大地倫理

アルド・レオポルド(1887〜1948年)という人物がいます。この方はアメリカの森林官、生態学者、自然保護思想家です。この人物は自然をどのように守るべきかを問い続け、最終的に「土地倫理」という思想に辿り着いています。この土地倫理は、まさに現代の自然保護をはじめ山の保全の在り方や本質を判断し學び直すためのとても大切な羅針盤になるように思います。私はこの土地倫理を大地倫理と意訳します。

若い頃のレオポルドは、森林官としてオオカミを減らせばシカが増え人間にとって望ましい自然になると考えそのオオカミの群れを狩りました。すると捕食者を失った山では草食動物が増えすぎ植物が食べ尽くされる経験をしました。そこで人間に都合のよい自然が必ずしもお山全体にとって望ましいとは限らないことを学び、それまでの森林管理の在り方に疑問を感じて自らがお山に暮らし、研究をし、どうすれば自然との共生が実現するのかを実験しました。

そして人間は土地の征服者ではなく、大地という共同体の一員であることに気づき自然を所有し、利用し、管理するという立場から、自分自身も自然の関係の中で生かされているとし、自然保護の定義をまず人間の立場を問い直すことからやり直していきました。

また大地の健康とは大地が自らを再生する力であるとしそのもののハタラキを観察し、自然の健康とは人間が思い描く理想の姿に作り変えることではなく土壌が育ち、水がめぐり、植物や動物が互いに関わりながら、土地自身のハタラキが永続していくことだと考えました。

だからこそ生物共同体の完全性、安定性、美しさを保つことがまず優先すべきとし自然全体にどのような影響が及ぶのかを常に考える視点に切り替えました。ハタラキの方に意識が変わることで「自然に賢明に手を加えるなら、まずすべての歯車と車輪を残しておかなければならない」というメッセージも残しています。

そして自然保護の本質を人間と大地との調和だと洞察し、人間と自然を分けるのではなく、自然の一部として人間の暮らしと自然の働きが、お互いを損なわずに続いていく関係をどうすればいいかを追求するのです。

これは私が今、実践している暮らしフルネスとその本質は同じです。

英彦山の守静坊においても、私はかつての山伏がどのような暮らしをしていたのかを研究してそれを現代へ甦生しています。それは別に昔に戻そうという単純な取り組みではありません。今ならどうお山と共生して関係性を結び直すかという実験なのです。

しかしお山を遊行していると、人間と自然が分かれて別々になることであらゆる生態系が傷ついているのをよく目の当たりにします。現代の人間の活動やそして現代土木が、如何に対処療法であり人間都合か、それによって仕組みがおかしいことを実感すればするほどに大地やお山の元氣が失われていることを実感します。

実際にレオポルトは現代の便利な暮らしに対して「農場(田畑)を持たないことの精神的な危険は、朝食が食料品店から、暖かさが暖房器具から生まれると思ってしまうことだと」洞察していました。これは関係性の話です。便利さや経済合理性、物質優先の社会に変換されていくなかで、本来の自然との循環関係が失われていき、人間自体もそのうち自然の一部であることを忘れ人間と自然の共生の両輪を意識的にも破壊されていくことを憂いていました。

本来の食べ物は店にあるのでもなく、暖かさも機械だけから生まれたのではない、そこには自然の資源と人々の暮らしと営みからであること。暮らしという根源が次第に失われていくことで、自然が傷ついたことを発見していたのです。

1935年にはレオポルドは家族とともに荒廃した農地を購入し植樹や草原の回復に取り組み始めた。そこにあった古い鶏小屋を小さな山小屋として使い季節ごとの植物や鳥の変化を観察し、記録を残していきました。そしてそのお山の暮らしを通して、あらゆる生き物たちの声を聴き、季節のめぐりを共にし、野生のいのちに触れ人間の生きる豊かさ訴えていました。

お山を保全するとは、人間がお山を一方的に治すことではないように思います。現代の人間にとってのお山を治すのは、綺麗に整備することです。しかし本来、お山が本来持っているハタラキをよく学び直し、如何にそのいのちのハタラキを妨げないようにするか、つまりいのちから考えるかということでしょう。

だからこそみんなのいのちの耀くようにお山の恵み氣気づき、その恩恵に感謝し、お手入れを通して恩返しをする人々が『育つ場』にしていくことが大切ではないかと私は思います。

