経験する価値

今の時代はインターネットの普及によって何かの知識を得ようとすればすぐに手に入るようになりました。膨大な知識がいとも簡単に検索ができてわかるというのは、本当に便利なものです。

しかしその反面、知識は得ても経験の量が圧倒的に足りなくなってきて頭でっかちのように分かった気になっていることも増えてきました。知識を得ても経験していなければそれは本当の意味で自分のものになったのではなく、そのためには絶対的に必要なのは場数になります。この場数とは経験する質量のことで、経験を得る体験をどれだけやったか、実験をどれだけ試したかということです。

人間は習熟するためにはその場数が必要であり、熟練者や専門家と呼ばれるその道の達人は皆、場数を徹底的に熟して自分を磨き上げています。

体験や経験をすることは失敗を認めることです。そしてその間違いを学んで次回に活かしていくことです。失敗を怖がり評価を避けようとして場数が減ってくれば体験していませんから習熟することができなくなります。習熟というのは場数ですから、現場でたくさん試してみなければなりません。試行錯誤という言い方もしますが、失敗から学び次はどうするかという前向きな発想が必要になります。

そのためには、経験こそが価値であるということの認識が必要です。経験を良し悪しで自分で評価したり、知識が正しいかどうかの答えを先に思い込んで裁いたりしていたら一向に行動することができなくなります。

さらには自分の価値観の中から出ようとせずに、いつまでも思い込んだところで自分の都合でばかり物事を解釈し、自分の都合のよいことしか認めようとしない態度になればなおさら経験の価値がなくなっていくものです。

良いとか悪いとかではなく、その経験から何を学んだか。そしてその経験はどれだけ価値がある経験だったか、その経験にこそ価値を置いて学び続けていくのなら失敗こそが貴重な経験であることに気づけるものです。

どんな結果が待っていようが、それでも挑戦して取り組んだ経験の結果という価値がのこります。その価値は次の人や、周りの人、そして子どもたちに必要な価値としていつまでも遺ります。そう考えてみると、やらないことが無価値でありいつまでも経験をしていないことが本当の失敗であることに気づきます。

やってみようと思うことは、好奇心の一刺し、また振り絞る勇気のようなものです。やっているうちに興味も増えてそのうちそのことが楽しくなってしまえばしめたものです。楽しそうに遣っている人は、次第にそれが楽しいに変わってきます。マジメにやっていることで100点満点を目指すことがいいのではなく、経験することが楽しいと取り組んでいくことで1000点にも10000点にも制限を超えて可能性が無限に広がっていきます。

引き続き、子どもたちが学ぶことをやめないように本当の結果とは何か、何がもっとも価値のあることかを自分の背中を通して伝道していきたいと思います。

ゼロベースで生きる

人間の思考には過去から考えて判断をするという習慣があります。過去の経験というものは時にはそれが自信になったり知恵になることもありますが、時としてはその過去の経験が枠や囚われになってしまい自分の考えを制限する材料になってしまいます。

その時の状況や環境は今とは異なっているのにも関わらず、過去にこうだったからと決めつけては先に答えを出してしまっています。そうなると未来への挑戦をするにしても、自分で決めた枠組みや先入観からのどうせ無理だろうに先に負けてしまい過去にしばられて未来を自由に創造することができなくなります。成功体験は自分の成功パターンとしての過去の栄光にしがみつきその同じパターンでしか成功しないと思い込んだり、失敗体験は自分の失敗パターンとしてそこを避けて行動することで視野が狭くなり行動も縮こまってしまいます。

そうならないようにするにはゼロベースで考える訓練が必要です。これは過去のことに囚われず、今までの先入観や枠を一度すべてご破算にしてもしも今からやるとしたらどうするか、もしも何もないところから挑戦するのであれば何を目的にしてどこまでいくかという目標を自由に考えるところから始める訓練です。過去や柵に囚われている姿はもっとも目的から離れた姿なのです。

自分はきっとこうだと勝手に思い込んでは、自分の収まりのいいところに甘んじていても未来が変わることはありません。そうではなく、真っ新の状態、ゼロベースで過去から考えず、初心や目的、理念から自由に発想して取り組んでいく中で過去が刷新されていきます。

畢竟、人生を変えるというのは過去を刷新するということです。過去がどうだったかが問題ではなく、今ここがすべてだと思い新しい自分になっていくことです。それは自分の中で良し悪しを決めないことであり、如何に目的に対して自分の方を変化させていくかということです。言い換えるのなら人生の挑戦者であり続ける訓練なのです。

