智慧の伝承~人類の誇りを守る~

知識と知恵という言葉があります。これは、識と恵という言葉で成り立っています。別の漢字では、智慧とも書きます。これらは実際にはどのようなものかということを深く考えてみると、同じ響きの言葉でもまったく意味が異なることが分かります。

そもそも識という字は、言葉を縦横に織りなしながらその意味を理解するということ。そして、恵という字の成り立ちは糸巻きから新しい意味が転じていくということ。これはどちらも織物がカタチになって漢字になっているものです。そして知るという字は、矢と口ですが神意のことを指します。

つまりは神様の織りなす意味を理解し、神様からの意図を転じて解釈する。つまり知識と知恵とは、どちらも神意を悟るということです。不思議ですが、学校で知識や知恵を学ぶというのは常に神意を悟るための学問を実践するということになります。

現代は、知識は単なる暗記の材料になり、コンピューターの出現によって知恵も知識の集合体のように評されることが増えてきて、先人たちが長い年月で築き上げた知識や知恵が伝承されることがなくなってきました。世界が広がっていくのはいいのですが、その分、世界は浅くなってきていないか、今の暮らしに知識と知恵の深みがないことが残念に思います。

そういう私も、人生の半分以上はその知識と知恵の詰め込み教育で育ってきました。知識は武器であり、情報化社会においては知識こそが経済を発展させる道具であると信じ込んできました。現在、戦争も情報戦といってむかしのように直接的な殺戮を行わず情報によって追い込んで勝敗を決めていきます。

本来の人類の目的のために知識と知恵を使わずに、ただの手段として知識と知恵を使おうとする。これでは持続可能な社會など実現することは不可能であることは、誰が考えてもわかります。目くらましにあっているだけで、刷り込みを取り払えば私たちは先人たちの知識と知恵の伝承である本来の智慧によって神様に活かされてきた事実に直面するのです。

この世でいくら知識や知恵があっても生きていくことはできません。私たちは、大宇宙の大自然から偉大な恩恵をいただきその智慧によって活かされます。この身体の細胞の一つ一つ、そして絶妙にバランスを保ち存在しているあらゆる存在、そして関係性やつながり、そのどれもが智慧に満ちています。

その智慧を学ぶことは、大宇宙の大自然の法則に学ぶことであり自分をその存在に少しでも近づけていこうとするのです。つまり神人合一ともいうように、私たちは先人たちの大いなる命の集合体で集積体、まさにその歴史の伝承者ですからそれをそのままに活かし生きることが智慧になるのです。

智慧とは何か、つまりはあるがままの自分に回帰することです。それはあるがままであることが理解できるということ、ありのままで活かしあう真理に生きるということ。これができてはじめて智と慧は和して日本人になるのです。

日本人を創るということは、日本人になるということです。それは日本人の誇りを大切にして日本人のままでいるということです。私は、特別なことをしていることではなく日本人の原点を探り日本人の誇りを保ち子孫にそれをそのままに伝承しようとしているのです。

これを徳ともいうのです。

私は一緒に10年以上、パートナーとして取り組んでいる存在がいてその方は智慧を学びその智慧の真理を伝承するために私塾をひらいています。なぜ私が一緒にと知識と知恵を重ねて考えてみると、それは私が子どもたちのために智慧を実践し覚醒させようとしていたからだと今では感じます。

私が智慧にこだわったのは、すべて子どもたちのためですがこれは日本人のためでもあるし世界の人々のためでもあるし、未来の人たちのためでもあります。人類は大きな分岐点にきていますが、文化は文明の手段であってはならないのです。文化は目的そのものですから日本人の文化を守ることは、日本人の目的を守ることです。文明という手段に翻弄されて本末転倒してはならないのです。

引き続き、私の人生の集大成は徳と決めました。

神意に従って、やるべきことに専念していきたいと思います。

徳積伝承

私たちは今の時代を生きていますが、今の時代があるのは先人たちの徳に因るものです。先人の徳を活用することができるのは、今を生きている私たちがその証拠の中で存在するからです。