現代は、お山も不動産として価値利用しようとします。全部、人間都合、人間の物差しでお山の再生をします。しかし大地のいのちのハタラキを考えれば、それが返ってハタラキや甦生力を妨げ、いのちの循環やお水の流れを分断することにもなるのです。

お山と共生する暮らしを、もう一度、お山と一緒に生きて、お山のめぐりや循環、そしてハタラキを学び直すことからはじめていきたいと私は思います。

改めて、鞍馬山、英彦山との暮らしのご縁に心から感謝しています。

大地の天狗 魔王尊

昨日は久しぶりに鞍馬山に来て終日、大地の再生の矢野智徳先生やいのち会議の堂目卓生先生と一緒にお山を歩きいのちの状態を確認しました。

いのちという観点でこの世の中や大地を見直すと、眼に見える部分と眼に観えない部分が羅網のように縦横無尽に結ばれつながりこの場を形成していることを実感します。

いのちのハタラキというものは、人間の都合では観えず、そこには確かに自然の一部としての人間として観なければ現れることもありません。

人間は物質的経済や観念が刷り込まれ、自然から遠ざかっていきました。

その影響で、本来の自然のハタラキやいのちの絶妙な調和を実感しなくなりました。良かれと思うことが自然の循環を阻害し、目先の対処療法が人間の暮らしを追い詰めていきます。

まさに意識の転換や、価値観の刷新、自然のリハビリが必要です。

そのためには、まず「場」が必要です。

場によって育つ仕組みが要ります。

人間は、知識や思い込み、刷り込みを超えたものを学び直すのには具体的な体感や経験、目が醒めるような出来事が必要です。

本来、お山という場所はそのハタラキにおいてもっとも効果がある場です。

太古のむかしからお水が湧き、信仰の対象とされ、数々の覚者が場を調えて伝承してきました。

時代が変わっても、普遍的な場の力は宿り続けています。そして天狗です。天狗は、大地の化身としてそのハタラキを智慧として教えて下さる存在です。

いのちの根源が権現化した存在こそがこの天狗の正体なのかもしれません。

自分の使命を全うしていきたいと思います。

お水のめぐり

私たちは当たり前に暮らしを営んでいますが、それはお水があるからです。お水があるところにいのちは集まり、そこに暮らしがはじまります。現在も、もしも他の惑星にいくのなら私たちはそこにお水があるかどうかを最初に確認します。魚にお水がなければ生きていけないように、私たちも同様にお水があるから生きていけます。

お水の大きな役割は「めぐる」ことでエネルギーをはじめあらゆるものを循環させて活かす力です。生命とは、このめぐるなかに存在していることを意味します。さらにいえば、めぐらなけばいのちが活かされないのです。活かされるというのがとても重要で私たちは生きているということをただの生存ではなく、いのちが耀くとも表現します。

例えば、お水やいのちは地球という大きな自然の営みの中で互いに深く結びついています。水は蒸発して雲となり、雨となって山に降り、土に染み込み、川となって海へ帰ります。いのちもまた、生まれ、育ち、死を迎え、土に還り、次のいのちを育む糧となります。どちらも姿を変えながらめぐり続けます。

地球で知られている全生命は、水なしには生きられません。そして生命が育つことで、水のめぐりも変わっていきます。森は雨を受け止め、木々は根から水を吸い上げ、葉から水蒸気を空へ返します。落ち葉や微生物は土を育み、その土がまた水を蓄え、次のいのちを支えます。つまり、水がいのちを育み、いのちが水のめぐりを育んでいるのです。この関係こそが、いのちと活かすことの正体です。

今日は、これから鞍馬山のお手入れを大地の再生の矢野智徳さんや鞍馬寺の方々や関係者で行っていきますがまさにこのこのめぐりをどう診断し調えるかという実践です。実際にこの私たちの大地は、ただの地面ではなく、一瞬一瞬のわずかな瞬間にも豊かなめぐりを生み出し続けているということ。

当たり前ではなく、そこに自然がどのように働くのか、学び直していきたいと思います。

結の有難さ

昨日は、井戸掘祭の結が集まりみんなで井戸を掘りました。土地の粘土層の関係で井戸は掘り抜けずお水が湧きませんでしたが一期一会の学びの時間になりました。

元々、お水が湧くことを目指していましたがただお水が湧けばいいのではありません。人がお水に関わり、お水から學び直すことで如何にお水が大切な存在なのかを知ります。

当たり前に使えているお水が、実はどれくらい貴重なものか。熊本の被災地で活動しているミズムスビさんのお話をお聴きすると、まったくお水がないことがどれだけ大変で悲惨なことかをお伝えいただきました。高齢者や一人暮らしのおばあちゃんなどは、とても重たい水を汲んで生活を続けることはできません。身近にお水があることではじめて私たちの自炊をはじめ、トイレやあらゆる生活を行えます。

