全体を活かすための環境を創造する人~管理とは何か~

組織には管理職というものがあります。この管理とは「よい状態であるように気を配り、必要な手段を(組織的に)使ってとりさばくこと」と辞書にはあります。

この管理の語源は「管轄辨理(かんかつべんり)」という言葉が略されてできたものだといわれます。「管」は門を開閉する鍵であり「轄」は、車輪が外れないようにするためのくさびのことであるといいます。つまりもともとは権限によって支配するという意味があったようです。

現在の管理職に対するイメージが一般的に支配的なものになっているのは管理社会など、管理とつくと権限で支配しているようになっているからです。海外ではこの管理職をマネージャーといいます。そして管理することを「マネジメント」といいます。

このマネジメントというものの意味は、アメリカでマネジメントと父と呼ばれたP・Fドラッガーは「組織に成果を上げさせるための道具、機能、機関」であるといいます。そしてその管理者をマネージャーといって「組織の成果に責任を持つ者」と定義します。つまり組織に成果を上げさせるための仕組みがマネジメントであり、組織が成果を上げるように働きかけその責任を持つ人をマネージャーというのです。

さらにそこからマネージャー(管理職)の役割の代表的なものを具体的に記します。一つ目が「組織が果たすべきミッションを達成する」こと、そして二つ目が「組織で働く人たちを活かす」こと、最後が「社会に貢献する」ことだといいます。つまりみんな会社の目的や目標のために協力しながら、それぞれが尊重され自己実現も同時に行い、一人ひとりが活かされるように全体最適と全体快適を創造し、長期的な眼差しで短期的な日々の仕事をコントロールしながら社会全体に善い影響を与えていく仕事ということです。

私の今の言葉でシンプルに定義すると管理職とは、「全体を活かすための環境を創造する人」ということでしょうか。

これは私たちの会社で現在、むかしの田んぼを一緒に運営している不耕起栽培の農家の達人の方々が稲が育ちやすいようにあらゆる管理をしていることがモデルです。その管理の考え方は、自然の道理に精通し、もっともどうすれば稲が活き活きと生長するかを中長期、そして温故知新した自然と科学の技術を駆使して見守っています。その管理はまさに「全体を活かすための環境を創造」をしています。

例えば、多様な虫たちが活動しやすいように活かす智慧。そして稲たちに厳しい環境と慈愛の真心をかけてはしっかりと稲自身が最高の一生を送れるようにサポートする智慧。そしてその育ったお米は、社会全体に対する大きな影響を与えているのです。

私のイメージし定義する、管理職や管理者、マネジメントやマネージャーはこのむかしの田んぼを一緒に運営する農家の実践のことです。

みんなが安心して活き活きと生を全うしつつ、田んぼも自然も同時に見守っていくには組織をどう活かして成果を出していくのかの様々なことを改善し取り組んでいく必要があります。

ただ単に、一方的に肥料や農薬をまき機械で管理するという農業もありますがこの時の管理者は全体を活かし環境を創造したのではありません。同じ成果でも、プロセスが異なれば管理職や管理者の定義がまったく異なることをマネージャーは理解しなければなりません。

育てるということがどういうことか、育つということが持つ意味は何か。そこをまずしっかりと学び直し定義することで、これからの多様化社会の在り方を見つめ直す機会になると思います。

子どもたちが安心して新しい環境や社会を創造していくためにも、そのモデルになっていきたいと思います。

 

物語の意味

物事には必ず物語がついてきます。その物語は、短期的にはわからないものですが長期的になればなるほどその物語の本質が現れてくるものです。

これをご縁ともいいます。

そのご縁は決して偶然ではなく、先祖代々、長い時間をかけて刻まれてきたもので同時に結ばれてきたものです。それを時空を超えて、今の私たちが体験してつながりを確認するとき物語が現れてくるのです。

なぜこの人と出会うのか、なぜこのような体験をするのか、突き詰めて深めていけばその原因は必ず過去の何かに行き当たります。だいぶ前、つまり生まれる前のこともありますから思い出すのは難しいものがあります。しかし辿っていけば、偶然とは呼べないあまりにも不思議なことに巡り合うのです。

まさにここに物語があります。

物語があるということは、ご縁があるということです。だからこそ大事なのは、物語があるということを感じる感性を磨いていくことです。その感性が磨かれている人は、ご縁を大切にします。そしてそのご縁の意味を時間をかけて丁寧に紡いていきます。そして現れた意味に対して素直に従い、結実させていくからです。

