自立の原点

人間には、体と心があります。最近は脳科学が進んだことで、この体と心のつながっている場所のことを脳の変化を見て様々な角度から分析することができるようになりました。例えば、脳内物質の何かが出ているとき、心身にどのような影響があるかということを計測することができるような感じです。

実際には、根拠がないといわれても心と体が休まるとき、居心地がよいとき、私たちは穏やかでしあわせな感覚を得ることができます。それは例えば、美しい自然に触れた時や仲のよい人たちと結ばれている時、楽しい食事や安らかな眠りの時なども私たちはその穏やかでしあわせな感覚を得るのです。

私たちの思う「時」というものの中には、様々な記憶や感覚が同居しています。いい時も悪い時も、大変な時も穏やかな時も、この時の中に混然一体として心も体も深くかかわっています。

どのような時を過ごすのか、そしてその時にどのような意味をつけていくのか。

一度しかない人生の時の中で、居心地がよい人生を歩むためには自分を知る必要があります。どんな時がしあわせなのか、どんな時が楽しいのか、もっと自分に正直に自分を喜ばせることで自分のことをより深く実感できるようになります。

周囲をみては自分を我慢したり、周りの常識に振り回されて自分を歪ませてしまうと、しあわせや楽しいことまでわからなくなっていきます。一度しかない人生の中で、自分を中心に据えて生きていくことが自立の原点のように思います。

しあわせや楽しいを感じられる環境、心も安らぎ、体も寛ぐ、脳も活性化する、このような安心安全な暮らしを体験していくことで自立はさらに豊かに充実していきます。

引き続き、豊かな暮らしを自立の原点として子どもたちに譲っていきたいと思います。

シェア=共有 (自然循環の仕組み)

シェアリングエコノミー(共有経済)というものがあります。これは一般的にはヒト・モノ・場所・乗り物・お金などを含む個人が所有する活用可能な資産をインターネットを介して個人間で貸し借りや交換することで成り立つ経済の仕組みのことをいいます。

このシェアリングエコノミーの市場は今後は国内でも急速に拡大していくと考えられ、一般社団法人シェアリングエコノミー協会と株式会社情報通信総合研究所(ICR)と共同で日本のシェアリングサービスに関する市場調査をしたところ、2018年度のシェアリングエコノミー経済規模が1兆8,874億円を超え、さらに2030年度には11兆1,275億円と約6倍になると予測されています。

本来、個人間や社会全体で「シェア(共有)」しようという考え方は、決して今にはじまったことではありません。今までの日本でも、支え合いや助け合いの中でそれは当たり前に行われていたものでした。それが次第に個人主義が進み、関係が途絶え、それを新たにビジネスとして担うようになってきたとも言えます。

特に今の時代のように、大量生産され物質文明が発展し物があふれかえってしまった世の中においては物を新しく買うよりも物を共有して活用した方がいいと考える人が増えるのも当然とも言えます。

一度しか使わないものを一度切りで購入して、要らなくなったら処分というのではそれにかかるコストも大きくみんなでシェアした方がお互いにメリットがあります。そのメリットをシェアする中で新しいつながりが生まれ、社会に助け合いや支え合いが生まれるきっかけになるかもしれません。

現在は、シェアするための法の整備や安全性などいろいろと課題もありますがそれも次第に改善されより一層ビジネスが多様に発展するのは時間の問題です。所有から共有へというのは地球の資源が次第に枯渇していく中で、市場も過渡期になり必要に迫られてきたからだとも言えます。そして人と人の間の「つながり」が歪んだ個人主義により断絶されてきた中で、そのつながりを新たにシェアし直そうという人間の心の本能もあるように私は思います。

これらのシェアの概念構造は、突き詰めていけばいくほどに自然の循環の仕組みが働きます。子どもたちに譲り遺したい未来へ向けて、色々と学び直して挑戦してみたいと思います。

 

 

