福の世

人間の心は、自然にしていればもともと備わっている善良なものがあるといわれます。孟子はそれを「人皆人に忍びざるの心あり」と呼びました。これは人間には忍びないという思いやりの心があるという意味になります。

この忍びないというのはあまり最近では使われなくなりましたが、私の解釈では相手の気持ちになってかわいそうと思いやるときに出てくる言葉です。もしも自分だったらと共感してしまう気持ち、他人事なのに他人事ではなくまるで自分にあったかのように感じる心の中には思いやりが息づいています。

その思いやりの心につながるものとして孟子は四端という言い方をしました。これは「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は知の端なり。人に是の四端有り、四體の有るがごとし。」つまり思いやりこそが仁とつながり、不善を恥じることが義とつながり、他人に譲る心が礼とつながり、善悪の見分けがつく心が智とつながっている。つまりは頭・胴・手・足というものが身体にもともと備わっているように人間にはその仁義礼智は備わっているのであるという意味になります。

これが孟子の言う性善説の根本です。

このかわいそうと感じる思いやりはどこからやってくるのか、それは生まれながらにして懐かしい心の中から湧き出てくるものです。生きていればこの世の中にはどうにもならない不幸なことがあります。自然の災害に巻き込まれたり、理不尽な死や病に見舞われることもあります。

そんな時どうにもならないやるせない気持ちとなぜそんな目に遭わなければならないのかと複雑で気の毒に思う気持ちが出てきます。人間にはかわいそうと思う真心が最初から備わっているというのです。

このかわいそうは決して上下や格差の同情のかわいそうという意味ではありません。ここでのかわいそうは、慈愛の心、この世にいのちを創造するものの心とも言えます。

そういう心があるから協力や助け合いがうまれ、より善い循環を行っていこうとする善良な心が働くのです。これらは、現代では科学的にも証明されてきており遺伝子や細胞、その他、生き物たちにはそういう共存共栄して思いやり活き合うという真理が備わっていることが分かってきています。

だからこそ、改めてその四端や仁義礼智の徳を磨き高め世の中にその心が発揮されるような環境を創造していく必要があるように思います。その心が出て来にくい環境とは何か、それは幸不幸ばかりに囚われその中にある福を感じられないことにあるように私は思います。

世界にその思いやりの心を弘げる鍵は「福の世」にこそあります。その真の福世かな社會を創造するためにも一円観、一円対話の実践とその環境の醸成に命を懸けていきたいと思います。

道は続く、歩み続ける

人生には出会いと別れがあります。そして道があります。道は続いていくものだから私たちは道を歩み続けます。道中に仲間ができて一緒に歩めますが、その仲間とずっと一緒に居られるとは限りません。一緒に居られるご縁というのは有難く、それは同じ道を歩み続けられるという奇跡の邂逅です。

私たちの会社の初心伝承ブックのはじめには論語の一文が入っています。

『子日わく、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。』

これは意訳ですが、孔子は言った「共に同じ道理を学ぶことはできても、共にその同じ道理を実践することは簡単にできるものではない。そして共に同じ道理を実践することができても、同じ認識に立つことは更に困難なことである。そしてたとえ認識を共有することはできても、同じ境地で運命を共にすることのできる人物は、滅多に得られるものではない」と。

私も理念を定め初心を歩んでいく中で、多くの出会いと別れがありました。道を歩むというのは、道の中にある本質や理念を深めて自分のものにしていくということでもあります。しかし実践といっても道理のままに実践できる日もあればできない日もあり、日々に実践を継続する中で実践を省みていくなかではじめて習慣となり心身に染み付いてきます。

さらに道理を実践していたとしても、分かった気になっているだけで同じ認識を持てるようになる人はかなり少なく、共に話しをしていても同じ認識で話せる人はなかなか現れません。それは実践からどれだけ本質や道理を掴んだか、それを捉え続けられるかといった本気の覚悟や決心、自己研鑽と自修錬磨が深くかかわっているからです。

そしてたとえ認識が同じ深さまで来たとしても、その境地を会得したままで人生丸ごと運命を共にでき天命に任せるままに一心同体になれる人はほぼいないということです。

私にはまだまだ自分や情が強くあり、どうしても出会い別れが慣れません。本来は道は続いていくものだから、歩み続けるだけで歩まないものを連れてはいけませんし、別の道を往くものを引き留めることもできません。

