こだわりとは

私はこだわりが強いタイプと周りに言われます。いちいちこだわっているといわれ、嫌煙されるか尊敬されるかがどちらかに分かれます。自分自身では無意識にやっていることなので今さら周囲がどういおうが生き方が変わらないのですが、納得するまで本質を突き詰めたいと思いあれこれを深めていたら自然にこだわりが強くなっていくだけのように思います。

先日、稲盛和夫さんにこういう言葉に出会いました。

「ひとつのことを究めることは、すべてを理解することなのです。すべてのものの奥深くに、真理があるのです。」

確かに、一つのことを深めれば深めるほどにあらゆる総合的な知識や経験、そして智慧や直観が使われていきます。今まで見聞きしたものから真理を思い出し、その真理に照らして道理を悟ります。

私の場合は、どれも自然から学んだ智慧ものを用います。例えば、自然か不自然かがまず最初の篩であり、その後は、歴史の智慧に照らします。歴史の智慧とは、発酵とか、共生とか、体のことや気候、伝統などです。

いわれてみれば、自然農をやってきたり、人類を学んだり、伝統を学んだり、暮らしを学んでいる過程で私はすべてを理解していきました。そのすべてのものの奥深さに感動し、その感動したものを自分のものにする過程で新たな発見は発明に出会います。

現在、建造中の復古創新した日本伝統のサウナもまたすべてを理解するなかで創造する総合芸術であり、その中には私が経験して学び理解した本質のすべてを組み合わせていきます。

気が付くと、こだわりが強いといわれていますがこれはこだわりではなく真実に近づいているということでもあります。こだわりとは、決して嘘偽りない正直な真心で取り組んでいるということかもしれません。

執着というこだわりと、真理というこだわり、同じこだわりという意味でもその大前提が異なります。自然は無為であるように、真理もまた同様に無為というこだわりがあります。

自然も真理も道理ですから、そこから外れないで生きることこそ人類にとって必要なこだわりではないかとも私は感じます。時代が変わればこだわりもまた変わります。人類の道理を忘れないよう、初心を大切に取り組んでいきたいと思います。

 

自然の基盤

今回の新型コロナウイルスは、人間社會にとっては非常に大きな問題ですが虫たちや植物たちにとってはそれよりも気候変動の方が大きな問題になっているように思います。

一部では、かえって空気汚染が解消され人間が自粛することによって生活範囲がひろがり快適になっている動植物もいると思います。地球には人間だけが住んでいるのではなく、あらゆる生物が折り合いをつけて自然と共生しているのだからどちらかの天国がどちらかの地獄でもあり、お互いに謙虚に支え合って生きているのが地球のいのちの本体です。

私が気になるのは、コロナウイルスで経済が打撃を受けて世界恐慌や戦争になることではありません。もちろんそれも心配ですが、人間は何をするかもっとも分からない生きものですからこればかりは予想などできず、常に福に転じていくよう日々の暮らしを整えていくしかありません。

しかし気候変動は、生物界全体に大きな影響を及ぼします。一つの生き物が息絶えてしまえば、それを支え合う大くの生きものたちもまた息絶えてしまいます。絶滅の連鎖です。

この絶滅の連鎖は、最終的にはすべての生命の生息をとめいのちの水そのもののハタラキも停止させてしまいます。現在の火星のようになるのも時間の問題です。地球は、あらゆる生きものたちが有機的につながることで生命を維持しています。この絶妙でもっとも微妙なバランスが崩れることは、その間を流れる水の流れもまた止めてしまいます。

水は人間の身体でいう血液であり、血液が流れるから細胞は活動します。血液を流し続けるには、細胞たちの活動とハタラキが欠かせません。そのために、私たちは肉体を通して地球の生命の実相を学び、その肉体から発する様々な感情を得ては何が健康であり、何が不健全であるかを学びます。

いくらAIや意識や脳を進化させても、陰ながらすべてを支える地球の存在を抜きにして私たちはこの暮らしを保つことはできません。

気候変動機において、如何に多種多様な生物を守り共生を持続させていくか。人間ができることはまだまだたくさんあります。まずは、今の人間の経済のみを優先する姿を見直し、徳を積み、徳を広げるという自然の基盤となる道徳経済の世界に易えていくことだと私は思います。

