古来の伝承

昨日、休耕田を甦生したものの一部に真菰を植えました。この真菰は、ウィキペディアを引用すると「マコモ(Zizania latifolia、真菰)は、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。 東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。」とあります。

以前、庭先のビオトープで植えたことがありますが清々しい雰囲気で揺れる真菰に癒されたものです。またマコモタケは料理しても美味しく、貴重な味わいだったことを覚えています。

歴史を辿れば、お米が入ってくる前から日本人には重宝されてきた伝統食で縄文時代以前には衣食住すべてに欠かせない存在だったと推察されています。その理由は、実や新芽は食料となり、干したものはゴザや蓑笠、屋根などあらゆる場面で暮らしの道具になりました。それに神事でも常に真菰が使われ、現在でも伝統的な古神道を実践している格の高い神社では御神体やしめ縄にも古来からの真菰が使われています。また仏教でも、お盆を飾る盆ゴザには真菰で編んだものを今でも使っています。

稲作が入ってからは手軽に藁が入手できるようになり真菰が使われなくなりましたが、本来は真菰を神聖な作物として古来の日本人たちは直観し、暮らしに取り入れて現代まで大切にしてきたことがわかります。

穢れを祓うチカラがもっとも高い作物として、麻と同様に日本人はその効果を実感して受け継がれてきたように思います。また日本人以外では、北米のインディアンが大切にこの真菰を食べて暮らしに取り入れているそうです。

色々と便利なものが出てきては、代用してきましたがそれはあくまで一時的なもので本来、どのようなものであったか、もともと何のためにそのものを使ってきたかということが歴史の変遷の中で薄れていくものです。

復古甦生させていくというのは、元来の意味をもう一度紡ぎ直し、その確かな目的や意図を再確認して新しくしていくことでいのちを繋いでいくことです。

意味があったものが意味がなくなるのは、その意味を確認する確かな場が失われていくからです。子どもたちが確かな意味をそのままに伝承してその力が子孫まで及ぶように丁寧に古来からの道を復活させていきたいと思います。

触媒効果

昨日は、祐徳大湯殿サウナの傍に植えた石菖の上に苔類を移植しました。苔が土の上に被さると、効果的に水を保水して植物たちを守ります。水は土から蒸発して雲になっていきますから、毎日大量の水分が土から空へと上がっていきます。

しかしそれを土壌の枯れ葉や苔たちが覆ってくれていれば、その下には大量の微生物や虫たちの住まいになり快適な水分を保った土壌に変化していきます。水と土の絶妙なバランスで植物たちも快適にそこで生長していくのです。

何でもそうですが、場づくりとは、生き物たちの生育に適した環境を用意して見守ればどんな生物でもすくすくと育っていきます。育たないのは環境が適していないだけで、それはその生物が喜ぶような環境を観察することを怠ることで発生します。

例えば、私は庭で烏骨鶏も飼育していますがその烏骨鶏の土壌もまた熱帯雨林のようなフカフカなものにしていて常に発酵した状態です。鳥たちはその土壌で泥浴びを毎日楽しみ、羽についた様々な虫たちや菌を発酵した微生物によって清掃してもらっています。

また風通しが悪いと病気になりますから、新鮮な空気、また水は雨水タンクを用いて、庭先には運動できるような散歩道を設け、その近くにある雑草や虫たちを食べることができるように配慮しています。

鳥たちが仕合せになるような環境を設ければ、その中で産まれる卵もまたストレスフリーで美味しいものが育ちます。

これは農園や畑も同じことです。現在、造園中のメビウスガーデン(無双農園)も最初は土づくりからはじまります。土は量が多く、客土にしましたがここから炭を大量に用いて、微生物たちの住まいから造りこみます。私は炭を使うものですから、炭の持つ効果を最大限に発揮させ土壌を甦生させます。

炭は多孔質構造になっており微生物には最高の環境で住まいが整います。他にもミネラルがあり、遠赤外線もあり、触媒としての効果は群を超えています。私は微生物には触媒が必要であると考えており、これは純粋な発酵をしたお酒然り、酵素然り、微生物の居心地をよくするにはこの「触媒効果」が何よりも必要なのです。

これは私自身の身体で学んだことでもあり、同時に土もまた触媒としての効果次第でいくらでもその土壌の質を変えてしまうのです。

場の居心地を善くするというのは、そのもの生育の特徴や個性、その生きものの最も適した環境に近づけることが何よりも大切なのです。引き続き、子どもたちの場づくりの参考になるように自然からの智慧を伝承していきたいと思います。

