場を守る意味と価値

その土地にはその土地特有の歴史があります。それは言い換えれば、その土地で発生してきたご縁と物語があるということです。私たちは、今いるところが前なんだったのかは想像でしかわかりません。もしも遺跡などが遺っていたら、なんとか想像できますが痕跡もないような状態の場所になれば想像することもありません。

例えば、ある場所では祭壇があってずっと祈りの場であったところがあったり、また或いは戦争でたくさんの人がそこで亡くなっていたり、それは何百年も経てば更地になっていたり土に埋もっていたりしますから今、そこにいても目には見えませんからわからないのです。

しかし、その土地には必ず何らかのご縁や物語があり消えているようで消えずにそのままその土地に紐づいて記憶として遺っているように私は思うのです。

それをふとした時に実感することがあります。

それは懐かしいと感じる場所であったり、なぜか身震いするような嫌な気配があったり、そこに来ると祈りや癒しの空気に包まれ眠くなってきたり、それはその土地、その場所特有の何かが働きかけているからだと私は思います。

まもなく量子力学など、他にも場を科学的に分析して可視化できる技術も整ってくれば、これらの土地や場所には何かが存在したままにあることが解明されるように思います。

むかしの人たちは、そこに存在しているご縁や物語を感受し感知することができたからこそそこにお社を建て、お祀りすることをしてきました。また権現といって、神様が顕現されているということを人々に可視化できるようにしていました。

私たちは知らず知らずのうちに、その場所の歴史と紐づき、その影響を受けているのです。だからこそ、私たちは「場」を整え、大切に甦生し続けていく使命があります。

私は甦生に取り組みますが、場所との出会いは歴史との出会いでもあります。どう古代、いやもっと前、何千年、何億年も前から続いてきた偉大な何かとアクセスし、その力やご縁を結んでいく。すると、そこに引き寄せられるように人々もまたふれあい、物語をつないでいくのです。

宗教的だとか哲学的だとか、もしくは変人だといわれるような架空仮想な話のようではありますが、確かにその場所には私たちが目には見えない物語が連綿と生き続けているということです。

子どもたちにも、場を守ることの意味とその価値を伝承していきたいと思います。

真に尊重し合う世の中へ

昨日、結果平等や結果公平の話が会議の中でありました。もともとこの平等や公平性などは誰かによって押し付けるものではあってはいけません。なぜならこの平等や公平性は、あくまで「受け手」がそれを感じるかどうかが重要だからです。

例えば、食料で平等といって同じものを与えることや、公平といって分配するということをやったにします。しかし個々人には好き嫌いもあるし、それに体の大きさ、病気の有無、アレルギーなどもあります。与え手がいくら同じものを同じ量与えたとしても受け手がそれを必要としない、もしくは何らかの理由で欲していない場合はその平等や公平は成立していないからです。

お互いの尊重し合う社会というのは、相手の意見をよく聴いて尊重してお互いに配慮し合う中で実現していきます。それはどんなに小さな意見でも一理あると傾聴し、またどんなに弱い立場の人の話でもそれも一理あると大切にしていくところに存在していくのです。

先ほどの平等や公平性を考えて一方的に押し付けるというのは、まさにやっていることの本質としては不平等や不公平を一方的に押し付けたということになっています。多様な意見や状況を尊重しようとしていないところにすでに不平等も不公平もあるのです。人間は正論だけでは解決できないことはあるのは当然です。なぜならこの世の中に正しいということはないからです。同時に間違っているということもありません。それが自然界であり、宇宙の道理です。

だから私たちはどんなことにも配慮し、尊重し合うことで調和しこの世で持続可能ないのちの循環をみんなで分け合い助け合いながら暮らしていけるようになったのです。それを人間の一方的な押し付けで、正論を掲げ、人類の中でしか通じないルールを押し付け、一方的に不平等や不公平を広げていくのは単に誰かだけによって独裁する世の中に仕上げていくだけのように私は思います。

独裁の中では本当の意味で自立や協力し合うような自立分散の平等や公平の世の中になることはありません。私たちは、平和を持続させていくためにも各々が尊重し合う世の中を目指していく必要があります。

私がブロックチェーンのテクノロジーにこだわりそれを昇華させて徳を積むというような実証実験に取り組むのもその原点はこのいのちのありのままの姿を可視化して気づきを与えるキッカケを創ろうとする実験でもあるのです。