良いか悪いか、正しいか間違っているか、メリットがあるかどうかなどは物語においてはたいした問題ではありません。物語があることにこそ意味があり、物語を紡いでいくことこそが人生の意味になる。

一期一会というのは、その時に生まれた言葉なのかもしれません。

引き続き、ご縁を大切にして子どもたちに繋がりを託していきたいと思います。

人道間具

情報化はいよいよ進み、5Gの時代が到来します。すでにスマートフォンでさえもそんなに速度の遅さを感じませんが、さらにこれよりも1000倍以上の情報量が短時間でやり取りできるようになります。

人工知能は、ディープラーニングによってほとんど人間の認知に近づいてきています。人間の持つ能力にどれだけ科学は近づけてきたか、まさにこのディープラーニングこそもっとも人間が智慧や法則を編み出すための仕組みの源泉です。人工知能にその仕組みを持たせるというのは、これで誰でも簡単便利に知恵を発見できるようになります。

そもそも人間と道具の関係性を歴史から紐解けば現代に起きていることも不思議なことではありません。どの時代も時代の最高の哲学者であり達人たちが、その時代の至高の道具を生み出してきたからです。

つまりその時代、その道を究めた人が、その道に必要な道具を発明するからその二つが相まって科学は進歩してきたのです。人間と道具の質が一致したということです。これは伝統文化の甦生をはじめ、様々な古い道具に触れている中でまさに道具を知れば、その使い手の力量を知ります。つまりその使い手次第で、その道具は人間の叡智にもっとも近づく存在になっていくということです。それだけ人と道具の智慧は一致するということです。

そしてここで重要なのは、何よりその「使い手」次第であるということです。いい使い手は、いい道具を使う。この使い手は、まさに人間と道具の一体、「人道間具」と言ってもいいかもしれませんがそれくらい切っても切り離せない関係なのです。ここからいい人間にしかいい道具が使えないのも自明の理です。

現在は、脳が急速に発達していますからそれに合わせてもちろん人工知能も追いつきます。そして人工知能は人間の知能を超えるほどに近づいています。しかし、それを使うのはあくまで人間です。使う側が人間だからこそ、人間が人工知能よりも深く学び、感じる力を高めなければいくら高度な人口知能があってもそれを活かすことはできません。

人間のディープラーニングとは何か、それは先人たちが私たちに譲り遺してきた「直観」のことだと私は思います。私は特に直観に従うタイプですから、事物を深く感じ取り、内省し、遠くからの先祖のご縁を感じ、世界のあちこちで起きることを自然から感得します。この直観は、時代を超え、場所を超え、空間を超え、叡智としてビジョンが現れます。それを結ぶことで新たな直観と出会うのです。

こういう人間自然の叡智、ディープラーニングを信じることなしに、この先本当の意味で人工知能は活かすことはできないと私は予見しています。だからこそ、日々にあるがままの自分の天与の才を信じ、自分の持っている持ち味に磨きをかけ、運命を面白がっていくことで学びはより深くなっていきます。人間はもう一段、学び直す必要があることが科学の進歩によって提言されているのです。

時代が変わっても、変わらないものは常にあり、変えていく必要があるものは常に自分自身であることは変わりない真実です。どんな天命があるのか、子どもたちの道筋が示せるように楽しみながら歩んでいきたいと思います。

働くということ

現在、世の中では働き方改革など声高に取り組まれていますが本来の人間らしい暮らしは何かということは議論されていないように思います。日々に忙しく、只管に仕事三昧の日々を送ることも一つの豊かさかもしれませんが同時に豊かさとは自然を味わうことであったり、繋がりやご縁を愛おしむことであったり、暮らしを楽しむことであったりも人生の豊かさです。

働くことだけにフォーカスするのではなく、もっと人生の豊かさについて考えることが具体的な働き方改革になるのではないかと私は思います。

仕事は人生を豊かにしていくものの一つ、そして仕事で出会った仲間たちや同志たちがより一層人生の彩りを美しくしてくれるものです。

私の人生を振り返ってみても、人生で出会ったご縁ある人たちが私の人格を形成するのに大きな影響を与え、一つ一つの思い出が今の私の価値観を育ててくれました。

様々な種と出会い、実り豊かになることで私たちは次の種を蒔いていきます。

社會はそのように、豊かさの種子をみんなが蒔いていくことで多様な花々や実をつけて自然の森のように育っていくものです。

貨幣経済ばかりを追い求め、国家のGDPに貢献するためだけに息抜きもできないくらい働くなかでそもそもの働く目的を忘れてしまえばそれは働くということの根本的な改善になることはありません。

