智慧のつながり

物事の中にはないものの中から何かを産み出すという発想と、あるものの中から何かを産み出すという発想があります。しかしそれを突き詰めてみると、すでにあるものの中からしか産み出していないという事実を知ります。

どんな素材もどんな内容も、私たちの短い命の中の知識では見えていないだけで本当は永遠のつながりの中で存在しているものをちょうどよい時期に思い出して引き出したかのように産み出していくのです。

新しいものというものや古いものという時間的な感覚の中で私たちは、その新旧に意識が捉われていますが実際には本物があっただけです。その本物とは、すでにあるものの中からもっとも本質的であるものを産み出したということです。

その本物とは、歴史の中に存在していますし、自分の五感の中にも存在しています。そして記憶の中にも存在し、細胞の中にも存在します。そのほか、美意識の中にも存在し、場の中、空間の中にも存在します。

そういう存在を発見できる力こそが、本物を引き出す力なのです。

本物を引き出すには、自分が本物を知る必要があります。そしてその本物は、自然の智慧の中から引き出されていきます。私たちのいのちのつながりは、智慧のつながりでもあります。

智慧のつながり、まさにそれが伝統の力なのでしょう。

引き続き、暮らしの甦生や民家甦生から人類の甦生、社會の甦生を産み出していきたいと思います。

新しい経済

現在の世の中はなんでも使い捨てるように動いているように思います。まだ使えるものでも、消費社会の中で消費していく。私たちのことを消費者とも呼び、常に何かを消費することで経済に貢献するという言い方です。

最近では、SDGsの関係からエシカル消費という言葉も出てきました。これは「倫理的」という意味で、倫理的消費という言葉に訳されます。簡単にいえば、できるだけ倫理的な商品を買うことで社会を変えていこうという言葉です。

具体的にはよく聞く言葉に「フェアトレード」や「オーガニック」や「地産地消」、「障がい者の支援につながる商品」、「応援消費」、「伝統工芸」、「動物福祉」、「寄付付き商品」、「リサイクル・アップサイクル」、「エシカル金融」なども言われます。

つまりただ単に消費するのではなく、消費に伴う文化的価値や社會をよりよくするであろうと思われる長期的な循環経済のために消費を見直そうということです。

現在は、使い捨て消費がいきついて資源が枯渇するまで消費しようとする世の中です。そのうち資源が尽きて限界に達し、循環する仕組みそのものまで崩れていきます。自然環境の破壊だけでなく、人間社会の関係もまた破壊されていきます。

そうならないように、如何に社會をよりよくしていくかというのは人間社会の最大の使命であり課題です。

私は今の消費というものを少しよくしようと考えても価値観の転換までは難しいのではないかと感じています。本来のあるべき姿は、自然から少しお借りしてお返ししたり、もしくは自然に対して私たちが貢献する分からの利子で暮らしを豊かにしていくといった先人の智慧こそこの時代の価値観を変える原点になるのではないかと感じています。

人間は生き方が変わらない限り、社會も変わることはありません。しかし言い換えれば、生き方が変わるからこそ社會もまた変わるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中にするために如何に今の世代が挑戦するかが大切です。新しい経済、新しい価値観、新しい時代を創造していきたいと思います。

祭祀の場

むかしは屋敷神というものがあり、家の庭やその裏山に古木や自然石などの依り代を設け祭祀を行っていたといいます。そもそもは古くから死んだ祖先の魂が山に住むと信じられてきた信仰が背景にあり、屋敷近くの山林に祖先を祀る祭場を設けたのが起源だといわれています。

私たちの伝統のお彼岸やお盆のように、神霊や魂というものは一箇所に留まることはなく特定の時期にのみ特定の場所に来臨して祭りを受けた後、再び帰って行くものだと信じられてきました。

その時に、依り代になるものが必要であるために古木や自然石を祀りそれが次第に祠や社が建てられるようになっていきました。

これは、神様や神霊や魂が常にこの場所に常在すると信じられるようになったからだといいます。そのうち屋敷神が建物や土地を守護すると信じられるようになって今に至ります。

しかし、今では洋風建築が主流になり神棚すらなくなっている昨今の変化において屋敷神を祀るところなどほとんどなくなってきました。むしろ、田舎の古民家や敷地にある祠は手入れされず痛みも酷く、井戸と同じように撤去されて消失しています。

