場の共有

人間は、「場を共有」することで共存共栄してきた生きものです。ここでの場とは、同じ空間と時間を一緒にするという意味です。同じ空間と時間をというのは、人生は生まれてきた中で色々な人たちとご縁があります。その一度きりのわずかな時間に、誰と一緒に生きていくか、誰と時間と空間をシェアしていくかということでその人生の質は決まります。

つまり人生は、場によって創造され場によって演出され場によって顕現するということです。だからこそ、場の共有は同じ時代、同じ場所、同じ空間を共にする仲間との大切な分かち合う時間だとも言えます。

人生は、色々な目的がありそれぞれに志があります。これだけ多くの人間がいても、一生のうちで関わるのはわずかな数です。そのわずかな数によって人生は彩られ、その奇跡とも言えるような組み合わせによって体験する内容が異なっていきます。

あの時、出会うことがなければ、あるいは、あの時一緒の場に遭遇しなければと、一期一会に人は場によってあらゆるご縁を導きだしていきます。

そしてどのような場を体験したいかという、それぞれの目的に合わせた夢や理想に向けて人は場を重なり合わせていくように思います。それがまさに「場の共有」の実践なのです。

それは家庭でも然り、職場でも然り、ライフワークでも然り、どのような人と、どのような場にしていくかは人生にとって大変重要なテーマであることは間違いない事実です。

だからこそ「場の共有」と正対し、どのような場を創造していくかは一人一人の主体性と責任が関わるものです。場を整わすことも、その場を活かそうとするからであり、場を清めるのも、場の目的を明確にして場を高めるためでもあります。

私の主催する場の道場は、場にこそいのちの原点があり、場にこそご縁の真髄があると確信しているものです。場によって人が変わり、場によって世界が換わる。これからの時代、新しい場の共有が人類の進む道に大きな影響を与えるはずです。

子どもたちのためにも、場を深め、場を譲り、場を遺していきたいと思います。

場の重要性

世界では古来から「場」には健康や幸福に大きな影響があることが信じられてきましたが現代は、都会を中心に空きさえあれば無理やりに場所を削ってはそこに人間都合で様々な建物を建てていきます。特に日本では、もともと墓地だったところや伝統的に大切にしてきた場所でさえ経済的な都合で自分勝手に移動させていきます。

本来、その場所には特別な力があって敢えてその場所を神社にしたり、墓地にしたり、石碑を建てたりして触らないようにしていたものにまで勝手に触っては壊していきます。

そのことから、原因不明の病気が流行ったり、疫病が増えたり、事故や怪我、事件が発生したりすることが増えています。科学では証明されないからと好き勝手に先人たちの体験や経験からの知恵を粗末にすればそのしっぺ返しが子孫たちに及んでしまいます。

現代人の問題は、とにかく視野が狭いということです。そして短期的であり、視座が高くないというところにあります。目が届く範囲の物事にばかり執着し、目には観えないものを軽んじているというところです。

目に見えないものはすべてオカルトであるとは限りません。目に見えないからこそ、心の目で捉える必要があるのです。心の目は、目には見えないものを観ることができます。心は、深く広い視野と高い視座、そして先人たちへの畏敬の念がなければ働かないのです。

しかし世界では、場が影響をすることを調査研究している事例もたくさん出てきています。例えば、ドイツで発表された「オパシック・ストレス」は、1920年代に、ドイツの特定の地域で、ガンの発症率が、他の地域に比べて非常に高いことから、原因を調査し発見された現象です。この「ジオ(Geo)」はギリシャ語で「地球の」、「パシック(pathic)」は同じくギリシャ語で「苦痛」地下からの有害エネルギーを、意味します。現代では、地上の、高圧電線や電波、電磁波、放射線などの、人口周波数も含めて、ジオパシック・ストレスと呼んでいます。

これは場が非常に乱れた磁場になっていてそのことで木にコブができていたり、ダウジングで反応が出たりもします。それを人体も、長期にわたり影響を受け続けることで徐々に体力や免疫力を弱め、様々な慢性的な症状を引き起こすといわれます。

地場や地磁気が乱れるというのは、目には見えないし感じにくいものですが確かに自然界で存在しているものです。野生の鳥たちはその地磁気を感じますし、虫たちや植物たちも地場の良しあしでその棲む場所を換えていきます。

