のある人と一緒にいることも素晴らしいことですが、意見が異なってもその人なりのやり方で同じような目的に達しようとしている人の話はとても参考になるものです。

維新の志士たちも、坂本龍馬のようにいろいろな意見を集めて船中八策を提言したように手段を集めれば目的に達する方法を発見することもできるのです。

私も今、手段を変えて創意工夫をしながら目的に達しようと目標を定めていますが大事なのはその表面には観えない同志との組み合わせの妙を活用していくことに注力しています。

御縁というのは一期一会です。

何がどれにつながるのかは、この後次第にわかってきますがこの時代のこの一コマのこの一瞬に面白い結びつきが発生していくのを実感するのは生きる喜びです。子どもたちのために本懐に向かっていきたいと思います。

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

デジタル証明書の未来

役所にいくと今でもたくさんの証明書の発行が必要になります。本人の確認できるものとして使うものとしては現在は、免許証や保険証、パスポートなどもあります。マイナンバーもはじまり少しずつIT化していますがまだまだ進んでいません。

時代の流れでもうすぐ紙の証明書がなくなっていくことは予想されますが、なかなか今までのものが変わるというのは難しいことです。誰もが電気が止まったらどうするのかや本当に本物かどうかを専門家が確認したのかなど、偽物であっては困るものはこれでもかというくらい確認するものです。

よく考えてみたら印鑑なども5000年も前のメソポタミアではじまっていてそこでも証明をするものを用意していたことになります。

人類にとってこの「証明」というものがこれだけ時代を経てもなくならないのはそれだけ証明は人類にとっては重要なことであるということです。

現在はデジタル証明書というものが出ています。このデジタル証明書はインターネット上で行われる取引に関する事実や価値の真偽を証明するために発行された電子ファイル全般のことです。

紙での契約書を電子契約書にし、署名も電子署名になり、それが本人のものであることを証明するためのものです。

このデジタル証明書は、紙での証明書と同じく第三者機関によって発行さることがほとんどです。これをは「認証局」と呼びます。その認証局がデジタル証明書が本物かを認証します。インターネットでいうSSLなどの仕組みも同じです。

このウェブサイトは、本物かどうか、この商品の売買は間違いないかとうかなど認証局を通していれば安心という具合です。それだけデジタルの世界ではコピーが容易く、なりすましや偽装などができるということでもあります。しかし認証局を通さない複雑なやり取りなどがある場合は新しい解決方法を用意しなければなりません。

そこでブロックチェーン技術の登場でこのデジタル証明書が誕生しています。

ブロックチェーンは書き込んだ情報を変更できないことやブロックチェーン上に分散管理することもできること、さらにそれがいつまでもコストをかけずに保存できることができよりデジタル証明書としての機能が発展しています。

これからのデジタル証明書の可能性は、人類が今まで続いてきた偽装や改ざんなどの歴史の中で如何に信頼性を高めた社会にしていくかという課題と紐づいているように思います。それは権力というものがあるからでもあります。

本来、私たち日本人は信用第一にする民族ですが世の中が変われば対策を立てて取り組んできました。それは印鑑、サイン、方言、合図、家系などあらゆるものに出ています。

近未来の社会実験の実証実験を子どもたちの未来のために挑戦してみたいと思います。

感謝を磨く

人間は一生のうちで多くの出会いと別れがあります。そのどれもが一人ひとりの道であり、それぞれの人生です。思い返すと、多くの人たちの真心や親切によって私たちは暮らしを豊かに彩ることができます。

自分一人が生きるのに、どれだけ多くの人たちが関わっているのかと思うと私たちの生活のすべては親切で成り立っているといっても過言ではありません。

あの時、あのタイミングでお世話になったとか、あの時、あの場所で出会ったおかげで助かったとか、まさに人の親切は重なりあいます。

だからこそ出会った時の喜び、別れの悲しみがありますが同時に感謝が結び合っていることに気づくのです。あの出会いも、別れも感謝であったと思う人生は親切を感じやすいように思います。

親切を感じる人は、感謝を感じる人でもあります。

そういう人にとっての出会いもまた別れもも感謝が結びます。感謝を磨いていくというのは、その一期一会の出会いに際にして感謝を忘れないようにしていくことです。

人は頑張り過ぎたり無理をし過ぎると感謝を感じる力が鈍っていくものです。それは自分というものを出し過ぎているからです。本当の自分というものは伴侶であり、とても親切で陰ひなたから自分自身の存在に常に寄り添って見守ってくれているものです。

自他に素直に親切にすることができる人は、他人にも親切にできる人でもあります。そうやって自他との関係が親切にできる人は、感謝を持ち続けていきます。感謝は自他を結ぶ仕合せの絆です。

誰もがいつか人は必ず死ぬ時がきて、それまでに多くの出会い別れを繰り返します。その引き際や別れ際にその人の生き方が出てくるものです。引き際を感謝でというのは人生においてはとても大切だと感じます。

感謝を磨いていくと今まで自分自身そのものの存在が与えてくださった偉大な恩恵にも自然に有難いと感じることができ喜びと仕合せを感じます。私にも2年前から共に感謝を磨こうと、一緒に取り組んでいる同朋がいますが私は本当にまだまだです。

最後に、ローマの哲学者キケロの格言です。

「感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源である。」

徳の源泉、それは感謝。

子どもたちのためにも徳を目指して、精進していきたいと思います。