漆喰磨き

浮羽の古民家甦生中の竈を漆喰磨きで仕上げています。この漆喰磨きとは、通常の漆喰をさらに丁寧に磨き上げて光沢がでる仕上げ方です。この仕上げ方によって、水分をはじき、耐久性もあがり、独特の質感で場の雰囲気を一変させます。

以前、川越の古民家を研究するときに黒壁の漆喰磨きを拝見する機会がありました。あの江戸黒のもつうっとりする壁は今でも心に焼き付いています。

この漆喰磨きの歴史は古く、日本では奈良時代から平安時代にかけて寺社仏閣の建築に用いられていたといいます。当初は貴族や武家の住居、寺社仏閣など、格式の高い建築物に限られていましたが江戸時代になると土蔵造りの普及とともに一般にも広まったといいます。

この漆喰磨きは、文字通り「磨き」の作業があります。何千回、何万回と時間をかけて薄い漆喰を壊れないように破れないように丁寧に鏝で磨いていきます。実際に、飯塚の聴福案の白漆喰磨きのときは最後は素手で磨き上げていたのが印象的でした。

それくらい薄い塗りを何層にもかけて磨いていきますから、手先を通した精神が研ぎ澄まされていく作業を行うものです。だからこその美しさで、左官職人さんたちのすべてが注ぎ込まれていきます。

漆喰は法螺貝の制作でもよく使いますが、身近な暮らしの大切な素材として何千年も前から人類は重宝してきました。

時代が変わっても、この漆喰が暮らしに使われることは素晴らしいことです。子どもたちにも漆喰の魅力や、その真価、そして今でも大切な場所で重要な役割を果たしていることを伝統的な家の暮らしを通して伝承していきたいと思います。

土地と一体

土地というものの歴史を省みると、その土地で何が行われてきたかを想像することができます。お山などは、時には山城になり、時には信仰の対象になり、現在では太陽光パネルが敷き詰められているものもあります。

時代の人間の価値観を色濃く受けて土地は変化していくものです。

土地と人は深く関係するものです。どんなに荒れ地で近寄りがたいほどの場所であってもそこに人が手入れをすれば、とても澄んだ豊かな場所にもなります。そこには人がどのような心で関わり醸成してきたかという歴史があります。

例えば、植物なども同様です。

土の上に種が落ち、その種が芽吹いて大きくなり実をつけます。そしてまた翌年の種になる。それを繰り返すことで、その場所はそのものとの関係において変化していきます。

他にはお水なども同じです。そこにせせらぎが流れ込み、次第に水路ができます。するとその周辺にはそのお水を求めて様々ないのちが集まります。数年から数十年でその場所は、変化していきます。

これは宇宙でいえば、火星や月なども同じでしょう。

変化というものは、土地に何か別の生命が関わることで変化します。私たちは土地を移動しながら土地を創るのです。

その人の生き方やあり方、組み合わせが土地の左右を決めていきます。どのような土地になるのか、どのような土地にするのか、それは出会いとご縁の一期一会です。

土地に触れることの豊かさを味わいながら、土地と一体になって場を醸成していきたいと思います。

清らかで澄んだ場をたくさん観たことがあります。日々に心を澄ませていると、そのような場にたくさん遭遇します。今朝も、凍てついた霜が降りるところに澄んだ光が水面に反射していました。空気も音も静かで、神々しくいのちの場を感じます。鶏や猫の動き、そして家がきしむ様子に暮らしの妙を感じます。