岐路

国連から提案された「SDGs」というものがあります。
このSDGs「SustainableDevelopment Goals(持続可能な開発目標)」の頭文字を取った言葉で、2015年9月の国連総会(連加盟国193国)で採択された具体的行動指針のことです。すでに2001年に策定されたミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)の後継として国連で定められ2016年から2030年までの国際目標として認知されています。具体的な行動指針は、17のグローバル目標と169のターゲットからなり、飢餓、貧困、気候変動の進行、生物多様性の劣化などすぐにでも解決したいと思われる項目が入っています。
日本政府も「SDGs NOW! 17 Goals to Transform Our World」の動画で告知を展開しています。17の項目と169のターゲットは、総務省のサイトからPDFをダウンロードできます。この共通のキーワードの「持続可能」というものが何度も提言されるのは、言い換えれば近い未来に持続不可能な社会が訪れようとしているということです。
持続不可能な社会とは、では何かということです。それは人間がこの地球上で生活することができなくなるということでしょう。その理由は様々にありますがもっとも大きな原因は、自然と人間が乖離している世の中にしているからだと私は思います。
そもそも人間も自然の一部であり、自然物です。その自然物であったはずの人間が、人工物を創り上げ自然から乖離した都市というものを形成しました。そしてその都市というものを、自分たちの中で快適な仮想空間にしそこに消費を通して資金が流通するような仕組みを構築しました。都市の中で行われていることが自然とは別物ですから、その都市に運び込まれる様々なものは自然を搾取したものになります。
大量に生産し、大量に消費する、そこで都市を機能させますから消費されて捨てられていく自然の破壊の量が明らかに自然が創造するスピードを超えたとき持続は不可能になります。
自然の利子で暮らしていた時代から、自然へ借金して暮らす時代へと移ったことが今の持続不可能な社会を実現させてしまいました。しかし人間の欲望は果てしなく、自転車操業のように走り出したら止まれない今の世の中で如何に方向を転換しようかとそれぞれの人たちがそれぞれの場所で向き合っています。
自然と共生していた時代の懐かしさは、今のグローバリゼーションの波の中で消えかけているように感じます。もはや、このまま人類は滅亡に向かっていくのか、それともここで自然に帰るのか。もしくは第3の自然と共生する世の中にするのか。それは現代の世代の一つの大きな使命であることは間違いありません。

だからこそ、私たちは何をもって自然と共生するというのか。そしてどのような暮らしが自然を尊重して自らを立てることになるのか。
人類の自立に向けて、みんなで協力し合ってその答えを生きていくために挑戦を続ける必要があるのです。

子どもたちが100年後も1000年後も安心して、楽しく豊かに生きていくことができる社會を遺してあげたいとみんなそう思うはずです。
手と手を取り合い、子どもたちのために協力していきたいと思います。

花の生き方

花を見て美しいと思う心が人間にはあります。なぜ美しいと感じるのか、そしてなぜ大自然を観て人は心を揺さぶられ感動するのか。心がそう思うのは、そこに確かな宇宙の法則のようなものがあることに気づきます。

この世に生まれてきて、私たちはいのちの価値を知ります。そのいのちの価値は、今を精いっぱいに生きているものによって気づかされます。私が花を見て美しいと感じるのは、今を精いっぱいに生きているからです。

そして百花繚乱の美しさを放つものを観て感動するのが、それがみんなが活き活きと豊かに仕合せに生きている姿を体現しているからです。花が美しいのは、その精いっぱいな姿。

よく私は道端のたんぽぽを観ては足を止めるのですが、それはたんぽぽが太陽に向かって一生懸命その精いっぱいに生きている姿に心を打たれるからです。そしてその精いっぱいな姿はいのちの美しさをそのままに表現しています。

人生は一度きりと知ってはいても、人はあれこれと雑念を持ち、今を生ききることをやめてしまいます。そうやって今を精いっぱい生きていないものは、美しさが翳ってくるものです。どんな境遇にあってもどんな環境であっても、あのたんぽぽのように生きていくことは美しく、私の理想の存在です。

最後に松下幸之助さんはこんな言葉を遺しています。

『今というときは、この瞬間しかない。この一瞬一瞬を精一杯生き切る、その積み重ねが充実した人生をつくり、躍動を生み出すのである』

充実した人生と躍動感、まさに花の生き方です。

花に学び、いのちの花を精いっぱい咲かせていこうと思います。

弱さこそ強さ

人は弱さを否定して強くなるよりも、弱さを肯定して手に入れる強さの方が本当の意味で真の強さを手に入れることができるように思います。弱いものがダメで強いものがいいということが叫ばれる競争社会の中で、本来の強さとは何かということを一度向き合う必要があるように思います。

大前提に競争社会の中にいれば、弱さはまさに命とりになります。強ければ生き残り、弱ければ消滅する。弱肉強食であると教わってきましたが、実際には自然界は人間が言うような弱肉強食をしていません。

