会社にとってもっとも大切なこと

本日からカグヤでは同じ初心や志を持つ会社に訪問する理念研修を行います。私たちの会社は元々、目的重視で働いていますから理念研修というのはよく行われています。現在では、ほぼ毎日がある意味で初心の振り返りと改善ばかりで生き方を見つめ、働き方を磨いている日々です。

一般的に会社は、目標ばかりが求められますが私たちは何のためにを大事にしています。「子ども第一義」という言葉をスローガンにしていますが、これは目的を見失わないためにみんなで確認し合っているものです。この第一義というのは、何よりも大切な中心としているものという意味です。この子どもというのは、子ども主体の子どもであり、童心の子どもでもあり、子どもが人類の最も尊い存在であるという意味です。

私たちは大人か子どもかで子どもを語ります。子どものためにといいながら実際には、大人の社会の都合がよい方へばかりの議論をします。本当に子どもが望んでいることは何か、それは一人一人の一家一家の暮らしの環境にこそ存在します。自分たちも本来は、子どもが大きくなっただけで子どもが何よりも尊重される世の中にしていけば自然界と同じく調和して仕合せを味わえる世の中にできるはずです。

当たり前のことに気づけなくなっている現代において、純粋にニュートラルに子どもの憧れる未来のために生き方と働き方を変えていこうと挑戦しているのがカグヤの本志、本業ということになります。

生き方というのは、どのような理念を抱いて取り組んでいるかということです。その生き方を確かめて、今日はどうであったかと振り返る。仕事や内容はその手段ですから、その手段のプロセスに目的を忘れずに誠実に実践してきたかというものが働き方になります。その働き方をみんなで分かち合い確かめる中に、みんなの生き様が出てきます。その生き様の集合体こそが、会社であり理念の体現した姿です。

社会というのは、自立し合うことで真に豊かになります。この自立とは、奴隷からの解放でもなく、お金や地位、名誉、成功者となることとは違います。本来の自立は、みんなが目的意識を持ち、協力し合い助け合い、お互いを尊重しながら生き方を磨いていくなかで醸成されていくものです。

自分らしく生きていくというのは、思いやりをもてる社会にしていくこととイコールです。自分も人も活かすというのは、お互いを違いや個性を喜びあい感謝していくということです。

子どもたちは、学校の勉強とは別に家庭や家族、身近な大人の生き方や生き様を模範にして学んでいきます。これは単なる教科ではなく、まさに生きていく力を養っていくのです。

だからこそお手本が必要ですし、場や環境があることが重要になります。育つ環境がなければ、いくら教えても真の意味で学ぶことができないからです。これは文化の伝承なども同様で、連綿と繋がっていく中で託していくものですから先人たちが先にお手本になりそれを子孫へと結ばれていくものです。

私たちの会社は決してユニコーン企業や大企業、テレビなどで有名なベンチャー企業などではありません。しかし、こういう私たちのような生き方や働き方を大切にする会社も社会には必要だと感じています。誰もいかない道だからこそ、私たちがその道を往く。子どもの1000年後のために必要なことだからこそ、誰もしないのなら我々がそれを遣るという覚悟をもって会社を運営しています。

そして同じようにそれぞれの道で自分らしく歩んでおられる方の生き方や働き方は私たちにとっても勇気や励みになり、また知恵を分かち合える同志にもなります。たとえ手段は異なっても、目指している夢や未来は似ているということに深い安心感を覚えます。

一期一会の日々に、どれだけ真心を籠めて生きていくか。

会社としてもっとも大切なことを忘れない日々を過ごしていきたいと思います。

 

今の心をととのえる

万葉集を詠んでいると、むかしの情景が思い出されます。現代は、情報化社会でありとあらゆる他人の人生や価値観が無尽蔵に流入してきますがむかしは人の心の奥ゆかしさのようなものを交わしあっていた時代であったように思います。

情報は、二つの側面を持っています。

一つは、流行や時代の変化など生き残っていくために必要といわれるような情報。現在の情報革命はこの情報をインターネットを用いて誰もが持てるようになってきたことです。一部の人しか持つことができなかったものも、ITの媒体を用いて全体が平等に持つことができるようになってきました。