この屋敷神は民俗学者の直江広治氏によると、大きく三つに分類することが可能だとされています。その一つ目「一門屋敷神」はある集落内の一族の中の本家が屋敷神を持ち、一族が揃って本家で祭祀を行う形態。二つ目は「本家屋敷神」で、集落内の本家筋に当たる旧家だけが屋敷神を持ち、その家のみで祭祀を行う形態。そして三つ目の「各戸屋敷神」は集落内の全ての家で屋敷神を持ち、それぞれで祭祀されている形態だといわれます。

かつてはどの家でも、何かしらの祭祀をし祖霊や祖先、氏神様や地神様をお祀りしていました。年間に春と秋には、お田植祭や新嘗祭などを実施し、先人や神様、風土への感謝の気持ちを祈り祭祀を欠かしませんでした。

今ではそういう見えないものへの感謝よりも、目先の可視化された科学だけを信じる傾向が強くなってきました。本来の科学は、自然を可視化してきたものですが可視化できないものの中にこそ本当の自然はあります。

その自然と暮らしていくなかで、私たちが代々と脈々と体験したことは祈り祀ることで伝承されていくのです。

子どもたちがむかしの暮らしや場を通して、先人たちの恩が送られていくように私のできることで挑戦していきたいと思います。

観えない質量

事物は一つの事だけに一つの作用というということはありません。一つの事物には複雑で偉大なつながりがありますから一つの作用は全体に大きな影響を与える複雑な作用になります。

例えば、一つの作用に対してどれだけ本質を突き詰めたかどうかでは全体に与える影響が変わっていきます。練習の一投と、本気の一投ではその全体に与える影響が異なります。

どれだけ事物に本気に、どれだけ深め、そして極め、何よりも本質のままに取り組むからこそ多大な影響を全体に与えるのです。そしてそれを可能にするのは、その人の初心に対する向き合い方や、正直に取り組む本気の覚悟、また志を貫き実践する真心によって決まります。

事物には、そこに可視化することができない観えない質量が存在するということです。これは「祈り」にも似ています。真摯に祈り、実践し行動することの中には無駄がありません。それは祈りが与える影響が複雑な作用を産み出すからです。

人が議論をするとき、すぐに作用のある側面ばかりについて話します。そのために「何のために」ということの本質は語られにくくなっています。それを突き詰めている人だけが本気の議論ができ、そうでない人は意味が分からないから話が深まらないのです。

人はその行動において、また事物はその現象において「何のために」が問われています。どの行動にも現象にも理由があり、その理由こそが本質に適うからこそ明確な影響を実感することができるのです。

私が取り組んでいることも、なかなか理解されることがありません。ただの奇人変人の部類のように思われているかもしれません。しかし、子どもたちの未来を案じ、今の自分たちが磨くことの大切さを肝に銘じ、私の身体と心のすべてでできる実践のみを積み重ねています。

いつの日か至誠の積み重ねによって志を継いでくれる方が顕れ、先人たちの真心をあるがままに伝承できるように祈り育てていきたいと思います。

景観とは何か

以前、ドイツに訪問したときにその街並みの美しさには感動したことがあります。ドイツでは、戦後の復興の際に戦争で破壊された街を時間をかけて元通りの美しい街並みに復興するために都市計画を立てたといいます。

それを着実に数十年取り組んできたことで、今ではドイツらしい温故知新に取り組み街並みもそれに応じて美しく変化したのかもしれません。

歴史を調べると日本では関東大震災後にアメリカの都市美運動の影響を受け、都市計画関係者の間で「都市美」という言葉がしばしば用いられたようですが激化する戦争、戦災からの復興、高度経済成長という過程の中では合理性や経済性が優先され景観への配慮といった要素は主観的なものと考えられ軽視されるようになったといいます。

そして高度成長期以降は生活様式の変化で自然、都市や農村の景観も大きく変化し、鎌倉、飛鳥、奈良、京都といった日本の文化史上特に重要と考えられる地域まで合理性と経済性が入り込み景観が壊れていきました。

