ヨガの妙味

昨日、ご縁あってBAでヨガに参加する機会がありました。瞑想の中でなんどかヨガのような体験をしたことがありましたが現代、流行しているヨガには参加したことがなかったこともありとても豊かな時間を過ごすことができました。少しヨガのことを深めてみようと思います。

そもそもヨガのはじまりを調べると、紀元前2500年頃のインダス文明の頃にはヨガの起源があるといわれます。世界遺産のモヘンジョ・ダロには陶器でできたあらゆるポーズを取る像があり、坐禅を組み瞑想する神像なども見つかったことからそういわれます。

その後は、紀元前1000年頃にウパニシャッド聖典に「ヨーガ」という言葉が出てきて400年頃にはヨガの教典である「ヨーガ・スートラ」が現れます。ここでヨガの定義を「ヨーガとは心の作用を止滅すること」とされます。それを実践するために八支則というものを定めます。そして1300年頃になると「ハタ・ヨーガ」が大成され、この頃から現在のヨガのポーズなどを中心に展開されます。これが現代のヨガ教室などの原型になっているそうです。そして1600年頃までにはそれが体系化し世界へヨガが広がったといいます。

日本には806年に空海が唐より帰国した頃の「瑜伽」が最初に入ってきたものといいます。現代のヨガが日本に広がったのは1919年中村天風によるものだったといいます。そして沖正弘氏がヨガ協会などを設立して広め、日本でのヨガブームをつくりだしたそうです。現代の日本では、ホットヨガというものがブームになっています。これは体の柔軟性が高まる温度、湿度のなかで気持ちよく行うことができるヨガのこといい女性に特に人気があるそうです。ダイエットやデトックスが中心でこれはもともとはインド人のビクラム・チョードリー氏が約40年前に始めたものだといいます。一般的な日常生活ではあまり体験できないくらいの汗をかいて老廃物の排出を促進させるのが特徴だといわれます。

ヨガはこの100年くらいでインドの修行僧の一部の瞑想方法から世界中でマインドフルネスやウェルビーイング、あるいはトレーニングなどに取り入れられ新しいものになっていきました。

しかし本来の原点は、瞑想によって心を調え、身体を調えることから心身を穏やかにするための知恵であることがわかります。今の時代は、特に自然から離れ時間を忙しくすることで心を止揚し続けていることが難しくなっています。

あらゆる方法でもその道に入り、取り組む機会が増えていくのは素晴らしいことと思います。商用のヨガではなく、本来のヨガの原型の初心を忘れないようにしながら取り組んでいきたいと思います。

 

知恵の甦生

歴史というものを語る時、そこには知識と知恵があることが分かります。例えば、何かの事実を突き止めて歴史の事実を科学的に調査し証明するとします。そうすることで知識は増えて整理され、歴史を学ぶということの知識の豊かさがあります。もう一つは、歴史の中で伝承されている生きた人たちの間で用いられている知恵というものです。古代から今までその知恵を伝承することで人々は仕合せを得ることができました。今の私たちに繋がっているものは知識の歴史ではなく、知恵の歴史であることは間違いないことです。

現代は、歴史は知識としての認識がほとんどで知恵とはなっていません。なぜなら教科書で教える歴史の中では伝承されにくいからです。ほとんどの人が、頭で分かるものだと認識して実際に自分で伝承していこうとはしないからです。本来の歴史を学ぶというのは、自分で伝承してみてはじめてその価値を感じるものです。その結果として、どうやって人類は今までその仕合せを文化にまで昇華させてきたのかがわかります。

世界には様々な文化があります。その文化は歴史が築いてきたものです。この文化を机上で学べば年号や地理、出来事などは暗記できますが文化を習得したわけではありません。実際の文化の習得は、知恵の伝承ですから真摯に歴史を実践していく必要があります。

歴史の実践というものは、知恵を学び先人と同じように知恵を用い幸福になることです。つまり私たちの先祖たちはどのように幸福な暮らしを実現してきたか。それを学ぶのが歴史の実践です。

