木は語る

昨日は、守静坊がある谷に住む方々と一緒に英彦山にある宗像神社の春の清掃と御祈祷に参加してきました。この場所はむかしから地域の方々には弁天様として親しまれている場所です。印象的な巨石が横たわり、見事な景観と清々しい風が吹いてきます。

そして福岡県が昭和39年に指定した天然記念物の菩提樹があります。樹高は約17メートルほど、胸高周囲は1.5メートルほどです。

この菩提樹の菩提とはサンスクリット語のボーディ(bodhi)の音写で、仏の悟りを意味しています。一般的な植物名の木とは異なり、その名の通り「菩提樹=悟りの木」と呼ばれます。

この日本にある菩提樹は、インドにある菩提樹ではありません。厳密にいうと、釈迦が悟りを開いたときに坐ったのはインドボダイジュの下です。このインドボダイジュはクワ科イチジク属の熱帯植物になります。寒さに弱いなどの理由で当時の日本では育てられなかったため、葉の形の似た近縁の中国原産のシナノキ属の木が代用として各地の寺に植えられて菩提樹と呼ばれるようになったといわれています。

日本で菩提樹と呼ばれているアオイ科シナノキ属の木になります。もともとはこれは中国中部の原産で仏教の聖樹としてよく寺院に植えられる落葉高木でした。開花時期は、6月から7月です。昨日も、菩提樹の実がなっていて可愛らしく印象的でした。この菩提樹の実は念珠の材料としても使われています。

仏教に縁が深い木で、その来歴は12世紀半ばに臨済宗の開祖である栄西が、中国の天台山にあったボダイジュの種子を持ち帰ったことを起源とする説と、筑紫の国(福岡県)に渡来したものが全国に広がったとする説があるといいます。

私は後者を信じていて、もともと山苔国、日子山には中国から仏教が善正という人物が志と共に私伝で入ってきた場所ですし忍辱という日本ではじめての僧が誕生した地でもあります。

この場所に菩提樹があることは特に違和感はなく、その当時から人々の手を伝って仏道を歩む方々と共に日本各地へ弘がっていったように私は思います。

その天然記念物の菩提樹が、この場所にありそれが谷の人たちによって大切に祀られているということ。守静坊の枝垂れ桜と共にこの菩提樹はこの地域の宝だったようにも感じます。

木はモノを語ります。人間は政治や宗教、あらゆる時代の価値観や流行、権力や状況次第でどうにでも変わっていきます。しかし、木はいつの時代も変わらずにそこで静かに真実を見つめています。この古木たちは何を物語るのか。非科学的でおかしなことを言うと思われるかもしれませんが、木は語るのです。

この英彦山にある木々から、真実を直観し、本来の伝承を掘り起こしていきたいと思います。

本来の伝承

修験道のことを深めていると、時代の変遷を経て様々なものが混淆していることがわかります。はじめは山からはじまり、その山で修業し暮らした人たちが持っていた様々な知恵が里の人を救うための仕組みとして伝道していきました。本来の根源的なものは何だったのか、そういうものに触れることで私たちは歴史から原点を学び直すことができるように思います。

ざっくりですが、修験道をはじめすべての神仏混淆したものはそのはじまりは日本の場合は自然崇拝からはじまります。自然と自分と結んでいるもの、自分の心身を構成しているものとのつながりの中にいのちや、その存在の妙を直感し、自然にいのりはじめたことがはじまりです。縄文時代の遺跡や文化にも、祭祀を行い、自分を活かしているもの、自分のいのちを存続させてもらえる有難い存在、それはご先祖さまを含めて大切にいのり続けたことからも理解できます。

それが時代の変遷を通して、数々の人たちとその時代の価値観と融合してあらたな信仰として変化してきました。自然崇拝からの巫女さんたちが神道に混ざり、そして仏教が入り尼になりと、様々な暮らしの中で信仰が結びついてきました。さらに、政治的な宗教も入り、共同体としての豪族から領主的なものとしての統治に代わるなかでまた組織ができ、信仰も形を変えていきます。また明治に入り様々な宗教が区別されていくなかで、混淆していたものを分類わけして今に至ります。

本来の始まりはどこかということも、今であまり重要視されていません。しかし私は、分類わけして複雑になってそれがいがみ合うほどになっているのなら原点回帰することが自然ではないかとも感じています。それもまた自然の仕組みの一つだからです。

自然というのは、はじまりから終わりまで循環を続けます。ただその循環は何が循環しているのかということが重要です。自然界であれば、いのちが形を変えて循環を続けます。そのいのちがまるで水のように移り流れることで、私たちは生き続けて活かし続けられていきます。

