生まれ変わる

意識というのは何回も生まれ変わるように思います。私たちが身体は、新陳代謝を通して細胞もその都度生まれ変わっています。死というものは、この細胞の生まれ変わりが次第に失われて消えていくことは科学的には証明されています。

不思議なことですが、細胞の合体によって私たちはいのちを繋ぎます。そして繋いで新たな生命が誕生しますが、同時に増え続けるものを今度は消滅させていく必要があります。バランスというものですが、それを保つために合体しては消えるという循環を自然は持っています。これはいつからそうなったのか、宇宙の一つの真理や原則なのでしょうがその御蔭で全体を結ばれ環境に適応していくことができます。

私たちのいる宇宙は、有為転変であり諸行無常です。合体するからこそ変化するのです。変化の正体は合体なのです。合体していくことを続けなければ存在することができない仕組みになっているのです。創造と破壊こそ、生きるということです。そのために、変化するのです。

ただこの変化や合体には、意識というものがついてきます。どういう意識でプロセスを経たかというのが、次の合体に結ばれていくからです。毎回、創造と破壊を繰り返してもゼロにリセットされているわけではありません。同じことは二度となく、形成する段階で毎回何かが変わります。それは傷のようなもので、時を刻むようなものです。そしてそれを癒し、それを忘れるという作業があります。

その行為を繰り返すことで、私たちは生きている実感というものを得られます。生きている感覚、いわばこの感覚を味わうことで役目を理解して役割に仕合せを感じるのです。

細胞もまた同様に、日々に生まれ変わることによって仕合せを感じます。健康というものの本質もまた然りでしょう。そして同様に意識も変わります。意識は特に時間や歴史によって変化していきます。変化の中にいることを忘れなければ細胞は調っていきます。意識が調っていれば、人類はバランスを崩すことはありません。健康であるためには、自然や宇宙の変化にあわせて自分たちも意識を変え続けていくことだろうと私は思います。

自分の中にある宇宙、つまり意識を調えることが大きな目で観ると人類にも地球にもすべてにも大切なことはわかります。丁寧に自分自身を調えて暮らしを実践し、新陳代謝と生まれ変わりを味わっていきたいと思います。

恵みに感謝

全国各地に商売繁盛の神として知られる七福神の一人に、「えびす」さまがいます。ちょうど十日えびすのお祭りがあっているので少し深めてみます。

この「えびす」さまは、ウィキペディアの分類によれば「日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。また、初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の一柱。神格化された漁業の神としてのクジラのこと。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。寄り神。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。寄り神信仰や漂着神ともいう。」とあります。

「えびす」さまの名前はとても有名ですが、以上のように外来の神様や渡来の神様、海からの漂流物など、はっきりとしないあらゆるものが混ざり合った姿として存在があります。また一説によれば古代の鴨族が田の神様として祀っていたとか、海人族安曇氏の氏神様であったとか、謂れがあります。この古代の安曇族は本拠地は北九州の志賀島一帯で遠く中国まで交易をし、海部(あまべ)を支配して勢力を誇った有力な豪族だったといいます。水軍を持ち、あちこちに移住しその勢力を拡大した一族です。

もともと日本という国は島国で海路と海の恵みによって豊かな暮らしを育んできました。内陸も今よりも内海や河川が自然のままで、船によって内陸との交易を発達させてきました。

海がある御蔭で私たちは世界とつながります。今では空もありますが、古来は海が中心でしたから多様な文化を受け容れる神様の御蔭で人類は交流を持ったように思います。

そしてこの「えびす」さまは、その象徴だったように思います。

今では商売繁盛のご利益が有名で、よく大黒天と一緒にむかしはお祀りされていたといいます。私の古民家でも常に厨房やおくどさんにはえびすさまと大黒様を一緒にお祀りします。これは豊かさの象徴に感謝するためでもあり、その見守りの中で暮らしが成り立っていることを忘れないようにするためでもあります。

海の恵み、田の恵み、自然の恵みによって私たちは生きていくことができます。いくらお金があっても、これらの自然の恵みがなければ私たちは生きていくことができません。

今、ちょうど十日えびすで私のいるBAでも恵比寿様をお祀りしていますが改めて恵みに感謝する日にしたいと思います。

 