しかし思えばご縁というものは、一つの道を歩む中でどこまで道中をその人物と一緒に歩めるかということが道の途中でもあります。人生にはどこに往くのかと誰と往くのかもあります。私はどうしても誰と往くのかの方が興味があるようです。そして誰の人生にも必ず死があり、甦生し、また身体を入れ替えて引き続き道を歩める日が来るまで何度も何度も繰り返し出会い別れと共に歩み続けているともいえます。

そう考えてみると道中の複雑な想いや感情の中でも一緒に歩むことができる同志や仲間の存在が如何に奇跡であるか、そうやって道を共有できることが如何に仕合せであるかを実感するのです。

道縁はやはり無窮なのです。

最後に人生の醍醐味は、決して欲望や願望が満たされるときや結果の報酬や他人から認められることで得られないように思います。辛酸を舐め、諦めずに遣り切ったとき自分に誇りと自信を持ちその時々の道中の思い出が深い味わいを与えてくれるように思います。

いつの日か、ある境地を体得してまた出会える日を楽しみに待ちたいものです。その日に向かって私自身、決してご縁に恥じないような道を歩み続けたいと思います。

ありがとうございました。

 

星は光る

私が尊敬している先人に東井義雄氏がいます。

「教え子に教えられる」という教育思想と実践にまさにこの道の源流や本流を感じます。子ども主体という見守る保育の先生もまた同様に子どもから学び子どもと共に育ちあい学び合い成長していく生き方をなさっています。どの時代も教育を考える前に人間とは何かと深めて道を往く人たちはいつも同じような境地を体得しているのかもしれません。

東井義雄氏の遺した言葉は、時代が経っても私たちの魂に語り掛けてくるものがあります。その眼差しや姿勢、真心の生き方は人間をそのまま丸ごと見よう、そのままであることを信じようといった人間そのものを見つめる純粋で包み込むような思いやりや慈愛を感じます。

『どの子も子どもは星』

みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいて
まばたきしている
ぼくの光を見てくださいとまばたきしている
わたしの光も見てくださいとまばたきしている
光を見てやろう
まばたきに 応えてやろう
光を見てもらえないと子どもの星は光を消す
まばたきをやめる
まばたきをやめてしまおうとしはじめている星はないか
光を消してしまおうとしている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
そして
やんちゃ者からはやんちゃ者の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
男の子からは男の子の光
女の子からは女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう

私たち人間は簡単に言葉で表せるものではありません。複雑で不思議な存在だからこそ、前提にその存在を丸ごと認めてはじめて人間理解・人間教育の土俵に立つことができるのではないかと私は思います。

一方的な偏見で評価したり、常識や価値観で裁いたりする前に、そのものそのままあるがままを認めることを学ぶ・・本来の人間として生きるということです。そして東井義雄氏はこうもいいます。

「人間の目は不思議な目 見ようという心のスイッチがはいらないと 見ていても見えない 耳だって頭のはたらきだってみんなそう スイッチさえいれれば 誰だって必ずすばらしくなれる」

自分という人間を見ようというスイッチを入れることができるかどうかは、その一度きりの自分自身の人生において一生のテーマであるはずです。人間は内省をすることではじめて自分自身が観えてきます。人間は人間であることを自覚できるとき、その人格が磨かれるように思うからです。

一度きりの人生で「人間とは何かをつかむ」というのは自身の成長を確かめることにおいて何よりも大事なことのように思えます。二度とない人生は道場、人生は修行三昧だからこそその価値を感じずにおれません。

しかし人生は言葉で書けるほど簡単ではなく、文字で言えるほど平易でもありません。艱難辛苦を味わい苦労してみてはじめて理解できるものばかりです。そういう人生の苦しい時に寄り添ってくれる存在は、有難く人生の恩人とも言えます。

「雨がふった日には 雨のふった日の生き方がある」

「一番よりも尊いビリがある」

そのままでいいと認めてくれる存在に私自身も沢山の勇気をもらってきました。

最後に、人生の節目を迎える仲間に”はなむけ”の言霊を祈ります。

 