私は暮らしの中に澄み切った場をつくろうと日々に精進しています。

もしも仏教でいう浄土というものがあるのなら、私は場の中にこそ存在するものであると直観します。鶏が先か卵が先かのように、場が先か浄土が先かと論じるのです。

私はやはり場が先のタイプのようで、あまり理屈や言葉で何かを伝えるよりも場に先に顕現した方がいいと感じています。

人は環境によって大きな影響を与えられるものです。殺伐とした場や、欲望で濁った場、ゴミだらけの乱雑な場ではなかなか場は調わないものです。

その逆に、静かで穏やか、安心や居心地のよい清浄な場では誰もが調和の心地よさを感じるものです。

私たちの先祖は、生き方として戻ってくる場所があるように、初心が忘れられないようにと創意工夫して知恵を場で伝承してきました。

私が場道家を目指すのもまた、ご先祖様たちの叡智や智慧を子孫へと伝承していきたいと願うからです。

引き続き、場を調えて、場を残し、場を譲り場の一部になっていきたいと思います。

枇杷の徳

枇杷の木というものがあります。枇杷の実はよく食べますが、枇杷はその葉にも偉大な薬効があります。現在、足を骨折しているので枇杷の葉を試していますが不思議な効能やその歴史には驚くことばかりです。

そもそも琵琶と人類の関りは、随分むかしになります。インドの仏教経典のひとつ「大般涅槃経」には枇杷の木は「大薬王樹」と記されます。そしてびわの葉は「無憂扇」とも言われ大変優れた薬効があることが記されます。具体的には「大薬王樹、枝、葉、根、茎ともに大薬あり、病者は香をかぎ、手に触れ、舌で舐めて、ことごとく諸苦を治す」とあります。

日本に伝来したのは奈良時代、東大寺で有名な鑑真和尚が日本に伝えています。その当時の病院、施薬院では「びわの葉療法」が行われた記録があります。近代においても金地院という臨済宗の河野大圭禅師が祖先から伝承された方法を完成させて難病に苦しむ20万人以上の人々をこの枇杷を使って救ったといいます。

現代でも、枇杷の葉を使った治療は全国各地の医院や自然療法、民間療法として重宝されているといいます。

具体的な成分を調べると、アミグダリンというもの。これは枇杷の種子や葉に含まれる成分で、古くから鎮咳・去痰作用があります。また咳を鎮め、呼吸を楽にするともいわれます。次にトリテルペン類というもの。これは抗炎症作用や抗酸化作用があるといいます。よく皮膚トラブルや炎症性の症状に利用されています。最後にフラボノイド類です。これは抗酸化作用と体のバランスを整えるといいます。

むかしの知恵、先人が子孫のためにと続けてきたことは色々と試すとその効能に驚きます。ちょうど以前、甦生した古民家和楽には、銀杏の木や枇杷などがあります。他にも柚子やミカン、桃などもありました。

かつて「庭に枇杷(びわ)の木を植えると病人が絶えない」といういわれもあったといいます。これは縁起が悪いのではなく、病気の人たちをたくさん治癒してきたという証です。

寺院と医者が深く愛した枇杷の木は、時代が変わっても人類の偉大なパートナーとして存在してくれています。

引き続き、民間療法や自然療法、自然治癒や未病の知恵を深めて英彦山から発信していきたいと思います。

私たちは生き方が場に顕れてくるものです。どのような人がその場所でどう生きたかは、よくよく観察すると場に顕れます。そしてその場が残るのは、その場に生きた人たちが遺したものによっていつまでもいのちが継承されていくのです。

私は場道家として、場をつくることが本志です。

場をつくるには、場を調える必要があります。場を調えるにはまず場を澄ますことからはじまります。場を澄ますには、自分が場と同化して自己を澄ます実践が必要です。つまり、場と自己を磨き続けるという精進があってこそです。

では何を砥石にして場と自己を磨き続ければいいか。それは自我よりも偉大な存在に対して素直に従い、すべてを選ばずに承りながら道を歩む時に砥石は顕現します。この砥石は、かんながらの道でありあるがままの天命を生き切るときに自然発生してくるものです。

なので、正解もなく、固定もなく、思い込みもありません。ただあるがままの道を歩んでいるということです。

畢竟、人生というものは誰にでも誰にしかないものがありその使命を盡していのちを全うする存在そのものです。ただし、どれだけ透徹された透明さであるか、どこまで澄み切れたかというのはそれぞれに異なります。

