絶妙な柔らかさ

自然界には柔らかいものと硬いものがあります。それは物質的な素材によって異なります。動物や人間においては、産まれたての時は柔らかく、歳をとり死ぬときは硬くなります。柔軟や頑固というのは一生のうちで変化しているともいえます。

昨年、骨折をしてから今はまだリハビリ中ですが折れたところの筋肉が硬くなっています。使っていない筋肉は硬くなっていき変な力を入れてしまうと張ってきます。他にも人間の肉体は炎症を起こすと硬くなります。緊張をしても硬くなり、血流が悪くなると硬くなります。この硬くなるという行為は、ある意味で不自然であることを証明しています。

もともと柔らかいものが硬くなるのは、伸びることと縮むこととの関係性とも言えます。私たちの成長というものは、伸び縮みを繰り返して少しずつ伸ばしていきます。ある意味、少しずつ伸ばしてことが成長とも言えます。

これは身体に限らず、能力や才能も使い育てることで伸ばしていきます。伸ばしていくのは、蕎麦打ちなどをしてもわかりますが粉を塊にしてこねて打ったらあとはのし棒で伸ばしていきます。美味しい蕎麦にするには絶妙な柔らかさの中には適度な硬さを持たせます。

この絶妙な柔らかさというものこそ自然体で力んでいない状態です。人間でいえば、リラックスをして心も体も調和している状態のことをいうように思います。

余計な力が入ったり、頑固に無理をしていて硬くなっていると本来もっているものも発揮できません。自然体というのは、本来の今の自分にあるものを存分に発揮できる状態になっているということです。

そうやって加齢していっても、年々体は死に向かって硬くなっていきますがその分、心のバランスや使い方や用い方の工夫が取れて絶妙な柔らかさは維持できるものです。

私の尊敬している方々もみんな柔軟な感性を持たれておられ、お会いするたびにその絶妙な柔らかさに生き方を学びました。これらの絶妙の柔らかさを持てるようになるには、日々の柔軟性を高める精進が必要になるように私は思います。

その時々の今のありようと正対しては、そのご縁のすべてを活かそうとする努力です。別の言い方では、禍転じて福になるということや人間万事塞翁が馬という境地を体得しているということでしょう。

子孫のためにも、今私が取り組むことが未来への橋渡しになれるように絶妙な柔軟性で結んでいきたいと思います。

場の例大祭 2024辰年

今年も有難いご縁にたくさん恵まれ、場の道場にある妙見神社(ブロックチェーン神社)の例大祭を執り行うことができました。前日から降り続けた強い雨でどうなることかと心配していましたが例大祭中は雨も降らず気温も上がり晴れ間も出て美しい夕陽と竜雲、彩雲が顕れご参列の皆様もとても感動していたのが印象的でした。

ここに神社を建立してから5年目になりますが、何かに導かれるように様々なご縁をいただいてきました。この期間に無二の仲間たちとも出会い、奇跡のような徳積の活動を実践することができました。自分で考えていた以上に、考えてもいなかった素晴らしい御蔭様と豊かさにずっと支えられていました。

この節分から立春という廻りは、春の兆しをたくさん感じます。冬の厳しい寒さと春の柔らかい温かさが交互に空に顕れ、また大地を潤します。寒暖差の中に水や風が揺らぎ場に澄み切った空気感を醸し出してきます。

今回、例大祭では昨年ご縁があった即興ピアニストの今井てつさんに奉納をお願いしました。共通のご縁は、自然農の故川口由一先生です。私もかんながらの道を歩んでいますが、いのちや生きものがいっぱいの自然風景を心に響かせる生き方をしています。今井てつさんの音楽もまた同様な自然の響きを奏でています。

私たちは心に映る風景を、それぞれの思いの波動を通して全体に響かせることができます。その響きは、音楽のように奏でて消えるのではなくそれぞれの場所や意識に影響を与えてその中で一体化して永遠に活き続けていきます。ご縁も音も、そして響きも波動も消えるということはなく食べもののいのちのように身体や精神、心に和合して意識を変化させる素となるのです。

いい人に巡り会うことは、いい人の生き方を宿すことでもあります。同時にいい音に巡り会うことは、いい波動を宿すことでもあります。そしてそれをどう表現するか、感動するかで人と人の間に感動はさらに広がり、その美しい種がまた新たに人々の心や場に蒔かれていきます。これが人徳の魅力です。