もう一つは、心の情景や情緒、共感や共鳴といった思いを通じ合わせて仕合せになっていくために必要な情報です。これは万葉集の時代も、今の時代も、お互いの心配りや心遣いを通じ合わせていくものです。

人は何のために生きるのか。

1500年も2000年も前から、ある意味今と似たような日常を過ごしていました。ただ今よりもむかしの方がゆっくりと過ごし今に集中できていたように感じます。それだけ時間というものや社会も複雑ではなかったし、自然との共生や文化が醸成されシンプルだったからです。現代はスピード社会で、振り返る暇がないほどに毎日情報が入ってきてはスケジュールに追われるように生きていて社会全体が忙しくなっています。

旅をするときに、何が旅の醍醐味だろうかと思います。多くの観光地を矢継ぎ早にたくさんまわって次々と見て回るというものもあります。同時に、ゆったりと人の息遣いや文化を感じて心を通じ合わせて語り合い深く共感し人生を豊かにしていくようなこともあります。

どちらがいいとか悪いとかではなく、大事なのは今をどう大切にしているか。今はどうなっているのか、今の心をととのえていくことだと私は思います。

今の心をととのえていくと、自分の一期一会の人生の妙味を感じます。

人は誰にしろ、喜び、悲しみをはじめ侘び寂びなどの感情があります。同じ人間として、分かち合う、分かり合えることは人がこの世に生まれてきた仕合せの境地です。

子どもたちにも、今というものをどうととのえていくことが仕合せに近づけるのかを身近な実践から伝承していきたいと思います。

日本という存在

日本という存在の面影というものを色々なところで見つけることができます。まだ有難いことに私たちの世代は西洋化の影響を受けてきた変遷、またそれでも遺っているあらゆる文化や伝統の両方を味わうことができています。

変化を見つめて味わうなかで、原点をよく見つめて五感を研ぎ澄ませていると日本人とは何か、日本という存在は何かということを直観することもあります。釈迦が因果律を語るように、本来、はじめに種がありそこから繰り返し変化を続けて生き続けています。

土というものに触れ、水と太陽、つまり自然というものと共生をしてきた歴史、そして何をもっとも大切にしてきたかという歴史、これが民族を形成していることは間違いない事実です。

神話から今に至るまで、それを何度も繰り返し辿りながら似たようなことをやり続けます。これが託された人生でもあり、天命という仕合せと結ばれている生き方でもあります。

小泉八雲という人物がいます。ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者で1904年に亡くなられました。純粋でニュートラルな目で、ありのままのこの日本や日本人を捉えられた方です。

忘れてしまっているものを思い出させてもらうことは有難いことです。これは空気の存在、いのちの存在なども同様に当たり前で絶対的だからこそ意識しなくなるものです。

しかしこれがなければ生きていけず、気づかなければ幸福にならないものです。

小泉八雲はこういいます。

「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」

「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」

まさに、日本と日本人とは何かということをはっきりと観えておられます。私の暮らしフルネスのまた、同じような感覚で取り組まれているものです。

そしてこうも言います。

「日本人ほど、お互い楽しく生きていく秘訣を心得ている国民は、ほかにちょっと見当たらない」と。

お互いに楽しく生きていく秘訣を心得ている。そうあるとき、私たちは日本人なんでしょう。日本人よりも深く日本を愛したといわれる人が、そう思う境地を私も味わってみたいものです。

誰かに教え込まれた日本人ではなく、もっと緩んで開放し、自由にすべての束縛を手放し、まっさらの無垢な心で子どもたちには生きてほしいと思います。

波動の徳

私たちは音というものを感じます。その音は、あらゆるところに無限に満ちています。音はそのまま正直であり真実です。音を聴けば、その物の本体や本性もわかります。音は波動です。

この波動というのは、一部では目に見えないから怪しいとか胡散臭いとか言われますが現在は量子力学が波動を解明していることもありその存在を明らかにしはじめています。しかし実際には、科学で証明できないものも全部含め波動と呼んでいますから解明されたとしてもあくまで一端が見えるだけです。

眼に見えないものの方がこの世には多くあります。これは脳の構造も同じく、人類がいくら科学を進歩させてもほんの数パーセントもわかればいいほうです。宇宙のこと、いのちのこと、一端を知識で得てもそれを感得し気づくためには今のアプローチだけでは限界です。