何のために働くのかは、その人の初心であり目的であり動機です。それがまずちゃんと根本や原点に帰れるものかどうか。そしてそれをみんなが忘れないで大切に働けているかどうか。

お互いに見守り合うことで助け合い、認め合い、働き合う。人生を共に生きる仲間としてお互いに豊かにしていくことが働くことの本質だと私は思います。

子どもたちが大人たちの働き方をみて、自分たちの未来の働き方の参考にしていきます。より豊かに仕合せに生きていくためにも、ご縁を大切に一度きりの人生を多様な人たちと初心を忘れないで働いていきたいと思います。

前人未踏

先日、故郷の古くからの同志であり戦友から「前人未踏」というエールをいただきました。改めてこの言葉を噛みしめていたらとても感慨深い気持ちになりました。この前人未踏とは、辞書には「今までだれも到達していないこと。また、だれも足を踏み入れていないこと。 」と紹介されています。

到達できなかったのか、到達しなかったのか、神秘的な場所はこの地球上にもまだ存在します。人類は、進化の偉大な道程の中でその前人未踏の場所へ踏み込み道を切り拓いていきました。数々の困難や恐怖があっても、持ち前の好奇心と勇気で新しい一歩を踏み出したことで今の私たち、つまりは未来があります。

その未来に向かう途中には、それまで誰かが通ってきた道、誰もが通る道、また誰も通らなかった道、そしてまだ誰も到達していない道があります。どの道を往くのか、それはその人の生き方が決めます。

最近、息子のバスケットボールの練習を一緒にやっていますが前人未踏といえばバスケットの神様と呼ばれるマイケル・ジョーダン選手がいます。まさに優勝、MVP、得点王で前人未踏、その生き方が言葉に現れます。

「何かを始めるのは怖いことではない。怖いのは何も始めないことだ」

「私は失敗を受け入れることができる。しかし挑戦しないことだけは許せないんだ」

「あることを夢見る人もいれば、やりたいと思う人もいれば、それをやってみようとする人もいるんだ。」

「気持ち半分でやることなんて出来ない。結果も半分になってしまうからね。」

「仕事をこなすからこそ報酬が得られる。人生にショートカットなどない。」

「自分に期待することではじめて物事は可能になる。」

挑戦するということは、成功失敗に関係なく成長するためには必要です。人間は挑戦し続けたものだけが、その前人未踏への道を切り拓いていきます。大切なのは、最後の最期まで挑戦し続けたかどうか。

わからないこと知らないこと、そしてやったことがないことが続きますが自分の直観と信念、真心や子ども心、好奇心と初心を守るために前へと足を踏み出し続けて周囲の勇気になれたら仕合せです。

ありがとうございます。

 

技術と原点回帰

明治以前と明治以後で日本の文化は大きく変化しました。具体的には、それまでの物づくりなどの生産過程がすべて効率化され海外の技術を優先して古来からの伝統的なものを排除していったことが大きかったように思います。

海外の技術を最良とし、日本のそれまでの技術を否定する。このようにして進歩している海外の技術をスピーディに学ばせ取り入れたということです。そのことから、私たちは確かに短期間に海外の技術をものにしましたがその技術の欠点があることまで検討される期間もなく現代までそのまま続いてきているのです。

それが現代において多くの歪をつくり、本来の日本の風土や歴史、また文化とどうしても溶け込めないものが増えそのことから日本らしさというものも失われてきているとも言えます。世界では、それぞれの国で大切にされてきた技術や文化、そして物があります。そういうものが世界の中では特に引き立ち、その土地の風土と一体になって世界の人たちを感動させ、さらにその技術が応用され新しい世界の発明に活かされていきます。

西洋の技術が進んでいるわけではなく、世界でもっとも秀逸なものではないと気づくところから意識を換え、そして古来から日本の風土で養われてきた日本の技術の中に私たちの先祖が編み出した智慧があることを学ぶことこそこれから多様化していく世界の中で必要な技術の基本になると私は思います。

そのためには、日本の古来の技術をもう一度学び直す必要があります。そして同時に歴史を学び直す必要があります。明治以前までどのような暮らしをしてきたか、そしてどのようなプロセスでモノづくりをしてきたか、どのような原材料を用い、どのような環境、どのような姿勢、そういったものをもう一度原点回帰し甦生してみるところからはじめるといいのです。

