知恵の甦生

知恵というのは、もともと知識とは異なり使っている中でなければ観えないものです。つまり止まって理解するものではなく、実践したり体験する中でこそはじめて実感でき観えるものともいえます。

例えば、昨日、暮らしフルネスの一環で滝行をしてきましたがこの滝も流れる中でしか滝のいのちを感じることはできません。いくら口頭で滝の話をしたとしても、滝が持つ徳は滝の中ではじめて活かされるものです。

さらには、この滝が知恵として感じるためにはその滝をただの文字や言葉だけにしない知恵の伝道者が必要です。この伝道者は、その価値を知り、その価値を学び、その知恵を正しく使い続けてきた人でなければなりません。

むかしから伝統の職人たちのように、意識を継いでいく人があってはじめてその真の技術が温故知新されアップデートしていけるようにその本になっている知恵が伝承されなければ伝統はつながりません。

つまり知恵こそ伝統の本質であり、知恵を活かす人こそ真の伝承者ともいえるのでしょう。

時代は、時代と共に時代の価値観があります。戦国時代の知恵の活かし方は平和な時代は使えません。その逆も然りです。つまり時代に合わせて価値観が変わっていくのですから、知恵はそのままに使い方や仕組みは変える必要があります。

先ほどの滝行も同じく、一昔前の使い方をしていても知恵が伝わりません。知恵を伝えるには、今の時代の使い方、活かし方が必要になるのです。これは意識も同じです。現代の知識優先の考え方を意識優先の生き方に換えていく。そうすることで、眠っていたり忘れていた知恵が甦生していきます。

知恵の甦生は、人類のこの先の未来、子孫たちの永遠の仕合せには欠かせないものです。地球がバランスを保つように、人類もまた長い歴史の中でバランスを保っています。この時代は、バランスを保つために舵をきる必要がある時代でもあります。

子どもたちに真の知恵が伝道していけるように、暮らしフルネスの実践を積んでいきたいと思います。

武の徳

昨日、アメリカから来日した友人と一緒に糸島の龍国禅寺にて話をするご縁がありました。美しく苔むした庭を眺めながらととのった場で内省をしあうことができる仕合せは格別なものです。

その中で特に豊かな話は「武」についてのことです。武というと一般的には、武力や武士など戦っているイメージがある言葉だと思いますが本来の意味はその逆で戦を止めるという字で構成されていることがわかります。この字を分解してみると「戈」(ほこ)と「止」(とどめる)から形成しています。この戈は、戦で使われる武器であり、戦いそのものの象徴。そしてそれを止めるのが本来の「武」であるというのです。

かつて織田信長が戦国時代に「天下布武」という宣言をしました。これは天下を武力で統一するとイメージする人の方が多いかもしれません。しかし実際の意味はこれとは全く異なります。

これはもともと中国の古典、『春秋左氏伝』に本来の武は「七徳の武」であると記されているところから使われています。ここでは、天下は七徳の武によって治まるという意味です。

その七つ徳は、武力行使を禁じ、武器をしまい、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させることをいいます。

天下布武、これは如何に戦のない世の中にするか、そのためには徳を使い七つの武を実践する必要があると説いたのです。

そして武を志した「武士」には、この武の生き方を貫き実践するための武士道の七つの徳というものがあります。それは「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」です。

武士は、暴力や戦争を終わらせる役目とそういう時代にならないような教えを実践し導く存在でした。だからこそ武を磨き、武を尊び、武を守ったのです。

誰も殺し合いや戦争などをしたい人はいません。憎しみや恨みの連鎖は、悲惨な時代を到来させます。だからこそ私たちは本来の「武」を学び直す必要があると思うのです。

私のいのる天下布武とは徳積みの循環のことです。如何にこの時代に相応しい七つの徳を循環させていくか。その徳の循環を暮らしフルネスの実践において実現しようとしているともいえます。