例えば、伝統的な暮らしの中には知恵が溢れています。私は室礼や年中行事を実践していますが、ここにはまさに知恵の宝庫です。どのように日本人が代々、家庭教育をしてきたか。また連綿と続くいのちのバトンをつないできたか。あるいは、その土地を豊かにして永続できる環境や場をととのえてきたか。それが日々の暮らしの実践の中に溢れています。

特に私は炭を使いますが、この炭の暮らしを実践するだけでもあらゆる知恵が入ってきます。こうやって知恵を生活の中で活かしている人は、仕合せであり真の豊かさを知ります。つまり徳を積むのです。

徳を積むというのは、人類が幸福になる唯一の道です。

だからこそ、本来の歴史を学び直す必要を私は感じています。世の中が終末期、人類は過酷な時代に入っていけばいくほどに歴史の必要性を感じます。全人類が平和でなければ、平和はない。身の回りの小さな知恵の実践でみんなで力を合わせなければ、不幸や不満は増大する一方だからです。

子どもたちのためにも、知恵を甦生し未来へバトンをつないでいきたいと思います。

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

野生の感覚~いのちの間~

私たちは本来、古代から野生というものを持って誕生してきました。地球と共生する地球の一部としての本能というか、いのちが繋がっている存在でもあります。その野生は、大人になっていくにつれ減退し人工的なものになって都会化していきます。

そのうちにもともと使っていた能力や機能にも蓋をして野生であったことを忘れていきました。そうすると、本来のいのちの感覚や、身体の感覚、精神の状態なども含め、何が本当のニュートラルであるのかも忘れてしまいます。

目で見て知識が増えて、限りなく増幅させていくような幸福に魅せられては足し算や掛け算ばかりでモノを増やして消費してきます。しかし実際には、真の豊かさはその逆で足るを知り、削り取っていく余計なものを減らしていくような引き算のなかにあったりするものです。

野生に戻るには、足し算ではなく引き算のように自分がもっているものを減らしていく必要も感じます。

食べることであれば、たくさんを贅沢に食べるのではなく一つのものを丁寧に味わい、時間をかけてじっくりをいのちをいただく。品数も量も少なくても、その一つから生まれる有難さや喜び、味わいを感じ尽くすことで全身心が野生の感覚になり仕合せになります。まさに足るを知り喜びが満ちるのです。

私も暮らしフルネスのなかで、大切なご縁のものをいつまでもお手入れして味わったり、炭のぬくもりを最後まで味わったり、お水のもつ有難さを感じきったりして喜びが満ちることが何度もあります。

人工的に信じ込んだ増やす事ばかり、やることばかり、スケジュールに追われてお金儲けばかりしている知性のコントロールをしていかないと真に豊かさを感じることもできなくなっていくように私は思います。

必要な分だけということに人類が目覚めれば、人類は永続することができます。地球はその必要な分は用意しているから今までも暮らしてこれたのです。しかし必要以上に、誰かが集めようとしたり、必要ではないものまで獲ろうとすればそのツケは因果応報に自分に返ってきてしまいます。

一人一人がどのように目覚めていくのか、それが試される時代です。

子どもたちのためにも、先人の知恵を頼りながら新たな道を拓いていきたいと思います。

いのちの充実

食べ物には「いのち」というものがあります。いのちは充実することで溌溂とするものです。いのちが元氣な人は、いつもこのいのちが充実するような暮らしを行っています。いのちは、あらゆるものを体験し、さらに輝きを増していきます。そのためには、そのいのちの元氣を支えるための食は必要です。

例えば、いのちが元氣なものというのは自然に育成されたものです。その生のすべてを全うして存在しているものです。生を全うしたいのちであれば、そのいのちは充実し溌溂としますから元氣です。

この元氣溌溂としたものをいただくことで自分自身も元氣が甦生していきます。

今はこのいのちが充実する時間を食べ物に与えません。早く、効率よく、さらには便利に表面上の味わいだけを味付けしたものを食べさせています。元氣のないものを食べるから、さらに元氣はなくなっていきます。

