日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

便利さを手放す

便利さというものは、本来の大切なものを失わせていくものです。便利さがなぜ必要かというのは、それだけ効率を優先したり誰かの都合に合わせていこうとするときに用いられていきます。

現代は、時間を切り売りして消費することや税金の回収に余念がなく便利さはさも素晴らしく必要不可欠なものということになっています。しかしその便利さの背景にあった、不便だけれども大切なもの、不便でなければならなかったものまで失われていきました。

気が付くと、便利さによって得られるもの以上に失われてしまった方が大きくなり取り返しがつかないようになってきています。不便であることを優先する人を、蔑んだり、変人扱いするというのはどうしたものかと感じます。

例えば、不便なものとして代表的なものは「手間暇」というものです。丹精を籠めて時間をかけてじっくりと丁寧に取り組んできたものは今の時代は、それは良いことはわかっているけれどと言いながら誰もやらなくなってきました。その理由は、時間がない、お金がない、人がいないという理由です。そうしているうちにロボットやITが広がり、人も必要なく、お金もかけず時間もかからないものを選択するようになってきました。

経営も経済も効率化してその分、利益は出しましたがその便利な利益によってさらに便利なものを産み出す方へと投資されていきます。すると先ほどの不便なものは悪となり、気が付くと手間暇をかけることが良くないことのような価値観になっていきます。

自然界の循環の仕組みに合わせるというのは、時間も効率も良くないということで人間が無理に循環を促進していきます。そうしているうちに、最初は時間もお金も人も要らないといっていたものが経年劣化しているうちに大量の時間もお金も人も必要になります。人間は、目先の損得に心を奪われ便利さを追求すると本末転倒していきます。

長い時間をかけて、丁寧にじっくりとというのは伝統のことです。そしてそれを正しく伝承することでその知恵は永続的に子孫へと受け継がれていきます。これを途絶えさせるような政策や生き方、そして暮らしが失われていくというのは人類が知恵を捨てていくということに似ています。

そろそろ本気で、便利さを手放す勇気や知恵、そして聖賢たちが目指した徳の世の中へと転換していく時機にきているように私は感じます。子どもたちをみていたら、未来があります。私たちが勇気を出して変わるという意識と行動が必要です。

暮らしフルネスをさらに磨いて伝道していきたいと思います。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

会社にとってもっとも大切なこと

本日からカグヤでは同じ初心や志を持つ会社に訪問する理念研修を行います。私たちの会社は元々、目的重視で働いていますから理念研修というのはよく行われています。現在では、ほぼ毎日がある意味で初心の振り返りと改善ばかりで生き方を見つめ、働き方を磨いている日々です。

一般的に会社は、目標ばかりが求められますが私たちは何のためにを大事にしています。「子ども第一義」という言葉をスローガンにしていますが、これは目的を見失わないためにみんなで確認し合っているものです。この第一義というのは、何よりも大切な中心としているものという意味です。この子どもというのは、子ども主体の子どもであり、童心の子どもでもあり、子どもが人類の最も尊い存在であるという意味です。

私たちは大人か子どもかで子どもを語ります。子どものためにといいながら実際には、大人の社会の都合がよい方へばかりの議論をします。本当に子どもが望んでいることは何か、それは一人一人の一家一家の暮らしの環境にこそ存在します。自分たちも本来は、子どもが大きくなっただけで子どもが何よりも尊重される世の中にしていけば自然界と同じく調和して仕合せを味わえる世の中にできるはずです。

当たり前のことに気づけなくなっている現代において、純粋にニュートラルに子どもの憧れる未来のために生き方と働き方を変えていこうと挑戦しているのがカグヤの本志、本業ということになります。

生き方というのは、どのような理念を抱いて取り組んでいるかということです。その生き方を確かめて、今日はどうであったかと振り返る。仕事や内容はその手段ですから、その手段のプロセスに目的を忘れずに誠実に実践してきたかというものが働き方になります。その働き方をみんなで分かち合い確かめる中に、みんなの生き様が出てきます。その生き様の集合体こそが、会社であり理念の体現した姿です。

社会というのは、自立し合うことで真に豊かになります。この自立とは、奴隷からの解放でもなく、お金や地位、名誉、成功者となることとは違います。本来の自立は、みんなが目的意識を持ち、協力し合い助け合い、お互いを尊重しながら生き方を磨いていくなかで醸成されていくものです。

自分らしく生きていくというのは、思いやりをもてる社会にしていくこととイコールです。自分も人も活かすというのは、お互いを違いや個性を喜びあい感謝していくということです。

子どもたちは、学校の勉強とは別に家庭や家族、身近な大人の生き方や生き様を模範にして学んでいきます。これは単なる教科ではなく、まさに生きていく力を養っていくのです。