子どもたちがいつまでも平和な世界で笑い合い和み合い、助け合い豊かに暮らしていけるように今こそ武の徳を磨き直していきたいと思います。

閻魔の知恵

先日、あることから閻魔帳のことを調べる機会がありました。これは人は亡くなってから閻魔大王が持つ、死者の生前の行動内容が罪や悪、そして善、すべてが記録されている手帳のことです。これを参考に、死者の天国行き、地獄行きを決めたというものです。

そういえば、幼いときにこの話を何かで聴いて悪いことをしないようにしようと思ったことを憶えていますが普段は思い出すこともなかなかないものです。その中で、浄玻璃の鏡というものがあります。

この閻魔帳に書いていることをみて、問答していきますがここで嘘をつくと舌を抜かれるといいます。舌を抜くというのは、もう嘘がつけなくなるということをいいます。

しかしなぜ閻魔大王はそれが嘘かどうか、なぜ閻魔様に分かってしまうのかというとこの閻魔帳とは別のものでその人の生前の行動をそのまま映し出す水晶でできた大きな鏡でその人をうつします。つまりその人の心を映すものです。これを浄玻璃(じょうはり)の鏡といいます。この鏡を通してその人の行動が周りの人をどれほど喜ばせたか、悲しい目に合わせたか、それまで映し出すので嘘かどうかわかるのです。

この話は、目に見えている世界のことをいくら誤魔化しても心の世界のことは誤魔化せないということを示唆しているように思います。

また仏陀が閻魔大王の話をするとき、善を観ては善に気づかず、悪を観ては悪を気づかず、そのことをなぜ深く反省しないのかと説きます。心の鏡に照らし合わせて、素直な心で反省しなかったのかと。

素直に反省したのなら、それはすべて一切が自分の因果応報であるということを話します。だからこそ、こうなったのだということも。

そう考えてみると、この閻魔帳と浄玻璃の鏡は一対であることがわかります。どちらかだけであっても裁けず、それが一つであるからこそ真に裁くことができるように思うのです。

自分で蒔いた種ですべてのことは発生する。だからこそ、心に聴いて内省し、そして気づいたらすぐに行動すること。自分で蒔いた種をちゃんと責任をもって果たしなさいということを教えているように思います。これは徳の話と同じです。

自分の喜びがみんなの喜びになり。その喜びがまた自分の喜びになっていく。この喜びの徳の循環をどう積んでいくか。それが問われているということです。

今の時代、情報化社会である意味このような閻魔大王や閻魔帳、浄玻璃の鏡のことなどは特にweb3.0と盛り上がっているところでは聞くことも気にすることもありません。しかしむかしの人たちは、根の教えにこの仏陀の教えが文化として根付いていましたから特に丁寧に慎重に嘘がないようにと誠を盡していたかもしれません。

一人一人が内省して気づき合い、そして反省したら改善するという実践を行っていけば浄玻璃の鏡も閻魔帳にもすばらしいことが記録し、記憶されていくと思います。

先人の知恵を現代に活かし、徳の循環する仕組みを伝道していきたいと思います。

苦労の真価

昨日、聴福庵に来庵された方から「苦労をお友達にする」というお話をお伺いするご縁がありました。これは苦労は嫌いになったり逃げたらいつまでも追いかけ来る、だから苦労とお友達になっていこうとするのが人生にとって仕合せになる大切なこととお話されていました。これはこの方の座右の銘でとても深いお話でした。

苦労はみんなが嫌がるものでもありますが、お友達になっているちに苦労が好きになり、苦労がいることで仕合せになると感じられるようになったらもはやそれが最上の喜びになるというのもわかります。苦労する喜びを味わえる人になったとしたらそれはもはや人生の達人です。

その方のお話ではかつての古い時代、日本人は苦労をよいこととして受け止めていた人が多かったと仰っていました。若い時の苦労は買ってでもせよという格言もあります。その苦労は人生に大きな役に立つからとの教えもありました。苦労するからこそ幸福になるという言葉、つまり苦労こそ幸福であるという意味になります。

その苦労とどのようにお付き合いしていくか。辛いこと、嫌なことになると本当に毎日がそのような日々になります。そこを見方を転じて、苦労させてもらえる喜び、苦労があったから今があると、まるで人とのご縁のように丁寧に一つ一つ関係を結んでいくことがよりよく生きるための知恵であることもわかります。

