智慧の集大成

世の中は「思想」というもので溢れています。インターネットを検索したり、本屋さんに行けばいくらでもその思想を学ぶことができます。また誰かによって整理され体系づけられた思想はお金で売買され評価もされています。こうやって同じ世界を何度も体系づけてはあれでもかこれでもかの議論で経済が動く時代です。そういう意味でも今の時代は、便利な時代ですからどのような思想でも探せばすぐに見つかり加工しやすいものです。

しかし、現実を直視すればその思想だけでは物事は動きません。現実には現場がありそこにはその思想をカタチにできる人と技術が必要です。思想と技術は両輪であって、それがちゃんと整っていなければ物事は真に救われません。つまり現実を変える救うや救われるためには思想だけではなくそこに技術が必要なのです。同時に、思想がなく技術だけだと凶器にもなりかねず結果的に救われません。

つまり救うことや救われるためには、この思想と技術の和合こそが欠かせないのです。学問というものは、この学者と技術者の協働によって大成していきます。

そういう意味で、それができる私の理想の人物とはだれかともしも訪ねられたら二宮尊徳のような人物であると答えます。二宮尊徳は、農民でしたが思想と技術をもった徳と才を持つ現場実践者でした。

この徳と才は、人々を救い導くためには必要不可欠な力です。この力はどうやって磨かれるのか。それは現場での試行錯誤と鍛錬、そして徳の修身といった人格を高める努力しかありません。そしてその中で、磨き上げられたものが智慧になり、その智慧こそが人類を新しいステージへを導く鍵になります。まさにこれは歴史を鑑がみて気づく王道の基本です。つまり、どんなに無限の思想が誕生しても、どんなに便利な技術が溢れてもその根本はすべて基本にこそあるということです。この基本とは、徳才一致の顕現ということでしょう。

私は思想もありますが、それをカタチにしていく技術があります。具体的にカタチするのは救いになるからです。思想だけでは救われないことを若い時に何度も体験し、どうやったら救われるのかの技術を高めていきました。そして技術が高まるとそれ相応の普遍的な思想が求められていきますからさらに思想を磨きます。

これの繰り返しを実践現場で何度も試行錯誤しているうちに本物の智慧に出会ったということです。私の甦生業は、この智慧の集大成でもあります。

今年は色々とまたカタチにしていく年です。私が先陣をきってやっていきますからぜひ皆さんも一緒に手伝ってほしいと願います。子どもたちのために、今年も真摯に挑戦していきたいと思います。

2022のテーマ

昨年は、今まで知りあうはずではない方々とのご縁が広がった一年になりました。また徳積堂、和楽と古いものを甦生し、新しい場へと生まれ変わらせる機会をいただきました。そして多くの御蔭様を経て、これから英彦山の甦生に取り組むことになります。

一年に一度、振り返る機会があるというのはとても豊かなことです。節目に私たちは、今まで何をしてきたか、そしてこれからどうして生きたいかということに向き合う時間を得られます。

自分の人生をどのように使ってきたか、それが一年の経過で観てとることができます。私は選ばないという生き方を実践していますが、振り返っていると選ばない中で選ばれているという感覚を実感します。私が選んでいなくても、選ばれているという事実。そして私が選んだと思っていたら、選ばれているという事実。つまり自他一体のように、ご縁の中心に事実はあり常に「選択されている」ということがわかるのです。

これは私の生き方ですが、この方法が甦生の極意にもなっています。

別の言い方では、天にお任せして生きていくという生き方です。天が何かをさせようと私を誕生させます。その天の命に従うように自由に生きていきます。その自由に生きる中で私たちは偉大な愛に気づいていきます。他にも、偉大な恩恵、偉大な感謝、ありとあらゆる自然の恩徳に巡り会って人生を深く味わっていくことができるのです。

昨年のテーマは「感謝を磨く」でした。どれだけ感謝が磨けたはわかりませんが、当たり前に気づき足るを知る機会は今までよりも多かったように思います。コロナのこともあり、今までの既存の資本主義や経済発展という物差しと向き合って新しい生き方、「暮らしフルネス」という自著を上梓することもできました。

そしてこれからのコロナ後に入るために私たち人類の意識は一つ変わっていかなければなりません。それは今までの物質的に偏る豊を手放す決断が必要になります。私たちの先祖たちは、子孫のために徳を積みました。これは単なる発展ではなく、地球の生命と共に暮らしを豊かにしていくという道を選んだのです。これは先ほどの選ばれたという言い方にすれば、人類は地球に選ばれているのです。もう少し謙虚になって、バランスを保つ工夫をしなければこの歪は大きな揺れ戻しになって人類に襲い掛かってくるようにも思います。