本来のいのちがあるものは、そういう原点や根源的なものを失ってはいないものです。今の時代は、物質文明でいのちを物として扱い、便利さや効率を優先して経済効果を最大化するという仕組みで成り立っています。だからこそ、原点や根源的なものをあまり意識することもなくなってきました。

しかし、山は変わらずに今私たちの前にあります。その山と対話することは、今の私たちが忘れてしまっている原点や根源を思い出す大切な機会になるように思います。

子どもたちのためにも、はじまりから学び続ける姿勢を伝承していきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

観音菩薩と蓮の生き方

最近、聖観世音菩薩や千手観音菩薩とのご縁が深まりいろいろと思いを廻らせています。もともと、私の家は代々、十一面観音菩薩に守護していただいているもので長谷寺をはじめ、気が付くと観音様をお祀りする寺院に参拝することが多くありました。また八十八ケ所霊場が故郷にあり、幼いときから観音菩薩を拝む機会がとても多かったように思います。

大人になって鞍馬寺でご指導いただいているときも、千手観音菩薩を拝んでおりました。この観音菩薩とのつながりやご縁は気が付くとずいぶん遠いむかしから今も私は結んでいることがわかります。

音は聞くものと思い込んでいますが敢えて音は観るものであるとしています。世の中の音というのは、音色というようにあらゆる色が含まれています。そしてそこには感情や心があります。人の心の模様をその時々に適して最も相応しい手を差し出せるとき、人は音のもつ不思議な調和の徳に気づくものです。

音を観てあらゆるものに変化するとされる観音菩薩は三十三観音をはじめ、あらゆる姿として描かれています。あらゆる姿に変化していく観音様ですからその中心として聖観世音菩薩として変化の前の姿を表現されます。その聖観世音菩薩はよく「未敷蓮華」(みぶれんげ=蓮のつぼみ)を持つ姿で表されます。

もともとこの蓮華は、仏教の教えや悟りに近いイメージがあるとして中国から日本に伝来したといわれます。蓮華は泥の深くに根を伸ばし、成長した後も泥に汚れることなく綺麗な花を咲かせます。そこから、穢れた環境のなかでも清々しく美しい純粋な花を咲かせようとたとえたのでしょう。菅原道真公の梅の花にも同じものを感じます。蓮は仏教誕生の地であるインドの国花ですから、仏教には古くから特に深い関係があったのでしょう。

先ほどの聖観世音菩薩がもつ未開敷蓮華は蓮のつぼみで悟りを開けば開敷蓮華(かいふれんげ)と呼びます。またそのためには5つの徳を積むことを蓮華で語られます。

私の解釈ですが、一つは、「淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)。」どんなに濁って穢れた環境下であっても純度高く美しい花を咲かせること。二つ目は、「一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)。」自らの天命を信じて己にしかない唯一無二の道を歩んでいくこと。「三つ目は、花果同時の徳(かかどうじのとく)。」これは花と種が同時に実ることで、常に循環や縦軸を持っていること。4つ目は、「一花多果の徳(いっかたかのとく)。」一つの花が咲くことで周囲の豊かさや喜びの種をたくさんつけていくこと。自他の喜びを徳にし、その花が人々の仕合せに結ばれるということです。そして五つ目は、「中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)。」ただひたすらに真摯に無我の真心で歩み続けるという生き方です。

聖観世音菩薩とはそのような人物であったのだろうと思います。私たちは自然の生き物やいのち、その生き方から深く尊敬をし自らのいのちも同じように充実させていきたいと願い、その植物を尊敬することで憧れたのかもしれません。

純粋な心で純度を磨いて自らの魂を高め徳を積む。

先人の遺徳を思いながら、子どもたちのために道を清々しく歩んでいきたいと思います。

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

いつまでもご縁

人生は出会いと別れの連続で存在しています。生まれる前から出会いが始まり、死んでも別れは終わりません。常にご縁に生き、ご縁に死に、生死をめぐるご縁というものがあるだけです。そのご縁は、いろいろな理由をつけては関係性が結ばれますがある時には親子になり、またある時には夫婦になり、またある時には敵味方に分かれていきます。

その関係の中で、お互いに生き方を重ねながら学びあっていきます。学びあうというのは、成長しあうということでもあり一緒にご縁を磨きあっていのちを分け合っていきます。

このいのちの分け合いというのはご縁の本体でもあります。どのようにお互いのいのちを分けたのか、分け合ってきた歴史こそご縁の軌跡でもあります。その分け合ったいのちが、次の何のいのちに結ばれていくのか。それは出会い別れを繰り返しながらかたちを変えては循環していきます。このいのちの循環こそが、ご縁の素晴らしさであり奇跡です。