例えば、発明品の徳であれば私たちが電気が使えるのも、ITがあるのも、衣食住が整っているのもまた先人たちの苦労の観察や発見の上に生み出されたものです。それを当たり前に使っていますが、これは先人の徳が譲られ私たちが活用して生きています。

もしも電気がなくなれば、ITがなくなればどうなるでしょうか。その有難味に気づいたときに私たちは徳を感じます。当たり前ではない存在こそが徳の本体ですから、私たちは感謝を磨くことによってその感性が鈍らないようにしてきたのです。それが文化であり、文明を支えた養分であるのは間違いありません。

そしてこの徳は、当たり前すぎるから気づかれないものです。なぜ徳が観えなくなってきたのか、それは便利で人間にとって快適になりすぎてきたからです。便利に快適になればなるほどに徳は観えなくなっていきます。

逆に、不便で不快であればあるほどに実はそこに徳の存在が働いていたことに気づくのです。私が取り組んでいる、古民家での暮らしや自然農、その他、炭、伝統食、それらは徳を感じるための一つの仕組みです。その上で、ブロックチェーンやサウナを活用するのは、それを具体的な思想や哲学で料理したものを体験させて可視化するためです。

先ほどの文明の養分である文化が失われていくと人類はどうなるか。陰の功労者や縁の下の力持ちの価値がわからなくなれば、人間社會はどうなっていくか。少し考えただけでも破滅に向かうことが容易に想像できます。

みんな目立ちたがるようになり、承認欲求ばかりを求め、派手で裕福な富ばかりを求めていきますがそのものを支えている存在は一体どういったものかを考え直す必要があります。

先日、テレワークをして気づいたとある社員が言っていましたが多くの方々に支えられて在宅ができるという事実。これはその方々の徳をいただいて、暮らしを営んでいけているという証拠でもあります。

徳はとても身近にあるもので、当たり前すぎるから観えないだけで常に暮らしの根本を支えるものなのです。

私が徳にこだわるのもまた、徳が子どもたちに譲られることを知っているからでありその徳を使い切るのではなくそれを積み重ねていくことに偉大な意味を感じているからです。見返りのないもの、与え続けるだけのもの、そういう存在こそ見守る存在であり、私がもっとも目指す生き方です。

一期一会の日々を味わい、子どもたちに徳積を伝承していきたいと思います。

懐かしい未来の覚悟

突然変なことを書きますが、人間には「時」という概念があります。そしてその時を中心に過去と未来という常識を持っています。過去と未来は、同じ方向にのみ進んでおりタイムマシンなどがなければ過去に戻ることはできません。そして時間が逆さに戻っていくこともありません。

私たちは時に縛られ、時を常識として認識し、時の中で自我というものを認識するのです。それでは、他の生き物たちはどうなのでしょう。この時という概念を持っているのか、植物や昆虫たち、菌に至るまで彼らのいのちは過去や未来というものをどのように認識しているのか。そもそもの時間の経過というものに囚われてしまっていたら、本当のものを知覚することは難しいように感じます。

懐かしい未来という言葉があります。これは過去と未来を同時に語るものです。本来、過去のことは歴史といい、未来のことは予言といいます。しかし、この過去と未来とをいくらそこで知識で認識しても、今ということの本当の事実を直観することはできているのでしょうか。

私たちは今を生きていて、過去を生きるのではなく未来を生きるのでもない。だとしたら、この今という現実が未来であり過去であるのなら懐かしい未来とは変わることのない普遍的な存在として生成していこうとも言えるのです。

いつまでも変わらないもの、人類がずっと地球の中で自然と一体になってきた暮らし。その美しい光景の一つになっていることは時を忘れるときにこそ思い出すものです。

本来、時空とは無のことであり、私たちは無であることで時の中に入ります。時の本来の意味は、無であり空です。懐かしい未来とは、その無であり空である暮らしの中に存在する今を生きることです。