自分の生れ落ちた場が選べなくても、自分の場を澄ませて透明にしていくことはできるということです。

いのちが透明であるというのは、いのちの正体を生きるということです。

場はそういう時にこそ、はじめて自他一体になり神人合一の境地に入るように私は思います。場と一体になるというのは、宇宙そのものであるともいえます。

引き続き、場を學び、場と歩んでいきたいと思います。

お水の徳

浮羽の古民家甦生の井戸水の検査が来て、そのお水の性質の素晴らしさに感動しました。1年半もかけて井戸を掘り、時間をかけて取り組んだことが報われた瞬間です。

思えば、今までずっとそうやって信じたことをやってきてのちに報われることの連続でした。心を砕き、心を燃やし、心を調えて只管に真摯に誠実に結果を気にせずに取り組みます。

その姿勢の連続の先に、不思議ですが幸運が巡ります。

この幸運というものは、見返りを求めず徳を積むことに似ています。畢竟、徳こそ幸運の源泉でもあり道の正体でもあろうと思います。

私は今年の一文字を「水」にしています。

今までの人生、ずっとお水に見守られお水に導かれて道を歩んできました。お水というものは、当たり前に身近にありすぎてまるで空気のようです。しかし、お水が変化しているものがいのちになり、そのいのちがまた新しく存在するときにまたお水と出会います。

私たちは自らお水との出会いを繰り返し、新しい水へと変化し続けています。

水に見守られているという感じは意識さえすればすぐに察知できます。すべてをお水が包んでいるという境地、まさにそこには慈愛があります。慈愛は、この包まれるという感覚によって顕現するものです。

お水が包んでいるということそのものが、幸運であるという事実。

謙虚にお水に感謝して、お水を大切に過ごしていきたいと思います。

変化を愛する

定期的に振り返りをしていると、時系列で物事を観ていく喜びを感じるものです。よく観ていないだけで物事はちゃんと育っていきます。小さな芽が、時間を経て育ち実をつけるようにすべての出来事は育つのです。

急に育ったように感じるのは、それを観ていなかっただけで観ればちゃんとどうなっていくのかを察知できます。ご縁を研ぎ澄まして生きている人は、どんな微細な変化も見逃すことはありません。

あの場所に置いていたものが、のちにこうなる。

そんな微細な変化一つに運命や未来は密接に関わっているともいえます。さらには、あの小さなミツバチの飛来がや、鳥の鳴き声が、あるいは風が吹いたからなどいくらでも変化は充ちていくのです。

小さな変化を知る人は、大きな変化も知ります。変化は突然にやってくるものではなく、ちゃんと時間をかけて丁寧に育っていくのです。

だからこそ、どの時間も一期一会に誠心誠意真心で丁寧に正対して実践していくことが大切になっていくように思います。

どのような日々を刻んでいくのは、その人の生き方が決めていきます。

此の世にゆるされて存在している自分だからこそ、偉大な循環の旅を共に生きいています。いつまでも変化を愛し、変化のままに歩んでいきたいと思います。

 

ブレーキを學ぶ

ブレーキというものが不思議なものです。使い方次第でいくらでも方法があります。例えば、心のブレーキなら外せともいいます。しかしスピードを出しすぎていたらブレーキを踏めともいいます。このブレーキもハンドルと同じように、調整や調和の大切な装置です。

例えば、ハンドルには遊びというものがあります。このハンドルの遊びは、車の安定性を確保し、スムーズな走行を実現するために非常に重要な役割を果たしています。この適切な遊びがあることで運転が快適になり反応が過敏すぎることなく安心して車の直進安定性が保たれるといいます。

もしも遊びが適切な範囲でない場合どうなるのかというと車の反応が鈍くな特に急な方向転換が求められるシーンで遅れてしまったり、逆に遊びが少なすぎると非常に過敏に反応して向きが急激に変わってしまいます。

