いのちの徳性~万物の霊長~

「万物の霊長」という言葉があります。これは孔子の編纂した書経(秦誓上)の中に人類というものを解釈して書き記されたものです。実際に何を目指して人類は万物の霊長たれと孔子は言ったのか、それを理解している人が少ないように思います。

自分たちが動物たちや食物連鎖のトップだから霊長というわけでもなく、他の動物よりも寿命が長いから霊長であるというわけでもありません。その本質について深めてみようと思います。

そもそも私たちをはじめすべての生き物は、何を伸ばしていきたいかというものがあります。それは進化でも証明されています。生き物にはそれぞれに特有の固有の能力があります。

鳥であれば空を自由に飛び回りますし、魚は自由に泳げます。地上を走る動物たちもいます。そしてそれはさらに分化し飛び方から泳ぎ方、走り方に至るまで、あらゆる自分たちの特性を活かして進化成長を続けるのです。それは私たちが真似と道具を使う能力があるように、他の生き物たちもまたそれぞれに自分たちの得意分野で能力を伸ばします。

それでは孔子はこの能力がどんな動物よりも高く優れているから万物の霊長といったのか、私はそうではないと思います。

動物だけではなく樹木までありとあらゆる生き物には心があります。その心とは人間にわかるように話せば他を思いやる心があるということです。これは能力の特性ではなく「いのちの徳性」と名付けてもいいかもしれません。活かされている存在だからこそ備わっている唯一無二の徳性です。

このいのちの徳性を伸ばしていくことでどんな生き物よりも思いやりが長けている存在、それこそが万物の霊長であると孔子は定義したのではないかと私には直感するのです。なぜならそれが孔子が目指した理想でもあり、私たちをはじめ地球に生きているすべてのいのちを奥深く見つめ感謝し哲学する生き物たちが目指すところだからです。

例えばあのクジラやゾウなど、脳にシワが沢山刻まれている生き物たちのシワは私たち人間のように余分な知識を詰め込んでシワが多いのではありません。非科学的だと笑われるかもしれませんが、あのシワは思いやりや真心を伸ばしてきてついたシワです。樹木であればあの年輪こそがシワなのです。そしてあのシワはいのちの徳性を伸ばした生き方や哲学によって深く思いやりを学んでいる証拠だと私には思えます。

家族を大切にしたり、他の生き物たちを大切にする、その思いやりの心がまるで太陽や月、地球のような偉大な慈愛慈悲を持てるようになってはじめて「万物の霊長」、つまりは「いのちの徳性」を伸ばしたものというのでしょう。

私たちが本来、磨かないといけないものは単なる能力ではないように思います。それはあくまで付属的要素であり本質ではありません。私たちがこれだけ自由に地球の中で生きることができることに感謝するなら私たちに与えられている大きな使命をも同時に感じなければなりません。

能力ばかりで他を裁き押さえつけ排除するのではなく、思いやりの心で他と共生し他を活かすことを本懐や使命にすることのように私は思います。

孔子の言う、「万物の霊長」として恥じないように他の偉大な生き物たちの思いやりを尊敬し自らの真心、「いのちの徳性」をかんながらの道の中で磨いていきたいと思います。

助け合い育ち合う~御縁~

先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。

御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。

純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。

変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。

その中でまた新たな気づきがあります。

経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。

どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。

真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。

お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。

この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。

育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。

まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。

御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。

日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。

育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。

豊かさのモノサシ(豊かさの観念)

時代の価値観もあり、豊かさにもいろいろな価値基準があります。

例えば、人は持っているかもっていないか、多いか少ないか、早いか遅いか、高いや安いか、ある基準をもとに損か得かというように何かと比較することで物事を評価します。自分がどのように評価されているか、誰かをどのように評価するかはその人の自覚している価値観によるものです。

間違った豊かさを一度持ってしまうと、いつまでも自分に自信を持つことができなくなります。逆に真の豊かさと持つ人は、常に謙虚で確固とした自信を持っています。

つまりは豊かさには豊かさの観念(モノサシ)があるのです。その本人が豊かさの観念がどうなっているかで実は貧しかどうかが決まるのです。たった一人の自分の人生ですから周りと比べる自分ではなく、誰しも真の自分を持つ必要があるのです。

例えば貧しさというのは、もしも物質的なものだけになればお金持ちよりもずっとお金持ちがいますし、自分よりも多くのものを持っている人はいっぱいいます。それにそういうものさしで持ってしまうと一度得たものを失うことの怖さを持たなければなりません。ないものねだりをしているとそこには常に貧しさがつきまといます。足るを知るではないですが十分いただいているという実感を持つには謙虚さが必要です。