今を生きる暮らしとは、悠久の営みの中で廻るいのちになることです。

本来のあるべき生き方を思い出すには、常識を超えて予言に生きるしかありません。それは予言そのものになるように今を生きる、懐かしいままに今を生きる、未来と過去を融合させた永遠の今になるとも言えます。

シフトとは、それだけ今を昇華し尽くすときにこそ発生するものです。私も今、天命に生きようとしていますが様々な時の縛りや刷り込みに縛られなかなか自分を全開放することができません。

子どもたちの懐かしい未来のために、勇気を出して素直に正直にあるがまま、ありのままに直観を生きていきたいと思います。

カグヤのコロナシフト

人は立ち止まることで、色々なことを見つめ直すことができます。それは止ることで次の動くことが観えてくるからです。

私たちはコロナの御蔭で、今までの生き方や歩き方を見つめ直す機会を得ています。具体的には、流されていた自分、常識だからと続けていた自分、そういうものだと思い込んでいた自分、それまでの自分自身の意識との対話を行うということです。

その上で、何をやめてしまうか、そして何をはじめるかを決めることが新しい生き方をしていくということになるのでしょう。

そもそも人生の初心や目的は、何かがあったからと優先順位が下がることはありません。目的地までのプロセスは、その時々で変化はありますが目的地が変わるというのは最初から道を歩んでいないということになります。

人は、道を歩むことで人生を創造していきますからまずは道に入る必要はあるのは当然です。今回のコロナにおけるシフトは、道が別のものに代わったのではなくそれまでの歩み方を換えていこうという転換が起きているということです。

それまでの当たり前を疑い、新しい常識を生きていこうとする。いわば、目的に対しての歩み方との折り合いをつけるという具合でしょうか。コロナの前に無理に戻すのをやめて、コロナ後のもっと素晴らしい世の中になるように創意工夫と試行錯誤をしていこうということです。

つまりは、目的や初心を貫くために別の方法でやってみようという実験をするということです。こうでなければならないという発想を捨て、もっと自由に開放していこうとする。その上で、自然との調和や、社會の協調、徳との和合など、ステージを一つ上げて意識改革を進めようということでしょう。

カグヤは子ども第一義の理念は不動ですが、その上で生き方は働き方の一致はより高度な視座で取り組んでみようと思っています。今まで以上に、理念経営の舵取りは明確になりますが面白く豊かに実験を楽しんでみたいと思います。

暮らしフルネスの生き方

新型コロナウイルスのことで、毎日ひっきりなしに報道されますがコロナ後をどうするかということもそれぞれの覚者が発信していくことになるだろうと思います。そもそも私はコロナ後というのは人類の意識の問題であって、実際に地球規模で事実として発生している事柄を直視することで本来のあるべき姿を見直すことが重要だと感じています。

感染症というものは、人類が好き勝手に自然との距離を壊し、都市化とグローバル化によって人口密度を高め過ぎたことによって引き起こされるものです。人口が80億を超え、都市の隅々に無理やり詰め込むかのような生活を続ければどんな生きものであっても病気になります。

養鶏場や養豚場で、抗生物質入りの食事を食べさせながら働かせているのをみてはまさか人間が同じようになっているとは思わないかもしれませんが事実、私たちは似たような環境下によって都市部で生活しているのです。添加物入りの食事や、薬局による薬漬け、そして日常的に電磁波に晒され、満員電車などの高ストレス、運動不足、空気汚染などとても本来の自然の中に暮らしてきた人類の元々の環境とはかけ離れてしまっているのも忘れてしまったのです。

コロナの御蔭で、私は自然との距離がまた近くなり、暮らしフルネスの人生を味わう時間を持つことができています。ある意味で、オンライン化されたことでこの人間らしい本来の暮らしを維持しながら、人間社會での活動も共に発展させていくことができます。

