心身の安心

脳腸相関という言葉があります。これは生物にとって重要な器官である脳と腸がお互いに密接に影響を及ぼしあうことを定義した言葉です。

もともと腸は「第二の脳」とも呼ばれる独自の神経ネットワークを持っており、脳からの指令が無くても独立して活動することができるからです。

例えば、緊張状態が続いたらストレスでお腹が痛くなったりトイレにいきます。犬や猫、また鳥なども同様です。これは脳が自律神経を介して腸に影響を与えているからです。

また腸内に病原菌が感染すると脳で不安感が増すという報告もあるそうです。それだけ腸と脳は常にセットで影響を与えあうのです。そこから腸内の微生物との相関関係を見直す動きも出ています。これが腸活でもあります。腸内フローラが整い、人体に優れた微生物が常在することで脳もまた健康を維持することができるということです。

振り返ってみると、私の人生体験でも脳とお腹の関係は常に意識することばかりでした。私はよく下痢をするのですが、確かにストレスや具合、感情の影響を受けているのがわかります。また玄米食やぬか炊きなど、発酵食品を食べている時は頭痛など発生しにくく気持ちも落ち着きます。

この感情や気持ちというものも、腸と脳と深い関係があることがわかります。私たちが喜怒哀楽、または安心や不安を感じるのは、脳や腸の働き、つまり自律神経が関わっているからです。

常に自己の心身をととのえていくことは、この脳や腸をととのえていくところからはじまります。心身が安心することで、人は幸福感を味わえ生きる喜びと調和します。

子どもたちに、智慧や場が残せるように色々と温故知新と試行錯誤してみたいと思います。

伝統を守るための革新

ついに長年、農作業や私のハードな仕事を支援してくれていた軽トラックが廃車になることになりました。まだまだ乗れると思っていたら整備工場からも難しいと連絡が来ました。最後の仕事は、冬の英彦山での悪路での荷物運び。寒さ厳しい山の中で、頑張ってくれたこともありお別れが寂しく昨日は色々と思い出を振り返りながら掃除をしました。

これからまた新しい取り組みが始まるこのタイミングで、交代になりますが本当にこの軽トラックに私は支えられています。

改めて、軽トラックの歴史を調べるとそのはじまりはいつだろうかと思うと江戸時代の大八車にまで遡ります。つまり荷車こそ、軽トラックの原型ということです。そこから、1957年にダイハツからオート3輪が発明されます。これは前1輪、後ろ2輪の貨物車です。他にもマツダ、新三菱重工業などがこれを製造しました。

そして軽トラックの形になったのは1955年。スズキが同社初の4輪車であるスズライトを発売。そして1960年には東急くろがね工業がくろがねベビーという軽4輪トラックを開発します。これが現代の軽トラックの元祖と言われます。

私が今まで乗っていた車はスーパーキャリイでしたがこの原型の「キャリイ」はスズキ初の量産4輪車にして初の軽自動車である「スズライト」のトラック仕様として登場したものです。1966年にスズライトが取れてキャリイになりました。ずっとむかしから大きくモデルチェンジしていませんから、古い感じに思われていたからかあまり軽トラックがかっこいいとは言ってもらえません。しかし、この形が普遍的であって乗りやすく、私自身は軽トラックのこのもっとも機能的で合理的な姿を尊敬しています。

今回、入れ替わる新しい軽トラックはやはり同じくスーパーキャリイですがキャビンを長く伸ばしたものになります。これはシート後部が広くなり、シートも倒せるようになっていて荷台も工夫されています。しかも色を深いグリーンにし、英彦山や農地での景観に入っても違和感がないようなデザインのものにしています。

伝統を守るために、どのメーカーも革新を続けます。私はこの軽トラックは、見事にそれを実現しているように思っています。何よりも大切なのは、目的や初心を失わずに時代の価値観に合わせて微調整を続けていくことです。

今までの感謝とこれからの感謝を忘れずに、学び続けていきたいと思います。

漬物をつなぐ

昨日は天日干しした伝統の堀池高菜を仮漬けしました。ここから1週間近く漬けてから、本漬けといってウコンなどを加えて木樽に移動して他の高菜と合わせて漬けこみます。

もう11年近く漬け続てけていますし、もともとは百年以上続く老舗の高菜の菌が棲みついていますからそこで漬けることで独特の風味を産み出してくれます。種のことをブログで書きましたが、実はこの菌との共生や生き方もまた伝承していきたいものの一つです。

