壁と共に生き続けるもの

昨日は、聴福庵のおくどさんのある厨房の壁の漆喰塗りを会社のクルーたちと一緒に行いました。左官職人の方のご指導のもと、みんなで鏝を持ち塗っていきましたが慣れない作業の中でも笑顔で楽しく味わい深い時間を過ごすことができました。

漆喰風のものが出回っている中で、材料を調合する過程からすべて見せていただき安心してこれが漆喰本来の姿であることを教えていただきさらに壁に愛着が湧きました。

かねてからみんなで一緒に塗った壁を眺めたいと念じていましたが、今朝がた早起きして陰翳の中で豊かに映りだされた模様や、個性があって味わいがある壁にうっとりとしました。

自然物の美しさというのは、マニュアルような技術でできるものではなく生きものそのもののいのちを扱いますから一つとして同じものはありません。画一化されて工業化してマニュアル化された近代においては、いつでもどこでも同じものができることを最良であるという価値観になっていますが、昔ながらの懐かしいプロセスの中には、お互いの信頼や尊重、そして一つ一つに刻まれたその瞬間の思い出や意味が籠められていきます。

こんなに豊かで楽しい時間を過ごしていたのかと、左官職人さんの感じている豊かさや仲間と一緒に生きていく歓びを改めて感じます。

また土をみんなで塗っていると、ある人から子どもが遊んでいるみたいと言われましたが本当に子ども心が湧いてきて夢中でみんなで塗ったのであっという間でした。終わった後の充実感も一入で、子どもはこうやって自然物を触り水と土といった融和したものを人生に取り込んでいたのかと大切なことを学び直した気がします。

みんなで一緒に楽しく塗った思い出は、壁と共に生き続けていきます。きっと京都や古民家で観てきた漆喰の壁も、その時代時代の左官たちがみんなで和気藹々と誇りと志を持って塗り込んだ壁だったのでしょう。だからこそ壁を眺めていると心が感応しいつまでも魂に響いていました。

今、ここで子どもたちのためにとクルーたちと一緒に志で取り組んだ壁もまたいつまでもこれからの世代の心に響くものになってほしいと願います。生き方の甦生は、日本人の大和魂の甦生です。

明日、いよいよ節目となる第一回目の天神祭の勉強会の実施です。

一つ一つをみんなと一緒に空間に宿し遺しながら、初志貫徹の第一歩を踏み出していこうと思います。

日本人の心と言葉

日本語には、深い意味があるものがたくさんあります。そのいくつは、外国語にも訳せないもので「モッタイナイ(MOTTAINAI)」とそのままの音で世界では認知されています。他にも「オモテナシ」や「ムスビ」、そして私たちが取り組んでいる「ミマモル」もまた古来からある外国語にそのまま訳すことができない素晴らしい日本語の一つです。

先ほどの「MOTTAINAI」は、日本では当たり前に「もったいない」と使われますがこれをアフリカで初のノーベル賞受賞者のワンガリー・マータイさんが日本に来た時に出会って感動しそのままの言葉で世界共通語としたのです。

具体的には『3R+R=MOTTAINAI』と表現され、意味は〇Reduce(ゴミ削減): Produce less waste.〇Reuse(再利用) : Use things over and over for a long time.〇Recycle(再資源化): Spread things around so they can be used repeatedly.の頭文字の3R。それと+して〇Respect(尊敬): Respect people who value the MOTTAINAI concept.が入っていると説明されます。

具体的には、農家さんがつくってくださったものに感謝し、お米一粒でも無駄にしないようにという心や、今まで助けてお世話になった古いパートナーだからこそその御恩を忘れずに粗末にしないようにしようといった日本人の元来持っている大切な感性のことを「尊敬」という言い方で整理したように思います。

日本語にはどれも、御蔭様や感謝の念が入ってその言葉が素晴らしい響きを持ちます。

現在ではこの素晴らしい日本語が消失してきています。日本人が日本語が分からないというのは、日本人が日本人の心が分からなくなっているということです。日本人の心を失った人たちが増えれば、それまでにあった日本人が使っていた古来からの素晴らしい言葉もまた同時に失われます。