教えていただいたその方の生き方を拝見していると、本当に苦労を厭わずに真心を生き、日々を充実し、感謝で満たされておられました。徳を纏われ、みんなに慕われ、歳をも感じさせない溌溂として元氣が漲っておられました。

生き方というのは、こうやって歳月を積み重ねることで素晴らしい結果になっていることを知り、努力をさせてもらえる喜び、苦労できるほどに心から好きなことに取り組めたことに感謝の気持ちが湧きました。

一つひとつ、一人一人のご縁があるから今の私があります。

心に響く言葉や教えを胸に、丹精を籠めて歩んでいきたいと思います。

 

思いを纏う

人はいろいろな人の思いと共に生きています。今の自分は、個人的な自分というだけではなく先人たち、そして仲間たちの思いをそのまま受け継いで存在しています。その思いは、目には見えませんが同じように思いを持つ人たちとつながっていて生き続けています。

つまり人の本体とは何か、それは思いの集積であるということにほかなりません。私たちの器には、あらゆるものが入ります。その入るものをどのように選ぶのか、そして結ぶのか、関わるのか、それをご縁ともいいます。

ご縁を生きていくというのは、この繋がり続ける思いを生きているということです。そしてその思いがあるから私たちはその思いに活かされて思いを醸成してまたさらに繋がっていくのです。

振り返ってみると、思いを誰から誰につないだのか。特にその器としての肉体が生を全うした時、別の器に思いが移動するときに深く結ばれていくのがわかります。一人だけで思いを持ったのではなく、一人一人の小さな思いが集まって偉大な思いになっていきます。その思いが器を乗り換えながら、あるいは器を共有しながら生き続けているのです。

これだけの人口、そして細胞があり、私たちはその思いが宿るものと共にあります。絶対安心の境地は、その思いを継いでくれるものが必ずいると感じることです。自分と同じように守りたいと思うもの、そしてつなぎたいと思う人が現れ、その人が次の人に必ず思いのバトンを渡してくれると確信できるのです。

思いが自分を活かしていると思う時、大切なのは思いが生きているということを忘れないことです。私たちが思い出すという行為もまた、思いのお手入れです。目を閉じて心の中にある思いを思い出す、それがお預かりしている思いでありみんなとつながっている思い。思いはみんなのちからでいのることで必ず何度でも甦生するのです。

思いを纏い、今日も生き切っていきたいと思います。

足半の知恵

昨日は、足半(あしなか)を履いて英彦山を歩いていたら声をかけられました。この足半の草履は、日本人の先人の知恵の一つでいつまでも伝承したい道具です。

そもそもこの足半(あしなか)は一般的な草履の半分くらいの長さしかありません。つまり踵部分がありません。鎌倉時代の文献にも記されていて蒙古襲来のときに九州に来てこの足半を見て鎌倉武士たちの間で流行ったとも伝え聞きます。なので、それ以前からあったということは平安時代くらいから、もしくはもっと以前からあったものかもしれません。

有名なのは、織田信長がこの足半を履いているものが接見の条件になっていたり家臣に褒美として与えたりした話が残っていること。他には西郷隆盛も愛用していたといいます。合理的で知恵を重視した人たちが愛用してきた、日本人の足元を支えた大切な草履だったことがわかります。最近では実業家で民俗学者だった渋沢栄一の孫の渋沢敬三さんが、戦前各地を歩いて足半を300点以上集め研究されていたことも有名です。

よく考えてみると、現代の靴を履くようになったのも明治以降です。まだ100年そこいらでそれまではずっと草履や裸足のようなものでした。私たちは、足の裏から大地のエネルギーを感じていたともいわれます。たまに今でも靴を脱いで直接、大地や土や草原などを歩いていると足元から様々な情報が身体に伝わってきます。