漬物というのは本来保存食でもあり塩は私たちの健康を守る大切な食材でした。ローマ時代には、塩が給与で支払われていたことで今のサラリー(給与)の語源になっているともいいます。かつての日本の食文化である一汁一菜は、ご飯とみそ汁と漬けもののことでした。塩とご飯、おむすびもですがこれが私たちのいのちを長年支えてきた基本のものです。

現代の塩はあまりいい塩がなく、むかしの塩づくりは自然に沿っていましたから健康を維持するのには欠かせないものでした。縁あって今、100年前の梅干しを一壺いただいていますがその塩は今でもしっかりとしていて味も美味しいです。100年以上保存できるものは、この塩が関係していることをそこから学びました。

漬物の原理は、塩の浸透圧を使います。浸透圧は、水がもともと濃度を一定に保とうとする力のことです。野菜の中の養分が外に出て、その分、塩が中に浸透していきます。その養分が菌たちの繁殖の栄養になり発酵してその野菜を別のものへと転換していきます。

重しをのせますが、これも水分を出やすくなるのと重力の力をつかい沁みこませて安定させる効果もあります。この野菜の水分で野菜が漬かることで漬物は完成します。空気に触れると腐敗菌が発生するので、塩分のある水の中に漬かることで腐敗よりも発酵を促進させます。

後は、塩分濃度さえ調整していけば、何年でもその漬物を食べ続けることができるのです。体にとっては、発酵した菌を取ることで腸内フローラも元氣にし、腐敗を防止します。漬物を食べると元氣になるのは、この発酵の仕組みをそのままに体に用いているからです。

いい塩、いい菌、いい野菜を食べ続けることで私たちは健康の基本を保つことができていました。今の時代のように多様で飽食の時代は、健康を保つことが難しくなってきています。医療がその分、発展発達して治療もできるようになりましたがその分、治療費もかなりの額になっています。この時代に生まれてきたらこれが当たり前なのかもしれませんが、本来の健康環境とは程遠くなっているかもしれません。

時代がまた揺れ戻され、何らかのかたちで治療ができなくなってきたらきっと私たちの日本もまた一汁一菜に回帰する日もくるかもしれません。その時、この漬物を守ること、塩を守ること、智慧を守ることは子どもたちのためになります。

今、やっていることを信じて、粛々と繋いでいきたいと思います。

種を守る

昨日は、郷里の伝統野菜の堀池高菜の収穫をしてきました。今年は、とても小ぶりですが逞しく健やかに育っているのは触った感じからも伝わってきました。毎年、一年を一緒に過ごす作物があることはとても豊かで仕合せなことです。

作物も種もそれは単なる呼び名であって、本来は一緒にこの世を生きる大切なパートナーです。そのパートナーとの一年一年の思い出や支え合い、その暮らしがあるということは何よりもかけがえのないものです。

お互いに貢献し合うことや、お互いに助け合うことで私たちは存在の絆を結ぶことができます。これは、生きものたちのすべての根底にある願いでありその価値の源泉です。

みんなただ生きているだけですが、その生きているだけで貢献する。物も同じく、すべてその存在理由はお互いの共生や貢献のためにあります。そしてその中でも、特に暮らしで支え合う仲間たちはともに働き、ともにその時代を生きていきます。

今、私の手の中にある種もそして目の前の高菜も同じように時代時代の中で同じ「種」として生き、お互いにいのちを分け合いここまで生きながらえてきました。私がそうであるように、先人たちもこのいのちを大切に守りながらここまで生きながらえてきました。

だからこそ、このずっと一緒に過ごしてきた種を見捨てるわけにはいかず同じようにこの土地で、この土地に生まれた者同士で生き続けていくのです。

私が伝統固定種の種を守るのは、ただ種が失われるからではありません。私がこの種を守りたいと思うのは、この種との「生き方」であり、大切なパートナーとしての仲間や家族との仕合せな暮らしをこの先もずっと子孫へ繋いでいきたいと願うからです。