日本人の心が美しい日本語を産出し、その美しい日本語が使える日本人が美しい心を持ったまま暮らしていたのでしょう。私の祖父母の時代は、その美しい言葉をたくさん会話の中で用いていた記憶があります。

それが失われてきている今だからこそ、敢えて古来からの日本の言葉にこだわる必要を私は感じます。「MIMAMORU」もまた、「信じきる」といった日本人の心が入っている言葉です。この言葉が世界共通になるとき、世界は今よりももっと子どもたちが創り出す未来に安心できるように思います。

引き続き子どもたちのために古民家甦生もそうですが言葉の甦生、日本の大和心、大和言葉の甦生にも取り組んでみたいと思います。

 

義の繋がり

天神祭の準備に向けて菅原道真公のことを深めていますが、残っている文献や資料からできる限り情報を集めてその功績や事績、そして和歌などからその人格や人柄を想像しています。

しかし歴史というものは、勝者の歴史といわれるようにその当時の権力者や政府が自分たちに都合の悪いところを消していきますから消されてしまうとほとんどが遺っていません。だから今の時代になって、改めて歴史を客観視して直視するとこれだけの偉大だと信仰されている人がなんの功績も出てこないのだろうかとしっくりこない人物もたくさんいます。

まさに菅原道真公はその代表でもあり、天神信仰をはじめ全国の天満宮に祀られ、学問の神様としてこれだけみんな崇敬しているのに和歌や遣唐使を廃止したことくらいしか遺っておらず、右大臣にまでなって政治を司り、その後の「延喜の治」と呼ばれるほどの治世の礎をつくり、国風文化の発祥の根源になったにもかかわらずその実の功績のところが歴史の表舞台に出てきません。

私が思うには、過去にこれだけの人々から1100年以上尊敬され今でも篤く信仰されている人物がちょっとしたことだけでそこまでになるとは思えません。菅原道真公も、その当時の人々のことを心から思いやり仁慈をもって接した立派な方でさらに大義を貫く生き方が美しくまるで神様のようだったからこそそのままに神格を持ったのではないかと思います。

実際にわかっているのは「昌泰の変」にて901年1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件があったということ。その後、権力を醍醐天皇と藤原時平が握ったこと、そしてそれから10年も経たずにまた宇多上皇と藤原忠平に権力が戻ったこと、そして菅原道真公の名誉を回復した流れになったことは書かれた通りであることが分かります。

ただしこれもまた勝者の歴史ですから、真実はどうだったのかとなるとそのまま鵜呑みにすることはできません。しかし菅原道真公が、どのような学問をし、何を愛し、どのような生き方をしたのかは、その遺した言葉や、その当時に関わりのあった弟子たちや同志たち、子孫たちによって語り継がれていきます。

これは幕末の吉田松陰のように、弟子たちが師がどのような人物であったか、弟子たちがその後、政治の中で如何に自分たちがその恩恵を受けたか、そして師の遺した文章にどれだけ励まされたか、そのようなものが信仰としていつまでも遺ります。

その当時、菅原道真公の学問の弟子たちが官僚の多くを絞め、道真公亡き後も志を持って政治に中ったように思います。だからこそその後に延喜の治と呼ばれるほどに平安文化が発展していったように思うのです。

菅原道真公をいつまでも信仰するのは、今の日本があるのはその当時に道をつけてくださった恩師のことをいつまでも忘れまいとする子孫たちの「義の繋がり」なのでしょう。

ただの学者ではなく、本物の学問を志した人物としての菅原道真公は実践を重んじた方です。だからこそ、その至誠が天に通じ、天神様となったのでしょう。まさに至誠の神様と呼ばれる由縁です。

私にとっても特別な存在になったこの天神様は、国家鎮守の風土と共に氏神様としていつまでも子どもたちを見守ってくださるように祈りを奉げていきたいと思います。

 

古民家甦生~時中した暮らし~

古民家甦生を続けていくと古い道具を用いますから技術や感覚は次第に磨き直されていきます。こちら側の都合では道具は使えず、道具の特性や弱さ、また持ち味や使い方を扱いながら学び直していきます。

慣れていないとすぐに壊してしまい、さらに道具もまた活かされないので生活や暮らしそのものを便利なものから不便なものへと価値観ごと転換していく必要もあります。特に今のように水道やガス、電気、家電製品や空調器具がある世の中で敢えて不便に戻すというのはとても勇気がいるものです。