智慧の伝承

昨日はメビウスガーデン(無双庭園)づくりを引き続き行いました。天気は曇りでとても涼しい風が吹き、御蔭で作業がとても捗りました。

大量の土を運び、またそこに瓦をはめ込み、また土を掘るの繰り返しで非常に体力を消耗する作業です。しかし、着実に形になっていく姿に遣り甲斐と一体感を味わえます。

先人たちは、みんなこの一つの作業を通してものづくりをすることで信頼や絆、そして智慧の伝承や生きがいや遣り甲斐を感じていたはずです。建造物が人間の手間暇と真心で創造されることはとても尊いことで、その建造物を子孫たちが見つめてみると心打つものがあるのはそこに確かな意味を感じることができるからかもしれません。

現代は、機械や道具であっという間にできてしまいますが今回のメビウスガーデン(無双庭園)は土や粘土、石などでつくる造形物をほとんど手で最初から最後まで手掛けていきます。

まるで土遊びをするかのように、何度も何度も造っては壊し、修正し、また創るという作業の繰り返しですがどこかそこに喜びと仕合せがあります。左官職人さんたちが、自らの手で仕上げていく喜びを感じているように私もまた自らの手で造形物を仕上げていく仕合せを味わっています。

便利に何でも簡単に仕上げられることを良しとする世の中で、不便で時間がかかり難しいことに取り組むことは意味がわからないといわれます。しかし、この意味がわからないのではなく意味が分からなくなったというのが本当のところでしょう。

意味とは、先人たちの生き方に具体的に同じように一緒に取り組んでみたときその深い意味が伝わってくるのです。伊勢神宮の式年遷宮のように、解体し、組み立てる作業を通して信仰が伝わるように、私たちの先人が遺した暮らしの智慧もまた甦生させていくことによって伝わっていくのです。

この智慧の伝承という役目は、人類にとって実はもっとも意味がある行為です。なんでも科学の発展だけが意味があるように語られますが、そんなものは長続きもせずすぐに陳腐化していきます。しかしこの智慧の伝承は、何千年も何万年も恒久的に必要になるのです。

智慧が伝承するということは、その智慧をものにしてそれぞれの時代で適応し応用する元を学ぶことになります。時代が変わって、新しくなっていくなかで智慧があるかないかではその活用においての基本がわからなくなります。基本があって応用がはじめてできるのですから、まずはその基本中の基本である智慧の伝承が先であるのです。

教育が机上のものになり、智慧が目に見えない機会の中で行われているうちにものづくりする人たちの精神や心魂、技術の中に伝承が消えていきました。智慧が消えれば、そのうち知識だけになり本体の価値や意味が消失します。まさに意味不明になっていきます。

そうならないように、今を生きる人たちはたとえ無駄で無意味といわれても智慧の伝承に取り組む必要があります。そういう職人さんたちが文化人たちが減っていくことは残念ですが、まだまだ心ある人たちによってたとえ少数でも引継ぎは行われています。

私も智慧を伝承するものの一人として、誇りをもって子どもたちのために取り組んでたいと思います。

浄化する農法

昨日は、自然農の田んぼに田植えを行いました。取り組みから10年目に入りますが、年々収量を減らしていきます。本来は、収量を上げていくのが当たり前でしょうが敢えて収量を減らすことを実験しています。

実は、むかしの田んぼと名付けた千葉の神崎の田んぼもまた収量を減らしています。現代は、大量生産大量消費の時代ですから逆行するようなことをすると変人奇人だといわれますが、本来は分相応の量に調整して生きるのが人類の智慧であるのです。

現在は、先人からいただいた智慧を蔑ろにし、便利に量産しますが果たしてこれが本当に自然の理に適っているかを考えている人は少ないように思います。自分の利益ばかりをみんなが追いかければ、その利益競争の結果として全体が貧しくなることもあるのです。

田んぼであれば、生態系が減少し、多様性も失われ、そこにある自然の循環を歪めて生命の楽園が非常に貧しい場所に換わっていきます。そもそも田んぼの一部を私たちも他の生命と共にお借りしているという意識と、この田んぼは人間様のものでよそ者は一切入ってはならないという意識では田んぼ自体の持つ定義も個性も異なっていきます。

私が一緒に取り組んでいる伝統農家さんの田んぼはみんな生態系が豊かであり、生き物たちの楽園で生命が溢れんばかりに漲り、その中で稲がイキイキと育ちます。当然、農薬も肥料も追加せず、自然に任せて自然が喜ぶような農法を行います。