本来やりたかったことをやったり、本当に願うことに取り組むためには無条件で自分がやりたいことを自分の中から見出す必要があります。そのためには、自分をゼロにする努力、つまりは自分の先入観や過去や偏見をまずは捨ててて目的達成のためだけに集中してみることです。

それは決して今流行りのリセット願望のように自分にとって都合の悪い過去をなかったことにしたり、自分の理想の状態以外は認めずに消し去ってしまおうとしたりするのではなく、自分というものに固執せずに目的のために自分を変えていこうとする挑戦によって新しい自分に出会い続けることが人生を本当の意味で変えていくということです。

ゼロベースで生きるというのは、常に目的や初心や理念に合わせて新しい自分に出会い続ける挑戦者であるということです。子どもたちにも諦めずに自分を大切に生きていく手本が示していけるように挑戦を続けていきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

向き合う

人は弱さを受け容れることで本当の強さを手に入れることができるように思います。そのためには弱さと向き合い、弱いことを素直に自覚し、それを直視して改善を続けていくことで強くなっていくものです。

最初から強い人などはなく、みんなはじめは弱さからはじまりそれを向き合い鍛錬することで強くなるように思います。

しかしこの自分の弱さというものを否定して、向き合わなければこんなはずではないと勝手に思い込んだ自分のプライドばかりを高めてしまいいつまでも改善が進みません。自分が弱さから向き合うことを逃げてしまえば、その弱いことはますます悪いことになります。

弱いことが悪いことになり、その悪いことは避けようとすれば自分の弱さと向き合えることができなくなり本当の自分自身のことがいつまでもわからなくなります。

テニスで有名な松岡修造さんの著書に「挫折を愛する」(角川oneテーマ21)があります。あの情熱が溢れ熱血な姿で周りに勇気を与えている松岡さんは実は常に自分の弱さと向き合っているということでその本当の強い姿に共感を持ちました。特に印象深い言葉には、

「自分の弱さときちんと向き合い、自分を変えていこうと行動してきたから、焦り、落ち込み、挫折感、絶望感を乗り越えて、心が強くなったのです。」

自分を変えるためには、自分の弱さと向き合うことからはじまります。その感情は挫折感や絶望感、そういうネガティブな感情ですが変わるためには受け止めようとしたということです。

よく弱いからダメだと思い込めば、弱いことを否定し鞭を打ったり、他の人に弱いことを隠し弱さをさらけ出して人に頼ることができなくなります。本当は自分ではできもしないことを無理をして進めてかえって周りに迷惑をかけることばかりです。自分でできないことを知ることは悪いことではなく、できないからこそ周囲と一緒になってその問題に対処していく必要があります。こうでなければならないと決めつけて弱さを否定すれば、すべて一人で抱え込んでしまうことになるのです。その理由はすべてこの弱さと向き合えないことから起こります。さらに弱さと向き合い松岡さんはこういいます。

「諦めない自分を発見し、「本当の自分は強いんだ」と思えるようになるためには、何かで自分を追い詰めることも必要です。「もし諦めなかったら、どういうことが起きるか」を実際に体験すれば、心は確実に変わっていきます。」

本当の自分を弱いダメな自分と思い込み信じてあげられず、本当の自分と向き合うのが怖くなるのは誰もが同じです。自分がもっとも身近にいる本当の自分のことを信じてあげられず、自分というものへの不信感からいつまでも自分を偽る術ばかりを身に着けて誤魔化していたら大事な場面で本当の自分を裏切ってしまいます。

そうではなく、弱さに向き合って弱さを受け止めて弱いままでもそれと付き合っていこうと弱さを否定せずに受け容れていく努力を続けていたら「諦めない自分がある」ことに気づくといいます。自分のことを誰よりも先に諦めてしまうのではなくその弱さもあるのが自分自身なんだと諦めずに信じ続けていくことが「向き合う」ということです。

完璧でなければならないと完璧人間になってプライドばかりを肥大化するよりも、不完全な人間だからこそ助け合い協力してお互いを信頼する力が備わっていると信じることが自分を諦めないということかもしれません。

弱さと一緒に向き合う中で本当の仲間ができたり同志があったりパートナーができたりと絆ができますから諦めずにじっくりと見守り心を寄り添っていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

自分を大切にするということ

本当の自分が何を望んでいるか、それが初心です。しかしそれが次第にわからなくなり、気が付くと手に入れたいものや欲しいものにすげ換ってしまいそれを夢だといい出すのは本当の自分が見えなくなっていくからです。