子どもたち、子孫たちのためにも、今できることを今やらなければなりません。自然との共生は、足元から変えていくことができます。このチャンスを活かして、新しい挑戦に取り組みたいと思います。

モビリティの本懐

最近、あることからモビリティのことを深めている中でふと乗り物の歴史について学び直す機会がありました。私たちの現代においては、自転車や車は当たり前で飛行機も新幹線も当然身近にあるものです。しかし150年前まではそのどれもが存在しておらず、私たちの乗り物は大きな変化を遂げていきました。

現代では車社会も一つの終焉を迎えており、移動手段が激変していく時代を迎えています。乗り物としての存在と、そもそも乗り物を使って何をしたかったのかという人類の目的の狭間で新しいものが創造されていくのは時間の問題です。

改めて少し移動手段の歴史を整理してみると、そもそも紀元前1万年以上前は足で歩いていました。そこから筏や丸太がではじめ丸木舟は紀元前7千年くらいに出てきたといいます。そして紀元前5千年にはソリが生まれ、紀元前三千五百年頃には車輪付きの車が誕生しました。これをロバなどが引いていたといいます。そして紀元前三千年頃には、乗馬や帆走船がでてきて交易船によって栄えていきました。そのあとも、少しずつ改良され様々な自然物を活かした乗り物が利用されていきました。

急激に現代のように科学の乗り物が進化したのは蒸気による動力の発明からだといわれます。この発明から、より多くの荷物、スピード、そして遠くまでいけるようになりました。

産業革命はその後、様々な科学技術の進歩と共にあらゆるものが発明されていきました。1769年には、蒸気で走る三輪自動車が発明され、1783年には蒸気船、1802年には蒸気機関車、1886年にはついにガソリンを使った車が誕生しました。1903年には飛行機という具合です。ここから100年はさらに進化し、原子力潜水艦、人口衛星、宇宙ロケット、新幹線、リニア、ジェット機、電気自動車、水素自動車、他にもこの数年で様々なエネルギーを活用した乗り物が誕生しています。

私たちは、乗り物を使い科学を発展させていきました。言い換えれば科学の発展と乗り物は常に一体に進歩してきたとも言えます。しかしそのことから、環境汚染が広がり、人間の生活速度が変わり、世界中に資本主義経済が発展する動機となりました。

物流は日々に便利になり、今日ウェブ上で注文したものがその日のうちに届く具合です。さらに仮想空間ができたことで、体は移動しなくてもVR等により意識が移動できます。他にも、AIやIOTが進みそもそも移動する必要がない状態が生まれています。

人類の乗り物は、単なる移動手段ではないことは歴史を学べば明確です。

だからこそ、本来、モビリティの本質は何かを人類は問われているように私は思います。ゆったりとスローに移動するということは、ひょっとしたら今の人たちからしたら変人の戯言のように思われるかもしれません。

しかし、私の提案する暮らしフルネスは敢えてそれを先進技術で補う仕組みを取り入れています。時代が変わりますが、人類の目的や人生の意味は普遍的です。

子どもたちが安心して地球に豊かに住み続けられるように、新しい取り組みを発信していきたいと思います。

自然の薬

昨日は、郷里で有名な漢方の先生のご紹介で諫早にある御湯神指しでよもぎ蒸しを体験してきました。ここは、韓国の「汗蒸幕」(ハンジュンマク)を改良したサウナがあります。松の木をドーム型の石室の中心で燃やし、麻布をかぶって入るという約600年の韓国式伝統サウナもあります。

昨年末より胃腸の具合がわるく、疲労の蓄積があると漢方の先生にいわれて漢方治療と湯治を優先しつつ回復につとめています。ちょうど、BAでの復古創新している日本古来のサウナも出来上がったことから敢えて色々と対比しながら学ぶためにも体験してみました。

サウナの方の火は、私の備長炭のサウナと異なり陽の火が強く感じられ長く入っていることはできませんでした。その分、短時間で体内に熱を貯めつつそれを外に排出する作用があり短い時間でも充分な効果があるようにも感じました。難病の方や、重度の病気を持った方が来られることが多いとお聞きし、いのちの燃焼を手助けして寿命を延ばす効果があるようにも感じました。