そのためには、人間が取り過ぎないことが重要なのです。アイヌ民族では、自然の利子分だけをいただくという謙虚な言葉があります。あくまで自然のために尽くし、その結果として得られた多少の利子分だけで生活を営むということです。

質素倹約に努めて、自然の掟を守れば、その利子だけで十分一族を養っていくことができます。現代社会においては、みんなが売り上げ競争をし利益の確保ばかりに躍起になりますから利子ではなく、借金でみんな一族を養おうとします。

その借金は利子ではないから、子孫へのツケになります。このツケは、次第に大きくなり返せないほどになってしまいます。田んぼであれば、田んぼの土が枯れてしまい肥料の肥毒や農薬の薬害によって作物が育たない場所になってしまうのです。

だからこそ、私たちは敢えて自然が喜ぶように収量を減らすこと、そしてその分、その田んぼの生き物たちが安心して謳歌して暮らしを楽しめるような場を確保することが重要なのです。

自然農の田んぼは、この時期は沢蟹やエビ、オタマジャクシにカニワナ、蛇や蜘蛛などの子どもがたくさん生まれています。田んぼで田植えをすれば、小さな生き物たちが溢れ、まるで一つの保育園のようです。

その保育園で環境を用意して見守る私は、まさに保育者ということでしょう。私が保育する環境は、適度な距離感によって和を与え、枯草を集めて稲に布団をかけて安心させます。多様な生き物社会の中で、みんなと共生し貢献し合って生きていけるように配慮します。

これだけを守れば、今年もまた立派なお米になってくれるでしょう。当然、このあとは雑草が生えて多少の草刈りや、スズメが来る時期は紐で防いだり、見守りと手入れは必要ですが田んぼの清々しさは御蔭様で年々増すばかりです。

私の実践する農法は、きっと自然が喜び運の善くなる浄化する農法です。浄化とは、いのちを尊重し合うことで透明で純粋な光のような存在に近づけその中でいのちたちがそのままあるがままをオープンに見せながら生き活かしあう場を育てることです。

これから1000年を見据えた教育は、むかしの田んぼの智慧から学ぶべきではないかと私は思います。この智慧を、具現化して実際の保育現場に届けていきたいと思います。

いのちの場

引き続き、メビウスガーデン(無双庭園)を造園していますが改めて流転や円転、回転や輪廻などのチカラについて深めています。

そもそも遠くには銀河、そして身近にも台風など私たちは回転するものの中で存在しています。地球は自転をしていますし、すべてのいのちは生死を繰り返し、無機物から有機物へそしてまた無機物へと永遠に無限に生死流転する存在でもあります。その中で私たちは多様性を獲得し、そしてまた統合されていくのです。

相反するものを一つにする力、これがいのちの根源的なものです。まるで異なるもの同士が合わさるときのエネルギーとして、そこに回転のチカラ(スパイラルエネルギー)のようなものが創出されます。

私たちが感じている、回転のチカラとはその相反するものが競い合い相反し、同時に統合して調和するときそれを直観することができるように私は思います。

現代は、なんでも分けて考えるような思考回路になっています。言葉ができ、論理を産み、科学的に分析する知識を伸ばしてきましたがもう一つの直観的に理屈を超えた存在に対しての智慧が衰えていきました。

この本来、相反するものを受け容れる力。そして和してそれを更に活かす力。その時、私たちは自然の道理と人間の叡智を使い、一円融和することができます。その観念のことを私は、一円観と呼び、それをあらゆる場づくりに使っているのです。

今回のメビウスガーデン(無双庭園)もまた、この一円観を用いて場づくりをした一つの創造物でもあります。銀河と地球の自転の仕組みを取り入れ、万物の生命がその中で無限に円転する。それを土と石、水と火、植物と炭、日と影、風と雨、人工と自然、高と底、厚と薄、発酵と腐敗、昼と夜、あらゆる相反するものを組み合わせ一円融合させたものです。

文章で書くとやっぱり理屈っぽくなりますから、実際にはそこで創造されたものを食べるとき、自身の心身でそのいのちのチカラを感じることができるように思います。

食の本質は、いのちの螺旋のチカラを味わうことであり私たちのいのちの無限のエネルギーを覚醒させそのいのちのハタラキに気づくことです。私たちは活かされている存在であり、その活かされることを知るとき、宇宙万物に膨大ないのちの存在があり、それが自分の深部から滾々と湧いて流転することを知りいのちと一体になれるように思います。