改めて、忘れはならないこの便利な環境で失ったものを改めて実感する一日になりました。

また井戸掘りの方は単管パイプを打ち込んでいきながら、それを又抜いては別の単管パイプを打ち込んでいく。これで地下に入る距離が体感できます。またみんなで協力して打ち込んでいきますが実際には大変な作業です。アイデアを出し合い、持ち味を発揮しあい、あの手この手で困難に対処していきます。まさに理想的な主体的なかかわりに、参加者のみなさんも感銘を受けていました。最後まで声を合わせて諦めずに何度も何度も打ち込んでいきます。50名以上も結に参加していただきましたが、結局は人数が足りないほどで如何に「結」で人が集まることがが貴重なのかも感じました。

私と言えば御蔭で今朝から体中が筋肉痛で大変です。大地を相手にするというのは、身体も心も使います。大地のいのちの元氣をいただき、身体も目覚めていきます。

次回は、22日にまた結で続きをやります。

改めて学んだことを、何度も内省して次回に活かしていきたいと思います。

 

井戸は暮らしの偉大な先生

本日は、これから一期一会の井戸掘祭です。私は有難いことに、井戸の甦生をするのは6回目になりますが人生の中でお水が地下から湧き出てくる瞬間に立ち会える感動は一生の財産になっています。

最初は、手掘りで一か月半ほどかかりましたがみんなが手伝ってくれて枯れていたお水が湧いた時にはそのお水の美しさと清らかさに涙と感謝でいっぱいになりました。一番大変だったのが、最後の1年半以上関わって職人と一緒に掘った18メートルの井戸です。あの時も湧いた時には、言葉では言い尽くせない感動と感謝がありました。

今回の井戸掘祭は50名以上の方々が結に参加してくださって一日で掘っていきます。色々な思いが湧いてはあまり眠れませんでしたが、文化の日でもあり弁財天の巳の日に相応しい朝霧に包まれた場になりました。

二宮尊徳にこのような話があります。

「大道は譬(たとえ)ば水の如し、善く世の中を潤沢して滞(とどこほ)らざる物なり、然る尊き大道も、書に筆して書物と為す時は、世の中を潤沢する事なく、世の中の用に立つ事なし。譬ば水の氷りたるが如し、元水には相違なしといへども、少しも潤沢せず。水の用はなさぬなり。而(しか)して書物の注釈と云ふ物は又氷に氷柱(つらら)の下りたるが如く、氷の解て又氷柱(つらら)と成りしに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張(やはり)同様なり。扨(さ)て此の氷となりたる経書を、世上の用に立てんには胸中の温気(うんき)を以て、能く解して、元の水として用ひざれば、世の潤沢にはならず、実に無益の物なり。氷を解すべき温気(うんき)胸中になくして、氷の儘(まま)にて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至りなり。世の中神儒仏の学者有つて世の中の用に立たぬは是れが為なり、能く思ふべし。故に我が教えは実行を尊む。夫れ経文と云ひ経書と云ふ、其の経と云ふは元機(はた)の竪糸(たていと)の事なり、されば、竪糸ばかりにては用をなさず、横に日々実行を織り込みて、初めて用をなす物なり、横に実行を織らず、只竪糸のみにては益なき事、弁(べん)を待たずして明かなり。」

意訳をすると、

「天地の大道はお水のようである、流れるままに世の中を善くしては潤し滞ることもない。しかし如何にこのように尊い道であってももしも文字や言葉、そして書物や本になると世の中を潤すこともなければ役に立つことがないそれはなぜか。それはまるで氷のように凍ったものになっているからだ。ましては本の注釈や解釈というものもまた氷につららが下がったようなものでこれも役に立たない。では、この氷になったような文字や本をどのように甦生するといいのか。これを真にまた世の中の役に立てるには、心の中の温氣、真心でよく溶かして元のお水にしてからそれを役立てていくこと。そうすれば世の中をよく潤すことになる。もしも氷を解すべき温氣や真心がなくて氷のままで使っていては愚の骨頂である。世の中に神儒仏の学者が有って世の中の用に立たないのはこのためである。だからこそよく省みることだ。私の教えは、「実践と実行」こそ最も尊ぶものだ。これを経文、そして経書という。その経というのは機織り機の縦糸の事である。しかし縦糸だけでは役に立たず、横に日々実行実践を織りこんで初めて本当に役に立つのだ。つまり横に実行を織らないで、ただ縦糸ばかりでは役に立てないというは誰が見てもすぐにわかることだ」と。