ここからの一年は、私たちはどのような選択をするかでこの先の1000年が決まります。ここに人間、一人ひとりの試練がはじまっています。私もその一人として天を信じて選ばれた側の心で謙虚に道を切り拓いていきたいと思います。

最後に今年のテーマは、「いのちを磨く」ということにしました。いのちは愛そのものであり、愛はいのちを慈しみ尊重するときに顕現します。愛は人類と地球を救うものであるという事実は普遍的です。それはかつての聖人たちがみんな後ろ姿で示したものです。

時代が変わっても、人は人を愛し、愛は地球そのものを丸ごと包みます。

この美しい時間をいつまでも子どもたちや、新しいいのちにつないでいけるようにこんな時代だからこそ勇猛果敢に徳を積んでいきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

 

遺徳

昨日から久しぶりに石見銀山の阿部家に来ています。松場ご夫妻と懐かしいお時間を過ごしながら阿部家の余韻に触れています。この阿部家はいつも新しく磨き上げられています。古民家ではなく、新民家です。私もこの場所にきて、その暮らしの美しさに感動して今があります。

人は、どのように日々を暮らしていくかはその人の選択です。

美しく生きようとする人には美しい暮らしがあり、感動して生きようとする人には感動する暮らしがあります。その実態は、その人の心の姿そのものであり、生き方がそのまま暮らしになるということを意味します。

つまり何を暮らしにするかを決めるのはその本人であるということです。人生という言い方でもいいかもしれません。どんな人生を送ってきたかは、その環境や場所に残存します。それを余韻ともいいます。

私自身もいつまでも人々の心に美しい残り香のある暮らしがしたいものだと感じるものです。それを別の言い方では、「遺徳」ともいいます。

徳を積んでいく暮らし、徳を磨いていく暮らしは人類の原点です。

色々な教育がでてきては、あれやこれやと複雑になっていきますが本質や根源は一つです。私たち人類は、何を捨てて何を求めていったのか。そして今、何を本来拾い直すときで何を手放すことが必要なのか。

そのきっかけを与えて気づかせることもまた徳を積むことになるのでしょう。

私が暮らしフルネスに取り組む本質的な理由は、本来のあるべき人間の心を子孫たちに先人が私たちにしてくださったように繋いでいきたいからです。改めて、原点を思い出しました。

一期一会の出会いとご縁に深く感謝しています。

道心の中にこそ真の暮らしはある

最近、別々の人たちから「道心」のことを聞く機会がありました。具体的には、「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」というものです。これは天台宗の開祖、最澄の遺した言葉で一心戒文というものの中に出てきます。

この一心戒文は最澄の弟子、光定(こうじょう)がまとめたものですがこれは同じ道を歩む人たちへの心得と心構えを遺したものです。

この道心とは、以前このブログで書きましたがこれは徳を高めて道を志す道徳心です。最澄が目指した世界はどこにあったのか、これは1200年前からずっと今にいたるまで世界の人類がみんなが最終的に目指すゴールの姿も同じです。

如何に平和を譲り遺せるか、そして人は如何に思いやりに満ちた仏さまのような心を保つことができるか。人間の徳を磨き続けて、いつまでも平和の世の中にしたいと発願した人たちの御蔭で私たちは今でも平和のカタチを心に遺して学び続けていけるように思います。

もしもこのような道徳心というものを知らなければ、私たちは文明や文化そのものを真の意味で発展していくことはできません。どの時代であっても、私たちは目先の利害や損得、欲に呑まれてしまい本当の人間の幸福や豊かさの意味を忘れてしまいます。

そうならないように、お手本になること、そしてそうありたいと願う生き方の中にこそ真の教えはあります。今でこそ、宗教は何か学問とは別の信仰と区別されていますが本来は宗教は学校であり学問のもっとも磨き抜かれた道場でした。

その道場で学んだ教師、むかしは聖人といいましたが彼らが各地を巡り、どう生きることが人々の真の仕合せにつながっているかを初心を忘れないようにと伝法していたのです。そうやって、人が持つ地獄のような苦しみから解き放ち、手放すことを教え、共に実践し心と現世の幸福に導いたのでしょう。