コロナで気づいた人たちは、暮らしが変わったはずです。その暮らしを如何に充実させながら、地球も喜び、人類も喜び、生き物たちが喜ぶ生き方をするか。ここが人類の未来の分水嶺であることは間違いありません。

しかし事実をみせないかのように、連日コロナ叩きをし、世論も感染者を差別し、責任転嫁する相手を探し、批判や否定ばかりで目を背けるような動きがあるのも事実です。誰にとっていったい都合が悪いからそうするのか、コロナのせいではなく、コロナの御蔭になぜならないのか。

もっと視野を広げ、視座を高め、地球から観たらどうだったのか、歴史から観たらどうだったのか、そしていのちから観たらどうだったのか、あらゆる角度から今回の出来事の深い意味を洞察する必要があると私は思います。

子どもたちのために、ここで変わらなければ何度もこのようなことは繰り返され、そのたびに環境は破壊されもっと住みにくい世界になってしまいます。短期的で視野狭窄な世界を生きることを已め、もっと悠久で雄大な自然に抱かれながら共に生きることを選んでいきたいと思います。

古来の伝承

昨日、休耕田を甦生したものの一部に真菰を植えました。この真菰は、ウィキペディアを引用すると「マコモ(Zizania latifolia、真菰)は、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。 東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。」とあります。

以前、庭先のビオトープで植えたことがありますが清々しい雰囲気で揺れる真菰に癒されたものです。またマコモタケは料理しても美味しく、貴重な味わいだったことを覚えています。

歴史を辿れば、お米が入ってくる前から日本人には重宝されてきた伝統食で縄文時代以前には衣食住すべてに欠かせない存在だったと推察されています。その理由は、実や新芽は食料となり、干したものはゴザや蓑笠、屋根などあらゆる場面で暮らしの道具になりました。それに神事でも常に真菰が使われ、現在でも伝統的な古神道を実践している格の高い神社では御神体やしめ縄にも古来からの真菰が使われています。また仏教でも、お盆を飾る盆ゴザには真菰で編んだものを今でも使っています。

稲作が入ってからは手軽に藁が入手できるようになり真菰が使われなくなりましたが、本来は真菰を神聖な作物として古来の日本人たちは直観し、暮らしに取り入れて現代まで大切にしてきたことがわかります。

穢れを祓うチカラがもっとも高い作物として、麻と同様に日本人はその効果を実感して受け継がれてきたように思います。また日本人以外では、北米のインディアンが大切にこの真菰を食べて暮らしに取り入れているそうです。

色々と便利なものが出てきては、代用してきましたがそれはあくまで一時的なもので本来、どのようなものであったか、もともと何のためにそのものを使ってきたかということが歴史の変遷の中で薄れていくものです。

復古甦生させていくというのは、元来の意味をもう一度紡ぎ直し、その確かな目的や意図を再確認して新しくしていくことでいのちを繋いでいくことです。

意味があったものが意味がなくなるのは、その意味を確認する確かな場が失われていくからです。子どもたちが確かな意味をそのままに伝承してその力が子孫まで及ぶように丁寧に古来からの道を復活させていきたいと思います。

触媒効果

昨日は、祐徳大湯殿サウナの傍に植えた石菖の上に苔類を移植しました。苔が土の上に被さると、効果的に水を保水して植物たちを守ります。水は土から蒸発して雲になっていきますから、毎日大量の水分が土から空へと上がっていきます。

しかしそれを土壌の枯れ葉や苔たちが覆ってくれていれば、その下には大量の微生物や虫たちの住まいになり快適な水分を保った土壌に変化していきます。水と土の絶妙なバランスで植物たちも快適にそこで生長していくのです。

何でもそうですが、場づくりとは、生き物たちの生育に適した環境を用意して見守ればどんな生物でもすくすくと育っていきます。育たないのは環境が適していないだけで、それはその生物が喜ぶような環境を観察することを怠ることで発生します。