それくらい私たちのいのちは、存在する場所が重要な要になってくるのです。その存在の場を軽んじていたら、知らず知らずに人生に多大な影響を受けてしまいます。子孫のためにも、場を譲りの残していくことは先祖になる自分たちの大切な使命であり責任です。

子どもたちのためにも、場の重要性を世界に示していきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。

触媒

世界には直接的に影響を与えるものと、間接的に影響を与えるものがあります。直接的なものは効果や効能がはっきりしやすく、科学で分析すればある程度の事実は証明できたりします。

しかし間接的なものは、触媒のように影響が別のところに作用していきますから効果も効能もはっきりと謳えず、科学で証明することが難しいものばかりです。

この直接的というのは、短期的に観れば効果があり、間接的というのは長期的に観れば効果があるというとわかりやすいように思うのです。

現代は、スピード優先の世の中ですから短期的に直接的に効果がある方ばかりが信用され取り入れられます。目の前に見えるものだけを信じて判断しているうちに、短期的な手ばかりを打つ癖のようなものが拡がってきました。

それが食生活をはじめ、様々な暮らしを塗り替えていき対処療法的なものばかりが評価されて根源療法的なものが排除されてきたようにも思います。

本来は、基本として長期的なものが主軸になるなかでその時々だけ対処するというのは暮らしの在り方でした。暮らしが変わってきた理由の一つは、すべて短期的に直接的になることでその根底が揺らいできたことが原因としてあるように私は思います。

私は「触媒」という概念がこれからは主役になっていくと私は確信しています。この触媒とは、自身は反応の前後で変化しないけれど周囲に偉大な影響を与えるというものです。

これは「場」も同様に、自分自身の在り方に触媒が大きな影響を与えるということです。私が取り組む、炭を使った場づくりもまた触媒としての炭がハタラキ、人々の暮らしに偉大な効果を発揮させていきます。

直接的には意味がないと思われていても、その効果は暮らしをするものでしたら確実に理解するものです。現代は、奇人や変人、宗教などと言われますが先人たちの文化が昇華していくなかでできてきた知恵をもう一度見直す必要があると思います。

引き続き、子どもたちのためにも日本人の文化を伝承していきたいと思います。

自然淘汰 

自然淘汰という言葉があります。これは辞書では「時の経過とともに、優良なものが生き残り、劣悪なものがひとりでに滅びていくこと」と記されます。長い歴史の中で生物の生存競争において少しでも有利な形質をもつものが生存して子孫を残し適しないものは滅びることとも言われます。

この淘汰という字を分解すると、「淘」は「水洗いをして不純物を取り除く」「より分ける」こと、そして「汰」は「不要のものを流し去る」「良いものと悪いものをより分ける」を意味します。

つまり洗い流して不純物を取り除いていくということでもあります。

自然界は生きものに偉大な慈愛を注ぎますが、同時に偉大な厳格さも与えます。つまり成長し続けること、進化し続けること、改善し続けること、手放し続けること、努力し続けること、等々、いのちを全身全霊で活かしきるように働きかけてきます。

自然農の畑に出て自然の一部に入り込めば、様々な生き物たちの楽園で私も一緒にいのちを全力で活かしきろうとします。元氣なものは生き残り、弱っているものは駆逐されていきます。

元氣でいるためには、自然の中で自分自身を常にブラッシュアップして共存共栄しながら適応していくしかありません。それは言い換えれば、自分自身が自然に照らして淘汰し続けなければならないのです。

自分が淘汰するのと淘汰されるという意味ではその主体が異なります。自ら淘汰していくということは、自然の変化と共に順応していくことです。かつて長い歴史の中で私たちが見たこともなかったような生物がたくさんあったと思います。時にそれは淘汰され、今はみかけることもなくなったものもあります。

私たちは自然の篩に常にかけられ、その隙間を落ちるものと残るものに分かれます。いい種を残そう、適応する種を使おうと、常に自然は濾過し続けているのです。

地球は水の惑星ですから、この淘汰や濾過はいのちの作用そのものです。

自然から離れず共生し、自然の意思に従って応じて順じて改善していきたいと思います。

徳は得なり 損も徳なり

安岡正篤の一日一言(致知出版)に「徳は得なり」のことが紹介されています。

【徳は得なり】

「徳」というのを平たく初歩的に言うと、
人間が自然から与えられているもの、
即(すなわ)ち得たるところのもの、
みな「徳」だ。

だから「徳は得なり」
という文字の註釈がある。

天から、自然から、
親から生んでもらって
与えられたものは
みな「徳」である。

しかしその与えられたものの内容はいろいろで、
その中の特に根本的なものを
他のものに対して「徳」という。

どのようなものを得てきたか、どのようなものを得ているか。それは私たちが自然に得ているものです。その得ているものを改めて考えてみると色々と観えてくるものがあります。