しかし、実際にはどの時代にも人間は目先の欲に呑まれます。自戒として、最澄が「道心があるなかにこそ真の暮らしは存在する」といったのではないかと私は思うのです。

現代の人たちが理解しやすくしようとするとこの「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」の「衣食」を「仕事」という言葉に置き換えればピンと来るのではないかとも思います。

「道心の中に仕事あり、仕事の中に道心なし」

です。

仕事ばかりして生きていますが、その中に真の暮らしはあるのでしょうか。本来、人間は真に暮らしをしている中にこそ、本当の意味の仕事があるのではないでしょうか。志や理念、初心を忘れないで働く人は、暮らしをととのえて働いているでしょう。しかしそういうものを持たずに単にお金のためだけに仕事をしていたらそこに真の暮らしはないということです。

どの時代も、真理や普遍性というものは変わることはありません。しかし時代と共に、欲が形を変えていきますから私たちもまた先人に倣い対応していくしかありません。

最澄は、大乗仏教を唱え、能力のあるないにかかわらずすべての人々を救おうと志しました。そのため、誰にでもできること、特別な能力がなくてもどんな人でも救われる方法をその時代に突き詰めたのでしょう。それがこの一心戒文の中で感じ取ることができます。

私が「暮らしフルネス」を提唱し、実践し、それを弘めようとするのもまたこの道徳心を磨く、そして徳を積むことを誰でもできるようにして道心を甦生させようと発願したからです。

最後に、最澄のこの言葉で締めくくります。

「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人曰く、経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす。即ち此れ国宝なり」

道心ある人が国宝であると、徳を積み、道を歩む中にこそ平和と天国があります。宝とは、すべてこの真の暮らしの中にこそあるということです。

子どもたちのためにも、自分の志を生き、自分の道に専念していきたいと思います。

集大成

「集大成」という言葉があります。これは辞書では、多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることとあります。この集大成の語源は、中国の孟子(もうし)の逸話や問答を集めた『孟子』巻10・万章章句下に記された言葉です。

「伯夷は、聖人の中でも清廉な者でした。伊尹は、聖人の中でもすべてに責任を感じる者でした。柳下恵は、聖人の中でも人との調和を大切にする者でした。孔子は、聖人の中でも、時勢にしたがう者でした。つまり、孔子は、彼らの「集大成」と言えます。

この集大成というのは、鐘を鳴らして磬などの玉や石製の楽器で演奏を終えることと同じです。鐘を鳴らすのは、曲のながれを始めること。そして、玉や石の楽器は、曲のながれを終えるということだからです。曲のながれを始めるのは智の仕事であり、曲のながれを終わらせるのは聖の仕事です。

智は、例えるなら弓を射る技術。聖は、例えるなら弓を引く力。百歩の距離から弓を射るとして矢が届くかどうかは、弓を引く力によるます。しかし矢が当たるかどうかは、引く力によるものではないのです。」

漢文だと「集大成」のところの文章は「孔子之謂集大成、集大成也者、金声而玉振之也、金声也者、始条理也、玉振之也者、終条理也」と書きます。つまり「孔子之謂集大成(孔子は之を集めて大成す)」と書いています。孔子はまさに多くの徳を集めて人生を大成した人物だと。

今まで、徳を実践し容どってきた人たちがいて孔子はそれを倣い、それを実践し、孔子が一つのまとまったものにしたということでしょう。

つまり孔子一人が完璧で全部もっていたのではなく、「繋がってきた徳を集めてまとめた」ということです。ここに私はとても大切な意味があると思うのです。以前、坂本龍馬が船中八策という新国家体制を起草したものがあります。これは坂本龍馬が出会った人たちからつむいだ言葉をまとめたものだともいえます。これがのちの明治政府の五箇条の御誓文になったといわれます。

そう考えると、みんなの遺志や生き方を真摯に学び聴いて実践しそれをどうまとめたかということに尽きます。「人は一人で何かを為すのではなく、みんながつながってその中で集大成によって為る」ということです。

私が今世で取り組んでいることも一つの集大成でもあります。

先人たちやご縁あった方々の遺志を尊重し、守り、育て、子どもたちの未来のために紡ぎ纏めて容にして伝承していきたいと思います。

 

原点回帰

私たちは様々なものを分類してきました。人間の発明した言語はその分類わけの象徴でもあります。人間と動物を分けたり、男女を分けたり、大人と子供を分けたりとあらゆるものを分けていきます。