私は火には、陽の火と陰の火があるように直観しています。陽の火は、キャンプファイヤーの火で明るく燃え盛り爆発するようなエネルギーを周囲に散らしていくような興奮の火です。特徴は瞬間的に、一気に燃え盛るものというイメージです。
もう一つの陰の火は、火鉢の中の備長炭の火で穏やかにしんしんと静かに消えていきながら遠赤外線を放射していく癒し回復を助ける火です。陽の火はアドレナリンが出て、陰の火はドーパミンが出てきます。

つまり火は二つの性質が一体化したもので、火は最初から二つで一つであるということです。陰陽の原理は、いのちの原理であり、最初から水も火も、木も土もすべて二つの別々のものが合わさってできています。これは人という字にもあるように、人間も肉体と魂が融合して存在するように二つが一つになっているのです。

話をよもぎ蒸しに戻せば、このよもぎ蒸し(よもぎむし)は、よもぎを煎じた蒸気を下半身を中心に体全体に浴び吸収させる民間療法で韓国では600年から700年ほど前から、産後ケアとして愛用されているといいます。

よもぎといえば、私も幼いころから怪我をしたり虫に刺されたりしたときの応急処置で使っていました。不思議と、よもぎをすりつぶしたものを塗り込むと皮膚炎が収まったり擦り傷の回復が早かった記憶があります。

漢方でこのよもぎは、浄血、造血、末梢血管の拡張作用、新陳代謝促進、抗アレルギー作用、殺菌・制菌、などの働きがあるといいます。実際に入ってみると、独特な香りがして体の毒素を中和しているような感覚がありました。

そもそもお灸で使うもぐさもよもぎからつくられます。特にお灸に使うもぐさは春、草餅やよもぎ団子になっているあのよもぎを使います。よもぎは春に芽を出す生命力旺盛なもので、街中の道端の隙間や土手などにたくさん生えてきます。生命力旺盛な植物です。そして乾燥したよもぎは艾葉(がいよう)と呼ばれ、生薬としてカラダを温め、腹痛、胸やけ、下痢、便秘など、さまざまな症状に効果があります。

このよもぎのもぐさは、梅雨が終り花の咲く前によもぎを刈り取り乾燥させ臼でくだいたあと葉や茎を取り去るという作業をくり返しくり返しつづけやがてほんの少しのフカフカの綿毛だけになります。この綿毛がもぐさなのです。

乾燥したよもぎからたった200分の1しか取れない貴重なものです。このもぐさにはよもぎに含まれる精油成分があるためか、火つきがよく、熱さ少なく火持ちもよいのでお灸に最適です。

先人の知恵というか叡智には頭が下がります。中国では2000年以上前からこのように民間療法がお灸という形で伝承されてきました。時代が変わっても歴史が過ぎ去っても、効果があったものだけは自然の篩にかけられて今でも残っているのです。西洋からやってきた科学的な薬も短期的には効果がありますが、本来の自然治癒や人間の叡智から編み出された自然の薬はなによりも人々の身体だけではなく心も同時に癒します。

BAの浄化場で自然治癒をさらに究め、人々の心身を癒し自然との共生を回復させていきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。

自然淘汰 

自然淘汰という言葉があります。これは辞書では「時の経過とともに、優良なものが生き残り、劣悪なものがひとりでに滅びていくこと」と記されます。長い歴史の中で生物の生存競争において少しでも有利な形質をもつものが生存して子孫を残し適しないものは滅びることとも言われます。

この淘汰という字を分解すると、「淘」は「水洗いをして不純物を取り除く」「より分ける」こと、そして「汰」は「不要のものを流し去る」「良いものと悪いものをより分ける」を意味します。

つまり洗い流して不純物を取り除いていくということでもあります。

自然界は生きものに偉大な慈愛を注ぎますが、同時に偉大な厳格さも与えます。つまり成長し続けること、進化し続けること、改善し続けること、手放し続けること、努力し続けること、等々、いのちを全身全霊で活かしきるように働きかけてきます。