いのちの本質を子どもたちに伝承するためにも、徳と場の一つとして可視化した一つの表現方法としてこのメビウスガーデン(無双庭園)を活用していこうと思います。

メビウスガーデン(無双庭園)

聴福庵の裏の庭にパーマカルチャーのスパイラルガーデンを私たちなりに解釈して温故知新したメビウスガーデン(無双庭園)を造りこんでいます。今まで自然農や古民家甦生、発酵保存食や見守る保育等々、私たちが学んできたことをさらに混ぜ合わせて昇華させた具体的に「場」には意味があります。

この「場」の体験こそが、新しい経済や新しい生き方、本来の永続的な暮らしを現代でも理解してもらうためにも効果があるように思うのです。

そもそもこの100年で私たちは今までの暮らしをすべて刷新するがごとくに便利で科学的な文明の価値観の中での暮らしに転換してきました。現在の持続可能なエネルギーの中には、原子力発電などもはいっており、こんなものがかつての人類のエネルギーとしては利用されることはなかったのです。

自然界にあるエネルギーを自然のままに活用するのではなく、人間がそれを科学的に加工して急速に使い込む形で科学を発展させさらにスピードを増して増幅させていきました。

この増幅という概念は、ゴミが出ても増やすという大量生産大量消費により競争力を高めていち早く先んじて地球規模で自分たちの優位性を確保しようとする人類の欲望を駆り立ててきたものです。

しかしこの現代の暮らし風のものは、あまりにも理に適っておらずこのままでは資源を使い盡し、生き物たちは絶滅し、人類の社会も歪みや格差が広がり続け、森林も消失し、空気や水が汚染され人体にも害がある循環が増し浄化が追い付かず地球規模で古からの持続可能な暮らしが失われていくのは自明の理です。

この現代の暮らし風の逆である本物の暮らしをしようものなら、今では変人扱いか宗教家、もしくは奇人などと周囲から呼ばれるほどです。私の取り組んでいることも、先進技術を取り入れていてもやっていることは古からの伝統的な暮らしを現代ならこうやればいいと示しているだけであり、それによって現代の価値観に一石を投じて未来の子どもたちのロールモデルの一つにしていこうとしているだけです。

実際に現代の世の中の逆を走っていくというのは、周囲には無意味であり不可思議に感じるものかもしれません。それはとても現代の価値観の中での生活ではリスクを取る事であり、意味不明でもあるからです。何も好き好んで周囲の批判や否定に晒されたいわけではありません。

子ども第一義の理念や初心から、何を今、なすことがもっとも意味があるのかを自分なりに考え抜いてそれを一つ一つ行動に移していくのです。その実践が、長い時間をかけて理想を具現化し、可視化されたものが多くの人々の心を揺り動かす切っ掛けにもなっていきます。

メビウスガーデンは、小さな庭園の中で無限で無双の場を可視化する一つの手段であり私たちの実験場でもあります。古からの自然との共生の暮らしを通して、如何に自分の分度を定め、自律し協力し合い、譲り、自然を喜ばせるか。

運の善い暮らしができることが、新しい時代の一つの尺度になっていくと私は信じています。運の善いとは、自然に従い自然に沿って、自然を喜ばせるような生き方をするということです。

引き続き、自粛中の世の中で場を活用したこのメビウスガーデン(無双庭園)と共に暮らしを楽しみたいと思います。

 

生の全う

人はいつの日か誰にも必ず死を迎えます。死は決して生の終わりではなく、生の中に死は存在するからです。その死にも、肉体的な死もあれば、精神的な死もあり、また魂の死というものもあります。

つまりは生のために死は一時的に発生するもので、その死を乗り越えて新たな生が誕生し続けるという甦生の一部であるのです。この甦生とは、「更に生きる生」と書きますが、まさに私たちは永遠の生の中に存在し、その生をより善く生きるために死というものを活かすのです。

私は、人生の目的にこの「甦生」というものを掲げています。ありとあらゆるものを甦生させる力、そして穢れを祓い清め浄化していく力、それらを活用して新しい生を更に前へと進めていきます。

そもそも循環や寿命というものは、すべては生き方の在り方に通じているものです。どのように生きて、どのように更に生きるか、私たちは日々に死を体験しながら新たな生を誕生させているとも言えます。