子どもたちには、見守る保育のようにお互いに尊重し合いながら助け合う環境の中で本来の人間社会の在り方、自然との共生や貢献を学び合ってほしいと願います。引き続き、自分のやるべき使命に没頭していきたいと思います。

生き方の選択

環境問題というのは人間の問題であることは以前このブログでも書いています。そもそも温暖化の原因は人間の影響を受けてのことであり、理由はわかっていても変えることができないでいることでより問題は深刻化してきました。

よく考えてみると、私の幼い時から環境問題のことは言われ続けてきました。レーチェル・カーソンの沈黙の春で農薬や化学物質のことが記され日本でもこれらの問題に気づいて行動していく人も増えていきました。

実際には、ゴミ問題と同じで明らかにゴミの増える量がゴミを出さない量を凌駕しているため問題が深刻化します。ゴミになるものを作るところから解決しないといけないのですが、大量生産大量消費という前提を変えるわけではありませんから問題の原因そのものの根本を解決していないのにいつまでも対処療法ばかりしていてもキリがありません。

そしてこの原因そのものを突き詰めていくと、人間そのものの問題であることにたどり着くのです。それをロボットなどで解決しようとしても、そのロボットをつくっているのも人間であり、人間が関わるから原因はやはりなくなりません。なのでこれは持病がある人間のように病気とうまく付き合っていくしかないように思うのです。

人間は病気を持っています。病気があるからこそ、気を付けることで健康を維持していくこともできるものです。若い時は何をやっても元氣で病気など気になりませんが、歳を経ていくとあらゆる病気にかかっていきます。免疫も下がっていきますから、健康的な食生活、運動、睡眠、心の状態、感情を整えていくような暮らしが必要になっていきます。

私たちの先祖たちは、人間の持っている病気、言い換えれば欲などにも向き合って調整してきました。何でも思い通りにはならない自然の中で謙虚さを学び、生死を尊び、素直さを学び、教えといった智慧をみんなで分かち合って助け合い暮らしてきました。

日本の伝統工芸や伝統文化の中でもその智慧の仕組みが入っているものを感じます。今の時代はスピードが急速にあがり、10年後の未来には何が起きているのかということがあまり予測できません。子どもたちの時代ではさらにスピードは加速していくはずです。

だからこそ、子どもたちのために何を選択するかは私たちの世代の責任でもあります。日々の暮らしの小さな決断が未来を易えていくことを知り、その生き方の選択をしていきたいと思います。

想いの本質

私たちは先人たちの想いを継いで今に存在しています。その想いを継ぐのは、血のつながりもあるかもしれませんがそれ以上に想いで繋がっていくものです。人の一生はあまりにも短く、あっという間に人生が終わってしまいます。

そういう意味では、みんな志半ばで斃れていくのです。だからこそ想いがあるのです。つまりこの想いで人が繋がっていくというのが想いの本質なのです。そしてそれは決して死んでしまったから終わるのではなく、死んでからも続いているものであり生きているから繋がらないのではなく、生きていても繋がり続けるのです。それが道ということでしょう。

人生は誰もが想いを持てば道半ばです。

私の今の取り組みも、多くの方々の想いが繋がって実になっているものです。そしてこの先もずっと同じようにあらゆる人たちの想いが集まってさらなる成果を結んでいきます。

そのご縁のつながりこそ、決して金銭では交換できないかけがえのない豊かさであり私たちの仕合せの本体ということでしょう。

もしもこの世に金銭がなくなったとして、何がもっとも大切だと感じるか。それは私は「ご縁」であると、そしてそのご縁を結ぶつながりの「想い」であると私は思います。

人は想いとご縁で結ばれているものであり、これが仕合せを積み重ねて未来を希望にしていくように思うからです。

だからこそどのような想いを日々に醸成していくのか、どのようなご縁を結び活かしていくのか、そして如何に豊かな幸福の場を創造し続けていくか。ここに生成発展の万象繁栄の根本があるように感じています。

想いは形がないものです。しかし想いこそ、いのちの発する偉大なかたちでありご縁こそそれを結ぶいのちの綱です。今でも目を閉じると、志半ばで去っていた人たちの想いが私に宿っているのを感じます。そして耳を傾ければ、この先の未来で私を待っている想いが溢れています。