長い目で観て復元をしてきたドイツに対し、日本は目先の損得が押し切られ様々な法律が裏目に出るようになり古い町並みや古い建物は復元することもできず凄まじい勢いで壊され便利な建物、便利な街に変化していきました。田舎にもフランチャイズの店舗や、大型マンションが建ち、どこもかしこも画一的な街並みになっていきました。

2003年には国土交通省から「美しい国づくり政策大綱」を策定されました。そして2004年(平成16年)に景観法が制定され「美しく風格のある国土の形成、潤いのある豊かな生活環境の創造及び個性的で活力ある地域社会の実現」が目的にされています。しかし具体的にこの景観法が何ら規制を行うものでないためそれぞれの自治体が景観計画などを定める必要があるといいます。

みんな我先に、自分さえよければいいと好き勝手に利益ばかりを追い求めてしまうと街並みが壊れていきます。これは自然の中に都市を勝手につくり、様々な生き物たちが追いやられていくことに似ています。

本来の都市とは何か、その土地の風土の中で共生していくとは何か、そういうものよりも経済合理性のみを追求してきたツケが子孫たちに残されていきました。長い目で観て、経済合理性だけではない道徳的なものを如何に大切にバランスを保って維持するか。

世界が今、取り組んでいるSDGsも同様に持続可能な経済をどう保つかはこの経済と道徳の一致を目指すからです。

まとめればつまり、景観にはその景観に生き方が映るということです。その景観が美しく豊かであればそこの人々の生き方が映ります。そしてまた景観が懐かしく新鮮であればまたその場所の人々の生き様が映ります。

都市計画とは、生き方計画でもあるのです。

子どもたちがどのような街で暮らしていくか、子孫たちにどのような生き方を伝承していくか、私たちは今こそ、戦後復興のプロセスから学び直し、本来の復興とは何か、原点回帰してまちづくり、国造りをしていく必要を感じています。

今、私にできることから取り組んでいきたいと思います。

暮らしの喜び 

以前、スイスやドイツ、オーストリアの田舎を旅したことがあります。そこには美しい景色の中で暮らす人々の姿もありました。その景観はまるで一体化しており、どこまでが人工物でどこまでが自然物かわからないほどでした。

日本にも、いくつかの里山ではむかしからの懐かしい風景が残っている場所があります。ここと同様に、暮らしの景観というものはその風土と一体になっている美しさがあるように思います。

現代は、風景や景観などは気にせずに自分の好きな建物を建てようとします。ある場所に行くと突然、派手な色の西洋建築風のものがあったり、田舎に都会的な建物があったり、風景や景観などは気にせずに自分の好きなようにしています。または、駐車場にしたり、倉庫にしたり、廃材置き場にしたりと、それも好き勝手です。

風景や景観が壊れても気にせずに、自分の都合ばかりを優先するうちに景観や風景の美しさが次第に消失していきます。

私たちは風景や景観というものの恩恵をたくさんいただいています。美しい景色の中に自分があるということの存在価値が自分の美しさも引き出していきます。先ほど紹介した海外の田舎の風景のように、自然と一体化して美しい建物がある場所はそれだけで懐かしさや落ち着いた安心感、その人々の暮らしの喜びが伝わってきて美しいさに見とれます。

この暮らしの喜びとは、風土に存在するだけで恩恵を与えられている仕合せに生きることです。その風景や景観の恩恵に感謝しながら暮らすからこそ、先人たちや風土人たちの家や建物はその風景や景観と一体になるものを建てるのです。そうすることでその風土の自然が循環し、穏やかに持続し、共生し合えるようにその土地の材料を活かし、その風土の循環がさらに調和し活性化するように暮らしを組み立てることができたのです。

この暮らしの「美しさ」というのは、そのようにお互いに恩恵を享受し合い利他を実践しながら生きる姿です。美しい暮らしとは、お互いに利他の実践をし徳を積みながら自然を美しみ、共生を愛し、貢献し合うことに仕合せを味わう日々を送ることだと私は思います。暮らしが消失し、暮らしの美しさが消えたのはなぜでしょうか。個々人が好き勝手に利己的に生きる姿の中が増えてきたことが原因ではないかと感じています。

日本人の本来の美しい暮らしを甦生することは、日本の風景を甦生させていくことです。そしてこの美しい暮らしの甦生には、この自然や風景や景観は欠かせません。自然の恩恵に気づき、自然を味わい、自然を大切に共に生きていく。子どもたちのためにも今、私ができるところから守り育んでいきたいと思います。