つまり本質は、いくら智慧を知っていても、実践実行しなければ役に立つものにはならないということ。

智慧や真理もまた知っただけでは氷のようなものです。それを志や真心、初心を持ってよくよく熟成させ、その時機が来たら勇氣を出して迷わずに実行と実践をする。その時こそ、「至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く」境地に入ります。

つまり「まるでお水のように直観のままに潤沢して滞らずに上善水の如く天地自然と一体となって善を為すことができる」ということでしょう。この時、人は徳の循環を実感するのです。

太古のむかしから人道はお手入れをすること、そして天道は謙虚にすべての流れにお任せすることを一つの実践としてきて精進して生き延びてきました。

井戸は私たちの暮らしの偉大な大先達であり先生です。

本日は、よろしくお願いします。

井戸端

明日は、いよいよ古民家和樂にて井戸掘祭を開催します。もともと古民家和樂には、江戸時代に掘られた手掘りの井戸があります。なぜすでにむかしの井戸があるのに、今さら新たに井戸を掘るのかと思われるかもしれません。

現代は、便利に蛇口をひねればどこでもお水が出ますしコンビニや自販機でもすぐに買えます。お水というのは、どこでも誰でも気楽に手に入る存在になっています。

しかし熊本県八代市などの地震被災地で井戸掘りを行うミズムスビさんはその被災地支援の報告の中でもこのお水を汲む大変さ、お水が身近にないことの不便さ、お水を中心に人が集まり結ができ助け合うことの素晴らしさなどを発信されています。これは井戸端が如何に大切なのかということの氣づきです。

むかしはこの「井戸端」というものがどれだけ大切なものだったかを知っていました。その証拠に、井戸端にいつも人々が集まり情報交換をし、心を通じ合わせていのちを活かしあう場がありました。井戸端は決して便利ではありませんでしたが、自然との関係性や結びつき、繋がりは人類が決して失ってはならないお水を中心に暮らしを支える真の文化の伝承の場があったように私は思います。

そもそも私たちのいのちは、動植物から微生物に至るまですべて「お水」を中心に分け合いいのちをつなぎ暮らしています。そのお水が湧く處、お水が在る処にいのちは活かされ流域に無二の文化が栄えます。これは太古のむかしから今でもどの国でも町でも変わらない真実です。

この井戸端でのお水との関係性が、暮らしを彩り、喜びや豊かさ、仕合せや感謝の循環などが産まれていました。つまりむかしの井戸端は、単にお水を汲む場所ではなく地域の文化や暮らしを潤してきた唯一無二の「場」であったのです。

この場が失われ、文化が減退し、人々の繋がりやいのちとの関係性も希薄になった昨今において今こそこの新たに井戸端の重要さに氣づきそれを甦生しようとする試みなのです。

私の故郷は有難いことにとてもお水が豊富で水源地を要するお山もたくさんあります。しかしその水源地の原生林は放置され荒れ果て、最も大切な水源地である大山の水源地は不法投棄のゴミが溢れかえっています。

この大地と故郷の子どもたちにいつまでも美しく澄んだお水を結びたいと今回、一念発起して和樂の井戸掘祭をすることを決意したという経緯があります。そしてこの井戸掘祭が終わったら、年末の12月後半には水源地の清掃活動にまた結を募集して実施する予定にしています。

井戸掘は頭で考えて分かるものではありません。みんなで結を組み、土に触れ、汗を流し、力を合わせて一つずつ心を籠めて地下と繋がりお水が湧く一期一会に立ち会うことで得られます。

この体験そのものがお水の有難さと人と人が助け合う喜びや、あらゆるいのちの関係性に活かされている徳を掘り出す心の邂逅となります。

むかしの古い井戸は、先人たちの願いや祈りや思いを結んだものです。この古い井戸はお手入れを欠かさず井戸さらいをして大切に丁寧にこの後も結んでいきます。そして今回の新しい井戸は、今の私たちの世代の決意、次世代や子孫たちへこの真心を甦生しようとする、過去と未来と今のお水結びになると信じています。