植物でいえば、土が元氣なものはいのちが充実します。植物は土が化けたものであり、私たちは土を食べて元氣をいただているともいえます。海であれば、海が元氣なもの、山であれば山が元氣なものがいのちが充実するのです。

いのちの充実というものは、人間であれば何か。

人間であれば、自分の初心や目的に真摯にいのちを輝かせて生き切っている人たちが充実して元氣溌溂としています。その逆に、日々に流され初心や目的を見失ってしまうといのちは輝きません。人間は主人公として、独立自尊し自立するときに元氣が甦生します。

子どもも同様に、発達を見守りその自由に生きる喜びに生きるときにいのちは充実します。

生き方というのは、その人のあらゆるものに出てきます。どのような生き方を志すかはその人人の自由ですが、その生き方を通していのちを分け合い、尊重し合い、いのちを繋いでいくのです。

子どもたちのためにもいのちの充実する暮らしを紡いでいきたいと思います。

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

時代を歩む

人はみんなそれぞれに道を求めて旅をします。旅のなかで自分の出会いたいもの、自分と同じように実践する人を求めては訪ねていきます。それが短い間でも長い間でも、求めているものを探してはご縁を辿ります。

そうやって心を交わし、魂を混ぜ、共鳴して自分自身の人生の道の一つに組み込んでいくものです。出会いによって人生は変わり、道を歩き旅をすることによってその味わいは深まっていきます。

よく考えてみると、仲間というものや同志というものは同じ道を求めているから旅を伴にします。旅をしながら道を辿り、その時々の出会いや発見によって自分の道を深めていきます。時に助け合い、或いは時には支え合い、切磋琢磨、激励し合いながら目指している目的地に向かってそれぞれの場所で挑戦していきます。

気が付けば、旅のあちこちに仲間がいることに気づいて感動もし元氣も養えます。

むかしから同じように旅をしてきた人たちによって今の私たちの時代があります。いつまでも今も人は旅をしながら道を歩み、みんなで一緒に時代を歩んでいるのです。

大きな意味で、人間は意識の旅をしています。

その意識の旅は、時代の旅です。

この時代に生まれてきたこと、出会ったことに深く感謝して私も旅をより美しく味わい深く歩いていきたいと思います。

 

変化の本質

時代の変化というのは人々の意識の変化ともいえます。意識が変わっていくことで価値観も変化し、それまでの常識というものが変わります。同じような日々を歩んでいるようでも、新しい出来事が発生しその中で新たな意識が誕生します。意識というものは目には見えませんが、人々の間でいつも往来していて育っているものです。

10年前に通用したことが、今では全く通じなくなる。自分の強みがかえって負けになっていくということは歴史を見ても往々にしてあることです。それだけ変化というものにどれだけ自分の意識が磨かれているかは重要になります。

本来、普遍的なものや根源的なものは変わることはありません。本質はいつまでも変化はしません。しかしその本質に対しての理解の仕方、やり方などは意識の変化に応じて変え続ける必要があります。その理由は、普遍的なものが次第にくすんでいくからです。まるで塵が積もっていくように、あるいは手入れを怠ることで色あせていくように隠れていくのです。

その隠れているものをどのように磨き直すか。それが掃除であり、お手入れであることは間違いありません。意識というものが増えていくことは、普遍的なものを覆い隠していくのと似ているのです。

そういうものを常に取り払うためには、普遍的な砥石によって磨いて研ぎ澄ませ続ける実践が必要になるのです。私が甦生をするなかで特に大切にしているのはその部分であり、今でも普遍的なものや本質からブレずに丁寧にお手入れを続けているから意識の変化に応じて今を調和していくことを精進しています。

最も危険なことは意識の変化に気づかなくなることです。正解を求めてはあの手この手でやり方ばかりを変えていくことを変化だと勘違いすることです。そうではなく、その時々の味わい方や感じ方、そして正解ではなくすべてのことに一理あるとし一円観で丸ごと受け止めていくことから内省し謙虚で素直であり続けることです。

それはいつも理念や初心に立ち返ること、目的を忘れないで自らと今をさらに善いものにしていこうと努力を怠らず変え続けること。これは中国の古典、殷の湯王の自戒、「苟日新、日日新、又日新」の境地で実践することであろうと思います。