『自分は自分の主人公 世界でたったひとつの 自分をつくっていく責任者』

 

自分の星を光らせていくのは自分、みんなの人生が道の途中でこれからどんな光を放つようになるかが楽しみでなりません。

いっしょに”これでいいのだ”と丸ごと認める人生を味わっていきましょう。

古民家甦生~時中した暮らし~

古民家甦生を続けていくと古い道具を用いますから技術や感覚は次第に磨き直されていきます。こちら側の都合では道具は使えず、道具の特性や弱さ、また持ち味や使い方を扱いながら学び直していきます。

慣れていないとすぐに壊してしまい、さらに道具もまた活かされないので生活や暮らしそのものを便利なものから不便なものへと価値観ごと転換していく必要もあります。特に今のように水道やガス、電気、家電製品や空調器具がある世の中で敢えて不便に戻すというのはとても勇気がいるものです。

先日もトイレは昔のものに戻すのか、風呂は、洗濯は、冷蔵庫はと矢継ぎ早に質問されました。全部排除してしまえば、それは山奥の隠者のような生活になるのではないかというのです。

確かに目的が、先祖返りのように過去に戻ることならばそうなるかもしれません。しかし時代は過去に戻ることは不可能であり、常に今を刷新し続けていくのが生きるということです。温故知新も復古創新も、決して江戸時代や縄文時代などに回帰しようとするのではなく、何を変え、何を変えないかをその時代の人たちが取捨選択してそれまでの初心や大切な伝統が守られるように継承していこうとするのは子孫である私たちの使命でもあります。

私の古民家甦生も、電気も水道もガスも空調設備もあります。それを全部排除しようとか排除しないとかいう考え方ではなく、長い先を観て大事なものは守り続けようということなのです。

そのためには、その近代に発明された便利なものも活かそう、そして昔から連綿とつながっている文化や智慧も活かそうという、古新を融和融合し、今の時代ならどう暮らすかということを提案しているものなのです。

子どもたちには選択肢が必要です。そしてそれが多様性でもあります。その多様な選択肢は、みんな新しいものに右へ倣えではなく、こういう選択肢もあるという生き方も見せてあげる必要があります。それは極端に右か左か、上か下か、富か貧かではなく、かつての古き善きものを取り入れながら今に活かすという時中した暮らし、生き方を感じてもらいたいということなのです。本来、どちらかに偏らないというのは中心を捉えた中庸でもあり、これはどちらかに偏るよりもずっと難しい挑戦なのです。

私が実践する古民家甦生は、まさに今の時代に古の智慧をどう活かすかという事例を伝道伝承しようとするものです。

引き続き、何を変え何を変えないかを自分の生き方を通して試行錯誤していきたいと思います。

魂の実践に生きる

人生にとってもっとも得難いものに「経験」があります。生まれてきて私たちが得られる唯一無二のものはその体験を味わい経験することができることです。生きているだけで仕合せなのは経験の真っ最中であるからだとも言えます。その一期一会の人生をどのように生き、どのように味わうかは、その人の魂の求めるところに由ります。

先日のブログから魂を磨くことをキーワードに書いていますが、真摯に真心を盡していく中で体験は光り輝き、豊かな経験は永遠の記憶となって宇宙の貯蔵庫に蓄えられていくように私は思います。まるで宇宙空間の中で星が煌めくように、わたしたちのいのちや魂の輝きは空間に宿り生き続けていきます。

魂を磨くという言葉に、京セラの稲森和夫さんがこういうことを著書で記しているので紹介します。

「人生の目的はどこにあるのでしょうか、もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。

昨日よりましな今日であろう、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努める。その弛まぬ作業、地道な営為(えいい)、つつましき求道(ぐどう)に、私たちが生きる目的や価値がたしかに存在しているのではないでしょうか。

現世とは心を高めるために与えられた期間であり、魂を磨くための修養の場である。人間の生きる意味や人生の価値は心を高め、魂を錬磨することにある。まずは、そういうことがいえるのではないでしょうか。

俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一生懸命生きていく。そのプロセスそのものを磨き砂として、おのれの人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂をもってこの世を去っていく。私はこのことより他に、人間が生きる目的はないと思うのです。」(出典:『生き方』)

