屋根を支えよ、いのり続け世

昨日は、日本茅葺き文化協会主催の茅葺フォーラムに参加してきました。全国各地から茅葺職人さんやその文化を守ろうとする方々が参加しておられました。私もはじめて参加しましたが、会場も熱気がありこの先の未来が楽しみになりました。

私は、有難いことにここ数年の数々の甦生を通して多くの伝統文化に携わる方々と交流を持たせていただきました。文化や歴史と共に歩んでいる方々はどの方も力強く、そして守り守られているような雰囲気があります。

代を重ねるというのは、それまでの代々の遺志を繋いでいるということでもあります。これは生き物たちが子孫を残して今につながっているように、脈々と受け継がれていく智慧があります。この智慧を一つ、自分が担っていると感じるだけで天命を味わえるものです。自分の中に何を残してくださっているのか、自分の中に何が受け継がれているのか、その一つ一つをひも解けば自分の使命を自明していくことも可能です。

個性や能力、そしてその人の宿命や運命は、自ら求めなくても自然に導かれていくものです。この道に入っているのも、また日々の出会いも、どれもこれもが文化の顕現したものです。

歴史の面白さはその謎解きでもあり、解明でもあり、新たにそれを見守り育むことができる仕合せを感じられることでもあります。

以前、ブログにも書きましたが聖徳太子が「屋根を支えよ、いのり続けよ」という縁の下の舞のことを書きました。茅葺の屋根は、みんなで葺いた屋根でその一本一本を重ねて束ねたものです。それが自分の家を守っているということを教え、そしてそれをみんなで葺いたということを忘れるなとし、さらにはその重たい屋根をみんなが支えていくようにと初心を舞いで振り返るようにしました。そのうえで、いのり続けよとは、別の言い方では永続する平和の世がいつまでも続きますようにと願いなさいとしたのです。

まさに茅葺は永続の平和の象徴であり、この屋根が多くある日本こそが世界でもっとも自然と共生し永続し循環する仕組みを大切に守る国であるという理念が顕現した国だったのです。

今の時代、先祖たちはきっと心配しているでしょう。しかし、それでもこうやって屋根を守り、祈り続ける人々がいることで安心してくれているでしょう。今までの歴史を省みても、文化を守ったのは大勢いではありません。どのような困難な時も、繁栄のときも、文化を守ったのはごく一部の限られた人たちです。その人たちの純粋で真摯な生き方や生き様によって今の私たちも文化の恩徳・恩恵を享受されているのです。

文化は消えそうなとき、そして失われそうなとき、もっともそこに力が凝縮するものです。その一本の糸は、簡単には切れることはありません。まさにその瞬間も結び続けます。「結」とは、そういう縁「むすび」のことであり必ず守られるという意味でもあります。

日本の茅葺き屋根の文化がこれからこの世界を変えていく気がしています。子どもたちのためにも真摯にその意味を伝承していけるよう守静坊と共に歩んでいきたいと思います。

挑み甲斐

昨日は、英彦山の守静坊でこれまでの茅葺職人さんはじめ大工さんらをはじめお手伝いいただいた方々の労をねぎらい感謝と茅葺屋根完成のお福分けを行いました。お赤飯をみんなで食べ、御餅まきも行いました。

茅葺と大工の棟梁もどちらも今までで一番大変な現場であったことを話されました。そういう私も、凍てつく寒さと難工事で今までで一番大変だったかなと思い返していました。そう考えてみたら、何が大変だったのだろうかと振り返ります。

山奥の谷で車が入れずに荷物が運べないことだろうか。あまりの寒さで思考が止まるほどで作業もできず頭痛が酷かったことだろうか。休みがほとんどとれず、土日や一晩中、この甦生に取り組んだことだろうか。トイレも遠くまでいかないとなく、水も凍っていたことだろうか。史跡でほとんど変更できないなかで判断が難しかったことだろうか。いにしえの宿坊ということもあり、間取りも換えずに先人の遺したものをできるかぎり使ったことだろうか。資金がほとんどないなかで、金額を意識せずに本物の素材や仕事にこだわったことだろうか。祈りの場ということもあり、心を常につかっていたことだろうか。家からの往復約2時間を半年間通いつづけたことだろうか。重たい荷物を必死に運び続けたことだろうか。業者さんとの打ち合わせをなんどもなんどもやり直したことだろうか。

いろいろと思い返すと、そのどれもは確かに大変なことでした。しかし、大変だっただけで終わってしまえばそのどれもが命を懸けて取り組んできた自分の精いっぱいだったことであることがわかります。決して、それは嫌々であったことではなく誇りとして胸をはれます。