親友の仕合せ

幼馴染がはじめて家族と一緒に聴福庵に来てくれました。小学校5年生の時からの友人で色々なことを星を観ながら毎晩のように語り合った仲です。転校してきたのですが最初からとても気が合い、お互いにタイプも異なることもありとても尊敬していました。

音楽が好きでアコースティックギターを弾き、また工作が好きで半田鏝を使い近くのパチンコ屋さんの廃材で色々なものをつくっていました。他にもパソコンが得意でプログラムなどもかいていました。私はどちらかというと野生児のように自然派でしたからとても理知的で新鮮でした。

中学では同じ部活に入り、レギュラーを競いバンドを組んでは一緒にライブなどを行っていました。塾も一緒で成績でも競い、その御蔭で勉強もできるようになりました。思い返せば、尊敬しあい好敵手という関係だったように思います。

高校卒業後は、私は中国に留学し彼は岡山の大学に行きました。そして社会人になって一緒に起業をして今の会社を立ち上げる頃にまた合流しました。毎日、寝る時間を惜しみ休みもなく働き努力して会社を軌道に乗せました。私の右腕であり、苦楽を共にするパートナーでした。しかし、その後、お互いに頑張りすぎたり結婚をはじめ色々な新しいご縁が出てきてメンタルの不調や社員間の人間関係の問題、過去のトラウマや祖父母の死別など様々な理由が見事に重なり別れることになりました。

そこからは孤独に新たな道をそれぞれに歩むことになりました。もっとも辛い時に、お互いにそれぞれで乗り越えなければならないという苦しみは忘れることはありません。あれから20年ぶりにお互いの親友の通夜で再会してまた語り合うことができています。

離れてみて再会してわかることは、その空白の20年のことを何も知らないということです。当たり前のことを言っているように思いますが、その間にお互いに何があったのか、伝えようにも関係者や周囲がお互いの知らない人ばかりになっていてどこか他所の他人の話になります。私たちの知り合いは20年前に止まったままでその頃の人たちももうほとんど今ではあまり連絡を取っていません。

人のご縁というのは、一緒にいることで折り重なり記憶を共にするものです。同じ空間を持つ関係というのは、同じ記憶を綴り続けている関係ということです。喜怒哀楽、苦楽を共にするときお互いのことが理解しあい存在が深まるからです。

今では、親友は新しい家族を築き子どもたちも健やかで素敵な奥さんとも結ばれて仕合せそうでした。20年たって、一番嬉しかったのは彼が今、仕合せであることでした。

そう思うと、最も自分が望んでいるものが何かということに気づかされました。私が一番望むのは、私に出会った人たちがその後に仕合せになっていくことです。だからこそ、真心を籠めて一期一会に自分を尽力していきたいと思うのです。

いつまでも一緒にいる関係とは、仕合せを与えあう関係でありたいと思うことかもしれません。親友との再会は、心が安心し嬉しさで満たされました。苦労の末に掴んだ彼の仕合せに感謝と誇りに思いました。

善い一年のはじまりになりました、ご縁に心から感謝しています。

当たり前を拝む暮らし

昨日は、朝から会社の仲間たちと一年を振り返り昼からは結の方々と共に暮らしの中で冬至の時間を過ごしました。また夕方からは祐徳石風呂サウナに入り音楽を味わい直来で備長炭で煮込んだおでんを食べ団欒しました。みんなで持ち寄った「ん」のつく食べ物を発表したり、昨年のことを思い出してみんなで語り合い、来年の予祝をしておめでとうをし運気を上昇させました。

私は、何かのイベントのように物事を行うのが苦手であまり好きではありません。刹那的なものは何か人間の作為的なものを感じてしまいます。もちろん、好き嫌いというだけで悪いことではないので時折それもありますが苦手ということです。

例えば、昨日は冬至で日の入りをみんなで眺めて拝みました。奇跡的に日の入りの瞬間に冬の厚い雲の間から差し込んできた神々しい光に包まれました。お祈りをして法螺貝を奉納したあとさらに光が増し振り返ると一緒に拝んでいる友人たちの顔が光で真っ白になっていました。その神々しさにまた拝みたくなり感謝しました。

私たちは何かを拝もうとするとき、何かの建物越しに拝んだり、あるいは石像やあるいはお経などを通して祈ろうとします。しかし、本来の神々しいものはもっと自然的なものやいつもある当たり前の存在にたいして拝んだ方が深い感動や多幸感が得られるものです。