そうやって思いの種は最初は小さな種であっても、蒔かれていけばそのうち花が咲き広大なお花畑のようになることもあるのです。自然の有難さというのは、いつも自然があるということでしょう。その芽出度さは日本人の心でもあります。日本人の先人たちは暮らしの中でいつも自然を忘れず自然に感謝して自然と共に歩んできました。今年の例大祭ではよりその自然への畏敬を味わうことができた素晴らしいものでした。

最後に舞の奉納をしてくださった全さきさん、彌樹さん、母娘。それに直来で美味しい料理を準備してくれたまどかさん、お手伝いの恵輔さん。暮らしの音楽を奏でてくれた祐輔さんと晃輔さん、そして雅さん。節分祭から場を一緒に調えてくださった星覚さん、全体を調え石笛奉納までしてくださった奈々子さん。何よりいつもお手伝いを気持ちよく協力してくださる素敵な仲間たちに心から感謝しています。

予祝としての思いに、おめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

思いを大切に

人の「思い」というものは受け継がれていくことで洗練され美しく光り輝いていくものです。何代もかけて丁寧に磨かれてきた「思い」は、密度を高め透明度を増していきます。何度も何度も思うということは、「念じる」ともいいますがそれ自体が創り出す場にはその人が受け継がれてきたものが連綿と結ばれ特別な居心地を創りだします。

そしてこの「思い」というものは、純粋であればあるほどに研ぎ澄まされます。言い換えれば、純粋さというものは透明度が高いのです。別の言い方では澱まず澄み切っているということです。

水というものを想像してみるとわかりますが、いくら混濁して不純物と溶けていたとしても非常に長い時間をかけて静かにしていると不純物は下に沈み透明な水が顕れます。あるいは、水源などの湧水が滾々と流れているところはその透明な水が下から湧きがってきます。

この透明な水が出てくるまでにどれだけ長い時を刻み、そして思いを受けたかと思うと水の持つ性質、その徳に畏怖を感じるほどです。

私も人生の経験から、ある人の思いが気が付くと自分の思いになったことがあります。その方が亡くなる直前に譲り渡され、あるいは気が付かないうちに自分の中に思いが写り、交代同化するのです。相手の思いが自分の思いになっているという感覚です。濁りのない澱みのない思いが、純粋な自分の思いと和合します。

人は純粋な思いに共感し、それを応援したくなるものです。なぜなら、その応援は自分の中にも確かに息づいているものでありその思いを受け継ぎたいと願う思いもあるからです。思いが伝播していくのは、思いに共感しあう思いがあるからでしょう。

この思いを育て醸成することは、私たちのいのちの寿命を伸ばし仕合せを編み込んでいくことに似ています。まるで水のように循環をしあい、色々な思いを呑み込みながらも遂には純粋な思いだけをろ過して顕現させていくかのようです。

「思い」を大切にしていくことが何よりも思いを育てます。人からどう思われても、自分にしか感じることがない大切なその「思い」を生きていく人が増えてほしいと思います。子どもたちにも、思いを育て、思いを応援してもらえるように徳を磨いていきたいと思います。

畜の意味

最近、社畜という言葉を改めて気にする機会がありました。なんとなく世の中で使っている言葉の響きが不愉快だったので調べると家畜を参照して作成された言葉のようです。社畜の意味は辞書を参照すると「日本では社員として勤めている会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や転勤もいとわない奴隷と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉」とあります。また家畜を調べると「ヒト(人間)がその生活に役立つよう、野生動物であったものを馴化させ、飼養し、繁殖させ、品種改良したもの」とあります。さらに社員ではなくアルバイトの場合はバ畜と呼ばれ「アルバイトをする学生がバイトに多くの時間と労力を割いてしまう状況を表す言葉」だそうです。

この「畜」という文字の語源は、会意文字で「玄(黒い)+田」の意味で栄養分をたくわえて作物を養い育てる黒い土のことをいいます。この発酵した黒い土がある御蔭で、植物や生き物たちの健康は守られます。

私は自宅で烏骨鶏や犬を飼っていますが、家畜といっても無理やり卵をたくさん産ませようとしたり犬をこき使って働かせようとは思ったことはありません。他にも自然農や田んぼをやっていますが、無理に作物を育てませんしその土を大切にするために農薬なども使ったことはありません。高菜のお漬物もつくっていますが、在来種の種を大切に自家採取してはまたそれを蒔き育て、その高菜で採れる分だけで木樽に寝かせて林の中でお漬物にしています。