先ほどの棟梁たちも、大変だったが嫌ではないということは事実でしょう。それは私も同じく、大変な現場だったからこそやり遂げたときよくやり切ったという誇らしい気持ちになり充実した時間を過ごしたことへの感謝があります。

私たちは大変だからと避けるのではなく、大変なことだから挑み甲斐があると思うとそこに大事な時間が活かされるように思います。これからますます子どもたちに先人の智慧や日本の真心を伝承するために挑んでいきます。

これまで本当にありがとうございました。この御恩は一生忘れません。真摯に、徳を磨いていきたいと思います。

守静坊から皆さまへの感謝

一つの偉大なことを為すのは一人の力では成しえません。それはよく振り返ってみればわかります。本当に多くの人たちが助けてくださって、関わってくださってそして一つになります。

つまり一つというのは、みんなで一つということでそれだけ歴史の中で偉業は行われてきたのです。つい歴史の本などには、誰か特定の一人だけがフォーカスされてその人がさもやったかのように記されます。しかし果たしてそうでしょうか。そんなことは絶対にありません。

その当時、その一人に共感してお手伝いしてくださった多くの人たちの人生や願い、想いがあります。それが形になったものが偉業であり、その偉業はその人の名前で為したみんなの偉業ということになるのです。

今、英彦山の宿坊の甦生で本当に多くの方々のお力をお借りしています。本日も、いよいよ茅葺屋根の完成と足場の解体で結をお願いしたら50名以上のお手伝いをいただくことになりました。

思い返せば最初から本当にいろいろな方に関わっていただき、そしてここまで出来上がったのは皆さんが力をお貸ししていただいたことの結晶であり、集積です。それが建物に宿り、いのちを吹き替えてしています。

最初は空き家でボロボロ、シロアリが食べ、野生動物が棲み、暗くジメジメとした廃墟のような状態でした。このままでは、この家は失われて歴史が消えてしまうという声もあり、様々なご縁が背中を後押しして甦生させていただくことになりました。

とても最初は一人では途方に暮れるような話で、不安や心配ばかりでしたが一人、また一人とお手伝いいただいたことでどれだけ心を励ましていただいたかと思うと感謝しかありません。

この後、宿坊でどうするのかというという声もありますが今はそんなことは何も考えられずただただ感謝と恩返しがしたいという気持ちがあるだけです。宿坊が素晴らしいともしもこの先、褒められることがあるとしたらこれは甦生に参加していただいた皆さんが素晴らしいと褒められたということだと私は感じています。

最後まで皆さんの真心に応えられるように、みんなの一人としてやり遂げていきたいと思います。いつも本当にありがとうございます。

暮らしの改善

私は子ども心を見守るのが本業ですから、自分らしく自分の道を生きている人をみたら応援したくなります。自己を理解し、自分というものを大切にたった一度きりのこの人生での自分の役割や使命を果たしていこうとする人をみると自然と安心します。

その逆に、自分に嘘をつき、周りの評価ばかりを気にして、自分らしく生きることをあきらめているのをみると、環境や仕組みの影響を感じて自由な場づくりを心掛けていきたいと思うようになります。

自由を奪われ、安心できないような環境や仕組みがなぜ生まれていくのかを観察していると教育や社会システムのゆがみを見つけます。今まで長い年月の中で、時代の変化もありそうなってしまったものもありますが本来の目的や人間の仕合せを見つめて本質的な改善を続けていくのが効果があります。

例えば、暮らしの改善というものがあります。

自分らしく生きていくための暮らし方の改善です。自分自身がどうしたいのかということを振り返るような時間、もしくは場を持つこと。これも暮らしをととのえていくことができます。また忙しさに流されないように、身の回りを整理整頓したり掃除をしたりすることで呼吸もととのえていくことができます。

ほかにも、自然のリズムとともに生きることで人間都合のスケジュールを自然をベースに調律したり、体と対話して自分の体の声を聴いて体調をととのえたり、暮らしは改善することができます。

本来、私たちはどこを主軸にして暮らしをするかで暮らしの質は変わります。仕事中心にするとそういう主軸の生活になります。本来、暮らしは自然と一体になっているものだと私は定義していて、生活とは別だと思っています。仕事の中に暮らしはなく、暮らしの中の一部に仕事があるというのはそういうことからです。

自分らしく生きていくというのは、自然体になっていくことに似ています。そして自然体の自然は、自然と同じように他を尊重しあいながら全体最適を目指していくことです。そしてそこに徳を積むことの喜びや仕合せもあります。

子どもたちが悩み迷うとき、自分らしく生きている自然体のモデルがたくさん身近にあり、自他を喜ばせ、全体快適な暮らしができるように、日々をととのえていきたいと思います。

この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

自然から学ぶ

人はそれぞれに固定概念を持っています。今までの常識があるから思い込んでいるものはなかなか拭えません。特に最初からあったものに関しては、ほとんど疑うことがなくそういうものだと信じ込むのです。