そうやって自分と他人ともわけて、自国と他国とも分けているうちに別のものとして同じ存在として感じることがなくなってきました。先進国と後進国や、富裕層や貧困層などあらゆるものを便利に分け隔てていきます。

そのうち、なんでも他人事のようになっていき気が付くと人類の危機にまでその状態から追い込まれてきました。分類わけを発展や繁栄だとし、細分化して成熟しきった世の中が今であるともいえます。

もはや分けようがないところまで分けたことを学問が進んだとしたりして、奇妙な言語も増えてきました。現実から乖離した言葉遊びのような学問では、現実が変わることがなくなってきています。

こういう時代、何が必要かと向き合ってみるとそれは「原点回帰」であることがわかります。原点回帰とは、分かれたものを一つにするという意味です。今まで分かれていたものは、本来は一つであったということ。そのことに気づいて、もう一度、正しく整理していく必要があるということです。

つまり人や動物、昆虫などではなく「いのち」とすること。また世界とか国とかではなく、「地球」とすること。他にも、文明か文化ではなく「暮らし」とすることなど、今一度、きちんと言葉として言語を磨きなおしととのえていく必要があると私は思うのです。

なぜなら言語は分けることで人は言葉を自分事ではないものにしています。すべてを自分事になり自分の責任とみんなが思うからはじめて世界は改善され変化が形になるのであって、どこかの誰かのせいにしたり、自分には無理と諦めたり、他の誰かに期待して何もしなかったら人類は滅びてしまいます。しかも、他の生き物たち、いのちにも大きな迷惑をかけてしまい結果、共倒れしてしまうのです。

分けないというのは「一緒に生きる」ということです。この一緒という字は、つながっているという意味です。一緒の存在、一緒のいのち、一緒の暮らしと今一度、すべてを一緒に考えて生き方を見直す時機だと感じています。

人類は何度も文明が崩壊し、その都度学び直してきました。今までは文明が滅んでも、人類自体の滅亡は免れてきました。隕石が落下したり、地殻変動や気候変動で滅亡しかけたことはあっても自滅するのは悲しいことです。

いのちまで分けることをやめて「いのちは一緒の存在」へと人類の精神や心がアップデートしていくことで禍転じて福になるようにも思います。人類のゴールは、世界がいつまでも永遠に平和で豊かで幸福な暮らしを実現することです。

子どもたちに遺していきたい未来のために挑戦を続けます。

ブロックチェーンバレー

私はFBAというフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスのボードメンバーでもあります。このFBAは、産学官民が連携したアライアンスで福岡県飯塚市を拠点に九州一円にあるブロックチェーン事業者とも連携し、あたらしい経済のあり方、豊かな生活をテクノロジーが支える時代を見据え、ブロックチェーンの拡大&展開を推進するために設立しました。

このフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスでは、ブロックチェーンを基軸とした「人材育成」、 「企業誘致」、「創業支援」などを通じて、福岡県にブロックチェーンの産業クラスター(産業集積) 「ブロックチェーン・バレー」を形成し、世界に誇れる地域づくりを志して活動しています。

私の役割は、このブロックチェーンバレーなどを実現してこの場を整えていくことです。そのために世界中からブロックチェーン技術者や企業が集まる街の実現のために、様々な取り組みを行います。例えば、エンジニアが働く場所を自由に選び、より個人の成⻑を高める環境を自ら作り出すオフィスを持たない” 新しい働き方(暮らしフルネス)”の実現です。

私はブロックチェーンというのは、テクノロジーの名前ですが一つの思想を持っているとも思っています。よくブロックチェーンで使われるDAOはDecentralized Autonomous Organizationの頭文字をとった単語で「ダオ」といわれています。日本語では「自律分散型組織」と訳されることが多いものです。

この分散のところだけを使われ、分散型の働き方ばかりを取り立てることが多いように思います。しかし、私はこの自律分散型とは何かということを日本語にすべきではなかったかと思います。

自律というのは何か、それは真に自立して協力し合える関係が築けるということです。つまり自律=協力であり、真の自立は人々が支え合い助け合い豊かに見守りあうような社会を築いていくことをいいます。

それをテクノロジーの力を使って実現しようというのが、私のブロックチェーンの定義なのです。エンジニアではない私は、何ものなのかと思うことがあります。しかし本来、人間はカテゴリー分けできるほと単純なものではありません。