例えば、生まれながらにこの身体を得て、この地球で生きていくための機能を得ています。そして自分にしかない個性や特性を得ていて、その得たものによって自分らしい人生を得ていきます。他にも、美しいと感じる心や豊かな精神、志や魂なども先祖からの遺伝や経験、思想などを得ています。

そう考えてみると、すべて得ているものばかりで成り立っているのが私たちの存在です。この最初から得ているものこそ徳の元であり、私たちの徳とは即ち得によって知ることができるということです。

そしてまたそれを反転させてみると、損もまた徳であることに気づきます。得ていたものを取捨選択して他のものに与えていくこと。つまり得ているものを与えていくのが損とも言えます。

「損もまた徳なり」であるのです。

私は徳積財団を設立しましたが、それはみんなで徳を与え合う仕合せを創るためでもあります。徳が育てば、社會はさらに豊かになり幸せも循環していきます。資本主義経済が限界値に入り、もはや人類はここで方向を転換しなければ子孫の仕合せは保障できません。今こそ、徳に舵を切るときで大切な時代の分水嶺です。

壮大で遠望な挑戦もまた、徳を信じるからです。

引き続き、子どもたちのために徳に報いる生き方を優先していきたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

自粛よりも優先するもの

現在、コロナウイルスで自粛要請がありますがおかしなことがたくさんあることに気づきます。これはあくまで自粛できる人に限るものであり、自粛したくてもできない人たちのことは入っていません。

例えば、先日、期限があるため免許の更新にいきましたがとても密集していてマスクを外す回数も多く、換気もよくない密室で消毒するものもたいしてありません。免許は更新しなければ失効しますからどんなに感染拡大で警戒があっても行かないわけにはいきません。法律を優先しての判断でしょうが、結局は法律を破れないからそれぞれで自粛といいますが法律優先であればだれも自粛などできないのです。

他にも、保育園や幼稚園には毎日たくさんの子どもたちが来ます。あれだけ密集してマスクもできない子どもたちが日々に接していたら感染が拡がるのは当たり前です。特に保育園や幼稚園は、日ごろから感染症の集積場のようにあらゆる感染症をもらってくるところですから今回のコロナウイルスのような感染力が高いものであれば防ぐのはほぼ不可能です。

学校は休校するのに、保育園幼稚園は休校しないというよくわからない理由のせいで何を国家が優先しているのかもよくわかりません。感染拡大は国民のせいとなれば、みんな協力しようとすることができなくなります。

こういう時こそ、法律は一時的に度外視してでも国民を守り、そして国民もこういう時だからこそみんなで助け合い協力して乗り越えていこうとする必要がありますが現在のような疑心暗鬼の状態で不安や不満ばかりが蔓延すればせっかく日本にある人徳的に乗り越えてきた絆や知恵を活かすことができません。

国民を信じて、リーダーを信じるというのは、お互いに一つの目的のために協力しあうために尽力するときにこそ発揮されます。これは会社組織でも同じことです。社長も社員を守るために尽力し、社員も会社を守るために尽力するとき絆も知恵も活かせます。

まず何を優先するかを示さない限り、みんなは安心して助け合おうとしないのです。国家はいわば、家庭の大きなものです。家長が家族を守り、家族は家を守るために尽力する。

この当たり前のことができなくなっていることが、今回の自粛要請には見え隠れするのです。みんな他人事のようになっている組織の末路は、想像すればすぐにどうなるかわかります。会社でいえば、社員に自粛しろといいながら同時になんとかしろということを社長が言っては社長は何も具体的なことをしないということです。そんな状態の会社で、みんなが協力し合ってまとまる雰囲気がでるわけがないことは簡単にわかります。

家の経営、会社の経営、国家の経営、その道はどれも同じで規模間や人数は関係ありません。みんなが助け合うために組織を創造したのだから、本来の組織の意味を学び、活かしてこそ困難を乗り越える原動力になります。