だからこそお手本が必要ですし、場や環境があることが重要になります。育つ環境がなければ、いくら教えても真の意味で学ぶことができないからです。これは文化の伝承なども同様で、連綿と繋がっていく中で託していくものですから先人たちが先にお手本になりそれを子孫へと結ばれていくものです。

私たちの会社は決してユニコーン企業や大企業、テレビなどで有名なベンチャー企業などではありません。しかし、こういう私たちのような生き方や働き方を大切にする会社も社会には必要だと感じています。誰もいかない道だからこそ、私たちがその道を往く。子どもの1000年後のために必要なことだからこそ、誰もしないのなら我々がそれを遣るという覚悟をもって会社を運営しています。

そして同じようにそれぞれの道で自分らしく歩んでおられる方の生き方や働き方は私たちにとっても勇気や励みになり、また知恵を分かち合える同志にもなります。たとえ手段は異なっても、目指している夢や未来は似ているということに深い安心感を覚えます。

一期一会の日々に、どれだけ真心を籠めて生きていくか。

会社としてもっとも大切なことを忘れない日々を過ごしていきたいと思います。

 

日本という存在

日本という存在の面影というものを色々なところで見つけることができます。まだ有難いことに私たちの世代は西洋化の影響を受けてきた変遷、またそれでも遺っているあらゆる文化や伝統の両方を味わうことができています。

変化を見つめて味わうなかで、原点をよく見つめて五感を研ぎ澄ませていると日本人とは何か、日本という存在は何かということを直観することもあります。釈迦が因果律を語るように、本来、はじめに種がありそこから繰り返し変化を続けて生き続けています。

土というものに触れ、水と太陽、つまり自然というものと共生をしてきた歴史、そして何をもっとも大切にしてきたかという歴史、これが民族を形成していることは間違いない事実です。

神話から今に至るまで、それを何度も繰り返し辿りながら似たようなことをやり続けます。これが託された人生でもあり、天命という仕合せと結ばれている生き方でもあります。

小泉八雲という人物がいます。ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者で1904年に亡くなられました。純粋でニュートラルな目で、ありのままのこの日本や日本人を捉えられた方です。

忘れてしまっているものを思い出させてもらうことは有難いことです。これは空気の存在、いのちの存在なども同様に当たり前で絶対的だからこそ意識しなくなるものです。

しかしこれがなければ生きていけず、気づかなければ幸福にならないものです。

小泉八雲はこういいます。

「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」

「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」

まさに、日本と日本人とは何かということをはっきりと観えておられます。私の暮らしフルネスのまた、同じような感覚で取り組まれているものです。

そしてこうも言います。

「日本人ほど、お互い楽しく生きていく秘訣を心得ている国民は、ほかにちょっと見当たらない」と。

お互いに楽しく生きていく秘訣を心得ている。そうあるとき、私たちは日本人なんでしょう。日本人よりも深く日本を愛したといわれる人が、そう思う境地を私も味わってみたいものです。

誰かに教え込まれた日本人ではなく、もっと緩んで開放し、自由にすべての束縛を手放し、まっさらの無垢な心で子どもたちには生きてほしいと思います。

ルーツから

私たちは知らず知らずのうちに自らの価値観の中に歴史の影響を受けています。産まれて育った風土は、原初からずっと今まで続いておりそこに人々が暮らしを営んできました。時間軸でも、100年前も1000年前も、また数千年前もここで誰か人々が生活を営んできたのです。そして今も自分も同じ場所で生活をしています。

もしも1万年間ずっとカメラがその暮らしを撮影していてそれを数倍速で見たとしたら今の自分がこの風土に大きな影響を受けていることに気づくはずです。例えば、外国人で肌の色が違かったり姿カタチが異なるのもまたその風土の影響があってのことです。それに価値観や文化、食べているものの違い、得意不得意なども育った場所、そして生活様式、それらの影響も風土が決めます。国民性の違い、国民の特徴などもまた歴史や風土です。

つまり私たちは、何かを学び始めるずっと前に本来の自分たちは一体何者で何処からきて何をして目的は何かなどはじまりやルーツを知る必要があると私は思います。日本であれば、神話がありそれが国家になっていく歴史の変遷もあります。あとは、この日本の風土でどのように生活をつむいでどのように助け合ってきたかという経過も大切です。

そういうものを学び、知ることではじめて自分のルーツを知り日本という姿、日本人であるということを自覚できます。世界との交流がますます進むこれからの未来において、特に大切なのはこの「自分を知る」という教育なのです。

しかし残念なことに、現在は机上の学問が優先され地域や郷土、風土から学ぶという実践体験も失われています。同時に、ルーツはほとんど知らされず途中からの年号の歴史を学びます。今もつながって存在しているという生きた歴史ではなく、ショーケースに入ったような歴史を暗記しては受験のために使います。