私にとっての家畜は、大切な家族で共にこの世で生きていくためのパートナーです。家畜というものを悪いことのようにいうのは違和感があり、その流れで社畜というのはもっと違和感があります。

私は会社の社員のみんなを親戚や家族のように思っています。毎日、顔を合わせては健康の心配、子どもたちや家族や親せきの状態、仕事のこと、暮らしのことを気にしては一緒に語り合い助け合います。みんなで尊重しあえるように話を聴く時間を工夫して確保し、丁寧に一緒に生活の改善を続けています。飼いならすというよりは、みんなで協力しあって暮らしを創っているという感じです。大切にしている畜土(場)は、会社の文化であり、それは連綿と毎日続けて受け継がれてきたみんなの生き方や働き方の歴史が醸成されたものです。社畜という言葉がなぜ悪く言われるのだろうかと不思議でなりません。

結局、この言葉の意味の変遷は時代的な価値観として「いい会社かどうか、いい家庭かどうか」のその話をしているということでしょう。悪い意味でつかわれる家畜も社畜もバ畜も、まるで人間がいのちのない単なる物体のように扱われ、一人ひとりが尊重されない環境のなかで主体性を放棄した状態ということになります。そういうように動物たちや植物などの家畜を扱い、そういうように人間も扱うようになったということでしょう。一方的な奴隷化、搾取、それを飼いならされた状態というのでしょう。

実際にうちの烏骨鶏でいえば、柵も鳥小屋もあるのは野生動物や蛇などの天敵から守るために設けるものです。それに広さを十分に確保し、止まり木があり、発酵土を設け、泥浴びができるようにし、風通しのよい日陰で新鮮な空気があり目が届く場所に設置するのは奴隷化するために飼育しているのではありません。犬も同じく、綱があるのは車社会で飛び出すと危険であることや保健所に連れていかれて殺処分されたり、犬に乱暴に扱う人たちがいることから守るためでもあります。飼いならすことと守ることは違います。大切ないのちを守ろうとするからこそ「畜」はあるのです。

「畜う」という字は、「やしなう」とも読めます。つまりは、大切に育て養い守るということです。そして見守られている側もきっとそれに気づいて安心して育つはずです。そうやって「お互いにやしないあう=見守り合う」ことで私たちはいのちの寿命をのばして仕合せになるように思います。

言葉の使い方の中に、時代の価値観や人々や民衆の感じる不信や不満がでてきます。全部がそうではなく、そしてそうではない生き方の人たちの実践もあることにももっと目を向けて子どもたちのために将来がどうあってほしいかよく考えて今を生きる大人として取り組んでほしいと思います。

私たちも引き続き、子ども第一義、私たちの道を拓いていきたいと思います。

原始からのいのり

例大祭の準備で太鼓をお手入れしています。私のところで使われている太鼓は、明治19年のものです。それを修繕して使っていますが、元々これは滋賀県六地蔵で使われていたものです。私は地蔵尊とのご縁が深く、何か大切なことがあるときはよく地蔵尊に関係するご縁や出来事、物とも出会います。歴史あるものの続きを奏でられることに有難さをいつも感じています。

和太鼓というのは、石笛と同じく縄文時代よりあったといわれます。特に原始的なこの太鼓や石笛というものは、シンプルな音の中に深い自然への畏敬の念を感じるものです。

音というものは、不思議なものでその波動は複雑ではないほどに洗練されています。太古の音色は、叩きかた次第であらゆる心情を表現し、またその場の雰囲気を変えてしまいます。同時に、リズムによって全体との調和や躍動感を引き出していきます。

原始的な祭祀は、歌や舞、踊りをしますがそれはまるで春が来ては鳥たちや魚たち、あらゆる虫たちがいのちを踊るかのように舞い、いのちといのりを表現します。

これから誕生するものへのいのり、これから消えていくものへのいのり、そのどれもが音や波動を通して心情に沁みこみ響き渡ります。

さらに私のところにある最も古い太鼓は戦国時代のものがあります。これは陣太鼓で徳川家への献上品の一つでした。龍虎が描かれ、幻想的です。音を鳴らせばその余韻は深く、いつまでも耳を通して心に残ります。