先日もトイレは昔のものに戻すのか、風呂は、洗濯は、冷蔵庫はと矢継ぎ早に質問されました。全部排除してしまえば、それは山奥の隠者のような生活になるのではないかというのです。

確かに目的が、先祖返りのように過去に戻ることならばそうなるかもしれません。しかし時代は過去に戻ることは不可能であり、常に今を刷新し続けていくのが生きるということです。温故知新も復古創新も、決して江戸時代や縄文時代などに回帰しようとするのではなく、何を変え、何を変えないかをその時代の人たちが取捨選択してそれまでの初心や大切な伝統が守られるように継承していこうとするのは子孫である私たちの使命でもあります。

私の古民家甦生も、電気も水道もガスも空調設備もあります。それを全部排除しようとか排除しないとかいう考え方ではなく、長い先を観て大事なものは守り続けようということなのです。

そのためには、その近代に発明された便利なものも活かそう、そして昔から連綿とつながっている文化や智慧も活かそうという、古新を融和融合し、今の時代ならどう暮らすかということを提案しているものなのです。

子どもたちには選択肢が必要です。そしてそれが多様性でもあります。その多様な選択肢は、みんな新しいものに右へ倣えではなく、こういう選択肢もあるという生き方も見せてあげる必要があります。それは極端に右か左か、上か下か、富か貧かではなく、かつての古き善きものを取り入れながら今に活かすという時中した暮らし、生き方を感じてもらいたいということなのです。本来、どちらかに偏らないというのは中心を捉えた中庸でもあり、これはどちらかに偏るよりもずっと難しい挑戦なのです。

私が実践する古民家甦生は、まさに今の時代に古の智慧をどう活かすかという事例を伝道伝承しようとするものです。

引き続き、何を変え何を変えないかを自分の生き方を通して試行錯誤していきたいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。

 

自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

主燈明

この世に死なない人がいないように必ず形あるものは消滅していきます。自然でも同じく、いくら固い石であろうが鉄であろうが時間が経てば必ず風化して消滅していくものです。これは今の国家であっても世界であっても時代時代で必ず消えていくものです。

必ず消滅すると知るのなら、執着しているものの全ては消えてほしくないと願っている私たちの心でもあります。あるものを保とうとするのは意識から細胞にいたるまで自己防衛本能の根本でもあります。しかし消えてしまうものを無理に消えさせまいと自然の摂理に反していたらその歪から変化することを抑え込もうや変化することを避けようなどという不自然なことをやってしまうものです。

例えば、川の流れで水をいくらせき止めてみても水は増え続けて流れようとするものです。堤防が大きくなってみても雨の量や風化のスピードは抑えようもありませんから必ずその堤防は決壊して変化の流れは誰にも止められません。

だからこそ人はその変化を受け容れて、その自然万物が消滅することを知りそれが少しでも永く継続維持できるように努めていくのでしょう。変わることを受け容れる人だからこそ今あるものをもったいなく感じて大切にしていくことができます。

人間は自然の摂理において淘汰されるはずのものでも、いつまでもみんなが守り大切にすることで生き続けていく文化として子孫へ継承されていくようにも思うのです。

仏陀は2500年前に自燈明・法燈明という言葉を遺しました。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と解釈されます。これは私たちでいえば組織に頼らず、内省を怠らず、理念(初心)を拠り所にして実践していきなさいという言葉になります。

変化していくというのは言い換えれば諸行無常ということです。変わらないものはなく、いつまでも今のままであることは続きません。だからこそどんな変化が訪れても理念(初心)を拠り所にして内省を怠らず、自分自身の心に意見をして歩んでいく必要があります。変化はいついかなる時も已むことはありませんから、常に人は日々に理念や初心を確認して自らがズレていないか、自分の心が変化に流されていないか、その変化に気づき心を常に原点回帰しているかと一歩一歩歩むたびに自らを省みる必要があります。

そうやって自分の心の主になることを自燈明といい、理念の主になることを法燈明になると私は思います。主体性というものは、自らの積極的な自燃力によって命を熾すこと、決して時と他人の奴隷になるなということでもあります。それを私は「主燈明」と名付けます。禅語でいうところの主人公のようなものかもしれません。