その歪さからか、世の中や社会情勢も歪になっていきます。本来の原初、原始には何があったか。そういうものは哲学のように語られますが、本来これは当たり前のことではじまりを知ることで人は今につながります。

眼に見ないものの中にこそ、そのはじまりの答えがあります。答えを生きるためにも、私たちはもっとその自然的なもの宇宙的なものも否定せずに全身全霊で味わい語り合っていくことが必要だと感じます。

波動といえば、音の波動の話を先ほど書きました。そもそも音はとても不思議です。耳に聞こえるものだけではなく、全身全霊で感じる音もあります。その音は、イヤホンで聞こえる音ではなくまさに波動を感じる音です。

そもそも波動とは何か、辞書をひけば 「1 波のうねるような動き。 2 空間の一部に生じた状態の変化が、次々に周囲に伝わっていく現象。 水の波・音波などの弾性波や、光・X線などの電磁波などにみられる。」とあります。よくエネルギーなどもいわれます。

私たちの意識も、心臓などの肉体もすべては海の波のように呼吸をしています。自然界の天候や気候、宇宙の星々にいたるまでその波が重なり合ってお互いに影響を与えているということです。

どのような調和をするのかで波動も変わります。例えば、人間にも波動の善い人という人物がいます。周囲がその人といると和み、居心地が善く仕合せになるのです。その人が日ごろ発している波動は生き方です。生き方を磨き徳を高めている人の周囲は落ち着くものです。

波動をどのようにととのえているのかは、物質だけではなく人の周囲にも顕現していきます。音は、それを響かせたり増幅させたり感受させたりする触媒の一つでもあります。

一つの人生のなかで私たちは様々な音や波動に触れて変化していきます。変化を味わうのは音を味わいことであり波動を味わうことです。

様々な体験によって人間が気づき変わっていくのも波動の本質かもしれません。人の出会い、ご縁を楽しんでいきたいと思います。

古代の知恵

最近、古代のことに触れるたびに様々なつながりが増えてきています。世界には似たような神話や歴史があります。不思議なことですが、そのどれもが類似性がありその知恵も同じです。

もちろん風土や環境によって少し変わっているところもありますが、どれも似ています。これは何が考えられるのかと少し掘り下げてみるとはじまりは一つであったということの証であろうと思うのです。

そもそも始まりがあるから今があります。今は始まりの連続の中にあり、この今に思いを馳せれば太古の時代から連綿と生き続けてきた歴史があります。この歴史は、目に見えるものと見えないものがあります。最近はDNAを調べられるようになり、起源がどうだったかが辿れるようになってきましたが遡れば同じ遺伝子を持つことがわかります。

いのちが多様化していくのは、その風土と一体になっていくからです。私たちの意識も体もあらゆるものは、形を変え続けて何度も甦っていきます。同じようにみえて少しだけ変化していく。それは意識が交わり、遺伝子も、生命もすべては渾然一体に重なっていくからです。

まるで網で編まれたような羅網の世界です。

そこは誰が統治するのではなく、統合させようとしなくても自然に渾然一体に調和していきます。この調和というものこそ、知恵の結晶です。

今に生き切るという言葉があります。

この今というものの今は、一体なんのことをいうのか。今とは、縦軸と横軸、すべてがととのっている状態のことをいうように思います。それはすべてに主体性が発揮され、自立していて協力し合っているいのちのハタラキの姿です。

古代というものは、そのいのちのハタラキを存分に発揮していたことは直観的に感じ取れます。多様化してきて、原点が観えなくなってきたからこそ今こそルーツを辿る必要があります。

明日は英彦山で仙人苦楽部がありますが、これは子どもたちのために知恵を遺し、共に学び気づき合い、それを暮らしのなかで活かしていこうとする取り組みの一つです。

今回は音を使った波動の体験になりますが、かつての古代の人々が音をどのように感じ取っていたのか、実体験を通して今につながる知恵を甦生させていきたいと思います。

試練と錬磨

ありのままの自分というもの、今、学んでいるものをそのままにさらけ出していくのは自分の心のままに素直であることの証でもあります。それを誰かに見せなくても自分自身のことは自分自身が分かっているからこそ向き合う中で対話を続けます。