目を閉じれば、その時代の音が聴こえてくるかのようです。

芸能のルーツは、これらのシンプルで洗練されたものの中にこそ今もまだ生き続けているように私は感じます。妙見神社の例大祭では、この妙を観る境地をみんなで感じ合うところに仕合せや喜びもあります。

子どもたちにいつまでも先人たちのいのりが伝承していけるように、丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

預言の本質

預言というものがあります。これは辞書を引くと「ある人が神や神霊の代わりとなって、神意を民衆に告げること」とあります。世の中が不安定な時は、色々な預言者が現れ様々な預言をするものです。有名な預言者には、イザヤやエレミア、エゼキエルがいます。少し前ではドイツのシュタイナー、日本にも出口王仁三郎氏がいます。

そもそもこの預言というものは、不思議な直観力を持って見通す力だといわれます。しかし冷静に考えてみると、人間が預言者として尊敬して感動するのはここ数日から数年、あるいは十数年の事実を見通すことや、同様に過去の同じような期間のことを言い当てたことによるように思います。

1万年先や100万年先の未来も過去も、今の自分には関係がないからです。そう考えてみると神様と崇められる存在というのは短い期間の予想ができる人物ということになります。ある意味、組織のリーダーというものはその経営のかじ取りをする上で中長期的な未来予測を絶妙にできる存在が人々によって選出されていくものです。

そしてこれらの予測は、如何にして行われていくのかを観察するとそれは全ての出来事への内省からの深い洞察に裏付けられていることがわかります。

なぜなら、過去の出来事というものはその本質をよく見つめればそれは未来の出来事になるということがわかります。古来からの因果応報、陰陽調和の知恵にあるようにすべては表裏一体であり万物和合しているものです。何かをすれば相応にそのことが調和しゼロになるようなことが発生するのです。

これは預言というよりは、宇宙や自然の仕組みであり避けられない法理であり真実です。最初から存在しているルールというものには、逆らえないのです。どんな預言者であっても肉体的には滅ぶようにこれらのことも避けられません。物質が循環するという法理には逆らえません。

だからこそ預言は一般的には神の霊感とか言われますが実際に私が感じるのは非常に深い内省からの洞察でありどこまで物事の陰陽を微小に偉大に観ているかというです。これを科学で突き詰めるのなら、AIなどはその情報量のインプットと分析によってある程度の人類の未来は予測できるように思います。人間が受け入れないだけで、すでにAIは人間の業を分析済みであるのです。

ただ、人間は起きてくる真実とは別にどう生きるか、どう感じるかは人によって選べるものです。それはどのような宿命が待っていたにせよ、自分がその最後の瞬間までどうあるかは自由にできるということです。

なので、こうなった時はどうするか。こうあった時はどうあるかなどはある程度はシュミレーションできるものです。どんなに大金持ちであっても地球規模の大災害からは逃げられません。この世に宿命から逃れられる人はいないのです。結局は、その逃れた行為から別の業が発生していきますからこれも法理として決められた布置からは逃げることはできないということでしょう。タイムマシーンのようなものがあったとしてもまた別の運命に翻弄されるだけです。

先ほどの出口王仁三郎氏は、「この世で起こる出来事や事件はあの世に現れている」ともいいました。この世が陽であれば、あの世は陰ということではないかと私は思います。これは三浦梅園先生も同様なことを仰っていました。

また出口氏はこうもいいます。

「1日先のことがわかれば大金持ちになれる。1ヶ月先のことがわかれば大宗教家になれる。10年先、100年先のことを見通せば、頭が変だと危険視される」

これに1万年後とか10万年後のことを言うと、普通過ぎて誰からも気づかれない人になるようにも思います。結局は、預言というものの本質はそのような感じのものです。

だからこそ、今、どうあるかに集中することで過去も未来も調えていくことができるものです。過去をよく観察し学び伝承することは、未来そのものを善くなるように循環に導く大切な今になります。

今を大切にするのは、それが子どもたちや子孫の未来に直結するからです。自分がどうなるかを心配するよりも先に、自分よりも先の世代のことを慮り自分が多少大変であっても過去から学び未来を繋ぐことの方が預言の仕合せはあるように思います。

引き続き、かんながらの道を歩み徳を磨いていきたいと思います。

本当の変化

時代が変わってしまうと懐かしいものが新しいものになります。その理由は、時代の変化と共に価値観が変わり本来であったものが発展していく過程で複雑になっていくからです。ある程度まで複雑になってしまったものは、成熟してしまい変化ができなくなっていきます。つまり現代の価値観の中における変化というのは、複雑化していくということです。