ほとんどの人が、やりたいこと=夢になっていますが本来は初心=夢であります。自分の夢と他人の夢、その夢の違いは揺るがない初心と、他と比較されて得た相対評価の時に揺らいでしまう夢です。

例えば、ある人に自分のやりたいことが何かと尋ねると、サッカー選手とか、コンサルタントとか経営者とか、保育者とかいろいろと返答が帰ってきます。さらには仕事内容や業務内容、趣味の話を仰る方もいます。しかしそれは初心ではなく自分の願望や欲望のことです。それになってどうするのか、何のために誰のためにそれをするのかと聞くと出てこなければそれは初心ではありません。

私の仕事の場合は、子ども第一義を理念に掲げ、子どもを信じきり、子どもの手本になり、子どもが憧れる生き方をし、子どもに譲りたい社會を復古起新しようとしています。そうなってくると、将来は何の仕事をしているのかよくわかりません。ひょっとすると、今と仕事内容が異なっているかもしれませんがもしも仕事内容が目標で入った人がいれば辞めていくと思います。しかし初心や目的を忘れない人は、職種や仕事内容がやりたいことではないことはすぐにわかります。ひょっとしたら全く今とは異なる仕事をしているかもしれません。何のためにと誰のためにが変わることが問題であって、職種が変わることが問題ではないからです。

変化していくというのは、自分が初心や目的を守り続けていくということです。いつまでも自分の願望や欲望や固定化された思い込みに囚われ、他人の夢を追いかけ、自分の本当の初心を蔑ろにしてしまえば変化が止まってしまうものです。

自分を変えていくというのは、初心や目的を換えないために自分の方を変え続けて成長していくということです。初心や目的を換えていくら成功が手に入ったとしてもそれは一時的に自己満足を得たとしてもすぐに空虚感が訪れます。それも人生ですから、良し悪しはないのですが一度しかない人生を何に使うか、自分のいのちを何に用いるかはその人の決心と覚悟次第です。

初心や目的が定まらない間は、自分が変わらない方法ばかりに目移りしますが自分を見失うときこそ他人の話に耳を傾ける素直な心を持ちたいものです。仲間や同志は初心を忘れさせない存在であり、本当の自分を大切に見守ってくれる存在です。

子どもにとって自分を大切にする自分を背中で見せていきたいと思います。

天謙の道理

人間は、自分自身と向き合い初心を確認してその初心から離れないようにしなければ気が付くと他人の夢をいつまでも追い求めたりするものです。自分自身が本当の求めていたものは置き去りにして、自分が認められたいことや手に入れたいと思っていた願望を追い求めたら成功はしても仕合せではないという矛盾が発生してしまうこともあります。

今度はそのように成功してしまえばそこから離れることができず、いつまでも不仕合せが続いてしまうということもあります。この本当の自分が何を望んでいるかという初心を自分から先に手放してしまわないようにすることこそが初心を忘れないということです。

ではどのような時に初心を忘れるかといえば、自分に負けるときになります。例えば、比較競走社会の中で誰かと比較して自分が認められようとしたり、自分が差別されたり酷い評価をされたりすることへの復讐をしようとしたり、ないほうばかりを見てあるものを観なくなったりするときに自分に負けて初心を忘れるのです。

そもそも与えられた天命を謙虚に受け止めて、それが天命であり使命であると真摯にいただいたものに感謝して歩んでいる人は初心がいつも身近に備わっています。その逆に、与えられた環境には満足せずこんなはずではないや、もっとこうであるはずといったないものねだりばかりをしていたら自分に与えられた天分というものもまたわからなくなります。

身の丈が分からなくなるのもそのときで、自分の存在が本来の自分の姿より大きくなったり小さくなったりとしているうちに自分が歪んでしまうのです。自分が歪んでしまったときに、親切な身近な人の声を聴ける謙虚さがあればいいのですが往々にしてそういう時に自分に負けて人間はそういう親切な人の話に耳を傾けなくなるものです。

謙虚さというものは、天命に対する謙虚さのことです。つまり天=謙であるということです。謙虚さを忘れるとき、人は初心を忘れるのです。常に謙虚でいることは、常に初心を忘れないでいること。人の話に素直に耳を傾けられる状態でいること、つまりはもっとも自分が聴くことができる状態でいるということです。