子どもたちのためにも想いを力に換えて、私の役目を全うし道を切り拓いていきたいと思います。

感覚の道

私たちは理性や理屈とは別に感覚というものがあります。感覚でいえば、五感などの感覚があるように金銭感覚などもあります。金銭感覚というのは、金額に対する多い、少ないの感じ方、お金の使い方の感覚のことです。他にもお金の使い方、使い道、お金そのもの対する考え方や意識のことをいうように思います。

この感覚は、その使い方、使い道のことです。

身体の感覚であれば、身体の使い道。金銭の感覚であれば、お金の使い道。つまりは、どのような使い道を身に着けているかということのことをいいます。例えば、直観が鋭い人というのは、直観の使い道が分かっている人ということになるように思います。

感覚というのは、鈍らないようにするためには常に磨き続けて鍛錬をしていなければなりません。先ほどのお金の使い道であれば、日々のお金の使い方を磨いていくということ。これは使い方だけではなく、貯め方、活かし方、日々の暮らしの中でどういう使い道をしているかという感覚です。

感覚が鈍ると、色々なことが鈍っていきます。

例えば、私も高菜の漬物を漬けていますが塩加減や重しの加減などの塩梅も感覚です。どれくらいの量に対して、どれくらいの塩加減かはその時の五感や漬物との対話が必要になります。それに積み重ねた経験もあります。さらに新たなことへの気づきや、新しいことへの好奇心なども必要です。

つまりは感覚を鈍らさないというのは、常に好奇心で主体性を失わず新たな発見と研鑽を味わい続けているということです。

そのためには、目的をもって道に挑んでいく必要があります。何のためにこれをやるのか、もしくはこの目的の大義が何かと自問自答をして実践し続けていく必要があります。それが生きる喜びでもあり、手段を活かす方法にもなるからです。

感覚を研ぎ澄ませていくことは、自分のいのちを輝かせていくことと同義です。子どもたちのためにも感覚を磨いて真に豊かな世の中を創造していきたいと思います。

滝場の甦生

故郷の古の滝場周辺の山道を切り拓いています。ここは平安時代には、日本全国に知れ渡るほどの修験場でしたが現在ではほとんど誰も人が来ない場所になっています。少し入るだけで、現世とはかけ離れたような清浄な空気が流れています。

今までどれだけの数の山伏や信仰のある方々がここを守ってきたか、それを想うとこの場所が多くの方々の人生を潤し役立ってきたことがわかります。現在は、滝も枯れ、鬱蒼とした木々が生え、誰もそこにはいくことはありません。

それを今一度、甦生させようということで鬱蒼とした木々を取り除き、草を刈り、人が踏み入れることができるようにし、枯れ木などを片づけました。

改めて場所を整えていくと、その当時の様子が少しずつ甦ってきます。枯れた滝がどのようにこれから甦生するのかはわかりませんが大雨が降るとかつての状態に戻っていきます。

枯れた理由は、自然現象もあるかもれませんがほとんどが人為的なものです。滝の裏側に大きな工事現場があり地下水の流れが変わってしまっているのかもしれませんし、もしかすると過剰な植林によって水が吸い上げられてしまっているのかもしれません。上流でダムができて流れが変わったかもしれません。これからその理由を探索していきますが、古の水の流れが変わってしまえばその場所の持つそのものの価値も変わってしまいますから甦生はその一つ一つを丁寧に恢復させていくしかありません。

私の取り組んでいる甦生は、医者のやっていくことに似ています。それも自然治癒をする医者です。できる限り、元の状態に戻していく。しかし周囲の環境が変われば、いくらそのものを甦生させてもなかなか元通りになることはありません。

だからこそ、創意工夫して元よりも善い状態になるように負の現状を逆手にとってそれを甦生させていくのです。そうして甦生したものに人は感動し、さらに新たな人を目覚めさせていくことができます。

お金にもならず儲からず、誰もやろうとしないことでも子どもたちや未来の世界のためにやることはたくさんこの世には存在します。それを発見し発掘し、それを発信し、発心する人を増やすこともまた大切な志事です。

引き続き、古来の滝場の甦生を通して日本人の心もまた甦生します。

やまとの国

よく雨が降るときに山を眺めると水蒸気のようなものが山間を覆っているのをみかけます。湯気のようなものですが、あれが雲の赤ちゃんのようなものだと感じます。

雲は雨をつくり、そしてあの湯気が山を登っていき雲になっていく。山にはその水の循環の流れを司る何かを感じます。その山に降った雨は、山が吸収して沢になり川になって海に流れていきます。海もまた水蒸気を蒸発させて積乱雲になりまたその水を山に帰しにきます。