またそれとは別のモノサシで真の豊かさがあります。それは精を出せることが有難いと実感していたり、誰かと一緒に働ける幸せを噛みしめたり、体験をさせていただけることの尊さに感謝していたりと、自分が豊かであることに気づいているのです。まるで道楽をしているかのように無尽蔵の豊かさを味わっているのです。

つまりここで言いたいのは、「自分が豊かであることに気づかない人、自分が豊かであることに気づいている人」、そこには真の豊かな生き方があるかどうかがあるのです。

真の豊かさとは単に物質的なものでは得られない歓びを持つ人、言い換えればみんなが幸せになることを祈りながら自分が活かされることに喜びを持つ人、「みんなと一緒に」生きることを愉しめる人が真に豊かな人ではないかと私は思います。

そのみんなをどれだけ”丸ごとのみんな”にするかが豊かさの観念(ものさし)だと思います。マザーテレサにしてもガンジーにしても、清貧のところばかりが評価されますが実際は清富であったとはあまり人に言われることはありません。かの二宮尊徳も同じく終生で集まった報徳金は藩の財政を大きく超えるほどのものだったといいます。しかし本人の生き方は大変豊かであったと思います。

そしてその二宮尊徳が遺した言葉に「心田を耕す」というものがあります。

心が豊かであれば、精を出せる幸せに生きれるならばその無尽蔵の心の田んぼから多くの実り(御法)が顕現してくるといいました。心の豊かな人とは、貧しさがないのです。

心を豊かにするには、徳を積んでいかなければなりません。それは全体のために丸ごと信じて自分を活かすような実践を積み重ねていくことのように思います。生き方がそのままの働き方と仕事になるような大転換が必要です。

本来、私たちがいただいている結びが真の豊酬ですから私たちの「結豊酬」とはそういう天からすべにいただいているものに感謝していますかという意味で実践をしているのです。感謝を忘れればそこにもう真の豊かさなど存在しません。常に謙虚に素直に道を歩んでいきたいと思います。

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。

かんながらの道~大和の心~

人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。

私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。

これを私は「大和」と呼びます。

私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。

人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。

その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。

人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。

この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。

安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。

「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)

自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。

そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。

自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。

最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。

「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」

人生には一つの不自然もなく自然である。

そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。

 

心徳の学~理想の政学道場~

吉田松陰をはじめ西郷隆盛などたくさんの人物が大きな影響を受けた人物に熊本の横井小楠(1809年9月22日~1869年2月15日)がある。

今の近代教育に警鐘を鳴らし、本来の学問とは「学政一致」だということを述べました。

もし政治と学問が分かれたならば学校が弊害になり、人格を形成するよりも御互いを中傷しあうようになり、才能が有る人間は自分のために政治を利用しようとする人物が育ってしまうと見抜きました。

学校と政治の一体とは何か、それは本来、己を修め人を修めることであり、君臣共にお互いを戒め合い切磋琢磨しながら民衆が健やかに暮らしていける世の中を創りあげていくことであると喝破しています。

それが学校が政治の道具としてだけ用いられるようになると利己的な人物が育ち自分さえよければいいという人物が増えることで必ず社會に害が出てくるであろうと推察しています。現に今の教育をみていたら、明治以降の政策が変わっておらず、富国強兵と殖産興業に役立つ人材育成、つまりは国家にとって有能である人物を教科するようなものが多いように思います。

特に横井小楠がもっとも危惧したことに戦争のことがあります。それを下記のように述べています。

「西洋の学は唯事業之上の学にて、心徳上の学に非ず、故に君子となく小人となく上下となく唯事業上の学なる故に事業は益々開けしなり。其心徳の学無き故に人情に亘る事を知らず、交易談判も事実約束を詰るまでにて、其詰ると処ついに戦争となる。戦争となりても事実を詰めて又償金和好となる。人情を知らば戦争も停む可き道あるべし。(中略)事実の学にて心徳の学なくしては西洋列国戦争の止む可き日なし。心徳の学ありて人情を知らば當世に到りては戦争は止む可なり。(「沼山閑話」)」