これは自然であり、人為的ではなく作為もないからです。

古来より私たちの先祖は、自然に太陽や月や水や空気、星空をはじめあらゆる存在の偉大さに気づく感受性を持っていました。だからこそ、当たり前の中に足るを知り真の豊かさや喜びを味わっていたのです。

何かと比較することもなく、何かに勝ち負けもなく、効率や効果なども一切とらわれない、ただそこにあるものに感動していたのではないかと私は思います。

その証拠に、私たちの感受性の中には自然を美しいと感じる調和の心が具わり、同時に五感や六感というような感覚が反応するからです。人間の脳みそで構成された世界ではなく、本来の自然として刷り込みも囚われもない赤子のような心があるのです。

そしてその感性や調和を優先して生きることが、本物の暮らしであり私たちがこの世で許されたいのちの尊厳でもあります。

自然を尊重する生き方は、余計なことをなるべくしないという生き方でもあります。それはあるものを観ては、足るを知り、真の豊かさを謳歌するという一期一会の日々を生きるということでしょう。

子孫のためにどのような暮らしを遺していけるか、そして今にその暮らしをどう甦生して伝承を続けていくか、遠大な理想にむけて日々は小さな暮らしの連続です。この日を大切にして、次回の立春に向けて暮らしを調えていきたいと思います。

一線を越える人

昨日まで神奈川から私の尊敬する方が滞在されていました。この方は、若い時から自由に生きていてすべてのことに対して一流の感性を磨かれています。その方がつくるものは、すべて芸術品でそこには一切の妥協もありません。自分というものを知り、自分というものを探して日々に研鑽を怠らない。まるで剣道の達人のような風情を醸し出しています。

最初にお会いした時も、その佇まいは徹底されており二度目にお会いした時は愛や懐、その大きさを感じました。三度目にお会いした時は、愛の深さや厚い優しさ、純粋な生きざま、人間力を感じました。

かつて西南戦争のとき中津藩の武士、増田宋太郎という人物が西郷隆盛のことを「一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」とまでいった言葉があります。

人は人間力を観るとき、その人の器の大きさ、そして一緒にいることでその人の深い愛を感じるのです。自由に生きると愛を生きることになります。そして愛に生きる人に触れると人はその愛の大きさに感動するのです。

人間力を磨き上げていくなかで、人は同時に愛も高めていくように思います。西郷隆盛は「敬天愛人」を座右の銘にしていました。まさにそれを感じる一日になりました。

人は感動することと、感動させるということがあります。人を感動させるというのは、その人が一線を越えていることを感じさせます。この一線とは何か、それは私心を捨てるような一線ではないかと私は思います。西郷隆盛は、「総じて人は自分に克つことによって成功し、自分を愛することによって失敗するものだ」ともいいます。

人は何かのためにという目的を持ちます、そしてその目的はそこにいのちを懸けてでもというものがあります。その人が、それをするのは何かのいのちを懸けているのです。そういう本来の自分というものを持てる人は、自由人であり仕合せな人であろうと私は思います。

人生の中で、同じような生き方や生きざまを志す人に出会い、薫風をいただけることはとてもありがたいことです。子どもたちや未来世代のために、学んだこといただいことをさらに研鑽を積み、還元できるように精進していこうと思います、

ありがとうございました。

捨聖の甦生

空也上人の生き方に憧れて遊行を実践した人物に、一遍上人がいます。この人物は鎌倉時代の方ですから空也上人が逝去されてから270年後の人物になります。一遍上人特に止住する寺をもたず、一生涯全国を巡り、衆生済度のため民衆に踊り念仏をすすめ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)といわれた方です。

その一遍上人が門人への説法で空也上人がどういう人物であったかを語られています。そこには、こうあります。

「また上人、空也上人は吾が先達なりとて、かの御詞を心にそめて口ずさび給ひき。空也の御詞に云(いわく)『心無所縁(中略)譲四儀於菩提《心に所縁なければ、日の暮るるに随つて止まり、身に所住なければ、夜の明くるに随つて去る。忍辱の衣厚ければ杖木瓦石を痛しとせず。慈悲の室深ければ、罵詈誹謗を聞かず。口に信(まか)する三昧なれば、市中もこれ道場。声に随ふ見仏なれば、息精即ち念珠なり。夜々の仏の来迎を待ち、朝々最後の近づくを喜ぶ。三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る》』と。