現在、伝統固定種の種をブロックチェーンのトレーサビリティで守る取り組みを企画していますがこれもまた伝統を守るための革新なのです。

日本の風土の中で、この風土が育て見守るいのちを補助していけるようにこの世代の役割を果たしていきたいと思います。

真の文明人

いのちは寿命を大切に最後まで使い切るときに喜ぶものです。最近は、寿命を伸ばすという言葉も聞かないくらいみんな消費することに没頭していきますが本来はなるべく消費せずにもったいなく使うことを大事にしていました。

捨てるという文化こそ、近代になって生まれた価値観でありその価値観によって環境問題も社会問題も荒廃の一途をたどっているともいえます。

例えば、回転数というものがあります。ゆっくりとじっくりと回すよりも、急回転させるとスピードが上がります。スピードが上がるというのは便利ですし消費行動です。スピードを上げて、回転数をさらに上げれば確かになんでもすぐに手に入るほどのものが増えますがその分、捨てるものも増えていきます。

これは全く合理的ではないうえに、寿命をみんなで短くしていく作業です。

人類は、あらゆるもののスピードを上げていきました。それは運輸、移動などの物質的なもの、そして時間というもの、さらには環境の自然循環であるものまで、本来のじっくりとゆっくりとみんなでゴミ一つ出ないような理想的でシンプルな状態を捨てて手に入れてきたものです。

そのことに由って、無理がたくさん生まれ無理した分があらゆる問題として浮上してきます。もう一度、スピードを落とそうとしても今更そんなことをすると時代遅れと揶揄されますからもはやブレーキを人類自体がかけられる状態ではありません。

もしかしたら、自然災害や隕石の落下など、現在の文明を一転させるようなことがあれば元に戻るのかもしれませんがまたそのうち同じことを繰り返すのでしょう。

そう考えてみたら科学というのは、自然から時を盗むことに似ています。自然の知恵を盗み、ある部分だけピックアップしてそれだけを便利に使い周囲の資源を急速に引き出すという技術。これは現在の量子でもAIでもバイオでもだいたい似通ったものです。

私は人類はブレーキを自分でかけることができたとき、真の文明人になる気がします。そのためには、自然を善く学び、自然から得た智慧を尊敬し、あくまで分を超えない程度で科学を用いる。

そこに真の文明人の徳を感じます。

子どもたちのためにもそのお手本になれるように精進していきたいと思います。

観察の場

毎日、自然は大きくまた微細に変化して已みません。私たちは日々に何気なく暮らしていますが、空の色から土の様子、風の様子、あらゆる生命たちの循環、ありとあらゆるものが変化し続けます。

そして何も変わっていないように見えても、心身の状態、関係性の状態、あるいは宇宙の影響、無意識下での価値観の状況など刻一刻と変化しています。

その変化に気づくことができるかというのは、とても重要なことで私たちは自己を観察を通してあらゆるものを観察していくことで真の自己を捉えることができる仕組みになっています。

かつて日本人は、自然との共生において非常に豊かな観察を行っていたのがわかります。それは伝統的な古民家での暮らしや、日本人の詩のたしなみ、他にも美しい情緒を含んだ日本語の中にも観えてきます。つまり、私たちは日々に観察力を磨き続けて自然と共生する道を選んできたのです。

今のような時代、この日本人の暮らしてきた知恵や生き方は世界にとても偉大な影響を与えることができると私は思うのです。

日本の風土は瑞々しく、四季の変化は特に膨大です。その一つ一つの変化の中で、どのように自分たちをととのえて、何を活かしてどのように自然の動きを活用して生活を営むか。これは農の本質であり、私たちはずっとむかしからその中で百姓をしてきたのです。

百姓の知恵とは、この自然の観察によって磨かれたものではないかと私は思います。

私も、百姓のように様々なことに取り組みますが四季折々のタイミングに生きています。一期一会もまたここから発生してきたものです。自然は有難く偉大で、慈愛に満ちているものです。

どんなに大変な憂き目にあっても、また春が来て四季がめぐります。他の生き物たちも一緒にこの場所に生きてみんなで全体に対して自己を貢献させていきます。共生の原理を学ぶには観察の学問を実践することが普遍的です。