このお水が、いつまでも「場」を潤し、田の生き物たちをはじめ地域や故郷のいのち全体を甦生し、暮らしそのものを新たにしていく。井戸端からはじまる文化、そして水と緑の杜づくりのキックオフにしたいと思います。この井戸掘祭が終わったら、年末の12月後半には水源地の清掃活動にまた結を募集して実施する予定にしています。

井戸端を甦生することは大地の徳を掘り起こし人の徳を呼び覚ますことであろうと思います。そのはじまりの場になれるよう、明日は観も心もすべてお水のままに取り組んでいきたいと思います。

ミズムスビさんをはじめ、「結」で集まっていただく一期一会の貴重なご縁の方々に心から感謝しています。

育つ場

むかしの五穀田では、無事に収穫を終えて新嘗祭の準備に入っています。田んぼは静かに冬支度をはじめています。

私は自然農家をしていると自負していますが、それは何が根拠かというんものがあります。もちろん、肥料や農薬などを入れないことをやっているとか、機械をあまり使わずに手作業を中心にしているとか、むかしながらお米づくりを今でも守っているなどもあります。

しかし私が自然農家ということを話すのは、それが理由ではありません。

もともと私は本業は保育の仕事をしてきました。子ども一人ひとりを見守ること、子どもが子どもらしくいられることを大切にしてきました。

田んぼも同じで、一株一株の稲を見守ること、稲が稲らしくいられることです。そのためには、田んぼを保育しなければなりません。

田んぼとは何か、それは場のことです。

私は場づくりの大切に氣づいたのは保育の御蔭です。保育に関わることで、育てるから育つことの本質に目覚めました。一人の人間が育つに、どれだけ多くのいのちが関係性を結んでいくのかに悟るのです。そしてそこには偉大な「育つ場」がありました。

この育つ場とは、徳が循環する場のことです。

この徳とは、いのちとも置き換えても問題なく、それぞれのいのちが最大限活かされ、発揮される、つまりは耀くことで場は醸成されていきます。

田んぼであれば、微生物やジャンボタニシ、あらゆる水生生物から、鳥や虫、そして風や光や人間も含め、あらゆるものが大切に保育されます。

そういう場をつくることで、はじめて稲が元氣に育つのです。

元氣に育つためには、場を調える必要があります。それは場を乱すのが人間のエゴだからです。エゴをよく観察し、謙虚に素直に全体快適になるように自我を修養していく。まさに田んぼや場は、自己修養の練習道場でもあります。

知識を持って、道具をつくり、何でも思い通りにしてきたからこそ人間はちゃんとどこまでがいいのか、ほどほどがどこか、ちょうどいいものが何かを実践する必要があります。

そうでなければ、核戦争をはじめ、貧富の差や権力闘争、あらゆる不幸の種まきを続けてしまいます。

子どもたちには、健やかで元氣で平和や安心する未来を遺したい。だからこそ、私は保育に生涯を懸けたのです。

引き続き、育つ場を通して使命を全うしていきたいと思います。

備えあれば憂いなし

世界では政府が何かの災害や戦争やテロに備えて備蓄するようにと通達をしています。ここにきてなぜこのようなことをと疑問に思いますが、きっと何かこの後に起きる、あるいは起こる予定なのかもしれません。

そもそも災害というのは、予測できないものです。自然災害なども天災として突然に発生します。その規模も内容も予測はほとんどできません。私たちが予測できると思い込んでいるのは直前の規模、あるいは起きた瞬間を知ることくらいです。

本当はむかしの人たちは自然観察に長けていたため、因果律やいのちの繋がりや関係性から変化を読み解きました。それが暦などにも反映されています。しかし、現代は科学の力で分析したり統計を取ったりとAIの発明によって進化はしています。

だとしても、正確に災害を予測することはできません。予測することができないから備える必要があるのです。

そしてもっとも備えないといけないものは天災ではなく、人災の方です。

人がデマを流したり、自己保身や目先の不安から通常ではありえないような破滅的な行動を行ったりします。その最たるものは核戦争であり、原発であり、無差別テロなどです。

天災への対処は、謙虚であれば後は運が味方になってくれたりします。しかし人災は、惑わされない、流されない、巻き込まれないというように正しい情報や行動がないといけません。

そのための準備とは何か、それは油断しないことや安心バイアスに呑み込まれないこと。つまりは、備えあれば憂いなしの状態をつくること、選択肢をたくさん持っていること、また暮らしそのものを危機感を忘れないような防災意識で生活することなどです。