この今も、私たちは何かを食べ、そして飲み、空気を吸って吐いてはいのちを保っています。これも何かのご縁でそうなっていて、また私たちはそのいのちを分け合い新たないのちに甦生させています。

そもそも甦生というのは、いのちが循環することをいいます。私はいのちとしてそのものを感受し、そのいのちを新たないのちとして結び直すことを意識して暮らしを紡いでいます。本来、自然がわかるというのはこのいのちの道理や仕組みのままで存在しているということであり人間はそのとき、真の仕合せに気付けるように思います。

そしてそれを私は徳を積むとも定義しています。もともと存在するもの、そのいのちに感謝して新たないのちのご縁でいる。

いつまでもご縁であると思えば、この今のご縁を深く味わうことこそが人生の醍醐味であることに気づきます。子どもたちとのいのちのご縁がどうなっていくのか、とても楽しみです。

英彦山伝説を忘れない

英彦山の創建は仏教公伝(538年)より前の531年開山は中国北魏の僧・善正上人と伝えられてます。修験道の始祖である役行者もこの地で修行したといわれ九州西国霊場を開いた法蓮上人を中興の祖とされてます。法蓮上人は宇佐神宮寺の初代別当を務め宇佐や国東に神仏一体の信仰を広めたことで知られその功績により嵯峨天皇より寺領40町と、勅願寺の称号を賜わりました英彦山は「日の御子」の在わす神聖な山として「日子の山」と呼ばれていましたが弘仁10年(819)嵯峨天皇により「彦山」と改称されました。その後、江戸時代になり霊元法皇の院宣により「英」の字をつけたといいます。古来から神の山と呼ばれた英彦山には英彦山伝説がありました。この英彦山伝説を備忘録として記します。

彦山は善正が山を開き、忍辱が後を継いで、神仏の教えを広めたが、そのあとを継ぐ者がなく、ながく荒れるにまかされていた。やがて、法蓮という僧が出て忍辱の教えを興したので衆徒は千人にのぼり、中興の祖といわれる。法蓮は宇佐氏で、宇佐郡小倉山で苦修連行し、兼ねて医術をおさめて多くの人びとの病気を直した。その徳風は文武天皇の耳にも達し、大宝三年(七〇三)に詔を発して法蓮の功績に対して豊前国の野四十町を賜った。(「続日本紀」にある)。

ところが、法蓮の真の願いはまだまだ大きく、このあたり一帯の人びとが豊かに暮らせることであった。そこで、如意宝珠を手に入れ、その力で広く生活に悩んでいる人びとを救おうと考えたのである。するとある夕方のこと、空中から声があって、日子山の窟に摩尼珠があり、神が出し惜しんで守っているが、熱心に求むれば得ることができるであろうという。法蓮は喜んで山中を回ると多聞窟というのがあった。守護神は毘沙門天の化身であり、福徳の名が四方に知られているので、そう名づけられたものである。窟の岩は光り輝き、木の枝はおもしろく、流れ出る水は円く流れて岩をうるおしている。

法蓮は、この窟の中に宝珠が必ずあるので、それを得ようと、一二年間一心に金剛般若経を読誦し、三所権現と八幡大神に祈願し続けた。それで、この窟を般若窟と呼ぶようになった。それより先、大宝元年(七〇一)八幡大神は唐に渡り三年経って帰って来たが、小倉山に登り地主神の北辰に対して「自分はここに住んで、あなたと一緒に人びとの利益をはかりたいが、どうだろう」とたずねた。北辰は承諾して「西方に山があって、その山の彦山権現は岩窟に玉を埋め、一方の金剛童子に守護させている。その玉を求めてきて、人びとを窮乏から救いなさい」ということであった。

八幡大神は彦山に向う途中、香春明神に会って相談した。すると香春明神は「岩窟の玉のことはよく知っている。今は法蓮という者が玉を得ようとして修行している。彼に頼みなさい」という。八幡神はさっそく老翁に化けて般若窟に出かけた。法蓮は老翁に会って、神の化身であることを知っていたが、「どこの人か」とたずねると、老翁は「近くの年寄りです。あなたの弟子にしていただきたくて来ました。しかも、あなたにお願いがあります。」と答えた。法蓮が「何ぞや」というと、老翁は「もしあなたが玉を手に入れたら私に下さい。他に何も望みません」というのである。法蓮はその願いを受け入れた。