自然農の畑に出て自然の一部に入り込めば、様々な生き物たちの楽園で私も一緒にいのちを全力で活かしきろうとします。元氣なものは生き残り、弱っているものは駆逐されていきます。

元氣でいるためには、自然の中で自分自身を常にブラッシュアップして共存共栄しながら適応していくしかありません。それは言い換えれば、自分自身が自然に照らして淘汰し続けなければならないのです。

自分が淘汰するのと淘汰されるという意味ではその主体が異なります。自ら淘汰していくということは、自然の変化と共に順応していくことです。かつて長い歴史の中で私たちが見たこともなかったような生物がたくさんあったと思います。時にそれは淘汰され、今はみかけることもなくなったものもあります。

私たちは自然の篩に常にかけられ、その隙間を落ちるものと残るものに分かれます。いい種を残そう、適応する種を使おうと、常に自然は濾過し続けているのです。

地球は水の惑星ですから、この淘汰や濾過はいのちの作用そのものです。

自然から離れず共生し、自然の意思に従って応じて順じて改善していきたいと思います。

健康から学ぶ

植物や樹木には根があることで養分を吸い上げて成長します。農家が健康状態を測るときは、土壌の質とその根の状態を観ていきます。私が不耕起栽培でご指導いただいているメンターもまた、土と稲の根の状態を観て田んぼの健康状態を測ります。

明らかに土の状態がいいとき、その土には大量の菌類がいて活発に活動しています。また稲の根も深くまで入り、たっぷり菌と共生している様子が根に現れます。

人間であればこの土と根は何かということを考えると、腸内環境でありそれが便に現れていることを感じます。腸内で私たちは、養分を吸収しますから腸内の状態がよければよいほど、先ほどの植物と同じように菌と共生できているということです。

私たちは、自然のままにむかしから続く暮らしをしてその地域で食べてきたものを食べ、暮らしを営めば自然にそれに適応した腸内フローラになるように思います。それが生活が乱れ、おかしな食生活や、生活リズム、他にも住環境が乱れれば当然腸内環境も乱れていきます。

腸内環境が乱れれば、先ほどの植物では根の力もなく土も貧弱になりますから健康が害されて弱くなっていきます。

健康というものは、そう考えてみると自分の土壌環境や根の状態を知らせてくれる存在でもあります。自分の根が弱っているのなら、環境を換えていくことが大切です。特に人間は、動けますから自分から進んで改善をしていくことができます。

例えば、冬の間に蓄積した疲れをどのように取り除くか、他にも運動不足から発生する筋力の衰えをどのように改善するか。それは日々の暮らしの工夫によって改善できます。

免疫を高める工夫をする中で、改めて先人たちの暮らしの知恵の素晴らしさを感じます。色々と今回の機会で、取り組んでみたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

自粛よりも優先するもの

現在、コロナウイルスで自粛要請がありますがおかしなことがたくさんあることに気づきます。これはあくまで自粛できる人に限るものであり、自粛したくてもできない人たちのことは入っていません。

例えば、先日、期限があるため免許の更新にいきましたがとても密集していてマスクを外す回数も多く、換気もよくない密室で消毒するものもたいしてありません。免許は更新しなければ失効しますからどんなに感染拡大で警戒があっても行かないわけにはいきません。法律を優先しての判断でしょうが、結局は法律を破れないからそれぞれで自粛といいますが法律優先であればだれも自粛などできないのです。

他にも、保育園や幼稚園には毎日たくさんの子どもたちが来ます。あれだけ密集してマスクもできない子どもたちが日々に接していたら感染が拡がるのは当たり前です。特に保育園や幼稚園は、日ごろから感染症の集積場のようにあらゆる感染症をもらってくるところですから今回のコロナウイルスのような感染力が高いものであれば防ぐのはほぼ不可能です。

学校は休校するのに、保育園幼稚園は休校しないというよくわからない理由のせいで何を国家が優先しているのかもよくわかりません。感染拡大は国民のせいとなれば、みんな協力しようとすることができなくなります。

こういう時こそ、法律は一時的に度外視してでも国民を守り、そして国民もこういう時だからこそみんなで助け合い協力して乗り越えていこうとする必要がありますが現在のような疑心暗鬼の状態で不安や不満ばかりが蔓延すればせっかく日本にある人徳的に乗り越えてきた絆や知恵を活かすことができません。