比較というものがある御蔭で自分というもののこともわかります。しかし比較しないところで自分の素直な心を知ることは、自分を掘り下げていくことができます。人は教師と反面教師、そして自分自身という教師がいます。あらゆる教師の言葉や行動、態度を見せてもらえるのは有難いことで自分がその中から与えてくださったことを吟味して学び直していきます。

どんなことも学びの糧にしていくというのは、生きる姿勢でもあり知行合一に歩んでいこうと決めたなら根気強く体験から気づいたことを一つ一つ学んでいくことです。

自分が本心からこうしたい、こうありたいという志があります。

その志を保つのは至難のことであらゆる影響を受けては、その志が試されます。つまり試練という錬磨です。錬磨は、研ぎ澄まされていくように砥石によって磨かれます。

この磨いていくというのは、体験や出会い、そして受け容れていくことによって光ります。まるで古い古材を、蜜蝋で磨き上げていくように、あるいは掃除をして場を清めていくかのように丁寧に片づけて元の状態に戻して余韻から自己の本心と初志に耳を深く静に傾けていくことに似ています。

人生は、自分というものとの同行二人の旅路であり道でもあります。

道を歩んでいくなかで他人の道に心を揺さぶられるのも、迷いなく自分の道を歩んでいくための試練です。自分の道を与えられたただ一本の道統を守ることが仕合せであり感謝の源です。

日々のご縁に深く感謝して、日々の精進を楽しみたいと思います。

本来の子孫

私の志は子どものためです。この子どもは、子孫とも言いかえれます。自分がここまで生きてこれたご恩に対して報いたい、そういう感謝の気持ちがあります。同時にこうしてくださった親祖から先人たちへの尊敬と感謝もあります。続いていくもの、繋がっているもの、結ばれているものに永遠の徳を感じるからです。そういうことから、私は初志や理念を子ども第一義と掲げてきました。

しかし周囲は何のために今、これをやっているのかというのはそんなに見えません。やっている行為や具体的な事象のことから、きっとこうだろうやああだろうと決めつけられそういう人になっています。そのうち、勝手に期待されたり噂されたりするものです。そのほとんどは当たっていないのだから気にはしないのですが、人間は周囲や身近な人が影響を受けると悲しくもなるものです。

江戸時代の儒学者に佐藤一斎がいます。この方の言志四録は、西郷隆盛、吉田松陰なども座右のように学んだとあります。その言葉には、志を貫くために必要な知恵がちりばめられています。私も海外に留学するとき、または仕事をはじめてすぐのころは何度も読み返していました。しかし、壮年になった今でもその知恵は燦然としています。

志は、自分自身が見失いそうになるものです。それだけ目の前のものや周囲の言葉、心の安逸に流されていくからです。志を立てているからこそ悩み悶えます。しかしその時こそ志は成長し、磨かれ、研ぎ澄まされていきます。まるで人生の砥石のように志が自分を研いでくれます。

子孫のためにと取り組むとき、大切な知恵が言志四録の89条にあります。

「当今の毀誉は懼るるに足らず。後世の毀誉は懼る可し。一身の得喪は慮るに足らず。子孫の得喪は慮る可し。」

これは自分自身に対する世の中の評価などは恐るに足りないが、後世までもその世の中の評価が遺ることは恐ろしいことだと考えなければなりません。自分自身における利害得失などは心配しなくてもいい、しかし子孫の代までの利害得失はよく考えなければなりませんと。

子孫のためにと決めているのなら、今の時代の自分のことなどはたいしたことではありません。だからこそ今の世の中の評価や嘲笑など気にはせず、至誠を貫きなさいということです。

私が尊敬する吉田松陰も、そして二宮尊徳も同じように先の時代を見据えて、その時代を生き切りました。私も心に同志がいますから、同じように生きたいと願っています。競争や比較、そして評価にさらされてきた子ども心はそれだけ世の中を気にする人を増やしてきました。

そうではない世の中にしようと社業を立ち上げ、今では徳を立てようとしています。それは社会がよくならなければ、子孫を守ることができないからです。自分の子孫ではなく、世の中の子孫が本来の子孫です。

世界の子どもたちは今、どうなっているのでしょうか。

子どもの純粋無垢な心はどれだけ尊重される世の中になっているでしょうか。子孫たちの繁栄を願う時、私たちは両親の慈愛の真心に触れるものです。

古の同志の言葉に救われながら、この道をまた一歩踏み出していきたいと思います。

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。