その複雑化したものを原点回帰してまたはじめて新しいものにしていく。こうやって時代は何回も同じことを繰り返しているようでシンプルになることと複雑になることを往来しているともいえます。

例えば、料理でいえば最初はとてもシンプルだったものが様々な時代の流れや新たな料理が開発されていくなかで品数も増え味つけや方法も増えていきます。しかしある程度までいくと元に戻らなければそこから増やしていくことができなくなります。つまり変化がなくなっていくのです。老舗の味などは、このやり方とは異なり同じ味を時代が変わっても追及するなかで微細な変化を続けています。これは先ほどの足し算ではなく引き算によって変化を長く続けようとする仕組みです。

短期的な変化は、複雑化していくことですが長期的な変化は原点回帰を続けることです。これを不易と流行ともいいます。何を変えて何を変えないか、このあり方に生き方や生きざま、取り組み方や姿勢がすべて入ってきます。

和魂洋才や和魂漢才などの和魂という言葉があります。これも本来の日本人として生き方は変えないままにその時々の海外の文化を吸収して活用するということです。元を変えないということで原点回帰を続けていく仕組みです。しかし変化が長期的でゆっくりです。明治時代以降、日本は短期的でスピーディーな変化を採用してきました。つまり先ほどの言葉では、洋魂和才、漢魂和才ともいうのでしょう。変化はでて複雑化して発展しましたが成熟して変化が失われてきました。変化しないものは、滅びるのがこの世の常ですが変化は生きていることにおいて何よりも重要なテーマです。

今の時代、複雑化を変化と呼ぶ人があまりにも多くなっていますから新しいことばかりを求めては懐かしいものには目もくれません。しかし先ほどの老舗や長期的な取り組みを生きるかつての和魂のある日本人は懐かしいものを変化と呼びました。

私の取り組む懐かしい未来や懐かしくて新しいものは、本当の変化への挑戦になります。ここ数年、これに気付ける人たちが集まってきては、変化の核を形成してきました。遅々たる速度ですが、それが日本的な引き算の美徳と変化の本懐です。

引き続き、日本の未来をよくよく見据え今に積み重ねていきたいと思います。

恵まれている人生

思い返せば、私はずっと人に恵まれてきた人生を送ってこれたように思います。出会いやご縁を大切に生きてきた御蔭で、素晴らしい人たちの尊敬する部分、美点、魅力をたくさん体験して共感し学ぶことができました。人に興味を持ち、人の奥底にある役割や目的を丸ごと愛するように心がけてきました。

癖が強い人、こだわりがある人、あるいは繊細な人、器の大きい人、たくさんの人たちに出会っていく中で人間の魅力を感じて自分の糧にしてきました。似たところもあれば、まったく似ていないところもあったり不思議ですが関心はなくなりません。

人生の前半はずっと話すことに力を入れていましたが、後半からは聴くことに注力してきました。その御蔭で話を聴くうちに、周囲の人たちの存在がとても有難く感じるようになりました。人間はそれぞれに守るものがあり、それぞれの目的があります。時にはちぐはぐな人がいたり、またある時には思い込みで自分を見失っている人がいたりします。みんな何かに困っていたり、あるいは苦しんでいたりと、それぞれの悩みもあります。そういうことを丁寧に聴いて思いやりで接していく中で、その人のことが少し観えてきます。すると他人事ではなく自分のことのように感じて、取り組んでいくうちに気が付くと自分もあらゆることで助けられてきたように思います。

人間の不思議な関係は、「助け合い」をすることができるということです。助け合うことで、人生はとても恵み深いものになります。どうしても自分に余裕がなかったり自分が大変なときほど、自分でいっぱいになってしまうものです。

しかし恵まれてきたこと、今も恵まれていることに気づくことで周囲の有難さに気づいていくこともできるように思います。

この恵みというものの正体は、与えあう素晴らしさを実感できているということでしょう。むかしから奪い合えば足りず、与えあえば足りるという言葉もあります。与えるのが好きな人はそれだけ恵まれていることに感謝している人なのかもしれません。

豊かさもまた、その恵みを実感できる暮らしの中にあるものです。生き続き、感謝や徳を磨きながら日々の暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