例えば、私は庭で烏骨鶏も飼育していますがその烏骨鶏の土壌もまた熱帯雨林のようなフカフカなものにしていて常に発酵した状態です。鳥たちはその土壌で泥浴びを毎日楽しみ、羽についた様々な虫たちや菌を発酵した微生物によって清掃してもらっています。

また風通しが悪いと病気になりますから、新鮮な空気、また水は雨水タンクを用いて、庭先には運動できるような散歩道を設け、その近くにある雑草や虫たちを食べることができるように配慮しています。

鳥たちが仕合せになるような環境を設ければ、その中で産まれる卵もまたストレスフリーで美味しいものが育ちます。

これは農園や畑も同じことです。現在、造園中のメビウスガーデン(無双農園)も最初は土づくりからはじまります。土は量が多く、客土にしましたがここから炭を大量に用いて、微生物たちの住まいから造りこみます。私は炭を使うものですから、炭の持つ効果を最大限に発揮させ土壌を甦生させます。

炭は多孔質構造になっており微生物には最高の環境で住まいが整います。他にもミネラルがあり、遠赤外線もあり、触媒としての効果は群を超えています。私は微生物には触媒が必要であると考えており、これは純粋な発酵をしたお酒然り、酵素然り、微生物の居心地をよくするにはこの「触媒効果」が何よりも必要なのです。

これは私自身の身体で学んだことでもあり、同時に土もまた触媒としての効果次第でいくらでもその土壌の質を変えてしまうのです。

場の居心地を善くするというのは、そのもの生育の特徴や個性、その生きものの最も適した環境に近づけることが何よりも大切なのです。引き続き、子どもたちの場づくりの参考になるように自然からの智慧を伝承していきたいと思います。

智慧の伝承

昨日はメビウスガーデン(無双庭園)づくりを引き続き行いました。天気は曇りでとても涼しい風が吹き、御蔭で作業がとても捗りました。

大量の土を運び、またそこに瓦をはめ込み、また土を掘るの繰り返しで非常に体力を消耗する作業です。しかし、着実に形になっていく姿に遣り甲斐と一体感を味わえます。

先人たちは、みんなこの一つの作業を通してものづくりをすることで信頼や絆、そして智慧の伝承や生きがいや遣り甲斐を感じていたはずです。建造物が人間の手間暇と真心で創造されることはとても尊いことで、その建造物を子孫たちが見つめてみると心打つものがあるのはそこに確かな意味を感じることができるからかもしれません。

現代は、機械や道具であっという間にできてしまいますが今回のメビウスガーデン(無双庭園)は土や粘土、石などでつくる造形物をほとんど手で最初から最後まで手掛けていきます。

まるで土遊びをするかのように、何度も何度も造っては壊し、修正し、また創るという作業の繰り返しですがどこかそこに喜びと仕合せがあります。左官職人さんたちが、自らの手で仕上げていく喜びを感じているように私もまた自らの手で造形物を仕上げていく仕合せを味わっています。

便利に何でも簡単に仕上げられることを良しとする世の中で、不便で時間がかかり難しいことに取り組むことは意味がわからないといわれます。しかし、この意味がわからないのではなく意味が分からなくなったというのが本当のところでしょう。

意味とは、先人たちの生き方に具体的に同じように一緒に取り組んでみたときその深い意味が伝わってくるのです。伊勢神宮の式年遷宮のように、解体し、組み立てる作業を通して信仰が伝わるように、私たちの先人が遺した暮らしの智慧もまた甦生させていくことによって伝わっていくのです。

この智慧の伝承という役目は、人類にとって実はもっとも意味がある行為です。なんでも科学の発展だけが意味があるように語られますが、そんなものは長続きもせずすぐに陳腐化していきます。しかしこの智慧の伝承は、何千年も何万年も恒久的に必要になるのです。