ある人はアーティストと名乗りながら、アーティスト風の職業をやる人のことをいうこともあります。偉い学者でも同じく、資格や立場があれば誰でもが学者です。こんなことをかくと批判とも思われるかもしれませんが、そうではなく大切なのはその本質が何かということを深く理解し、それを深堀りしつかみ取るように分かることが重要だと感じています。

この土地、この場所で、真に協力しあう風土や環境が仕上がっていくこと。それを人類のアップデートと共に、テクノロジーもアップデートさせようとしているのが私の試みであり挑戦でもあります。

少しずつ、同じ志の仲間が世界から集まってきています。子どもたちの未来は、私たちの人類の未来です。そこから逆算して、どうある世界がもっとも私たちが願う平和なのか。真摯に真向から取り組んでいきたいと思います。

新しい社会への挑戦

現在、「Society5.0」に「地域循環共生圏」を加味された新しい社会を目指してAI、IoTなどのICTを最大限に活用しようということになっています。このsociety5.0は以前ブログでも書きましたが狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)といった「人類がこれまで歩んできた社会に次ぐ第5の新たな社会を、デジタル革新、イノベーションを最大限活用して実現する」という意味で「Society 5.0(ソサエティー5.0)」と名付けられたたものです。

Society 5.0は、それまでの産業だけに特化したものの変革中心ではなくICTやIoTなどのデジタル革新により「社会のありよう」そのものを変えることによって、社会が抱える様々な課題を解決しようとする包括的なコンセプトであるということがポイントになっています。同時に世界の課題解決という観点から、国連が提唱する「持続可能な開発目標(SDGs)」と絡めて、「Society 5.0 for SDGs」として用いられています。

そして第5期科学技術基本法では日本政府の研究開発への投資額は5年間で26兆円が見込まれ、その市場規模は760兆円あるとされています。大きな市場規模であることからもこれからの新しい社会に向けて変化させるための挑戦をしようとそれぞれの民間企業を含め、社会起業家たちも革新のためにしのぎを削っています。

現状としては、下記の具体的な革新を提案されています。

CPS(Cyber-Physical System)における知覚・制御を可能とする人間拡張技術
革新的なAI用ハードウェア技術とAI応用システム
AI応用の自律進化型セキュリティ技術
情報入出力用デバイスおよび高効率のネットワーク技術
マスカスタマイゼーションに対応できる次世代製造システム技術
デジタルものづくりに向けた革新的計測技術

これらの技術をシンプルに言えば、サイバー(仮想)空間とフィジカル(現実)空間の融合を優先しています。最先端のテクノロジーを使って、どう様々な問題を解決するか。そういう意味では、それぞれの技術者たちが全員であらゆる分野から智慧も腕も磨き挑戦する時代に入っています。

私は懐かしいものと新しいものを融合させる甦生家ですからこの新しい社会の創造は私のライフワークそのものでもあります。現在の単なるITだけでは片手落ちなものを先人の智慧や古代からの叡智からカバーしていくことができます。

技術だけあっても社会ができるわけではなく、そこにはやはり人類の智慧が必要になります。子どもたちに譲り遺していきたい本物で真に豊かな社会に向けて、私にできることで挑戦していきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて

最近、カーボンニュートラルートラルや脱炭素社会という言葉をよく聞くと思います。これは地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにしようとすることやその社会のことをいいます。

産業革命以降、40%も上昇した二酸化炭素の排出量があり地球温暖化が進んでいます。先進国が優先して取り組んだ京都議定書から発展途上国も参加したパリ協定、それをもってしても温暖化を止めることにはならない計算です。

なので5年ごとに、見直しをかけるとし昨年、日本からは「2050年を目途に、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」という脱炭素社会への所信表明をしています。

具体的には二酸化炭素だけでなくメタンや一酸化炭素など、温室効果ガス全体の排出をゼロにするという内容でした。そこでカーボンニュートラルという言葉が出ます。このニュートラルというのは、CO2の排出量と吸収量を相殺してゼロにするものです。つまり「CO2実質ゼロ」だとここからいいます。

出したものを差し引きするという考え方です。余談ですが、先日お酒を飲んでいたときにお酒の量と同じ量のお水を飲めば血管や心臓に負担をかけないからいいと医者に言われた話がありました。プラスマイナスゼロのゼロが実質ゼロということでしょう。このカーボンニュートラルは、温室効果ガスの吸収、および除去量を排出量から差し引いた合計をゼロにすることで温室効果ガスの排出を実質的にゼロにする仕組みです。