意訳ですが、(西洋の学問は事業利益を行うために実施される教育であって、徳を学ぶものではない、それゆえに聖人とか小物とか上下がどうかとなく事業のために行うのだから事業利益はますます発展していく。しかし徳を高める学問ではないがゆえに、人としてどうあるべきかがわからず商談も契約上は守っても、それが煮詰まるとすぐに戦争になる。戦争になっても事実をつめてお金を払えばそれで解決ということになる。もし人としてどうあるべきかを知れば戦争もしなくても済む道もあるのである。もしも事業の学問ではなく、心徳を高める学問をしなければ西洋列国が戦争を止める日がくることはないであろう。しかし心徳を高める学問を修め人としてどうあるべきかが社會に広がるならば自ずから国際間での戦争はなくなるのだ。)とあります。

これは学校というものがどのような目的で開設され運営されるべきかというものを説いています。政治と学問が分かれているという危険が今の世の中をみたら見事に反映されているのが分かります。本来、政治とは何か、それは民が幸せになることです。その国の人達が幸せに平和に暮らせるような社會を創りあげていくことです。

しかし実際は国益を優先し、経済活動のみを奨励し、富国ばかりに邁進すれば社會は利己的な人のみを育て、常に争いや嫉妬、競争や利権ばかりで遂には戦争を誘発してしまうのです。

そうではなく、政治とは本来、己を修めて人を修める道であるとし、学問はそれを実践する人物を徳育していくものであるとしているところに学校というものの本質があるように思うのです。学校に限らずあらゆる組織の場は何のためにあるということを忘れてはならないのです。

最後に横井小楠の求めた理想の社會像が「心徳の学」として述べられていますが、これは社會に関わる職業人たちが目指す理想の姿のことかもしれません。

「学問の味を覚え修行の心盛んなれば吾方より有徳の人と聞かば遠近親疎の差別なく親しみ近すぎて咄し合えば自然と彼方より打解けて親しむ。是感応の理なり。此朋の字は学者に限るべからず、誰にてもあれ其長を取て学ぶときは世人皆吾朋なり。(中略)此義を推せば日本に限らず世界中皆我朋友なり。(「講義及び語録」)」

意訳ですが、(御互いに学問の本来の味わい深きに気づき、心を育むならば徳が高いと聴けばどんな人であろうが差別もなく自ら親しむようになり、御互いに自然にどことなく打ち解けて仲よくなる。これは磁石が鉄を吸うかのように自然の理である。朋という字は別に学者だけの言葉ではありません。誰であっても、その道に長けている人に学び合う時はみんな学友、みんな朋であるのです。この筋道を正しく推していくならば日本に限らず世界中はみんな朋になるはずです。)

利己主義が蔓延して、道を共に歩む朋が少なくなってきているように思います。これも横井小楠の推察の如くの世の中になっているともいえます。しかしだからこそ、目指した国際平和の世の中を創造するために自らが心徳の学を修め、そして道を弘め、本来の生き方によって平和な社會を育てていかなければならないと自覚するのです。此処で書かれた言葉はまるで論語の「遠方より朋来る」の学の本質そのものです。

吉田松陰が目指した維新も、それはより善い政治を行い民が安定して平和で暮らし、朋と共に学問を発展させる世の中を目指したからです。今の時代に産まれたからには、今の時代を担う私たち大人がどのような社會をつくるのかを決めて実践していかなければなりません。

横井小楠は、学校に限らず「心徳の学」を実践すべしと言いますから、肝に命じて自らがその社會を実現していこうと思います。先祖たちの声に耳を澄ましながら、道を訪ねて求めるだけではなく実地実行、かたちにしていきたいと思います。

心掛けという実学~学びの実践~

人間に限らず、自然界にある全てのいのちは御互いから学び合って成長していく生き物です。

周りを見ては周りの生き方を見習い、周りのもので善いと思えるものを自分に取り入れて吸収していく力があるように思います。自然は素直ですから、御互いが自分の特性を伸ばし、その特性をより活かすことに憚ることがありません。

しかし人間は、自分が正しいという価値観を持つことで善いところを吸収する力が衰えてくるように思います。人のいうことを素直に聴けなくなるのも、自分が思い込んでしまっている正しいという狭い視野と価値観に囚われてしまっているからです。

「人皆我師」という格言があります。

これは全てが師、つまりは自分が他人の話を素直に聴けるかということですが、実際はほとんどが聴き洩らしているもので聴いているようで何も聞いていないということが多々あるのです。それは相手の心や思いやりを感じようとはせずに、自分を優先しようとする我が邪魔をするからです。

人の忠告や注意を聴かない心というのは、頭で分かっているからそれは知っているから言われたくないなどと思うのでしょう。しかしそれを言って下さる方が、どんな思いで伝えてくださっているか、どんなに真心で心配してくれているかを思わないのではあまりにも自分勝手で独りよがりになってしまうのです。