子どもたちにも、あらゆる自然との共生を観察の場を通して磨けるように様々な作法を開発してみたいと思います。

茅刈り

昨日は、熊本県阿蘇郡高森にある萱場に茅葺屋根用の茅を刈りにいくご縁がありました。友人や仲間がたくさん駆けつけてくれて、みんなが楽しく茅刈りを行いました。

思い返せば、この茅葺とのご縁は私の故郷のお地蔵様が祀られている建屋の屋根を私が喜捨をして甦生するという話からです。その話は、地元の方々との折り合いがつかずに中断することになりましたがその御蔭で、一緒に徳積財団を設立することになった親族の叔父さんと出会い、その近くにある藁ぶきの古民家を甦生することになり、さらには今回のように英彦山の宿坊の屋根を葺き替えるというご縁になりました。

ご縁は最初からそうっなっているかのように繋がっていて、絶妙なタイミングで一期一会に場にも人にもと時にも出会います。答えが先にあって、それを象っていくかのようです。

有難いのは、その答えが最初からわからないからこそ有難い体験になっていくということです。私自身は慎重で臆病ですが、勇気を出せるのも挑戦できるのも、この「ご縁」を羅針盤にしているからだと思います。

資金面や材料面、知識も経験もすべて不足していてもみんながいるという存在感やご縁を信じるという目は見えない繋がりを味わって生きていくことができるからなんとかなっているようなものです。

今回の茅葺もとても貴重な体験になりました。

もともと私たちが古民家で使ってる材料は、すべて自然素材で自然由来です。ということは、その自然素材はどのような風土や環境で、いかなる特性を持っているのかを学ぶことで先人たちがどのように自然と共生してきたかがわかります。

ちょうど、私たちが茅を刈りに行った場所も本日から野焼きがはじまります。阿蘇の茅は特に良質で、しっかりとまっすぐに伸びていて丈夫でしなかやで品があります。水をはじき、長持ちし、雨や風から家を守ります。

昔の人たちは、身近にある素材を暮らしの中に上手に取り入れました。草草も捨てるのではなく、これはどのような徳が備わっていてその徳にどう報いようかと謙虚に考えたいのではないかと思うのです。

それは偉そうに、何かに活用してやろうといった人間都合の見識ではありません。自然への畏敬や畏怖、そして何よりもいのちを慈しむやさしさに満ちたものです。

私の取り組む甦生は、根本にはこの観点を忘れません。

今の私があるのも、人類が続くのもすべて自然の恩恵、自然の御蔭さまです。自然素材自然由来に感謝してこそ、本当の意味で本物の加工品になるのです。

子どもたちのためにも、プロセスを外さずに大切な文化を伝承していきたいと思います。

危機に備える

今回、ウクライナとロシアのことでウクライナの人たちが「まさか本当に侵攻してくるとは」とほとんどの人がショックになっていたというのを報道で見ました。私たちも外から見てて、世論も最初は脅しや一部の地域だけの侵攻かと思っていたら全面的に侵攻していきそこでまさかと考え始めます。そして第3次世界大戦が起きるのではないかと、それも今でもまさかそんなことはを思うようになっているはずです。
コロナの時も、想定外が発生して初動が対応できなかった国もたくさんあります。そして今は、戦争が発生してどのように想定外に対応するかが試されているのです。
昨日は、原発を攻撃したという報道が流れました。その時、私もまさかそんなことがとショックを受けましたが戦争ですからこれは当たり前に想定されることです。しかし、そんなことは起きてほしくないと思っていることや、まさかそこまではしないだろうとバイアスがかかっていることに気づきます。
本当の危機は、自然災害よりも人間の人災の方が確率も高く衝撃も大きいものです。これから世界がどのようになっていくのか、思考を停止させず危機に備えて動いていきたいと思います。

平和を持続させるために

私は、20年間、子どもに関わる仕事をしてきました。その子ども観というものは、子どもは生まれながらにしてすべてが備わっている完全な人間そのものであるというものです。

人間そのものというのは何を言っているのかというと、人間とは徳そのものであるということ。もう一つ進めると、もともとのいのちはすべて徳であるというものです。これは人間に限らず、全てが完全ですべてがいのちの一部。それを尊重しようという考え方です。

これは子どもに限らず、私は万物全てに徳が備わっていると思っていますから現在の古民家甦生だけではなくすべて取り組んでいるものはこの初心と観点を働かせて実践しています。