「プロセスそのものが磨き砂」という表現に多く共感するものがあります。私たちは日々の体験や経験が磨き砂になり自分を磨き、周囲を磨いていきます。その体験を早く終わらせようとしたり、結果さえよければいいと生きてしまうのはあまりにももったいないと思うのです。

一度きりの人生だからこそ、そして人生には必然しかないからこそ、その起きた出来事を誰よりも真摯に受け止め、誰よりも真心を盡して正対していくことが魂を生きたことになるように思います。

生きるということ自体が魂を磨いているのだから、どのような生き方をするかは何よりも忘れてはならない人生の戒訓のように思います。

引き続き、今日の体験もまた味わいながら心を尽くし行動する魂の実践に生きる一日を過ごしていきたいと思います。

不易流行の真髄

不易流行という言葉があります。これは変わらないものと変わっていくものです。別の言い方では、時中時流とも言えます。如何に時の流れの中でも本質や本物を維持し続けるかということでもあります。

時が経てばかつての本質や本物は次第に色あせていきます。それは時が流れていくからです。いくらある時それが本物であったとしても、時が経てば次第にそのものが本物ではなくなっていくのです。

例えばお茶を点てるとします。しかしお茶は時間の経過とともに酸化して味が変わっていきます。そしてそれを美味しいと思う人の心も変わっていきます。昔ある時に飲んだ美味しい一杯のお茶と同じ味を維持しようとしたら自分が時の流れ、環境の変化を感じて自分の方が変化してその時の味に近づけなければなりません。つまりそのままでは古くなるから新しく磨き直すのです。

いくら言葉で真理が語られていたとしても、その時代時代にその言葉の意味を磨き直す実践者が出てこなければその真理は本物ではなくなっているからです。それは仏陀であっても孔子であっても、それを今ならどう行うかというのはその時々の人たちがその本質を磨きかつてその言葉が語られた時と同じにする必要があるのです。

易経に、時に中ると書いて「時中」とありますがこの境地は本当に今、この時のままであろうかと変化の最中を確認するという意味であろうと私は解釈しています。

生命は不思議で、本来は老化しすり減って消滅していく身体を持っていますが何度も何度も使っている場所は逆にいつまでも皮膚も分厚くなり感覚もいつまでも鋭くなっていきます。経年劣化ではなく、磨き続ければ経年変化になるのです。

古民家甦生を通して私が学び直しているのはこの不易流行の真髄です。

変わるものと変わらないものを捉える心は中庸です。そして時機を逃さず最適なタイミングで直観したものを一つ一つ丹精を籠めて種を蒔くのは時中です。人間は徳が高まり、人格が磨かれれば自ずから不易流行の境地に入るのかもしれません。

徳を磨き続けることで本物は維持できます。本物か偽物か分からなくなっている今の世の中で、真に本物かどうかは徳が証明します。

学んだことをそのまま実生活に活かすためにも、学びに素直に、問いに謙虚に日々の体験一つひとつを今、此処の真心で真摯に磨いていきたいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。

 

自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

商人とは

今では商人とは何かということが曖昧になり、いわゆる商売をする人たちをみんな一括りに商人と呼びますがかつての商人とはどのようなものだったか近江商人の家訓や心得から深めてみようと思います。

近江商人は、鎌倉時代から昭和にかけて活躍した滋賀出身の商人集団のことを指しました。この商人の理念には「三方よし」という思想があります。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」というものです。

この三方よしの考え方は現在の日本的経営の一つにも例えられ、如何に世間の皆様によって最も善いことになるかを常に考え行動することが商人であると理念を定めています。また「利勤於真」(利ハ勤ルニ於イテ真ナリ)という実践徳目もあり、これは商人の利益はその任務に懸命に努力したことに対するおこぼれに過ぎないとし、勤労を優先し利益はその結果として出てきたものに過ぎないと真心を優先することを大事にしました。