そんな態度では何も学べず、そして一度そうなってしまうと、学びというものは単に自分だけのちっぽけな世界で学んだ気になっているだけで本来の自分を変革するような学びに到達することはありません。学が実学にはならないという意味です。

基本の姿勢が相手の仰っていることを相手の真心で受け止めてそのまま味わう素直な心を持つ必要があるように思います。

相手の言って下さることを本当に聴いているかは、言われたことをただやればいい意味ではなく、言われたことを言って下さる人の心を遣ればいいということなのです。

頭でっかちになってしまい心を優先しないような生き方をしていたら道場に居ても道場に居ず、実践しているようで実践していないということになりかねないのです。

心を入れるというのは、全ての基本ですがそれは心がけを決めるということです。それは論語の「己に克ち礼に復る」ということに尽きるということかもしれません。

もう一つの格言、「人のふり見てわがふり直せ」があります。

常に自分自身の姿勢を省みて、教えてくださっている真理をひとつひとつ丹誠を籠めてものにしていくときに相手への感謝が示せると思います。感謝も頭ですることではありませんから、感謝するのなら変わってみせていくのが本質的に感謝ができたということなのでしょう。

心を鍛えていくというのは、心がけを優先するということでしょうから実践を丁寧に積み上げていくことしかありません。まだまだ自分も礼に欠けるところが多く、本当に反省することばかりです。

日々の心掛けを積み上げられられることに学びを実らせ歩んでいきたいと思います。

愉快痛快~学びの真価~

昨日は久しぶりに乗馬の稽古をしてきました。

日々に実践をしているのとは異なり、少し間隔があくだけで全身に筋肉痛が起こってきます。相手が機械や物ではなく、生きている動物ですから合わせるといっても全身全霊です。

思い通りにはいかず、これでいいのかという試行錯誤です。師匠はほとんどの指示はなく、じっと見守ってくださるのですが教えようがないことは教えない、何度も訓練して身体で覚えることだと仰います。

先日も教えるということで、気づいたことがあったのですが教えないというのは求める力に応じるということなのでしょうし教化するからこそ人は頭で考えてしまい身体や感覚を用いようとしなくなるのでしょう。

人馬一体というものも頭でできるものではなく、この全身筋肉痛と皮を擦り剥いたりする痛みを伴いながら次第に習得していくものです。

そもそも身体に沁み込ませるというものは、何度も何度も実践するということです。自然農もはや4年ですが、今では4年前と観えている世界が異なりますし身体が気候にあわえて今、何を行えばいいかを先に取り組むことができています。種にも播き時、そして実りも刈り時というものがありますから最初は何度も何度も失敗しましたが今では自然にその時に直感するようになりました。

また虫や草、その他の動物たちの一年の廻りや土の中の微生物の様子まで今では身近に感じて触ることや匂いを嗅ぎ時には舐めてみることで直感します。

乗馬についても、半年から1年をかけて何度も痛みを体験し、身体が覚えるまで全身全霊で取り組むことで次第に乗りこなせるようになるのでしょう。

習得というのは、場数が必要です。

そしてその場数とは自分が求めている質量に比例します。求めれば求めるほどに、その質も高まり、求めれば求めるほどにその量も増えていきます。実際に「心がけ」とはその人の生き方であり、それは単なる考え方ではありません。

その人が求道するその人の一個の人生に於いて、状況や他人のせいにはせずに自分が決心したことにどれだけ誠実であるか、どれだけ嘘をつかずに正直にいるか、それは全身全霊かどうかとうことが試され練磨されるのでしょう。

稽古とは、語源由来辞典には「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」と書かれています。先輩や先人に稽古をつけていただけるというのは、本当に有難いことであることがわかります。

そして練という字には、練られるという意味があり、練習、訓練、試練というように練そこには確かな練度があり、熟練した人ほど質量の高い現場の場数を経験しているから指導者になっているのです。

時々の初心を忘れるべからずというのは、どの稽古に於いても同じです。私は善い師、善い体験、善いご縁に恵まれ続けて場数の有難さや練習の楽しさを基礎に持っているのかもしれません。これは頭でっかちにやってこなかった心がけの証であり、いつまでも全身全霊の現場実践で面白い学びの日々を送っていられているからかもしれません。

これも今までの尊い出会いの御蔭様です。

自らを磨き修養していく愉しさを味わい尽くして、成長できる痛みの仕合せに愉快痛快に道を歩んでいきたいと思います。