暮らしの甦生~自然と手入れ~

自然に沿って田んぼをつくり、稲を育てていると私たちの暮らしの原点みたいなものが観えてきます。それは自然との共生をしながら、手入れを怠らないということです。自然はそのままにしていたら野生が勝りすべての人工的なものを呑み込んでいくものです。

福岡の農園も、もしも2年放っておけば畑は雑草だらけになり木々が生えてはもとの荒れ地に戻ってしまいます。定期的に手入れをしては草刈りをし、作物を育てるから人との共生がはじまり私たちもその中で暮らしを営むことができます。

他にも古民家も同じで、自然物でできていますから手入れをしなければ次第に傷んでいきます。掃除をして庭の草取りをし木々の剪定をし、風を通して光を入れてあげなければ次第にまた野生に呑み込まれて壊れていきます。

つまり私たちは自然の一部として、その中に人工的なものを入れていきますから手入れをしなければ自然と人が共生していかないのです。

都会では、極力自然を排除して人工的なものの中に少しだけ自然が入るようにしているようですがそれも見せかけで手入れをしなければ野生がまさりあっという間に傷んでいきます。

地方の小さな町々や村々の都市も、そこに住む人々が手入れを怠ればアッという間に傷んでいきます。つまり人間が暮らすということは、必ず何らかの自然の中での手入れを実践するということです。

現在は、楽をしてお金を払えばだれかがその手入れを仕事として取り組んでくれていたりします。しかし本来、暮らしとは、自分自らでその手入れを欠かさないことで自然との共生感を磨くことで調和を育んで持続可能な営みを続けてきました。

私たちが暮らしを優先するのは、自然との共生を忘れないためです。

これからの未来に、何を忘れてはならないか、そしてどうすれば自然と共に暮らしていたころの記憶を思い出すかはとても大切なテーマであるように思います。むかしの先祖たちが行っていた懐かしい暮らしこそ、私たちが今一度思い返す必要のある未来なのです。

引き続き、子どもたちのために暮らしを甦生しながら日々の豊かさを伝承していきたいと思います。

田圃の暮らし

昨日は、千葉県神崎町にある「むかしの田んぼ」で草取りを行いました。今年は日照時間が少なく、成長が例年よりも芳しくないのですが田んぼに入るとそれでもすくすくと元氣に生きている田んぼや稲から多くの力を貰って気がします。

この田んぼの「んぼ」は、「田圃」はもともとは当て字であるといわれます。田面(たのも)や(たおも)が音が変化したともいわれています。例えば、田圃道と書けば(たんぼみち)となります。

田畑という言い方もしますが、これはむかしに田んぼと畑の両方で暮らしを営んでいたことが関係しています。田を畦で囲った田圃に対して、その田(た)の端(は)で作物(け)をつくるという意味で「畑」となったという説もあるようです。私は、てきりアメンボは、雨の坊であり田んぼは田の坊というように生き物に見立てていたのではないかと思っていました。

日本には、むかしから妖怪といった人間でも神様でもない不思議な存在が様々なものに宿っていたと信じられてきました。道具が妖怪になっていたり、天気が妖怪になっていたり、様々なものの不思議を身近に感じて暮らしてきたとも言います。

田圃と共に生きている様々な存在もまた、私たちの暮らしの一部です。

そして昨日の草取りでは、ヒエ、ホタルイ、オモダカ、クサネムなど稲の生育の阻害するものをできる限り手作業で取り除いていきました。今では、除草剤という便利なものを使って田んぼに人が入ることがありませんがそれは稲にも必ず悪い影響を与え、田圃の生態系も崩れていきます。

私たちのむかしの田んぼは、収量を優先せず生きものたちの豊かな場づくりを優先してお米作りをしています。そしてその場で暮らす私たちもその一部として一緒に田んぼの中で生きていきます。

こうやって田んぼと共に暮らすことはとても豊かなことで、それは金銭では得られない喜びや仕合せがあるのです。これを徳という言い方をします。二宮尊徳がかつて「報徳」という言い方をしていましたがこれはこのむかしからの恩恵の中心であった田んぼから学んだものかもしれません。