これらの思い込みが執着になり、本質や真実がわからなくなっています。特に知識として誰かに教わって疑問を持たないとよりその思い込みは強くなります。

本当は文字や知識がなかったころ、人は何を見て学ぶのか。それは自然を観察して学んでいました。自然の中で発生する様々な道理や真実を直に観て、その本質を察知していきました。小さな変化から大きな変化、またこうすればああなるというように場数を繰り返して事実を学びました。

今では誰もがそうやって習得しなくても、言葉や文字によって便利になりある程度は理解し合えるようになりましたからその分、かつてのような本質の察知や道理の習得は失われていきました。

しかし、原理原則や道理、真実というのは基本であり基礎であり根本や根源の部分です。応用というのは、その原理原則をもっていることで発展させていきますから物事の道理を習得していた方がこの世の仕組みや知恵を発明するのに重要な役目を得られます。

例えば、私は自然農や伝統文化などに触れていますがそうすると道理や原理原則ばかりを見つめる機会が増えます。自然の原理原則に照らさなければ壊れる仕組みになっていますから、毎回、自然に近づき自然に寄り添い、自然の叡智をおかりしながら取り組むのです。

そうやっているうちに、自分が思い込んでいたものに気づき、大前提になっていた知識や執着が取り除かれていきます。世の中の当たり前を疑い、本来の自然にある当たり前に気づけるようになっていくのです。

こういう学問をしていたら、飽きがくることはありません。毎回、新鮮な学びがあり、気づくことが増えていくだけです。なにに気づくにか、それは自分の思い込みに気づくということ。そして新たな発見や発明に気づくということです。それはその道理や原理原則を応用する面白さに出会うからです。

人間の学問の根本は、この「自然から学ぶ」ことにあると私は思います。子どもたちのためにも、自然から学ぶ姿勢を伝承していきたいと思います。

歴史道

私たちは歴史というものを教科書で学びます。しかし本当の歴史は教科書には書いていないことがほとんどです。その理由は、歴史は勝者の歴史でありその時の勝者の目線で都合よく改ざんされていくからです。事実も、事実の様で事実ではありません。現実はさらに多くのものが関わり、同時に敗者の歴史もあるからです。

真の歴史を知るためには、起きたことを丸ごと理解して受け止めていくような歴史道のようなものがあるように思います。それは今まで連綿をつながってきたものにアクセスをし、それがなぜ行われていたのかをその土地や文化から学び、それを辿りながらかつての人たちの想いをつないだり甦生させていく過程で学ぶのです。

つまり本当の歴史は人々の心を伝えていく中にこそ存在するということになります。これは人の生きる道であり、まさに連綿と続いている歴史です。

歴史は生きているというのは、生き続けているということです。つまり生ものですから保存するには漬物のように漬け直して発酵させ続けていく必要があるのです。保存とは本来、放っておいて保存はできません。そこにはお手入れが必要です。そのお手入れは、物であれば行事ごとに出したり仕舞ったり、片づけたり、そして磨き直して手入れします。これが食べ物であれば、先ほどの漬物のように何度も漬け直して腐敗しないように手塩にかけて守っていくのです。

歴史も同様に、常に私たちが手塩にかけて育てていくものであり、また定期的に古くなり腐敗しないように漬け直していくことで甦るのです。

形だけを残すのなら、ホルマリン漬けや氷漬けにして深い暗闇で光が当たらないところで保管すれば可能かもしれません。しかし、そんな形式だけ残っても何の意味もないのです。

私がやっている歴史の甦生は、形をただ残すことに意味を感じていません。そうではなく、その歴史の道を残すことの方が大切だと思っているのです。そのためには、先ほどの伝統保存食の知恵がそのまま使えるのです。

私が漬物から学んだのは、この甦生や保存の知恵でありそれが和の心であり、すべてにおいて対応できる道の処し方とつながっているのです。

子どもたちのためにも、真の歴史を伝承しその知恵がどの時代でも活用できるように私の役割を全うしていきたいと思います。

 

 

一期一会の一日

一つ一つの家を修繕していくというのは、一つ一つの丁寧な物語を紡いでいくことに似ています。悲喜こもごもに様々な出来事があり、謙虚に素直になってその物事を見つめます。

いつも大切な局面において試練があり、その試練の意味を見つめます。

そして試練の時こそ、その根本や根源はどうだったか、最初の目的は何であったかを振り返り、自分の生き方や初心、そして信念を修繕する機会になるのです。

そうやって逞しく育っていくことで、様々な体験を経てまたお智慧をいただきます。このお智慧は、謙虚さと素直さです。自然は常にこのお智慧をつかい循環をして已みません。

かつての先達の方々もきっと本質を保ちながら試練に耐え、この世の中でバランスを磨いていかれたのでしょう。穏やかな海のときもあれば、荒れている海の時もある。時折転覆しそうな時もあれば、追い風で一気に進む時もある。人生はこの舟のようなものです。