むしろ共存共栄をして助け合って存在しているのです。

そのために、確かに見た目には弱肉強食をしているように見えますが実際には弱さを力にして強みに替え、強さを謙虚に必要最小限で生きていきます。人間の言う身勝手な弱肉強食は、個としての強さ、権力的な強さ、能力的な強さこそ力だというような言い方をして弱さを否定します。ここでの弱さは、個としての弱さであり能力及び、あらゆるものが非力であることがダメであるとしその逆を強さと呼ぶのです。

自然界は、弱さを強みにして、その弱さを絆にしてつながり合っています。例えば、一人ではできないことはみんなで力を合わせます。これは弱さが強みになった瞬間です。

チームや仲間を形成するのは、それだけ私たち人間が弱い存在であったからです。特に恐竜の時代も含め、私たちは非力な存在でした。一人ではどんな動物にも負けてしまうほどの弱さがあったのです。それを強みにするために、私たちは協力し協働して弱さを絆に結び付きました。

現在では、身体的な武器が弱いからこそ道具を発明しここまでの科学を発展させたのも弱さを強みに替えたのです。

弱いからダメという発想は、本来の私たちの人間の真の強さの否定になっています。その証拠に、現代は個ばかりが強調され協働することや仲間と共生することなどが蔑ろにされています。

本来の私たちの最大の持ち味まで捨てて、単なる目先の力に頼ろうではあまりにも視野が短く狭いように感じます。未来の子どもたちは、もしかしたら今よりも大変な自然災害や人災に巻き込まれることもあります。その時、どのように乗り越えていくか。私たちがそれを繋いでいく責任があります。

弱さは私たちの最大の武器であったことを、正しく伝承して大変なときこそ力を合わせて乗り越えてほしいものです。子どものためにも、私たちは古に学び、今に智慧を甦生させていきたいと思います。

全体を活かすための環境を創造する人~管理とは何か~

組織には管理職というものがあります。この管理とは「よい状態であるように気を配り、必要な手段を(組織的に)使ってとりさばくこと」と辞書にはあります。

この管理の語源は「管轄辨理(かんかつべんり)」という言葉が略されてできたものだといわれます。「管」は門を開閉する鍵であり「轄」は、車輪が外れないようにするためのくさびのことであるといいます。つまりもともとは権限によって支配するという意味があったようです。

現在の管理職に対するイメージが一般的に支配的なものになっているのは管理社会など、管理とつくと権限で支配しているようになっているからです。海外ではこの管理職をマネージャーといいます。そして管理することを「マネジメント」といいます。

このマネジメントというものの意味は、アメリカでマネジメントと父と呼ばれたP・Fドラッガーは「組織に成果を上げさせるための道具、機能、機関」であるといいます。そしてその管理者をマネージャーといって「組織の成果に責任を持つ者」と定義します。つまり組織に成果を上げさせるための仕組みがマネジメントであり、組織が成果を上げるように働きかけその責任を持つ人をマネージャーというのです。

さらにそこからマネージャー(管理職)の役割の代表的なものを具体的に記します。一つ目が「組織が果たすべきミッションを達成する」こと、そして二つ目が「組織で働く人たちを活かす」こと、最後が「社会に貢献する」ことだといいます。つまりみんな会社の目的や目標のために協力しながら、それぞれが尊重され自己実現も同時に行い、一人ひとりが活かされるように全体最適と全体快適を創造し、長期的な眼差しで短期的な日々の仕事をコントロールしながら社会全体に善い影響を与えていく仕事ということです。

私の今の言葉でシンプルに定義すると管理職とは、「全体を活かすための環境を創造する人」ということでしょうか。

これは私たちの会社で現在、むかしの田んぼを一緒に運営している不耕起栽培の農家の達人の方々が稲が育ちやすいようにあらゆる管理をしていることがモデルです。その管理の考え方は、自然の道理に精通し、もっともどうすれば稲が活き活きと生長するかを中長期、そして温故知新した自然と科学の技術を駆使して見守っています。その管理はまさに「全体を活かすための環境を創造」をしています。

例えば、多様な虫たちが活動しやすいように活かす智慧。そして稲たちに厳しい環境と慈愛の真心をかけてはしっかりと稲自身が最高の一生を送れるようにサポートする智慧。そしてその育ったお米は、社会全体に対する大きな影響を与えているのです。

私のイメージし定義する、管理職や管理者、マネジメントやマネージャーはこのむかしの田んぼを一緒に運営する農家の実践のことです。

みんなが安心して活き活きと生を全うしつつ、田んぼも自然も同時に見守っていくには組織をどう活かして成果を出していくのかの様々なことを改善し取り組んでいく必要があります。