足りないから補うのではなく、本当にそのものの役割を発見して活かしていくという発想です。これは日本人の伝統的な価値観、もったいないなどにも通じるものがあります。

子どもは最初からすべてを備わっているからこそ、余計なことをしない。余計なことというのは、備わっていないと、足りないと、これはダメだや間違っているなどをということを無理やりに教え込まないということです。きっと、何か理由があってそうしているのだろうと尊重し尊敬して見守るということです。

これが私たちが社業で取り組む、見守る保育の考え方から学んだことです。

子どもは丸ごと信じてこそ、本当の意味で私たちが子どもから学び直し、子どもように素直で正直なままに自立して自分の天命を全うしていくことができると私は思います。

そもそも自立というのは、自分の自立ですがこれが人類の自立にもつながります。今のように世界を巻き込む戦争が起きそうなときこそ、教育者たちは真実と向き合い、平和ボケするのではなく「真の自立とは何か」ということを正対する必要があります。

真の自立をするのなら、人類はもっと優しくなり思いやりを忘れずに悍ましい戦争もなくなっていきます。人の心が貧しくなり、荒廃するからこそその結果、環境に現れていくのです。だからこそ、人の心に真の豊かさを甦生させていくことが末永く平和を持続するための知恵でもあります。

私が取り組む、場も暮らしフルネスも起点はすべて子どもを見守ることからはじまっています。こんな時だからこそ、希望を忘れずに自分の天命を全うしていきたいと思います。

平和の教育

最近、ロシアとウクライナの交戦の報道が各地から入ってきます。しかし、現地ではどのような感じなのかが体験したことがないのでわかりません。私たちは戦争を経験していない世代なので、映画やドラマなどどこか頭で考えている世界を想像しています。

実際には、ウクライナでは寒い中、食べ物も不足し、不衛生で一般的な生活がほとんどできない中で市民の方々はそれぞれに武器をもったり励まし合ったり支え合って戦争で耐え忍んでいるはずです。

それに攻める方も、大義がよく見えない中で一般市民の人々の抵抗を感じながら早く終わってほしいと願っているようにも感じます。

本当は人のいのちがもっとも理不尽に失われないようにするのが戦争の戦略です。しかし、経済戦争でもいのちは失われるし、実際の戦闘でも失われます。時間的な長短があるだけで、実際には多くのいのちが失われるのです。

そしてこれはどこか遠いところで自分たちと関係がないことが発生しているのではありません。地球は丸く、人も世界もすべて繋がっていますからこれがどのように世界に影響していくかはこれからの未来が決めていきます。

そして人のいのちを奪い合うとき、そこには憎しみや怒りが産まれます。これは何世代も、何十年、何百年とその後の関係を崩していきます。本来、同じ民族だったものや隣人や家族であったものが傷つけあうのです。

本来、仲裁するためにみんなで選出した国連や安保理のリーダーたちがいがみ合うというのはなんとも残念なことです。国というものをつくり、それぞれに富を奪い合って権力によって統一するという構造はいつも終わりはこうなります。

子どもたちの未来に痛ましく暗い影を遺すような舞台をつくるのは本当につらいことです。子どもたちの未来がどう明るく幸福に近づけていけるか、そのために私たちは生まれ挑戦していく必要があると思います。

私は人類が末永く平和でいられるためには人類が施されている今までの価値観や教育という刷り込みの洗い直しだと考えます。これはかつて同じように戦争で子どもたちを守りいのちを失った子どもの権利条約を発案したヤヌシュ・コルチャックがすでに実践して見せました。

私も彼と同様に、いのちを大切にして平和を築くには「子どもの自治」を幼いときから体験し、誰かや大人の勝手な都合でいのちを失わなくていいように子どもに体験させることだと思います。子どもはわかっているし、子どもはそこで平和を学ぶのです。つまり平和とはいのちの教育を学ぶことであり、真の自立を獲得する環境がいるのです。今の政治のリーダーたちがそのことに気づき、間違いを正し、本来、何のために人生があるのか、教育があるのかという目的から再設定しやり直す必要を感じます。

こういう時こそ、私たちは真の教育の意味を考える時機だと私は思います。子どもたちのためにも、私の役割を果たしていきたいと思います。