私は東北の震災で原発の体験もしましたし、コロナ禍の体験もしました。

その二つの体験を通して学んだことは、人災の方が天災よりもはるかに恐ろしいという事実です。だからこそ日々は天の運行に合わせる生き物たちと共に自然のめぐりを歩みつつ、同時に人災対策のために日々の暮らしをかつての先人の智慧のあるものを取りいれて継続実践をし続けています。

暮らしフルネスは、危機と隣り合わせで生きてきた先人たちの大叡智の結晶なのです。日本という国は、自然災害が多かったからこそ暮らしの中であらゆる備えをしてきました。

いつも万が一に備えることが本当の備えです。

先人の体験からの智慧に感謝し、その備えを大切に日々を調えていきたいと思います。

お水の正体

お水の性質というのは不思議なものです。お水は記憶媒体のように結晶、つまり形を持っています。その形で記憶しては、変化し続けていきます。ありとあらゆるものと渾然一体になり、そのものを覚えます。

例えば、お山から流れる澄んだお水があらゆるいのちを通過しては川になり海になります。それが蒸発して雲になりまた降り注ぎ山から産まれます。

これはまさにいのちの輪廻転生そのものです。

そう思うと、結晶という形は私たちの身体でもあります。

私たちはお水を飲んではいのちを維持しています。お水がなければ生きていくことはできません。つまり地球を覆うすべてのお水が、あらゆるいのちを通過し交換循環しながら活動しているのが私たちの本体ということになります。

この今も、身体の血液をはじめ空気中の水分が巡っています。

その時、どのようなお水を取り入れているのか、そして何と混ざっているのか。私たちはお水そのものがもっている透過する力によって活かされているのです。

お水は一体、何を記憶し続けているのか。そして私たちはそのお水で何を思い出しているのか。何ども繰り返されてきた歴史の中で、お水が記憶したことをなぞるように何度も私たちは同じ体験をしていきます。

お水の正体がいつの日か、科学で分かるころには私たちはいのちの正体そのものの偉大さに真に氣づくことでしょう。

引き続き、お水を尊敬しながら学び直していきたいと思います。

食べ頃とは

昨日は今年初めての干し柿をつくりました。古民家和楽の柿は、今年は少な目でしたがしっかりと実をつけてくれています。ちょうど食べ頃の時に鳥が飛んできては食べてしまいます。渋いうちに確保しておけば、全部は食べられません。渋柿を食べるヒヨドリがいるという記事もありましたが動物によっては渋でも食べるのかもしれません。

この食べ頃が分かるというのは、どういうことでしょうか。この食べ頃というのを洞察するとそこには関係性があることがわかります。つまり私たちは食べるのが先か、関係するのが先かということです。

この自然の世界は見事に関係しあって成り立っています。お互いに互恵関係があり、あるいは互助関係もあります。お互いに生きるために関わるのです。

柿であれば、鳥たちをはじめ動物、あるいは人間も種を運びます。そのために実をつけます。葉っぱもまた微生物をはじめ、土の中の存在を守ります。この柿を家の庭に育てれば、非常食や保存食にもなり、風邪の予防などの薬になることをはじめ柿渋などの塗料や防腐効果にもなります。

先人たちはこの柿のもつ関係性の可能性に感動して、共生しあう関係を築いてきて今があります。

ちょうどオーストリアの友人たちが来ていましたから一緒に干し柿をつくりましたが、海外では下記は「KAKI」としてそのまま日本名が採用されています。

この柿は元々は中国原産で奈良時代に日本に渡来し、偶然に鎌倉時代に甘い柿が誕生したり品種改良され今では1000種類以上になっているともいわれます。

これだけの関係性築いた柿の徳が、あらゆる場に循環しているのを実感します。

食べ頃の話に戻れば、私たちは関係が実り熟すことを食べ頃というのではないかとも思います。これは自然の生き物たちのいのちの循環を観ていても感じます。お互いのいのちを分け合い交換しあいながらいのちのご縁を結び続け繋ぎつづける。

その瞬間瞬間の絶妙な関係性を判断しているからこそ、自然の生き物たちはその食べ頃を察知しているのかもしれません。自然(じねん)は、身近ないのちの循環と結び合いの中で一期一会にご縁と結び続けます。

自然のめぐりにいのちを和合させながら心を調えていきたいと思います。