すべての学問の原点でありルーツである歴史を学ばないというのは、未来に大きな禍根を残していきます。

キャリア教育とかSTEMとか流行りもありますが本当は何のために学ぶのか、そして自分とは何かという普遍的なことをもっと大切にしてほしいと思います。そのための歴史であり、そのための故郷があるのです。

子どもたちのためにも、私のできるところで真摯に取り組んでいきたいと思います。

試練と錬磨

ありのままの自分というもの、今、学んでいるものをそのままにさらけ出していくのは自分の心のままに素直であることの証でもあります。それを誰かに見せなくても自分自身のことは自分自身が分かっているからこそ向き合う中で対話を続けます。

比較というものがある御蔭で自分というもののこともわかります。しかし比較しないところで自分の素直な心を知ることは、自分を掘り下げていくことができます。人は教師と反面教師、そして自分自身という教師がいます。あらゆる教師の言葉や行動、態度を見せてもらえるのは有難いことで自分がその中から与えてくださったことを吟味して学び直していきます。

どんなことも学びの糧にしていくというのは、生きる姿勢でもあり知行合一に歩んでいこうと決めたなら根気強く体験から気づいたことを一つ一つ学んでいくことです。

自分が本心からこうしたい、こうありたいという志があります。

その志を保つのは至難のことであらゆる影響を受けては、その志が試されます。つまり試練という錬磨です。錬磨は、研ぎ澄まされていくように砥石によって磨かれます。

この磨いていくというのは、体験や出会い、そして受け容れていくことによって光ります。まるで古い古材を、蜜蝋で磨き上げていくように、あるいは掃除をして場を清めていくかのように丁寧に片づけて元の状態に戻して余韻から自己の本心と初志に耳を深く静に傾けていくことに似ています。

人生は、自分というものとの同行二人の旅路であり道でもあります。

道を歩んでいくなかで他人の道に心を揺さぶられるのも、迷いなく自分の道を歩んでいくための試練です。自分の道を与えられたただ一本の道統を守ることが仕合せであり感謝の源です。

日々のご縁に深く感謝して、日々の精進を楽しみたいと思います。

思い邪なし

実力という言葉があります。これは必要な時に発揮される力のことです。日々に最善を盡していく中でその人がその目的を達成するために必要な力が具わっていきます。つまり必要に迫られるとき、その力は具わるということです。

では何が必要で何が不必要なのか、人は不必要なものを持てば持つほどに実力が不足していきます。自分の実力がわからなくなるからです。本当に実力があれば運が巡ってきます。そう考えると、運も実力のうちという言葉はその人が努力して得たことが運につながったということです。

では、何を努力してきたかということになります。王陽明の言葉が参考になります。そこにはこうあります。

「修行は一進一退するのが当然である。他人の非難や嘲笑、または栄誉に関わりなく私欲を取り除き、本来持っている善心に沿って生きる修行を怠らなければ、必ず実力を得るようになる。」
「日常生活や仕事においても、私欲が大きくなっていないか絶えず確認しなければならない。仕事や日常生活においても私欲に克ち本来持っている善心を発揮しなければならない。」
「仕事が上手くいかないことを心配するのは名誉欲や損得の欲にひきつけられて、本来持っている善心を発揮できないからである。大事なのは結果を求めるのではなく、欲に克ち本来持っている善心を発揮することだけだ。」
つまり知良致こそ、実力の本体です。そしてこうもいいます。
「努力することを手がけたばかりで、どうして腹のなかまで光りかがやくようにできようか。たとえば、ほとばしっている濁流を瓶の中に貯えたばかりのときは、はじめは流れがとまっても、やはり混濁した水である。流れをとめて澄ますことしばらくすると、自然と不純物はすっかりなくなって、もとのきれいな水になるようなものである。きみはひとえに良知に立脚して努力しなさい。良知が発現されること久しければ、まっくろなものも自然と光りかがやくようになる。いま速効を求めようとするのは、むしろなくもがなの作為であって、努力したことにはならないよ。」
速攻を求めるのは不自然であり、長い時間をかけて純粋さを発揮していくこと。つまり清め澄ませていくこと。最後にこうもいいます。
「古今の聖賢のあらゆる議論の端々に至るまで全て、思いに邪なし、の一言で要約できる。これ以上、何を言うことがあろう。これこそ、一を知って百に通じる功夫なのだ。」
この「思い邪なし」jこそが、日々の鍛錬であり修養の本懐です。私も学んでも学んでも至りません。しかしそれこそが修行であると念じて、今日も一日、真摯に精進していきたいと思います。

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。