馬との循環

今年は午年ということもあり、馬を深めています。もともと馬の起源は人類が誕生した700万年前だといいます。洞窟壁画などにも描かれ、その頃は狩猟をして食料にしていたようです。大きな転換期は約4000年前に家畜化されたところにあります。この頃には、中央アジアの草原で移動手段として用いられました。そこから、人類は自分の足で走るよりもずっと早く遠くまでいける方法を得て文明を急成長していくことになりました。

馬を得てから人類は距離や時間や範囲を広げて情報交換や交易、また支配などを拡大していきました。そして戦争も徒歩で戦うものが、騎馬兵や戦車といって機動力が増しました。特に中世の帝国や支配には馬がなくては存在しないほどです。

しかし同時に馬にとっても人類の進化と共に色々な苦難もあったように思います。家畜化というのは、人間の都合でいかようにも扱われます。よい人間が動物を飼育すれば、大切に扱われて心を通わせます。しかし、悪い人間、つまりいのちとも思わない単なる物や道具として粗末に扱う人間次第では悲惨な一生を送ります。これは家畜かどうかではなく、戦争という環境が人心を壊すことで馬も一緒に被害があったということです。

近代までは馬は農耕や信仰などで暮らしの一部でしたが、現代は娯楽や文化、食料やスポーツで馬は使われています。日本だけでも毎年競走馬として7000頭が生産され、一部の資料では毎年7000頭が殺処分されるといいます。

本来、馬の寿命は20年から30年あるといわれます。実際に競走馬として成功して寿命を全うする馬は1パーセント未満だともいいます。実際には競走馬は怪我や負傷も多く、引退後に、飼育費が払えず、乗馬などでも期間が短く、ほとんど維持できなくるといいます。

農耕馬であれば、暮らしの循環のなかで天寿を全うしたものも多かったはずです。人々の暮らしが資本主義や産業革命で大変革したときに今のようないのちの使い方、使われ方に変化したことが大きいように私は思います。

人類をずっと支えてきた存在に対する尊厳というものはどうなっているのでしょうか。それは鶏なども同様ですし、他にも様々な生きものがいます。便利な世の中になってお金で何でも買えるような時代、生き物のいのちもまた軽んじられているようにも思います。

動物も人間のように感情があります。植物においてもまた生きてきた年輪と同じくらいの歴史を持ち、伐採されたあとも形を残して生き続けています。

いのちが粗末にされる時代は、見方を変えてみると人類史上今がもっとも悲惨な時代かもしれません。

それぞれの役割の中で、真摯にいのちを燃やしていますが存在そのものを慈しむような暮らしを、本来の自然との循環から問い直す時代なのかもしれません。暮らしフルネスのなかで、静かに今を見つめて改善していきたいと思います。

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