法蓮と老翁はますます修行を積むと、予定の一二年にならないのに、霊蛇が玉を握り岩窟を破って現れ法蓮に与えた。法蓮は両手で衣の左袖をひろげて押しいただいた。この窟を玉屋というのはそれからのことである。それ以後この岩窟の穴からは、常に清水が湧き出て、どんな干天でもかれることはなく、体にひたせば病気は治り、飲めば寿命は延び、天下に異変があるときは必ず濁るというのである。

法蓮は、この玉を得たのは彦山権現の賜と考え、まず上宮に登り、次いで宇佐に行って神徳に感謝の意を表しようとした。二〇余町ばかり行くと、老翁がひざまずいて「宝珠を私にください」という。法蓮は与えるには惜しいと思う気持があり、ことわった。老翁は怒って「僧が約束を破るとは何事か」とののしったので、そこを師忘れ坂という。それでも法蓮は与えたくない。そこで老翁は法蓮に向かって、実際に与えなくてもよいから「お前にやる」といってくれと頼んだ。法蓮は黙っていることができなくなって「お前にやる」といったところが、玉が飛び出して老翁の手中に落ちた。

老翁は望みがかなえられたと、喜びいさんで走り去った。法蓮はたとえ神のすることでも玉を奪い返そうと決心し、はるか前方に向かって火印を結ぶと、猛火が四方より燃えあがり老翁は逃げるところがない。したがって、その地を焼尾という。ところが老翁は、空中に舞いあがって去った。法蓮もまた飛んで、下毛郡諌山郷猪山(大分県山国町)の頂上から、大声で老翁の悪口をいったので、その声は伊予国の石鎚山まで聞えた。さすがの老翁もこれには閉口し、金色のタカとなり、一匹の黄犬をつれて猪山まで引き返して来た。そしていうには、「私は八幡である。昔は三種の神器で万民を安らかに暮らせるようにしたが、神となった今では、この一つの玉で百王を守りたいので許してもらいたい。私がこの玉を得たら、宇佐宮に安置して地鎮とし、寺を建てて弥勒菩薩を祀り、あなたを寺の主にして恵を広くいつまでも続けたい」と述べた。法蓮も異存があるわけでなく、石の側に立って和解した。それで、その石を和典石という。

これから本格的に英彦山の法蓮上人の足跡を辿ってみようと思います。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。

徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。

素直な生き方

先日、素直を座右にしている人とお話する機会がありました。自分の実体験でそのまま気づき感じたことを哲学にされておられそこから同じような体験が必要な人たちへ気づきを共有し導くようなお志事をされておられました。

考えてみると、自分の実体験というものはその人だけのものです。他の人では似た体験であっても同じ体験をすることはありません。それだけ人はその人だけの味、その人だけの人生の意味を送っているともいえます。その時、体験して気づいたこともその人だけのものです。しかしその気づいたものが大切で有難く、そして人生を変えてしまうような感動するものであればそれを伝えたい、共感したいと思うものです。

あるがままに感じたことをそのままに大切に生きるということは、とても素敵なことでありまさにそれが素直さであるようにも思います。ご縁というものもまた同様に、素直になることで味わい深くなるものです。そういう人は運に恵まれ運に運ばれ、運に導かれる人生になるようにも思います。

ご縁や運や素直さというものは、すべて繋がっているところに存在しているものです。その繋がっているところこそ、いのちの生きているところであり心が存在している在処です。

人は生き方というものがなぜ大切なのか、それはその人のいのちがそこにあるからです。生き方を優先できる人は、感性がいつまでも瑞々しくそして初々しいものです。初心を忘れずに、いつも本当の自分と対話し続けています。

自分と対話している人は、自分の喜びに気づきます。一日のはじまり、そして一日の終わりに自分に対して感謝することもできます。現代の日本は、自己肯定感が問題になっていて様々な事件を引き起こしているともいえます。人間は社会を形成する動物ですから、真に豊かな社会にするかは一人一人の自己肯定感の在り方にもかかっている気がします。

本来、みんなが素直に生きられるような認め合う世の中、素直であることを誇りにできるような正直な世の中になることが理想なのでしょう。教育に携わっているからこそ、自分の問題として社会のせいにせず、自分の責任として新たな「場」を創造していきたいと思います。

同じような生き方を志している人がいることは仕合せなことです。みんなで一緒に、子どもたちのためにも自分のできるところから実践を味わっていきたいと思います。