人生というものは、死の前進によって生がより輝くのであり、私たちは進んで死を受け容れることによってより善い人生へと舵を切り続けることができるのです。

それは時々として愛するものの死であり、場というものの死であり、意識というものの死でもあります。どれも当たり前ではなかった現実と直面し、その時々に死を受け容れながら新たな生を歩むのです。

生にはマンネリはなく、死に続けることで常に赤子のように新鮮な姿を私たちに見せてくれます。私たちは死に学び、はじめて本当の生の意味を知ります。人間の心身がもしもこの時代に試されることがあるのなら、どれだけ死の直前まで素直に運命に従うことができるか、選ばずに受け入れることができるかが生の全うになると私は思います。

子どもたちを信じて、生を全うしていきたいと思います。

信用第一(信徳目)

BAにある水風呂に甦生させた鉄の羽釜は、「稲むらの火」で有名なヤマサ醤油でかつて醤油をつくるために用いられていたものです。このヤマサ醤油は、1645年から続いている老舗で業界第2位のシェアを誇ります。ホームページを拝見しても非常に徳の高い経営をされており、変化を恐れずに果敢に温故知新しているのがわかります。

そもそも老舗というのは、時代の篩にかけられても生き残っている企業ということです。それはどの時代にも必要であったということの証明でもあります。その企業の暖簾を守り続けてきた結果として老舗という称号を与えられます。

この老舗とは何か、私は「信用」であるように思います。

信用とは、確かなものであり、正直・誠実さの顕れでもあります。そこに頼めば間違いがないと、時代を超えて信頼されている徳のことです。

大切な理念や家訓、文化をそれぞれの時代の人たちが真摯に守るために挑戦を惜しまずに実績を積み重ねてきて生き残ってきた「信用」が商売になっているのです。

確かにその時代時代の流行があり、その時々ではあらゆる競合他社が産まれ時には倒産の憂き目にあうようなこともあると思います。しかし流行は過ぎてしまえば、風邪などのように元通りに落ち着きます。その時、人々はまた老舗の信用を安心して頼るようになるのです。

つまり老舗は、流行に左右されずに確かな存在として人々の安心基地になってきたということです。どんなに時代がブレても理念や初心はブレないというその生き方。その生き方を守る家人たちの働き方が、100年も500年もまた1000年も続く礎になってきたのです。

例えば、世界最初の畳油醸造の老舗に室次本店があります。その室次醸造の家訓にはこういうものがあります。

「良い醤油を造りたいなら、自分を磨け。 醸造にはごまかしはない。 誠心誠意がなければならない。 その人柄や性格がその味に香り、色に出てくる。」

これが理念になり文化になりそこで働く人たちが何よりも優先してきた生き方がこの醤油のすべてを証明して信用が確立され今に続いているように思います。まさに、良い醤油をつくるということがどいうことなのか。この人間としての「信用」を守り続けてきたからこその今があるのです。

どの時代においても歴史的に観返せば、企業は大きいか小さいかが問題ではなく、「信用」があるかどうかが本来の問題なのです。信用がない会社は長続きせず、信用がある会社だからこそ生き残ることができるのです。

生存戦略としてもっとも大切であり重要なのがこの「信用を守る」という智慧であることは歴史が証明しています。つまりこれは決して企業だけに限らず、人間社會において何よりも最も重要なのがこの「信用第一」ということでしょう。

信用を守るためには、変化を恐れずに果敢に挑戦を続けていく必要があります。そしてもっとも大切なものを守るために、あらゆるものを活かし未来を見据えて行動していく必要があります。

まさに現在は、時代の分水嶺でありそれぞれの企業が大きく試されるときです。私も信用という徳を守るために、日本を代表する先人たちの老舗に生き方を働き方を学びながら実践を積み重ねていきたいと思います。

暮らしのロールモデル

これから自然農園の田畑を、暮らしフルネスの農場として甦生するために昨日は大勢で畑の草刈りを行い、荒地を甦生して耕しました。日差しが強くて、体力をだいぶ消耗しましたがいつものむかしの田んぼでのお昼ご飯のように玄米を竈で炊き、採れたての新玉ネギを使ってハヤシライスをつくりみんなで一緒に食べたら疲れも取れました。これから畝をつくり、マルチをして種蒔きをして収穫まで見守ります。

思い返せば、自然農に取り組んでから随分と長い月日が流れました。肥料も農薬も使わずに耕さずに草も虫も敵にしないという農法でしたが山間の野生化した荒れ地では人力でいくら手入れをしていても害獣たちが波のように押し寄せ、また雑草の生命力が明らかに人工的な野菜を凌駕し、なかなか自然循環の一部として許してもらえるようにはなりませんでした。