主は誰か、主とは何か、ひょっとすると仏陀はそれを生き方で示した方だったのかもしれません。

引き続き、私たちは子どもたちの主体性を守る仕事しているのだから自分自身が主体性を発揮して変化の中で何を守り何を守らないかを実践して子どもたちに主燈明を通してその背中を見せていきたいと思います。

心田を耕す

心田という言葉があります。これは心の田んぼのことを言います。二宮尊徳は心田開発とも言い、また心田を耕すといいました。この心田の「田」とはどのようなものかということを少し深めてみます。

自然農の田んぼで昔ながらの農法を実践していればすぐにわかるのですが、田んぼがちゃんと田んぼであるのは人の手で手入れを行っているからです。畔の管理から草の管理、その他、田んぼに稲が育つようにその環境に相応しい場を見守り続けていきます。これは畑も同じく、作物を育てるためには育てる作物に応じて適切な場所や適当な広さ、または必要なら畝をつくり水切りし、太陽が届くように周りの木々を剪定します。

このように手入れをすることではじめて田も畑も私たちが暮らしていけるように順応してくれるとも言います。ここで大切なのは放置しないということです。自然農の田んぼで人手が足りず一つの場所だけは放置しているところがあります。そこはもう人の手が入らず自然そのもので雑木林のようにススキやセイタカアワダチソウなどで畑とは呼べるようなものではありません。手入れを怠り数年経てば、野生のままに回帰していくということです。

二宮尊徳は心田についてこう語ります。

「私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種、すなわち仁義礼智というものを培養して、この善種を収穫して、又まき返しまき返して、国家に善種をまき広めることにあるのだ。」

「そもそも我が道は、人々の心の荒蕪を開くのを本意とする。一人の心の荒蕪が開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうとも恐れるものはないからだ。そなたの村は、そなたの兄ひとりの心の開拓ができただけで、一村がすみやかに一新したではないか。」

田んぼの手入れを怠れば田んぼは自然の摂理で野性地に戻ります。しかし人間が手入れをすれば耕作地となり私たちが生きていくための「保育地」になります。これを人の心に置き換えるのなら、私たちが心の手入れを怠れば人間も野性に戻ります。場合によっては動物のようになり理性が失われ本能だけのものになります。しかし心を正しく手入れをしていけば人間が育成され自然の恵みに感謝して共に助け合い暮らしていくための思いやりのある道徳社會ができてきます。

つまり心田の手入れとは何をいうか、それは我慾を制し、己に打ち克ち、自らを律し、感謝の心を育て、恩に報い、周囲を見守ることに似ています。そして心田を耕すとは、その荒れ果てて欲望のままに野生化した人の心をもう一度手入れをすることの大切さに気付かせそれを一緒に直し、直したらまた荒れることがないようにと手入れを怠らない工夫を人々に与えていくことです。

そうやって心田を耕すことで人ははじめて自然の叡智を得た人間の智慧を持ったことになります。何もしなければ自然のままに壊れていくのが天理ですから、その天理の道理を悟り、人道はその壊れていくものを壊れないように手入れをしその自然からの恩恵をいただき生きていくという人間本来の姿に回帰していくということです。

今は田んぼを耕すのは農家の仕事としてあまり周りの人たちには馴染みがなくなってきましたが、本来は自然の恵みを受けてそれを感謝でいただいて暮らしていくという人間本来の営みは農家に限らずこれは人類が今まで生き延びてきた由来であり由縁であるのです。自然の恩恵をいただき自然と共に暮らしていくことこそ迷いなく人間が生きるためのたった一つの悟りです。

もう一度、心田を耕すことを思い出し原点回帰する必要を感じます。

引き続き、子どもの傍にいて心の手入れを行うとはどういうことか。その手入れ方法を人々に伝授し、私も尊敬する二宮尊徳のように自然から学び直したことをカタチにして心田を耕すことに生涯を捧げていきたいと思います。

 