一つの目的に向かって、偉大な理想に向かって漕いでいきますがその中で様々な試練を体験するようになっています。そうして浮かべた舟ですから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというようにあとは全託する境地でゆらゆらと大空に吹かれていくだけです。

私は、試練の意味をみつめるとき、その試練に対して全託します。

これがどのような福に転じていくのか、そこに奇跡を感じて好奇心がワクワクします。どこに辿り着いても、大切なのはその心の在り方であり、生き方です。子どもたちのためにも、ブレずに理念を実践し、今日も一期一会の一日を過ごしていきたいと思います。

本当の基本とは

何をするにも基本というものがあります。その基本は、その基本を話す人の定義によって異なるものです。この意味を辞書でひくと物事の判断、行動または存在などのよりどころとなるもと。大もと。どだい。基準。基礎とあります。

この基本は「中心」、基礎は「土台」ともいわれますが、両者はほぼ同じ意味の言葉で使われています。例えば「基本を身につける」と「基礎を身につける」などです。

しかしこの基本がわかるというのはどういうことか、これを深めていると色々と思うことがあります。私は、なんでも好奇心があり取り組んでいきますからこの基本というベースを本当に意味でわかるからそれを応用して様々なことに取り組めます。

自分でも自分は百姓といって、あらゆるものを自分で取り組んでいますからこの基本を理解するというのはとても大事なことに思うのです。

私が思う基本は、自然から学ぶということです。

もともと私たちはこの宇宙や地球を含めた自然の一部としてこの世に存在しています。当然、私たちを成り立たせているものの中心は自然であることは間違いありません。その自然がどうなっているのかを理解しているということは、基本は理解しているということです。

では何が自然かということになると、それは言葉で語れるものではなく直観するものです。何を直感するかといえば、無数の全体を構成している要素を丸ごと理解しているという具合です。例えば、自然のリズムであったり、四季の循環であったり、あるいはいのちや共生などあらゆるものを感得することです。

人間は知識を得てから自然から少し遠ざかっていきました。しかし、結局はどこまで突き詰めても私たちの科学は自然を応用したに過ぎず、すべての基本や基礎は自然そのものです。

なぜ幼少期に自然に親しむのがよいのかといえば、この自然の基本や基礎を身に着ける場を得られるからです。しかしそれで終わりではなく、一生をかけて自然を学び続けていくのが本来の人間の素養でしょう。

子どもたちにそのモデルになるような生き方や実践を伝承していきたいと思います。

真の融合

最先端と伝統文化の融合をみていて色々と思うことがあります。私は先人の智慧や先人の願いや祈りを尊重しますからあまり目新しくなる感じにはなりません。むしろ地味で、何が新しいのかわからないという具合にほとんどが目には見えません。今、あるものを活かし、そのあるものを別のものと組み合わせていくなかで今の自分に相応しい使い方を味わいます。

器というものは、その器は無です。しかしその器に何を載せるのか、もしくはその器をどう使うのかは、その器の天命にも関わってくるものです。

ある器は、飾り物になり、ある器は花の場になり、またある器は何かの想いを宿します。器は器、そして私たちもまた器にもなりえる存在でもあります。難しくなってきたかもしれませんがシンプルにいえば、徳を磨いていくということです。

私は古いものと新しいものを融合するとき、そこに徳を見出します。その徳は、いのちを尊重する中で顕現してきます。丁寧に磨き、丹精を籠めてお手入れをする。そうして、みんなが喜ぶように、そして少しでも長く幸福になれるようにとそのものの豊かさをみんなで味わいます。

ご縁を大切にしていく中で、自分に与えられた天命に従っていく。

そういう生き方が折り重なっていくとき、私たちは縦の糸と横の糸を結ぶように一期一会の融合に出会います。

よく考えてみるとわかります。

私たちの今もまた古いものと新しいものは融合し続けています。それは自分自身がそうであるからです。先祖からずっとつながっている自分、そして今を生きる自分。先人の恩徳に深く感謝して、今も子孫のために謙虚に自らを磨いて今以上に美しい世の中を推譲していく。

こういうことの繰り返しの中にこそ、真の新しいものと古いものの融合があるのです。見た目の融合ではなく、真の融合なのです。

私の取り組んでいることは、すぐにはわからないかもしれませんが時を経て歴史や時代に鑑照すればいつかは理解してくださる人も増えていきます。悔いのないよう、今とご縁を結んでいきたいと思います。