木造空也上人像にある、口から迸る六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の実践とはこのような遊行の姿を示されたことがわかります。暮らしの中で、生き方として念仏の生き方を実践されたことが何よりも尊いと感じます。遊行のなかで如何に暮らしの徳を磨いていくか、まるで仏陀のような生きざまに感銘を受けます。

またこうもいいます。

『求名領衆(中略)更盗賊怖《名を求め衆を領すれば身心疲れ、功を積み善を修すれば希望多し。孤独にして境界なきにはしかず。称名して万事を抛(なげう)つにはしかず。間居の隠士は貧を楽とし、禅観の幽室は静なるを友とす。藤衣・紙の衾はこれ浄服、求め易くして、さらに盗賊の怖れなしと》』

閑居で暮らせば貧も楽しく、座禅のように暮らせば静寂であることが仕合せである。シンプルな衣装や紙の袋は手に入りやすく清浄である、それに盗賊に奪われるものもないとあります。

「上人これらの法語によりて、身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ、機縁に随て徒衆を領し給ふといへども、心に諸縁を遠離し、身に一塵もたくはへず、絹帛の類を膚にふれず、金銀の具を手に取る事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠をみがき給へりと云々。」

このように空也上人は、いのちは山野に捨て居住を持たず云々とあります。つまりは、色々なものを手放してそぎ落とされて顕現した徳そのものの姿があったように思います。

今の時代でも空也上人のような生き方ができるでしょうか。この時代のことに思いを馳せてみると、政治的な宗教が盛んな世の中で民衆の中で何も持たずにただ遊行している姿で歩んでいく僧がいる。

文字も読めず学識もそんなにない民衆に、さらにいうなら言葉も異なり地域の特殊な文化があるなかで普遍的な徳の生き方を伝道し伝承していく、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいと。そして上記のような、六波羅蜜の姿を体現してみせること。

そぎ落とした先にあったのがこの念仏だったと思うと、今の時代でもこれはとても大切なことがわかります。知識をつけて、みんな言葉も文化も理解している世の中ですが苦しみは相変わらず増え、さらに執着や欲望や争いは際限なく拡大を続けています。

手放したりそぎ落としていくというのは、私の言葉では「磨く」といいます。磨いてシンプルにしていくことは、足るを知る暮らしを甦生することになり一人一人が徳に目覚める生き方になっていくように思います。

先人の遺徳を偲び、その道を後から踏みしめながら道を甦生させていきたいと思います。

 

遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

​けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

機械と人間

人間の進化というものは科学を追及することになってきました。かつての人間の進化は、感覚を追及していました。非科学的なものとして現代では受け入れられない状態になっていますが本来は大多数の人たちがこの非科学的な力を発揮していた時代もあります。

誰でもその非科学的なものを使えるようにしようと、科学を進歩させて感覚を機械で発揮させていくように発展させてきましたがその分、また人間の感覚が失われていきます。

そのうちあと数十年もすれば、人間の感覚に限りなく近い、あるいは或いは他の昆虫や動物の感覚をコピーした機械が誕生して人間は感覚を使う必要がなくなるかもしれません。

そうなってくると、人間は人間の主権を機械に譲り渡すのでしょうか。人間が人間たらしめるものは、この感覚ともいえます。私たちは感覚を使うことで、この体の知性や心の感性、魂の感覚などを味わいます。時には、つらいこと、苦しいこと、悲しいこともあれば、喜びや感動、驚きなどもあります。

ひょっとしたらそのうち、感覚を購入するというような機械も出てくるかもしれません。機械に感覚を教えてもらうという時代です。そうなってくると、人間が機械になり、機械が人間になっていくように交換していくのでしょう。

アバターや仮想空間などもまた、分身をいかにつくりだしてそれに体験させるかということに進歩しています。この世に体験しにきて、仮想の体験をするというのは何か本末転倒のような気がしますがこれも時代の一コマなのでしょう。

感覚というものを研ぎ澄ましていくことは、いのちと触れ合うことに似ています。花を活けても漬物を漬けても、野菜を育てても、人と対話していてもすべて感覚を用います。感覚を通すことで、私たちはありとあらえるものを直感的に結べます。

そういうものが結べなくなるというのは、ある意味で人間中心の人間だけしかいない世界にしていくということです。

子どもたちがどちらの世界を望んでいるのか、長い目でみて伝承していきたいと思います。