山伏の柚子胡椒

昨日、英彦山でとても有名な柚子胡椒の会社、柚乃香本舗の代表がお越しになりました。先代の長野覚先生の時から守静坊の柚子を柚子胡椒にしていることをお聴きしており、毎年山伏屋敷の柚子胡椒として当坊の柚子を使っていただいております。

はじめて食べてみると、他の柚子胡椒よりも野生の味わいが強く元氣が漲るような感覚があります。もともと山伏の秘薬として、あるいは宿坊庭園の観賞用としてむかしから植えられていたといいますが時代の変遷を経て柚子胡椒として英彦山を代表するお土産、名品となっているのは素晴らしいことです。

お話をお伺いすると、祖父の方が創業者で柚子胡椒の元祖であることをお聴きしました。それまでの歴史や商品を研究してきた苦労、そして実業家でもあり山伏の家系として生き方、とても示唆のあるお話に有難く思いました。

そもそも歴史というものは、生もので過去にあったことが止まったままではありません。時代を超えて形を変えて、今の人たちがその歴史を生きたままに伝承していきます。人間が感知する歴史は、50年くらいたてばもはや何がその当時に行われていたのかは生きている人から伝わらなくなってくるものです。生もののように鮮度があるのです。いくら教科書や記録に書かれていても標本のようになっていても、動いているもの生きているものではなければ真実がわかりません。

しかしそれを観た人が多数生きていて、今もそれを大切に扱い、それぞれの記憶や実体験を口伝等でお伺いしていくなかで生きたままの鮮度を甦生させて生の歴史を知ることができます。

柚乃香本舗は創業者の祖父の実業を受け継がれ、今でもその初心と共にお仕事をなさっておられました。私も宿坊にある柚子と共にこれからも英彦山をはじめ柚乃香本舗のお役に立てることに感謝の思いがします。宿坊甦生の際にいくつかの木を作業できないからと切ってしまったことに深く反省しました。改めて英彦山の柚子の木をもっと大切にしなければと反省と決意をいただきました。

英彦山とのご縁は、この人生においてとても大きなものです。英彦山に関係する人たちと出会い、生きた歴史を知り、生きたままに歴史を味わう。こんな仕合せや喜びはありません。

丁寧に歴史を紡ぎながら、志や伝承を紡ぐ方々と共に子孫へと真心を結んでいきたいと思います。

生まれ変わる

意識というのは何回も生まれ変わるように思います。私たちが身体は、新陳代謝を通して細胞もその都度生まれ変わっています。死というものは、この細胞の生まれ変わりが次第に失われて消えていくことは科学的には証明されています。

不思議なことですが、細胞の合体によって私たちはいのちを繋ぎます。そして繋いで新たな生命が誕生しますが、同時に増え続けるものを今度は消滅させていく必要があります。バランスというものですが、それを保つために合体しては消えるという循環を自然は持っています。これはいつからそうなったのか、宇宙の一つの真理や原則なのでしょうがその御蔭で全体を結ばれ環境に適応していくことができます。

私たちのいる宇宙は、有為転変であり諸行無常です。合体するからこそ変化するのです。変化の正体は合体なのです。合体していくことを続けなければ存在することができない仕組みになっているのです。創造と破壊こそ、生きるということです。そのために、変化するのです。

ただこの変化や合体には、意識というものがついてきます。どういう意識でプロセスを経たかというのが、次の合体に結ばれていくからです。毎回、創造と破壊を繰り返してもゼロにリセットされているわけではありません。同じことは二度となく、形成する段階で毎回何かが変わります。それは傷のようなもので、時を刻むようなものです。そしてそれを癒し、それを忘れるという作業があります。

その行為を繰り返すことで、私たちは生きている実感というものを得られます。生きている感覚、いわばこの感覚を味わうことで役目を理解して役割に仕合せを感じるのです。

細胞もまた同様に、日々に生まれ変わることによって仕合せを感じます。健康というものの本質もまた然りでしょう。そして同様に意識も変わります。意識は特に時間や歴史によって変化していきます。変化の中にいることを忘れなければ細胞は調っていきます。意識が調っていれば、人類はバランスを崩すことはありません。健康であるためには、自然や宇宙の変化にあわせて自分たちも意識を変え続けていくことだろうと私は思います。

自分の中にある宇宙、つまり意識を調えることが大きな目で観ると人類にも地球にもすべてにも大切なことはわかります。丁寧に自分自身を調えて暮らしを実践し、新陳代謝と生まれ変わりを味わっていきたいと思います。