手間暇とプロセス~本物とは何か~

現在は、本物を見分ける目というものが失われてきています。例えば、売られているほとんどのものが大量生産大量消費するために用いられていますから古来からの商品では採算が合わず値段を安く抑えるために効率を優先されて製作されていきますから本来の工程を経ていません。この工程という順序や段階を経ないということはどこか手間暇を抜いたということです。しかしこの手間暇こそ本物かどうかの大切な見分けどころになります。

それは食べ物でも生活用品でも、または何かしらの営業においても同じです。例えば、漬物は合成香料などで味付けし漬けることもなく、お酒でもアルコールを添加して発酵させることもなく、時間がかかるものはほとんど排除されています。他にも生活用品でいえば先日の畳や障子、木材などもプラスチックで機械で大量につくられます。

見た目さえ似ていれば安い方がいいという考え方の消費者が増えれば増えるほど、本物が伝わらなくなっていくものです。なぜなら本物は高くて不便、価値がないと思われるようになるからです。すでに原材料が少ない上に、昔は職人たちの道具はすべて繋がって循環していましたからそのひとつが失われると周りも一緒に消失します。

例えば、藁は農家がお米を作った後にその藁を用いて畳や屋根、草履に草鞋、米俵にしめ縄などをつくります。他にも竹を取ればそこからあらゆる製品の職人たちに流通します。今ではプラスチックで竹も藁も代用されますからそれらの職人たちには原材料が届きません。こうやって次第に本物であったものが失われていきます。

そして仕方がないからと原材料を変えてしまったり、それまでの製作技術を壊してしまっていたらそれはもう本物とは呼べません。しかし本物にこだわり高価になりすぎてもそれは金額が膨大で購入することができません。こうやって古来からのものは失われますがそれは消費する側が改革していくしかないように私は思います。

もしも消費する側が、こちらの方がいいと大多数の人たちが購入するようになればまたかつてのような職人たちの仕事が発展していきます。そのためにはかつての本物の善さを身近に触れるような場や機会が増えなければなりません。今のようにどこにいったら本物に出会えるかわからないような市場ではなかなか触れる機会がありません。

伝統や文化というものは、長い年月をかけて培われてきたものですからそれを伝承している人も今は急激に減少していますからいよいよ出会う機会が薄れています。お金に早くしようと結果主義で工程を排除していくというのは、偽物を大量に作り出すということと同じです。

子どもたちのことを思えば、何が本来だったか、何が本物であるかを知ることはその工程や順序、段階を体験する場、または素材や原料が循環するプロセスを観る場が必要だと感じます。その中にある徳を見極める力を育成していかなければなりません。

引き続き、古来の文化を深めながら風土改善を見つめていきたいと思います。

 

素直の能力

色々なご縁を辿っていると、あの出会いがまさかこうなるとはと人は感じるものです。その時、分からなかったことが後々に自明してくる、まさにご縁は縦横無尽に時を超越して結ばれてきます。

人が人と出会うのは、果たして自分の意思だったのかそれとも自然にそうなったのかと考えてみると私は後者の自然にそうなったのではないかと思います。これを天命といいます。

人は誰にしろ天命があり、その人の使命や定めというものがあります。その宿命はその人のいのちに決まっていますがそれをどのように感じるか、それをどのように味わうかはその人の選択になります。

素直に生きていく人はみんな自分は運が善かったと言います。これは来たものを受け容れてそれを感謝で味わっていく能力が高いということです。素直の能力とは、訪れたご縁に対して素直に謙虚で生きていく才能というものです。

その才能はどのように伸ばし磨くのか、それは日々に発生するご縁に対してどれだけ真摯に反省し、一つひとつを学び直していくかということです。直すというのは磨くということです。人格を磨いていくのは自分の間違いに気づき、その間違いを直していくということです。そして判断基準は自己を中心にするのではなく、いただいたご縁に感謝することを中心にしてもしも自分に感謝が足りず間違っている姿勢があればそれを素に直すということです。素は人間はみんな正直です。その正直な自分でいられるように人は感謝を学び謙虚を実践するのでしょう。

人は磨かれていくことで研ぎ澄まされ天命がはっきりと観えてくるように思います。日々の出来事の受け止め方、受け取り方こそがその人の素直の能力なのでしょう。

引き続きご縁を大切に、日々の学び直しを深めていこうと思います。