子どもたちに背中を遺すためにも聴福人の実践をしながら、天謙の道理に外れないように初心を忘れずに歩んでいきたいと思います。

自分に矢印

私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。

つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。

この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。

先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。

日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。

だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。

まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。

責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。

どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。

誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。

子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。

観念

物事には目に見えるものと目に観えないものがあり、その眼に観えないものを観る力を観念ともいいます。この観念はもともとは仏教用語で「観想の念仏」からできた言葉だといいます。「観」は知恵を持って観察し悟りを得るというサンスクリット語「vipaśyanā」の漢訳で、「念」は心に思うというサンスクリット語「smŗti」の漢訳だといいます。

この観念をどのように持っているか、それによって観えている世界は人によって異なります。見た目が同じであろうとも、その人物がどのような観点と観念を持つかはその精神によって異なるのです。その観念は物事をどれだけ掘り下げていくかという物の見方の修練によって磨かれていきます。

最近、ある著書で知った金子みすゞさんの詩に「蜂と神様」があります。

蜂と神様             金子みすゞ

蜂はお花のなかに
お花はお庭のなかに
お庭は土塀のなかに
土塀は町のなかに
町は日本のなかに
日本は世界のなかに
世界は神様のなかに

そうして、そうして、神様は
小ちゃな蜂のなかに。

日本人には昔から八百万の神々という精神があります。自然の道理と共に暮らしてきて民族だからこそ、小さな蜂の中にも神様の存在を感じることができたはずです。身近な小さなものを広げていきもっとも大きなものまで辿りつき、そして小さなものに回帰していくという発想もまた観念です。

こういう観念や観点を持てるというのが道理に精通するということであり、そういう人物が出てくることで私たちの国は何回も甦生してきました。守られているという実感は、歴史の中で道理に精通する人物の顕現によって感じることができます。

この日本の観念のことを大和魂ともいい、その大和魂を持つものを古は日本武尊とも呼びました。

時代が変わっても、本質は変わらずに存在し、日本という国が如何に変遷を辿ってもその精神の奥深くにはこの観念が根付いています。

私たちは同じ地球の中にあり、日本も日本人もまた大切なお役目をもって生まれてきています。だからこそこの観念の醸成はその国々の使命であり、未来を生きる子どもたちがもっとも発揮して貢献していく基礎になるはずです。

復古創新から、復古起新へと舵を切りつつ子どもたちの中に眠る大和魂を揺さぶりながら日本武尊の観念を身近な暮らしから子どもたちに伝道伝承していきたいと思います。

優しいぬくもり~炭団~

聴福庵にはあらゆる炭が活躍します。その一つに冬の風物詩でもある炭団(たどん)というものがあります。豆炭というものもありますが、それとはまったく製法も中身も異なりこの炭団は炭(木炭、竹炭)の粉末をつなぎの素材と混ぜ合わせて団子状に整形した燃料のことです。

冬の櫓こたつにはこの炭団は欠かせません。朝にこの炭団に火を入れれば夕方までじっくりと種火のままに燃えて暖めてくれます。遠赤外線が出て、まるでお風呂に入っているような感覚です。炭が残ればそのまま、豆炭あんかの中に入れればそこから一昼夜は暖かいままです。それを布団の中に入れておけば、ぬくぬくした布団で寒さは少しも感じません。

この炭団は本来は、捨てられるはずの炭で木炭製造時に売り物にならない細かい欠片が大量発生したものです。この大量の炭の粉末がたまるこれらはそのままでは燃焼させにくいので、練って丸く固めて成形させ使ったのです。木炭に海藻を混ぜて成形した炭団はカタチも丸く可愛らしいですがその熱も自然な暖かさと和かさがあります。

余談ですが豆炭は、原料は石炭が用いられその石炭の中でも最も炭化の進んだ高カロリーの無煙炭といわれる石炭を主原料として作らています。石炭は化石燃料ですから、石油と同様に人体に有害なものも出てきますが熱量はやや大きく燃焼します。練炭なども豆炭と共に炬燵に使われてきたこともあったようですがやはり炭団ほど合致しません。

あまった炭を最期までちゃんと使い切ろうとする智慧から生まれた炭団は、日本人ならではの精神が入っているように感じ愛着が湧きます。今度は七輪や竈で余った炭をさざれ石のように固めて燃やしたものでじっくりと料理をしたいと思っています。

最期まで大切に使い切ろう、すべてのいのちを無駄にはしないという心を炭団からも感じてそこに「優しいぬくもり」を感じるのかもしれません。

引き続き子どもたちに、譲り遺したい文化を伝承していきたいと思います。