本来、何をやるべきかを他人に委ねてはならないように思います。自らの主人、自らの心に問いかけ、私も日々に新たに聴福人の生き方をする聴福人であることを忘れないでいたいと思います。

芸の道

昨日から神奈川県相模原にある水眠亭に来ています。英彦山の守静坊でお茶を立てていただきその生き方に感銘を受けて生き様を拝見したいと思いようやく念願叶って訪ねることができました。

この水眠亭は、川のほとりに眠っているように見えた江戸時代の古民家をみて名付けられたそうです。ご主人の山崎史朗さんが彫金・工芸・デザイン・音楽・俳句・食文化、茶室を含め一期一会に直観とご縁があったものをご自分で手掛けられている唯一無二の完全にオリジナルの空間と場が存在しています。

自分の目と手で確信したご自分の美意識によって本物をつくるため、すべての制作の工程を他人に委ねずに自らで手掛けられます。この場にあるすべての道具や家、庭園にいたるまでほぼすべてご自身で見立て納得いくまで手掛け磨き上げられたものです。

どのものを拝見しても自分の信じた美意識を徹底的に追求し磨き上げていく姿に、その覚悟を感じます。まさによく言葉に出てくる「一線を超えよ」ということの意味を実感することができました。

もっとも感動したものの一つである手作りの茶室はまさに総合芸術の粋を極めておられ、そこで立てられるお茶はまるで千利休が今の時代に甦ったのではないかと思えるほどの佇まいと気配です。ご自身でゼロから茶室をつくることを通して、なぜそうなったのかを自分なりに突き止めておられます。つまり利休の心を建物から学び取られています。そして利休が目指した心、また日本人の心とはどういうものだったのか、利休が追及したものと同じように自分なりに辿り着かれておられます。

本来、誰かの真似をしたり先人のやってきたことをそのまま学ぶのではその人の求めたものとは別のものになってきます。釈迦も利休も自分が亡くなったあとは必ず廃れるという言葉を遺しています。「古人の跡を求めず 古人の求めしところを求めよ」という言葉に出会ったことを改めてここで思い出しました。これは先達や師の真似や後ばかりを追いかけるのではなく先達や師が何を求めたのかを自分も同じように求めてこそそのものと同じになるといったのでしょう。先日お伺いした三大薄皮饅頭の柏屋さんでもその家訓に「代々初代」というものがあることを教わりました。「代を継いでいるのではなく常に自分が初代になることだ」ということでしたがこれも同じ意味でしょう。

歴史を鑑みると、中興の祖という存在が顕現して道がまた甦生していくことの繰り返しです。

現代は、マニュアルや作法のことをまるで道そのものかのように呼び、本来の本物の道は単なるテクニックや事例のように扱われます。大衆に蔓延る権威や権力、権利が真の道を覆い隠します。まるでこの世は道の終焉の様相です。しかし真の道というものは、誰かに教わり真似をするのではなくまさに自らの覚悟で一人、自学自悟していくものです。

「時代の川の流れを眺めながら一人、静かに道を極める。」

まさに水眠亭の徳を感じる一期一会のご縁になりました。それに茶室、「海庵」のすごさ。この川の阿はいつか海になり空となる。日本人の忘れてはならない深い魂に共感することができました。

人の生き方というものはやはり覚悟が決めるものです。

覚悟のある生き方は真に豊かであり仕合せを醸成していくものです。自分が好きになったのを極めるのではなく、好きを極めるから好きになる。本当に好きならすべてを丸ごと好きになるということ。この人生を丸ごと深く味わい好きになることこそ、真の芸道ではないかと直観しました。

私が取り組むことと同質のことに先に挑まれている先人にご縁をいただいたことで、私も生き方の勇気と自信になりました。まだ道ははじまったばかり、子どもたちの喜びや仕合せを未来へ結び続けられるようにこれからも切磋琢磨していきたいと思います。

出会いに心から感謝しています、ありがとうございました。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。