国民を信じて、リーダーを信じるというのは、お互いに一つの目的のために協力しあうために尽力するときにこそ発揮されます。これは会社組織でも同じことです。社長も社員を守るために尽力し、社員も会社を守るために尽力するとき絆も知恵も活かせます。

まず何を優先するかを示さない限り、みんなは安心して助け合おうとしないのです。国家はいわば、家庭の大きなものです。家長が家族を守り、家族は家を守るために尽力する。

この当たり前のことができなくなっていることが、今回の自粛要請には見え隠れするのです。みんな他人事のようになっている組織の末路は、想像すればすぐにどうなるかわかります。会社でいえば、社員に自粛しろといいながら同時になんとかしろということを社長が言っては社長は何も具体的なことをしないということです。そんな状態の会社で、みんなが協力し合ってまとまる雰囲気がでるわけがないことは簡単にわかります。

家の経営、会社の経営、国家の経営、その道はどれも同じで規模間や人数は関係ありません。みんなが助け合うために組織を創造したのだから、本来の組織の意味を学び、活かしてこそ困難を乗り越える原動力になります。

死人がたくさん出て、悲しみがより深くなってきています。早く、目覚めて気づいて勇気をもって果敢に挑戦してほしいと願います。まずは自分から取り組み示していきたいと思います。

楔を打ち込む

世界が同時にコロナウイルスが蔓延しています。地球は丸く、すべては海を通して一つにつながっています。改めて国境というものの意味のなさ、そして現代人類というものの傲りを感じます

そもそもむかしは、みんなで別々の地域に住み、多様な生活を通してあらゆる環境に適応する人々が存在していました。独自の生態系に独自の生活文化が多様にあることで、あらゆる気候変動や災害に備えることができました。

現代のように画一的に同じ生活文化を世界に広げてしまったことで多くの弊害が出てきました。これは過去の歴史で何度も学んでいたはずなのにまた同じことに遭遇しています。

のど元過ぎれば熱さ忘れるではないですが、人類は忘れてしまえば過去のこととして今驚いていますが、よおくむかしのことのを感覚的に思い出してみればおかしいと思うことがたくさんあることに気づくはずです。

それは道理に反していることが直観できたり、王道ではないと原理原則から外れていることに気づくことに似ています。そういう感覚的なものは、むかしの記憶にアクセスしているのです。

自然界においても、あらゆる生きものたちは自然の中に暮らしながら気候変動のサインを察知します。おかしいと少しでも思えば、行動に移して身を守り生活居住区も換えていきます。時には冬眠し、時には種として土深く潜ります。これは、生き残る戦略でありかつての歴史の災害の記憶をいつまでも忘れないために持っています。

人類の傲りとは、目に見えるものしか信じなくなり、かつての記憶を蔑ろにし、本来の直観や感覚よりも科学が勝っていると誤解したところにあるように思います。都市型の生活をみればすぐにわかりますが、災害に非常に脆弱なつくりになっていることがわかります。

もしもに備えているものがほとんどないのです。自然から離れることはかえって自然災害から弱くするということです。これはウイルスでも同じなのです。滅菌や殺菌などで無菌にしても、あっという間に耐性菌が出てきて広がります。しかも自分の身体の中に菌を何兆ももっているのだからそもそも殺菌とか滅菌とかしていたら最後は自分も死んでしまいます。

ウイルスも同様に、免疫をつけて共生している存在をすべて取り払うことは不可能です。自然界は共生するために、どうすればいいか、どのような戦略があるのかをすべての動植物やいのちの存在から学べるようになっています。

人類が頂点にいる錯覚を起こしたことに気づき、実は頂点ではなく自然界の智慧に敵わない事実を悟ることが今回のウイルスから学ばせてもらうことにように私は思います。

人類は学ぶことで成長する生きものですから、どんなことからも真摯に学び直し、改善し、努力していけばまたそれが別の方向へと世界を換えていけるように思います。今回の機会は二度とない機会かもしれません。しっかりと天からの教えをキャッチし、然るべきこれからの時代に楔を打ち込みたいと思います。