ただ単に、一方的に肥料や農薬をまき機械で管理するという農業もありますがこの時の管理者は全体を活かし環境を創造したのではありません。同じ成果でも、プロセスが異なれば管理職や管理者の定義がまったく異なることをマネージャーは理解しなければなりません。

育てるということがどういうことか、育つということが持つ意味は何か。そこをまずしっかりと学び直し定義することで、これからの多様化社会の在り方を見つめ直す機会になると思います。

子どもたちが安心して新しい環境や社会を創造していくためにも、そのモデルになっていきたいと思います。

 

物語の意味

物事には必ず物語がついてきます。その物語は、短期的にはわからないものですが長期的になればなるほどその物語の本質が現れてくるものです。

これをご縁ともいいます。

そのご縁は決して偶然ではなく、先祖代々、長い時間をかけて刻まれてきたもので同時に結ばれてきたものです。それを時空を超えて、今の私たちが体験してつながりを確認するとき物語が現れてくるのです。

なぜこの人と出会うのか、なぜこのような体験をするのか、突き詰めて深めていけばその原因は必ず過去の何かに行き当たります。だいぶ前、つまり生まれる前のこともありますから思い出すのは難しいものがあります。しかし辿っていけば、偶然とは呼べないあまりにも不思議なことに巡り合うのです。

まさにここに物語があります。

物語があるということは、ご縁があるということです。だからこそ大事なのは、物語があるということを感じる感性を磨いていくことです。その感性が磨かれている人は、ご縁を大切にします。そしてそのご縁の意味を時間をかけて丁寧に紡いていきます。そして現れた意味に対して素直に従い、結実させていくからです。

良いか悪いか、正しいか間違っているか、メリットがあるかどうかなどは物語においてはたいした問題ではありません。物語があることにこそ意味があり、物語を紡いでいくことこそが人生の意味になる。

一期一会というのは、その時に生まれた言葉なのかもしれません。

引き続き、ご縁を大切にして子どもたちに繋がりを託していきたいと思います。

人道間具

情報化はいよいよ進み、5Gの時代が到来します。すでにスマートフォンでさえもそんなに速度の遅さを感じませんが、さらにこれよりも1000倍以上の情報量が短時間でやり取りできるようになります。

人工知能は、ディープラーニングによってほとんど人間の認知に近づいてきています。人間の持つ能力にどれだけ科学は近づけてきたか、まさにこのディープラーニングこそもっとも人間が智慧や法則を編み出すための仕組みの源泉です。人工知能にその仕組みを持たせるというのは、これで誰でも簡単便利に知恵を発見できるようになります。

そもそも人間と道具の関係性を歴史から紐解けば現代に起きていることも不思議なことではありません。どの時代も時代の最高の哲学者であり達人たちが、その時代の至高の道具を生み出してきたからです。

つまりその時代、その道を究めた人が、その道に必要な道具を発明するからその二つが相まって科学は進歩してきたのです。人間と道具の質が一致したということです。これは伝統文化の甦生をはじめ、様々な古い道具に触れている中でまさに道具を知れば、その使い手の力量を知ります。つまりその使い手次第で、その道具は人間の叡智にもっとも近づく存在になっていくということです。それだけ人と道具の智慧は一致するということです。

そしてここで重要なのは、何よりその「使い手」次第であるということです。いい使い手は、いい道具を使う。この使い手は、まさに人間と道具の一体、「人道間具」と言ってもいいかもしれませんがそれくらい切っても切り離せない関係なのです。ここからいい人間にしかいい道具が使えないのも自明の理です。

現在は、脳が急速に発達していますからそれに合わせてもちろん人工知能も追いつきます。そして人工知能は人間の知能を超えるほどに近づいています。しかし、それを使うのはあくまで人間です。使う側が人間だからこそ、人間が人工知能よりも深く学び、感じる力を高めなければいくら高度な人口知能があってもそれを活かすことはできません。

人間のディープラーニングとは何か、それは先人たちが私たちに譲り遺してきた「直観」のことだと私は思います。私は特に直観に従うタイプですから、事物を深く感じ取り、内省し、遠くからの先祖のご縁を感じ、世界のあちこちで起きることを自然から感得します。この直観は、時代を超え、場所を超え、空間を超え、叡智としてビジョンが現れます。それを結ぶことで新たな直観と出会うのです。