都会ではアスファルトでしかもこの時期は暑すぎて足をやけどするかもしれませんが、山歩きをはじめ田畑などはとても草履や裸足は心地よく感じます。

むかしある方に、歩く健康のことを教わったことがあります。人間が健康を保つには歩くことが一番だということです。地球の重力でバランスがととのい、足裏からの刺激で内臓をふくめ全身がととのっていくというのです。

これは足半を履いて歩くとその価値はすぐにわかります。

日本人はどうしたら健康で長生きし、そしてもっとも自然の身体感覚を得られるかということに非常に長けていた民族です。この民族の知恵は、現代文明の中で消えかけていますが本来はこの知恵こそいつ訪れるかもしれない自然災害などに対する危機への備えになったはずです。

生きる力と教育ではいいますが、本来は生き延びる力だったのは間違いありません。今では生き死になどどこか遠い話、自分とは関係がないようになっていますが野生のものたちは常に生死は隣り合わせです。だからこそ、常に感覚を研ぎ澄ませ、自然のリズムや状態を確認いるように思います。

そしてそれが元氣さを増し、逞しくイキイキといのちを輝かせたのでしょう。今の時代、文明に少し偏っていますが文化や知恵も同じくらい大切にしていくことが子孫を守ることだと私は思います。

子どもたちにもこの足半の知恵をつないでいきたいと思います。

 

危機に備える

世界情勢や気候変動など、色々と変化が著しい時代に入ってきました。昨日も悲しい事件があり、この国が平和ボケしていることを改めて実感しました。そもそも平和ボケというのは、知識だけで物事を考えているということです。本能や直観、野生などを失い、生きる死ぬの自然界のように必死にすべての感覚を鋭敏に研ぎ澄ませて覚悟をもって油断なく生きるのではなく決して自分は死ぬことはないだろうと安心しきっている状態です。

実際にウクライナの進行のときも国民の声は、まさか本当に攻めてくるはずはないだろうとほとんどの人が思っていたようです。同時にロシアの軍の方も、いつもの訓練だろうと思っていたようです。実際には、政治や国同士の間はそれぞれに利権も利害もありますから遊びではなく本気でやりあっているものです。

現在、日本も地理的に緩衝国であり戦争がひとたび起きれば日本が戦地になるような場所で侵略されるかもしれないところです。

テレビやマスコミの情報をうのみにするのではなく、歴史を学び、今、何が起きているのかを今一度自分の頭と心で真摯に考えてみなければなりません。

一番危険なのは、まさかそんなことがあるわけがないという思い込みでしょう。

この思い込みは、正常性バイアスともいいます。想定外の事態でも平穏に過ごすために生じる心のメカニズムです。心の平穏を保つための機能ですが、本当の危機への対策や予防には逆効果になるものです。

むかしからリーダーというのは、危機に対して先に声高に危ないことをみんなに伝えます。誰も大袈裟だとかそんなことはあるわけないと、その人を無視するかご馬鹿にしたり、もしくは不安を煽っているなどといって犯罪者にしたりします。歴史をみても、危機に対して動いているリーダーたちは変人や狂人とよばれるものです。

明治の頃も、吉田松陰などはその最たるもので周囲から頭がおかしいといわれていました。しかしそれでも国難を憂い、誰よりも行動しその危険性を世の中に訴え続けていました。その御蔭で、寸でのところで有志達がたちあがり世界からの侵略に立ち向かう力を持つことができました。

時には牢に入れられ、時には暗殺され、時には罪を着せられてもです。

平和ボケにならないようにするには、みんなが今一度、現実を直視してみる機会を持つことです。そしてその現実に対してどうあるべきかを議論して行動することです。

子どもたちの未来が憂うものにならないように今できることで草莽崛起すべきです。志を持った人たちが、リーダーになりみんなで平和ボケを取り払っていけばきっと仲間たちが未来を導いていきます。

悲しい事件を無駄なものにしないように、この機会と意味を受け取ってそれぞれにリーダーとして立ち上がっていきたいと思います。

人づ手の伝承

古来から知恵というものは、人づてで伝承していくものです。もしくは、自分の内面の何かがその場や文化と呼応して甦ってくるものです。それは単なる目新しさではなく、創生や創新、私の場合は起新といい、真に新しくなるということです。