こうやって山があるから水がうまく自然界を調和していくのです。私たちが山に何かを感じるのは、山は私たちの水を司り、その水を調整する大切な役割を果たしてくれていると感じるからかもしれません。

山はむかしから信仰の原点であり、私たちが祈りを捧げてきた場所です。

お寺にも山号があるように、むかしは山にお寺がありました。そのままお寺の名前になったともいわれます。気が付くと、私は聴福庵とか、徳積堂とか、「庵」や「堂」を建て、今度は「坊」をやります。何を創っているのかと思えば、今の時代に信仰のかたちを甦生して再構築していることがわかります。

山はそういう意味でも、私にとって何よりも神聖なものです。

山に関わる中で、私は水のことを思います。水をどう尊敬し、尊重し、水をどう活かしていくか。水の持つ、神秘に向けて甦生をはじめていきます。

雲を産み出す小さな水蒸気、その霧霞の中に幻想的ないのちの躍動を感じます。観えている景色を、さらに人々の心に投影できるように山に親しみ、山を想い、やまと一体になろうと思います。

やまとの国に相応しい甦生に取り組みたいと思います。

歴史の本質

歴史書に有名なものに司馬遷の「史記」があります。この「史記」は今から2000年以上前の紀元前90年代に編纂されたものです。これは中国初の正史とされている歴史書でもあります。

今でもこの史記を読んでいると、人間の数々の生き様やドラマが記録されています。それもあらゆる教訓や智慧も記録されていて、読んだ人たちの心に響くものがあります。

私は幼い頃から偉人伝や歴史の物語が好きでたくさんの本に出会ってきました。正確な事実だけを書いている記録ではなく、そこから想像できる歴史の主人公たちの心情や生き様はいつまでも記憶に残っています。

そう考えてみると、歴史書にみる物語はそれを書く人、見る人、感じる人によってのものであることがわかります。その事実をどうその人が読み解いたか、そしてそれをどう感じて共感して綴ったかということです。そこに共感して私たちはその人物から歴史を学ぶのです。

その人物から何を学ぶか、それは人間の本体や本質を学ぶのです。

もちろんその時々の時代背景や環境もあるのは事実です。しかし人間の営みのところはそこまで大差はありません。2000年前も家族がいて社会があり、権力者がいて戦争もあります。今でもそれは何もなくなってはいません。一つ言うのなら、そのスピードを上げてより激しくなっただけです。

人類はいつまでも生き死にを繰り返して同じことを続けます。学んでもまた学ぶ、永遠に同じことを繰り返しながら学んでいくのです。そしてまた同じ過ちに気づき、そして成長をし続けます。それは人の一生をかけての繰り返しの業です。

過去の人たちはきっと未来の人たちをみて「なぜまた同じことを」と思うかもしれません。しかし同時に未来から過去をみてもいつまでも同じことをしているのです。つまりこれは成長とは異なることであることに気づきます。

人間は生まれたその瞬間から死に至るまで、それぞれに物語をもって生まれそして物語を体験して死んでいきます。つまりそれは記憶媒体のようなものです。記憶をいつまでも活かすように同じことを繰り返していきます。

私たちの役割とは、真実はそういうことかもしれません。こんなことを言うと変人のように思いますが、それでも人は同体験を宿命的に授かっているように私は思うのです。

ただ、以前よりも磨くこと、同じでも光らせること、これは私たちが深層で願っていることです。子どもたちにも、日々の一期一会の中で如何に生き、如何に死ぬのかということを伝承し、未来をさらに光らせていきたいと思います。

 

微生物から学び直す

私たち人間は微生物でできていますがこの微生物はまだまだ未知の存在です。宇宙空間の過酷な環境で数年間生き延びている微生物もいれば、極限環境微生物といって強烈な酸性、放射能、高熱高温、あらゆる極限環境でも生存しているのです。人間であれば、即死するような環境であっても微生物は生き延びていきます。