死人がたくさん出て、悲しみがより深くなってきています。早く、目覚めて気づいて勇気をもって果敢に挑戦してほしいと願います。まずは自分から取り組み示していきたいと思います。

人類の助け合い

コロナ騒動で色々と報道をみていると、振り回されていることが分かります。最初に情報を隠蔽し、事実が不明確であればあるほど不安は増大していくものです。これだけ情報化社会になっても、情報を扱う人たちのモラルやスキル、人格が影響をするのがよくわかります。

単に、恐怖だけ煽ってもどうにもならず具体的にどのように対処しみんなで対応していくのかの智慧を集めないといけません。他人任せにして自分で考えないことが癖になってしまうと誰かが無責任に伝えてきた情報に右往左往してしまうものです。

こういう時こそ、原点回帰し災害にどう対応してきたかという歴史を学び、本来、これは何が発生しているのかということを洞察していくことで余計な情報に振り回されないように思います。

それに改めてはっきりと日本の現状を理解したのが、「画一的」であるということです。行政の対応をみても、テレビの報道をみても、みんな一斉に画一的であることにこだわっています。

現在は、自粛によってある特定の経営が非常に苦しい状況に置かれています。それは飲食店であったり、観光宿泊業であったり、人が集まるようなイベント会場業であったり、芸能であったり、本来は娯楽として存在していた仕事が途端に厳しくなりました。

むかしだったら、みんなで協力し合って助け合い苦しい時こそ手を取り合って乗り越えてきたように思います。町の中でよく利用させてもらった大切な場が失われていくのを望んでいる人はいません。こういう時こそ本来は、他人事ではなく思いやりをもってみんなで何とかしていく必要があるように思います。

日本はすぐに自己責任などといって突き放します。確かにリスクに備えているかどうかの時に自己責任を追及するのはまだしも、このような事態に遭遇している時にそれをいうのはあまりにも矛盾があるように思います。

歴史に学べば人類は助け合うことであらゆる困難を乗り越えてきました。つまり助け合えば乗り越えられない困難はなかったということです。これが人類の智慧であり、今まで存続してきた最大の理由です。

不安で不確かな情報ばかりをかじりついて見てばかりではなく、どうやって助け合うかをみんなで語り合っていく情報を発信していくことが本当の意味でこの難局を乗り越えるための要諦だと思います。

日々の改善や知恵、そして助け合いの事例を発信していきたいと思います。

美しい徳

有事の時に、生き残るためにみんな必死ですがその中でも日本人らしい美しい徳が引き出されそれによって助け合いの風土が醸成されみんなが安心して危機を乗り越えるための原動力になりました。

本来、有事の時こそ草莽崛起といって日本では他人のせいにせずに自分が何ができるかと立ち上がって物事を解決してきた歴史があります。まさにこの今こそ、それが試されるときでありみんなで行動を示して日本という国、そして人々を守っていく必要を感じます。

私たちは災害時にこそ、原点に立ち返りどのような助け合いが生まれたかをもう一度思い出すことです。

熊本や東日本大震災でも、助け合いの光景はたくさん見られました。自分さえよければいいのではなく、譲り合い、並び合い、正直に嘘はつかず、自分の分を少し我慢して周囲のためにと尽力していました。

世界にも稀にみる道徳的な人々だと称賛され、日本人は有事のときこそ自分さえ善ければいいではなく、みんなのお手本になるようにと自分を律し振る舞ってきました。

この誇るべき「助け合いの精神」は、私は自他一体の精神からきているものと思います。相手の事を自分の事のように思いやることができる、自分のことで相手のことを思いやることができる。

つまりはいつも誰かを思いやりながら暮らしてきた民族の歴史が証明するように思うのです。共感力の高さや、傾聴力の高さ、同じ人間として平等に接し、すべてのことを自分事として心配する。

ここに日本人の自然風土、そして生活文化の中で育まれた歴史があるように思うのです。

私たちは誰もが同じ人間であり、いのちはどれも同じものです。それを慈しみ愛おしむ心を持てるのは、神話の時代からすべてを八百万の神々として接して暮らしてきた日本人の精神文化が源流になっているのでしょう。

こういう時だからこそ、みんなで助け合い、日本人が有事の時にどのように乗り越えてきたかを歴史に学び取り組むチャンスです。子どもたちのためにも、自分にできることを挑戦していこうと思います。