極端に遊びがあったりなかったりすると、危険な事故につながるのです。つまり適度な遊びというものが、このハンドル操作をするときの最適な状態ともいえます。そしてブレーキにもまた同様の遊びがあります。急にかかると滑ってしまい、緩やかすぎると止まれなかったりします。適度なブレーキがあるから、走行が安心して行われます。

つまり、ブレーキというものには常にバランスや余白や余裕といった調整というものが働くのです。ブレーキを學ぶというのは、この調整を學ぶということに似ています。

力の加減をはじめ、タイミング、回数など適切に対応できるようになること。

登坂もあれば、下り坂もあり、あるいは急カーブもあれば高速道路などもある。その時々のブレーキの踏み方をしっていれば、安全に長く安心して運転が行えるようになります。

忙しい現代、スピードを上げることばかりにみんなが躍起になっています。しかし、そういう時こそ、ブレーキを学び直し、ブレーキのかけ方を丁寧にすることが大切ではないかと思います。

ブレーキがあることに感謝して、人生も現実も両輪に安全運転を心がけていきたいと思います。

情報共有の本質

情報共有というのは、信頼を高めていくものです。自分の心を開き、心で語り合う場は風通しも善く爽やかです。その逆に、疑心暗鬼に心を閉ざし、寡黙で誰も語らない場はどんよりして濁ります。

つまり私たちが日ごろに行う情報共有とは、心の通じ合いの話です。

例えば、現在世界情勢をみていると一方的に情報を押し付けたり、あるいはマスコミなどでも不安を煽るような情報、あるいは敵視したり嫌悪感情が増えるような情報を発信しています。

すると世界はどうなっていくか、その情報によって心が変わっていくものです。私たちは日々の情報共有の状態がどうなっているのかで、常に心を変化させている生き物です。

苦しい時、つらい時に、一人で抱え込まないように仲間がいて語り合うことや、不安や恐怖があっても助け合うための場があることは情報共有によって絆を強くするものです。

今は、情報化社会でありとあらゆる情報が洪水や津波のように押し寄せてきます。心がそのたびに揺さぶられ、意識の変容も起きやすくなっています。

同じ意識でも、静かで立ち止まり、穏やかで和やかでいる意識と、常に不安や恐怖や利権で追い詰められているような意識では、状態は変わってしまうものです。

大切なのは、どのような情報共有を日々に心がけているのか。もっと平たくいえば、どのような言葉がけや声掛けをしているかの方が重要なのでしょう。

笑顔でいることや自分の機嫌をとること、よい言葉をかけることはそれだけで意識を癒し、世界を変えていきます。

このような時代だからこそ、丁寧に日々の言動をよく省みて慎み深く歩んでいきたいと思います。

初心を守る

「守る」という言葉には色々な意味があります。例えば、大切にすことや、目を離さないこと、あるいは決めたことに従うや防御することなどもいいます。

私たちは「守る」という言葉を用いる時、そこには確かな無二の存在があることを感じます。それははじまりの心、初心のことです。

この初心という言葉を守ると結べば、初心を大切にする、初心から目を離さない、初心に従う、初心を防御するとなどとも言い換えられます。この初心とは、はじまりにどのような心が動いてどうなったのかという、なぜや何のためにという思いと結ばれます。

人は忙しくなってきたり、色々な知識や経験が増えていくと当初の目的や最初の心を忘れてしまうものです。心は純粋で純心だからこそ最初に思ったことがいつまでも心あるがままの姿でいるものです。

自分の最初の心を守ることが何よりも守るの本質に近いように私は思います。

中村天風さんの言葉に「持たなくてもいい重い荷物を、誰に頼まれもしないのに一生懸命ぶらさげていないか」というものがあります。

心を守ることの一つは、余計な荷物を一旦横に置いてみる工夫かもしれません。守ることは、休むことや止まること、静かであることもまた守ることです。

心の弱さや強さを味わいながら、初心を生きていきたいと思います。