もともと私たちの生命はどこからやってきたのか、突然湧いたという説もありますがどこからの宇宙から飛来してきたという説もあります。これをパンスペルミア説(パンスペルミアせつ、panspermia)ともいいます。これはウィキペディアによると「生命の起源に関する仮説のひとつである。生命は宇宙に広く多く存在し、地球の生命の起源は地球ではなく他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものとする説である。「胚種広布説」とも邦訳される 。またギリシャ語で「種をまく」という意味がある。」とあります。

キノコのコロニーのように、小さな微生物たちが集まり形をつくり胞子を撒いて拡散していく。この仕組みで宇宙空間を漂い、あらゆる星々の間を移動しながら自分たちに相応しい生命環境の中で独自の進化を遂げていくというものです。

先日もカビのことを書きましたが、私たちの生活空間には常にカビや微生物が漂っていて根付けるところに定着してそこでコロニーをつくり育ち拡散していきます。同様に、宇宙でも一部は仮死状態になりながら漂い、また最適な環境下にうまく漂い定着できることができればそこで生命活動を活発にさせていくのです。

人間の体内は微生物でできていますし、小腸をはじめあらゆるところで私たちは微生物と感情などを調和していますから微生物が私たちの根源ということも直観することができます。

その微生物たちは私たちの知らない宇宙を知っていて、遠く離れた星からあらゆる銀河を漂い星々に散らばってやってくると思うと何ともいえない不思議なロマンを感じます。

このあらゆる極限状態でも生きられるとするならば、そこでコロニーをつくり定着したものが宇宙人ということも予想もできます。例えば、酸素のない環境下でも生きられる進化を遂げる私達みたいなヒト型のものもあるかもしれません。あるいは、苔や植物のような形で進化したものもあるかもしれません。地球のように水が豊富な環境ができれば、星々はひょっとしたら地球型の微生物群が増えていくこともあるかもしれません。

そんなことを考えていたら、私たちのルーツはどこからやってきたのか。そして多様性は何を根源に今に至るのか、そして進化とはいったい何かということも仮説を立てることができるように思います。

科学が進めば進むほど、宇宙の偉大さ、その設計の美しさ、素晴らしさに魅了されていきます。一緒に生きる存在、共に一つである生命は微生物たちから学び直せます。

子どもたちのためにも微生物の存在に目を向けて、微生物から学ぶ姿勢を忘れないようにしていきたいと思います。

文化の甦生

最近、文化財のことについて考える機会が増えてきました。ウィキペディアには「広義では、人類の文化的活動によって生み出された有形・無形の文化的所産のこと 。「文化遺産」とほぼ同義である。」、「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約 、 文化財不法輸出入等禁止条約 、文化財の不法な輸出入等の規制等に関する法律などの条約および法令において規定されている「文化財」のこと。」、「日本の文化財保護法 第2条および日本の地方公共団体の文化財保護条例において規定されている「文化財」のこと」とあります。

シンプルに言えば、人類の伝統や歴史において政治的にも学術的も希少なもので価値があり文化財と判断されるものが文化財ということになりますが文化財は見方を変えればこの世のすべてが文化財ということになります。

特に希少になってくればほぼ文化財のように扱われていくものです。大量に生産できて大量に余っているものはいくら文化財でも価値があまりないように扱われます。もしくはお金にならないもの、復元できないものもまた一つの文化財です。

この文化の「財」とは、貴重なものや価値のあるものを指します。貴重であると思えるものや価値のあるものだけが財とつきますが本当に貴重なもの、価値のあるものが何かと定義するものの違いではまったく文化財の内容も変わってくるのです。特に時代が異なれば、文化財の価値も変わっていくでしょう。それだけ変わり続けているものが文化財ということになります。

例えば、何百年も前からの古民家で歴史的な何かがあった建物であっても時代が異なれば無価値になるものもあります。平和な時代の建物と戦乱の時の建物でも価値は異なります。その時代時代に変化していくものだから、その時代に相応しい活かし方があります。その活かし方もまた文化財になる日もくるでしょう。つまり、ただ保存し、ただ時を止めてその建物を守ってもそれが文化財ではないということです。

私たちはどのようなものであっても、その時代に生き、その時代を舞台に活躍していくものです。活躍するための場としての文化があるのであり、文化が先ではありません。

何をどうするかは、その時代の価値観や人の存在、そして時の持つ出来事に左右されていきます。本質をよく観て何がもっとも大事なことなのか、そして今をどうするのかからよく議論していく必要があるのです。

子どもたちのためにも、新しい文化の甦生を取り組んでいきたいと思います。