現代に必要な大切な教えは、すべてこの田んぼが持っています。

田圃の暮らしを通して、子どもたちに大切な真心を伝承していきたいと思います。

尊重し合う社會

日本人はまじめすぎる民族であるといわれます。特に、過労死に言えるように頑張りすぎてなくなる人が多く、また無理をして精神疾患や病気になる人も多く、さらには責任感が強すぎて自分でいのちを断つ人も多いといいます。

このまじめすぎるようになったのは、現在の社会の状況や教育環境によって行われているようにも思います。例えば、何かの事件があればマスコミなどで徹底的に叩く雰囲気であったり、頑張っている人が一人で責任を持たされ頑張ったからできたと無理をすることが評価されていたりもします。

頑張りすぎるというのは、我慢をして無理をして頑張っている状態の事です。同様にまじめすぎるというのも、我慢をして無理をしてまじめに取り組んでいる状態の事です。

この我慢をして無理をするというのは何か、自分の本心を偽り自分に正しいことを言い聞かせる状態の事です。疲れているのに、さぼってはいけないと言い聞かせ、やりたくないのに、やらねばならないと言い聞かせ、そしていい人にならなければと自分を無理し、罪悪感や自己犠牲感、申し訳ないと自分自身がダメなところを自傷し謝罪したりすることで本心を無視し本心を偽り無理をするのです。アインシュタインは「どうして自分を責めるんですか? 他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」といいます。自分で先に責めることが無理をし我慢をするということでしょう。周りの社會を信頼していきていける居心地のよさがあればそれもできるのでしょうが、今の日本はそうではないようにも感じます。

人間は、自分の本心に正直であることである意味でのストレスはかかりません。自分が本心からやろうと思ったことや、本心で取り組んでいることは無理すぎることもなく頑張りすぎることがありません。自分に正直になるには、周りからどう評価されるか、どう見られたいなどをあまり意識しすぎないことがいいように思います。つまり自由に自分らしく生きていく仕合せを味わっていくことができます。しかし今の日本社会では、そういった自由が許されにくい雰囲気がありますからなかなか安心して無理をせずに頑張らない状態を維持することは難しいこともあるように思います。自由と自律をはき違えてしまうと今度は、他人を不自由にしてしまいかえって周囲の抑圧を強くしてしまいます。

そうやって空気を読めと言い聞かせたり、なんでもやってはいけないと自分で自分を抑圧することでより居心地が悪くなります。居心地をよくするためには、自分自身に正直なり、自分自身を開放して、同時にみんなを尊重し安心して仕合せになる社會を意識して創造していく必要があります。つまり「みんながお互いを尊重し合えるような多様性を保障された社會」を築いていけば無理も頑張りもなくなっていくのです。

その人のままでいいとその人の本心が尊重されれば、みんなで協力し合っていける優しく緩いつながりが大切にされ誰かだけで無理に頑張る状態にならないように配慮し合えるように思います。いい人になれなければ、まじめにならなければ、失敗しない人にならなければ、迷惑をかけないようにしなければ、等々教え込まれたきたことが「過ぎる」状態にしたのかもしれません。

子どもたちも学校と塾と宿題の忙しい日々で、大人たちによってまじめすぎることが強要されて心がついてこれなくて苦しんでいることが多いように思います。大人たちの息苦しい働き方が子どもたちに伝わっていきます。

尊重し合い許し合い認め合う社會づくりを足元から取り組んでいきたいと思います。

 

深淵を生きる

どのようなこともその道を深めていけば誰もが同じところに到達していくものです。これは登山も同様に、どのルートで登るのかはその人次第ですが登る頂が同じであることと一緒です。

人生も同様に、人は生まれ必ず死に至ります。しかしそれまでの道のりをどれだけ真摯に深めて生きたかで、どこまで到達することができたかが異なります。

人生は長さではなく、その深さということかもしれません。

吉田松陰がこうも言います。

「人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。」

この深みのことを「深淵」といいました。この深淵とは、底がとても深い場所、つまり終わりがないくらい底知れないことのことを言います。

達する先に、さらにその奥深さがある。そして頂上の先に宇宙がある。一つの道を究めてもまだその先の深さがあるということは私たちに何を意図してくるのか。

人はその深さを学ぶことで、自己を確立していくのかもしれません。

一日一生、大切に今を生ききっていきたいと思います。