こういう人間自然の叡智、ディープラーニングを信じることなしに、この先本当の意味で人工知能は活かすことはできないと私は予見しています。だからこそ、日々にあるがままの自分の天与の才を信じ、自分の持っている持ち味に磨きをかけ、運命を面白がっていくことで学びはより深くなっていきます。人間はもう一段、学び直す必要があることが科学の進歩によって提言されているのです。

時代が変わっても、変わらないものは常にあり、変えていく必要があるものは常に自分自身であることは変わりない真実です。どんな天命があるのか、子どもたちの道筋が示せるように楽しみながら歩んでいきたいと思います。

働くということ

現在、世の中では働き方改革など声高に取り組まれていますが本来の人間らしい暮らしは何かということは議論されていないように思います。日々に忙しく、只管に仕事三昧の日々を送ることも一つの豊かさかもしれませんが同時に豊かさとは自然を味わうことであったり、繋がりやご縁を愛おしむことであったり、暮らしを楽しむことであったりも人生の豊かさです。

働くことだけにフォーカスするのではなく、もっと人生の豊かさについて考えることが具体的な働き方改革になるのではないかと私は思います。

仕事は人生を豊かにしていくものの一つ、そして仕事で出会った仲間たちや同志たちがより一層人生の彩りを美しくしてくれるものです。

私の人生を振り返ってみても、人生で出会ったご縁ある人たちが私の人格を形成するのに大きな影響を与え、一つ一つの思い出が今の私の価値観を育ててくれました。

様々な種と出会い、実り豊かになることで私たちは次の種を蒔いていきます。

社會はそのように、豊かさの種子をみんなが蒔いていくことで多様な花々や実をつけて自然の森のように育っていくものです。

貨幣経済ばかりを追い求め、国家のGDPに貢献するためだけに息抜きもできないくらい働くなかでそもそもの働く目的を忘れてしまえばそれは働くということの根本的な改善になることはありません。

何のために働くのかは、その人の初心であり目的であり動機です。それがまずちゃんと根本や原点に帰れるものかどうか。そしてそれをみんなが忘れないで大切に働けているかどうか。

お互いに見守り合うことで助け合い、認め合い、働き合う。人生を共に生きる仲間としてお互いに豊かにしていくことが働くことの本質だと私は思います。

子どもたちが大人たちの働き方をみて、自分たちの未来の働き方の参考にしていきます。より豊かに仕合せに生きていくためにも、ご縁を大切に一度きりの人生を多様な人たちと初心を忘れないで働いていきたいと思います。

技術と原点回帰

明治以前と明治以後で日本の文化は大きく変化しました。具体的には、それまでの物づくりなどの生産過程がすべて効率化され海外の技術を優先して古来からの伝統的なものを排除していったことが大きかったように思います。

海外の技術を最良とし、日本のそれまでの技術を否定する。このようにして進歩している海外の技術をスピーディに学ばせ取り入れたということです。そのことから、私たちは確かに短期間に海外の技術をものにしましたがその技術の欠点があることまで検討される期間もなく現代までそのまま続いてきているのです。

それが現代において多くの歪をつくり、本来の日本の風土や歴史、また文化とどうしても溶け込めないものが増えそのことから日本らしさというものも失われてきているとも言えます。世界では、それぞれの国で大切にされてきた技術や文化、そして物があります。そういうものが世界の中では特に引き立ち、その土地の風土と一体になって世界の人たちを感動させ、さらにその技術が応用され新しい世界の発明に活かされていきます。

西洋の技術が進んでいるわけではなく、世界でもっとも秀逸なものではないと気づくところから意識を換え、そして古来から日本の風土で養われてきた日本の技術の中に私たちの先祖が編み出した智慧があることを学ぶことこそこれから多様化していく世界の中で必要な技術の基本になると私は思います。

そのためには、日本の古来の技術をもう一度学び直す必要があります。そして同時に歴史を学び直す必要があります。明治以前までどのような暮らしをしてきたか、そしてどのようなプロセスでモノづくりをしてきたか、どのような原材料を用い、どのような環境、どのような姿勢、そういったものをもう一度原点回帰し甦生してみるところからはじめるといいのです。

元の状態がわかってこそ、原点を知り、元が何かがわかってこそ基本を知ります。

私が取り組んでいる様々なことは、すべてこのシンプルさの追求であり原点回帰する中にあるフレッシュさの追求でもあります。現代のように複雑になったものを専門分野に分けて、無理に高めるのではなく本来の姿に近づけようとすることの方がより高度になっているものです。

自分の道を貫いて子どもたちに確かな伝承を行っていきたいと思います。