この真に新しくなるというのは、真であり続ける新しさのことです。

例えば、伝統文化なども形式だけ受け継がれていくものと奥義ともいえる知恵が受け継がれていくものがあります。特に一つ一つの儀式なども本来は偉大な力があったものが、今では形だけ残ったというものも多くあります。現代は便利な機械が増えていますがから、むかしのような一つ一つの知恵を使って何かを丁寧にやるよりも簡単に機械のコピーやプリントなどのようにアウトプットできるようになりました。しかしそこには、本来あるはずの暗黙知は介在しておらず見た目だけのものになっています。

意味があったものを意味がわからなくなり、意味がないものにするというのをみんながやり続けるほどモチベーションが下がるものはありません。それがとても大切だと体感し、知恵であると実感しているのならそれは続けられるものです。それが失われていくから文化もまた消失します。

本来、大切だった知恵は知識に置き換えられて別の物になっていく。だからこそ、知恵を守り続けていくために子孫や人は代を重ねて常にその知恵と共に生きてきたのです。それが人類が永続するための使命でもあり、まさに叡智だったのでしょう。

この時代、かなりのスピードで知恵が失われているのがわかります。知恵を機械化して繁栄してきましたがそれは知恵の一部分だけを採取してそれを目先の利益に活用しているということでもあります。知恵は本来は、永遠のものですから本来の使い道で活用するときに真に活かされるように思います。

子どもたちにも叡智を伝承し続けられるように、人づ手の伝承を守っていきたいと思います。

英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

善友と道

道を歩んでいく中で、多くの仲間に恵まれます。その仲間の御蔭で、孤立することもなく孤独も豊かなものになっていきます。人は、必ず心の中に良心を持っています。それは思いやりや優しさです。同時に、自我というものもあります。いろいろな人たちとかかわる中で、その善い方を導いていこうとするのが人生の修行そのものかもしれません。

仏陀の話の中で善知識経というものがあり、弟子のアーナンダに善き友について話をするシーンがあります。

意訳しますが、仏陀がサッカラの村に着いたときにアーナンダはこう質問します。「共に仏法を学んでそして共に仏の道を歩んでいく。このような善き友がいるということは、修行の既に半ばを達成できたに等しいと私は思ったのですが仏陀はどう思われますか?」と。それに仏陀は応えていいます。

「善き友がいることは修行の半ばではなく、そのすべてですよ」と。つまり、真の修行は善き友を持つことで完成しているということでもあります。

また別のところで仏陀は「悪友を避けて善友を求めよ、しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」ともいいます。

仏陀は、皆が私を善き友とすることによって仏の教えを学びそして共に仏の道を歩んでいるように善き友を持つことを心がけることを言いました。

つまり善き友とは、自分の中にある善心そのものでありその心と歩んでいくことで心の平安が宿り、その仲間たちと道を歩み続けていくことで修行が為ると言ったのかもしれません。

常に心は持ち方次第で、どうにでも世界は変わっていきます。物事のどの方を観るか、そして何を想いカタチにするかによって変化していきます。仏陀は同時に悪友を避けなさいといっています。何が悪友なのかは、道を歩めない仲間たちのことかもしれません。

友達がたくさんいたらいいわけではなく、真の友は心の中に存在する友です。その友は、それぞれの心の中にいてみんな同じように優しくありたい、思いやりのある人でありたい、心美しくありたい、感謝のままでありたいなど、素直なところにあります。

そういうものを磨いていこうとする人が、同じように仲間たちと出会い日々に修行をする。そして磨き合い高め合っていく、まさにそのことが人としての一つの集大成ではないかとも私も感じます。

人間力を如何に磨いていくか、これからテクノロジーがさらに発展していくなかでその深化は必要不可欠です。だからこそ、道を歩む、そして善友が必要だと思います。2000年以上たっても、真理や真価はまったく変わらずにあることに安心します。

引き続き、自分はどうかと内省しながら言葉ではなくカタチで実践していきたいと思います。