また排出・廃棄物を最小限に抑えつつ資源を有効活用する循環型社会「ゼロエミッション」という言葉も誕生しました。この「ゼロエミッション」は産業活動から発生するものをゼロに近いものにするために最大限資源の有効活用を目指す理念のことをいいます。つまり、完全に循環して無駄が生まれない、日本では江戸時代に誕生していた循環型社会を実現しようとするものです。

ちなみにこの「ゼロエミッション(zeroemission)」の語源は、数字の0を表す「zero」と排出を表す「emission」を組み合わせた言葉の造語で排出ゼロ構想ともいわれ1994年に国連大学によって提唱されたものです。

難しく説明しましたが、結局はシンプルに言えば過剰な産業発展で傷んだ地球を思いやるためにそれぞれの国でちゃんと考えて新しい産業構造を構築してくださいという具合です。そこに、新しいゲームルールのようなものを設定しそれぞれで競い合って取り組みましょうというものです。取り組まないものには罰則や罰金などを制裁しますよという感じでしょうか。

世界を変えるという仕組みの一つに、構造全体を換えてしまうためのルールや法規制というものがあります。私は、別の仕組みとして原点回帰というものがあると思っています。本来の原点は何か、本質は何か、真の意味での豊かさや幸福さに気づき実践して変わろうというものです。

世の中は経済が最優先ですから前者を取ります、これも確かに分かりやすく欲望も活かそうという発想です。しかし、それだけでは片手落ちです。私は後者の真の意味でというのが大好きなので暮らしフルネスを提唱するのです。

今、全世界全人類が同じ課題に取り組む必要がでてきた時代でもあります。新しく懐かしい生き方、そして働き方、暮らし方を子どもたちの未来にむけてここから提案していきたいと思います。

暮らしフルネスの実践

現在、気候変動をはじめ環境問題は待ったなしで人類に大きな影響を与えています。もともとこのままでは環境破壊が自然の回復スピードを超えてしまうということはずっといわれ続けてきたことです。

言われはじめてからも人類の多くは聴き入れず、今のような時代にまで入ってきました。環境問題は人間の問題であるとはわかっていながらも具体的な解決策を外へ外へと求めては自分自身を変えようとは人間はなかなかしないものです。

それは自分一人が変わっても世界が変わらないと思っているからかもしれません。しかしそれは現象や物体に対しての影響のところだけで、実際には人間の意識や価値観、一人一人の中の変化がなければ最終的に世界が変わることもないのです。

一人一人の変化というのは、話を聞いて頭で理解しただけでわかるわけではありません。それはわかったという気にはなりますが、具体的な暮らしや生き方が変わっていかなければ結局は真の意味でわかることはないのです。

真の意味で自分が変わることが世界が変わることなのかと気づき理解するとき、人は自分自身のそれまでの人生を向き合う必要がでてきます。それは今まで自分が何をやってきたのか、いったい何を学んできたのかという大きな労苦との矛盾に出会います。人間はそれだけしてきた苦労を簡単に捨てることはありません。今更手放すことはとても大変なことなのです。なので人間は理解を線引きしとどめ、そこからの深い学びを止めてしまうように思うのです。人間が学びを止めるから、世界の変化もそこまでで止まってしまいます。これはとても悲しく残念なことです。そしてこれが環境問題がいつまでも真の意味で解決に向かわない根本原因でもあるように私は思います。

人間がその問題に素直に対応するためには、具体的な生き方や実践をみんなで一緒に取り組んでいく必要があります。そうやって今度は、意識をみんなで変化させていくのです。そのためにも学びを止めるわけにはいきません。

私が暮らしフルネスを提唱したのは、足るを知る暮らし、心が満ち足りた生き方をすることの実践が環境問題も解決すると確信したからです。人間が真の意味で心豊かであるのなら、この世の環境問題は発生しないことに気づいたからです。

人間が変わるということ、これ以外に世界が変わることはありません。そしてそれは誰かのせいにしたら永遠に変わりません。すべての環境問題が一人一人の意識の改革にあると気づき、具体的な暮らしを変えたときだけこの人類の文明は真の意味で平和に向かって転換するのです。

子どもたちの平和な未来のために、諦めずに暮らしフルネスの実践を楽しんでいきたいと思います。