近江商人には、商売十訓というものがあります。ここには近江商人の生き方の事例が紹介されています。

・商売は世のため、人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり
・店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何
・売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる
・資金の少なきを憂うなかれ、信用の足らざるを憂うべし
・無理に売るな、客の好むものも売るな、客のためになるものを売れ
・良きものを売るは善なり、良き品を広告して多く売ることはさらに善なり
・紙一枚でも景品はお客を喜ばせばる
・つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ
・正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ
・今日の損益を常に考えよ、今日の損益を明らかにしないでは、寝につかぬ習慣にせよ
・商売には好況、不況はない、いずれにしても儲けねばならぬ

ここに商人とはどういう生き方をすべきか、そして商人の志すものは何かが記されているように思います。特に近江商人は「陰徳善事」というものも掲げ、人知れず見返りを求めずに徳を積むことを重要視したといいます。

今ではすぐに職業や肩書、人気や流行から評価して人を観ますが、本来はその生き方をする人が何の職業をやっているかとその「人物の生き方」を観ることが本来の働き方の確認なのです。つまり古来の日本的精神、士魂を持った人が商才を使っただけでその風土の日本人の生き方がどうだったかということです。

世の中では働き方の改革と言われますが、その前に自分の生き方がどうなっているのかを見つめることが必要だと思います。単に会社の制度や取り組みを換えればいいのではなく、その根幹にある生き方を同時に換えることが働き方改革の本質だと私は思います。

商人として自分の生まれ落ちた天命の中で、しっかりと日本の心を持って働くということが商いを通して社會を善くしていくということです。その働き方は、常に自他も善く、そして世間も善く、それを喜びにして生きていくということです。

世の中の平和平安の祈りに生きたその生き方、働き方こそ商人の基本なのでしょう。日本の商人の道に私は誇りを思います。

引き続き社業を見つめながら日本的経営を学び直していきたいと思います。

自分の道、自分にしか歩めない道

今月の致知の社内木鶏の記事で桂歌丸氏と中村吉右衛門氏の対談がありました。その中で伸びていく人と途中で止まる人ということが語られていました。大変印象深い文章で桂氏は「その差は自分自身にある」といいました。「自分自身の勉強の仕方、自分自身の努力の仕方。」であると。そしてこう続きます。

「自分自身のことがよくわかっていないで他人のことはよくわかるという人がいるんですけど逆だと思うんです。他人のことばかり気にしているのは大変な間違い。」そして中村氏は「自分をしっかり見る」と応答されると「ずっと見ていないとダメですよ」と語っておられます。

人間は自分で考えることをやめてしまえば他人軸や世間の評価でばかりにあわせて生きてしまうものです。自分が分からないという人が増えていくのも、自分と向き合うこともしないで他人のことばかりを気にしていることでますます増えていくように思います。自分が自分自身と正対し自分を丸ごと認めることなしに、他人から認めてもらいたいことばかりを求めても自分の道を歩んでいることにはなりません。

自分自身の道を深めていくということが学問を実践することであり、自分の道を往く中でそれぞれ人として大切なことを修得していくようにも思います。

松下幸之助氏に自分の道を歩むことの大切さが語られた詩があります。

「自分には 自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」

自分の道に気づくのは、自分の道を覚悟したときかもしれません。その姿勢が本当に自分が受け容れた道であるのなら、この道を歩ませていただきたいという謙虚な心が定まるように思います。こんなはずではないとか、もっとできるとか、環境さえあればとかないものねだりをしては他人の道を羨み自分自身のことを自分自身で深掘っていこうとしないでは自分自身のことが分かるはずがありません。

自分自身のことが分かるというのは、自分の心が分かってくるということです。自分の心を大切に生きている人は、必ず自分自身のことが結ばれていきます。自分と自身が結ばれるとき、人は他人軸が気にならなくなり本当の自信を持てるようになります。

自信とは何か、それは結果が出てから持てるものでもなく、評価されたからもてるものでもなく、それは自分が自分を信じられるとき持てるようになるものです。そのために信念があり、その信念によって磨かれて磨がれているうちに本物の輝きを放つようになるように私は思います。

自分の心をお座なりにすることがないように、自分の心の声をずっと聴き自分の心を見つめてその心と最良の関係を築くことで自他を認められる人格を育てていけるように思います。

人格形成はまず自分の道を定めることなのかもしれません。

引き続き、人生の先輩に学び直しながら真摯に自分の道を歩んでいきたいと思います。