智慧が伝承するということは、その智慧をものにしてそれぞれの時代で適応し応用する元を学ぶことになります。時代が変わって、新しくなっていくなかで智慧があるかないかではその活用においての基本がわからなくなります。基本があって応用がはじめてできるのですから、まずはその基本中の基本である智慧の伝承が先であるのです。

教育が机上のものになり、智慧が目に見えない機会の中で行われているうちにものづくりする人たちの精神や心魂、技術の中に伝承が消えていきました。智慧が消えれば、そのうち知識だけになり本体の価値や意味が消失します。まさに意味不明になっていきます。

そうならないように、今を生きる人たちはたとえ無駄で無意味といわれても智慧の伝承に取り組む必要があります。そういう職人さんたちが文化人たちが減っていくことは残念ですが、まだまだ心ある人たちによってたとえ少数でも引継ぎは行われています。

私も智慧を伝承するものの一人として、誇りをもって子どもたちのために取り組んでたいと思います。

浄化する農法

昨日は、自然農の田んぼに田植えを行いました。取り組みから10年目に入りますが、年々収量を減らしていきます。本来は、収量を上げていくのが当たり前でしょうが敢えて収量を減らすことを実験しています。

実は、むかしの田んぼと名付けた千葉の神崎の田んぼもまた収量を減らしています。現代は、大量生産大量消費の時代ですから逆行するようなことをすると変人奇人だといわれますが、本来は分相応の量に調整して生きるのが人類の智慧であるのです。

現在は、先人からいただいた智慧を蔑ろにし、便利に量産しますが果たしてこれが本当に自然の理に適っているかを考えている人は少ないように思います。自分の利益ばかりをみんなが追いかければ、その利益競争の結果として全体が貧しくなることもあるのです。

田んぼであれば、生態系が減少し、多様性も失われ、そこにある自然の循環を歪めて生命の楽園が非常に貧しい場所に換わっていきます。そもそも田んぼの一部を私たちも他の生命と共にお借りしているという意識と、この田んぼは人間様のものでよそ者は一切入ってはならないという意識では田んぼ自体の持つ定義も個性も異なっていきます。

私が一緒に取り組んでいる伝統農家さんの田んぼはみんな生態系が豊かであり、生き物たちの楽園で生命が溢れんばかりに漲り、その中で稲がイキイキと育ちます。当然、農薬も肥料も追加せず、自然に任せて自然が喜ぶような農法を行います。

そのためには、人間が取り過ぎないことが重要なのです。アイヌ民族では、自然の利子分だけをいただくという謙虚な言葉があります。あくまで自然のために尽くし、その結果として得られた多少の利子分だけで生活を営むということです。

質素倹約に努めて、自然の掟を守れば、その利子だけで十分一族を養っていくことができます。現代社会においては、みんなが売り上げ競争をし利益の確保ばかりに躍起になりますから利子ではなく、借金でみんな一族を養おうとします。

その借金は利子ではないから、子孫へのツケになります。このツケは、次第に大きくなり返せないほどになってしまいます。田んぼであれば、田んぼの土が枯れてしまい肥料の肥毒や農薬の薬害によって作物が育たない場所になってしまうのです。

だからこそ、私たちは敢えて自然が喜ぶように収量を減らすこと、そしてその分、その田んぼの生き物たちが安心して謳歌して暮らしを楽しめるような場を確保することが重要なのです。

自然農の田んぼは、この時期は沢蟹やエビ、オタマジャクシにカニワナ、蛇や蜘蛛などの子どもがたくさん生まれています。田んぼで田植えをすれば、小さな生き物たちが溢れ、まるで一つの保育園のようです。

その保育園で環境を用意して見守る私は、まさに保育者ということでしょう。私が保育する環境は、適度な距離感によって和を与え、枯草を集めて稲に布団をかけて安心させます。多様な生き物社会の中で、みんなと共生し貢献し合って生きていけるように配慮します。