しかし、約10年の間、伝統の高菜を育てているうちにその境目というかどこまでが許されてどこまでが許されないかということを学びました。もちろん、農薬や化学肥料は一切用いないのですが今の時代に存在する科学は道具もある一定のものは活用して賢く取り組むのです。

かつては自然農だから一切耕さないと意地をはっていましたが、場所や農地によっては多少の手配は必要です。私の自宅の庭は、完全に自然農の理念で簡単に野菜がつくれます。それは住宅地がある場所であり、自然はやや人間側に傾いているため害獣もおらず、虫も雑草もそんなに強力ではありません。つまり人間が里山のように形成している場での農業のやり方と、完全に人里離れた山林の傍の場での農業のやり方では異なるということです。重複しますがなんでも一律にマニュアル通りにいくようなことは一切なく、その場その場に応じた工夫と改善は必要なのです。

古民家甦生を通して私はその辺の柔軟性を身に着けました。そのものの徳を引き出すことが何よりも優先するものであり、それ以外のものはある程度は裁量に任せて工夫の余地があるのです。

大事なことは、徳を引き出すのであれば道理は叶うということです。

これから野生化の農場をうまく管理して、そこに新たな自然循環の実証実験の場にしていきます。自然に寄り添い、自然を喜ばせるために如何に人間が自然から学び自然に近づき、自然の許容範囲に対して折り合いをつけつつ、全体の徳を引き出していくか。

挑戦ははじまったばかりですが、新しい取り組みにわくわくしてきました。何年たっても青春は失われず、いつまでも情熱は子ども心のままです。こういう時だからこそ、みんなのお役に立てるように暮らしのロールモデルを模索していきたいと思います。

ミルクランドの閉店

長年、私たちの社員の食を支えてくださっていたミルクランドさんが4月末で閉店することになりました。創業者の小寺トキさんと出会ってから十数年間、栃木の青空農園で自給した無農薬の野菜や野草を上手に調理された最幸のものを毎日お昼に食べさせていただきました。

安心安全の食の提供といった、信念に裏打ちされた日本でたった一つの店舗であり、未来の日本の子どもたちにとっても必要な場所でした。急なお知らせに、如何に当たり前ではなかったかを、当たり前などないということも再確認し、どれだけ感謝を伝えていただろうかと複雑な思いにもなりました。

しかし、ここからまた前に進み新しい未来がはじまりますから感謝のままに私たちがその志を継いで安心安全の食の提供を発展させていこうと思っています。

思い出してみると、最初にいただいた青空農園で収穫した菜種から油を搾取しそれで採れたての野菜で揚げてくれた天ぷらの味は今でも感動が甦ます。体調がわるいときでしたが、食べるとすぐに元気になりました。食べることのチカラを感じた瞬間です。

そして出張が続き、食が乱れ体調が崩れたときもまた出張帰りに社内で食べた自然の味が心身を癒してくれました。仲間と穏やかな空気のなかで食べる安全のお弁当は人生の歓びを増やし、安心をさらに増幅してくれました。

また日々にミルクランドのスタッフの方々と、付箋紙を使い様々な対話やメニューの感想、味付けなどのことをやり取りするなかで私たちもまた食を考えるきっかけをいただいていました。お土産を交換したり、近況を報告し合ったり、親戚のような関係に心温まる絆をいただきました。

年末の大掃除のあとの仕事納めでは、店長と一緒に深夜まで会社で飲んで振り返りをしてお互いの頑張りを見守り合いました。お酒を飲むとすぐに寝てしまいましたが、大事な話はちゃんと聞いており笑い、楽しい時間の御蔭で新たな年の励みになりました。

最後は、こだわりの強い人たち同志で人間関係でしょっちゅうぶつかりあっていましたから時には相談にのり、またある時はアドバイスや仲裁に入り、持続し合うために協力して乗り越えてきた思い出が残っています。

愛する場所はなくなりましたが、愛する思い出はいつまでも心に続いています。

この愛する思い出をよりよくしていくのは、この先の新しい思い出をさらに発展させてつないでいくことです。あの出会いがあるから、今の出会いがあります。私たちは出会いを積み重ねていくことによって、過去の出会いの意味を完成させていくのです。

心が続いていくように節目を迎えることは、人生の思い出を手入れする機会でもあります。終わっても終わらない関係が、未来を創ります。子どもたちの未来のために、私がその志を受け継ぎたいと思います。