これだけを守れば、今年もまた立派なお米になってくれるでしょう。当然、このあとは雑草が生えて多少の草刈りや、スズメが来る時期は紐で防いだり、見守りと手入れは必要ですが田んぼの清々しさは御蔭様で年々増すばかりです。

私の実践する農法は、きっと自然が喜び運の善くなる浄化する農法です。浄化とは、いのちを尊重し合うことで透明で純粋な光のような存在に近づけその中でいのちたちがそのままあるがままをオープンに見せながら生き活かしあう場を育てることです。

これから1000年を見据えた教育は、むかしの田んぼの智慧から学ぶべきではないかと私は思います。この智慧を、具現化して実際の保育現場に届けていきたいと思います。

メビウスガーデン(無双庭園)

聴福庵の裏の庭にパーマカルチャーのスパイラルガーデンを私たちなりに解釈して温故知新したメビウスガーデン(無双庭園)を造りこんでいます。今まで自然農や古民家甦生、発酵保存食や見守る保育等々、私たちが学んできたことをさらに混ぜ合わせて昇華させた具体的に「場」には意味があります。

この「場」の体験こそが、新しい経済や新しい生き方、本来の永続的な暮らしを現代でも理解してもらうためにも効果があるように思うのです。

そもそもこの100年で私たちは今までの暮らしをすべて刷新するがごとくに便利で科学的な文明の価値観の中での暮らしに転換してきました。現在の持続可能なエネルギーの中には、原子力発電などもはいっており、こんなものがかつての人類のエネルギーとしては利用されることはなかったのです。

自然界にあるエネルギーを自然のままに活用するのではなく、人間がそれを科学的に加工して急速に使い込む形で科学を発展させさらにスピードを増して増幅させていきました。

この増幅という概念は、ゴミが出ても増やすという大量生産大量消費により競争力を高めていち早く先んじて地球規模で自分たちの優位性を確保しようとする人類の欲望を駆り立ててきたものです。

しかしこの現代の暮らし風のものは、あまりにも理に適っておらずこのままでは資源を使い盡し、生き物たちは絶滅し、人類の社会も歪みや格差が広がり続け、森林も消失し、空気や水が汚染され人体にも害がある循環が増し浄化が追い付かず地球規模で古からの持続可能な暮らしが失われていくのは自明の理です。

この現代の暮らし風の逆である本物の暮らしをしようものなら、今では変人扱いか宗教家、もしくは奇人などと周囲から呼ばれるほどです。私の取り組んでいることも、先進技術を取り入れていてもやっていることは古からの伝統的な暮らしを現代ならこうやればいいと示しているだけであり、それによって現代の価値観に一石を投じて未来の子どもたちのロールモデルの一つにしていこうとしているだけです。

実際に現代の世の中の逆を走っていくというのは、周囲には無意味であり不可思議に感じるものかもしれません。それはとても現代の価値観の中での生活ではリスクを取る事であり、意味不明でもあるからです。何も好き好んで周囲の批判や否定に晒されたいわけではありません。

子ども第一義の理念や初心から、何を今、なすことがもっとも意味があるのかを自分なりに考え抜いてそれを一つ一つ行動に移していくのです。その実践が、長い時間をかけて理想を具現化し、可視化されたものが多くの人々の心を揺り動かす切っ掛けにもなっていきます。

メビウスガーデンは、小さな庭園の中で無限で無双の場を可視化する一つの手段であり私たちの実験場でもあります。古からの自然との共生の暮らしを通して、如何に自分の分度を定め、自律し協力し合い、譲り、自然を喜ばせるか。

運の善い暮らしができることが、新しい時代の一つの尺度になっていくと私は信じています。運の善いとは、自然に従い自然に沿って、自然を喜ばせるような生き方をするということです。

引き続き、自粛中の世の中で場を活用したこのメビウスガーデン(無双庭園)と共に暮らしを楽しみたいと思います。