元の状態がわかってこそ、原点を知り、元が何かがわかってこそ基本を知ります。

私が取り組んでいる様々なことは、すべてこのシンプルさの追求であり原点回帰する中にあるフレッシュさの追求でもあります。現代のように複雑になったものを専門分野に分けて、無理に高めるのではなく本来の姿に近づけようとすることの方がより高度になっているものです。

自分の道を貫いて子どもたちに確かな伝承を行っていきたいと思います。

面白い人

先日、天神祭でご縁のあった逆手塾の和田芳治さんがお亡くなりになりました。昨年お会いしてからまるで流れ星のようにあっという間に光り輝いていなくなられました。私にとっては、とても大きなご縁になりあの唄声や温かい励ましの眼差しや声が心に響き続けています。

いつかは私も天に帰る時が来ますが、その時までいただいた言葉を大切に胸にしまいその言葉をお守りにして歩み切っていきたいと思います。

今回、弔辞の中で「時が過ぎてみて時がわかり、友が去ってみて友がわかる」という言葉を知りました。いるときはあたりまえだと思っていたものが、いなくなってはじめてその存在の大きさを知る。

本来、私たちはいかに大切なものに囲まれて生きてきたかそれを忘れるものです。あるのものがあたりまえになって、それ以外のものを追い求めようとする。しかし本来は、あるものは得難いものばかりであたりまえではないことに気づけばそこに確かな仕合せや幸福はあります。

ないものねだりではなく、あるものに感謝するから「面白い」と感じるように私は思います。和田芳治さんは、私に面白いことをやること、自分が楽しいことをやることの価値を見せてくださいました。あの頃より、今はその意味が確かに観えています。

人生というものは一度きりなのは誰もがあたりまえに知っています。しかしそのあたりまえに気づいているか、なくなってみてわかるでは遅すぎるのです。二度とないからこそ、如何にその人生を喜びに満たしていくかは生き方次第、自分次第なのです。

悔いのない人生を送ろうとするのは、挑戦を続ける人生を送り続けるのはきっと、私の中にそのあたりまえがあたりまえではないことに気づいている自分というものがあるからかもしれません。

先に逝った同志を偲びつつ、私も今回の人生でやるべきことをやり切ってからまたお会いしたいと思います。ご指導ありがとうございました、ご冥福を心よりお祈りいたします。

熱中

人間は何かに熱中するところまで入り込むと、今までになかった力が発揮されていくものです。この熱中するには熱心があり、心が一つのところに傾け打ち込んでいる状態になっているということです。

心と頭が一体になってしまうと、まさに没頭状態になり心のままにあるがままに物事に盡していきます。その時の境地は、苦しいけれど楽しい、苦労が多く楽ではないけれど遣り甲斐があるというように複雑な心境ですが味わい深い境地であることは事実です。

人間は矛盾を抱えているとき、中庸の状態になっているとも言います。心がやりたいこと、動機や初心に対してどこまで本気で熱中しているか、その日々の熱中が自分を中庸の状態に導いていくように思います。

人間は、現実と正対しそれを直視し問題を解決しようとするとき真剣味が出てきます。真剣味が出てくれば、現実は次第に改善され現実の方が変わっていきます。これを人はよく現実味を帯びてきたという言い方もします。つまりは単なる机上の空論や、空想から本気や真剣に熱中し没頭することで次第に現実に変わっていくということです。

この現実にする力、現実を変える力、それこそが熱中すると中庸になるということに他なりません。

現在も、様々な問題に取り組み今までになかったものを手繰り寄せていっています。まさにその取り組みに熱中し熱心に時間を注いでいくことで真剣味を帯びて現実味に変化していきます。

人間の仕合せは、この熱中し夢中する楽しさの味を味わえることです。この楽しさの味は、仕事を通して得られます。自分の仕事が楽しく、その楽しい仕事が自分の歓びになり、その歓びが周囲や世の中の仕合せになっていくのなら熱中はますます続いていきます。

情熱というものは、炭と同じで燃えているから水が沸騰しているのです。そして一度着いた火を絶やさないように火を熾し続けるのはその火が消えないように次々と行動し実践し手を打っていくことです。火にもリズムがあり、心にも同様に響きがあります。

音楽と同じように、人生の中で長い目で見て一つの音楽を奏でていくのは自分次第です。楽しい音楽を奏でられるよう、楽器に磨きをかけ、調和に心を澄ませ、情熱をもって演奏していきたいと思います。

令和とは

新元号が発表されて、心機一転、新しい時代がまた明けるという印象があります。この「令和」という文字は、万葉集の「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」から取り入れたとありました。

首相からは「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という願いを籠めたものとありました。「初春令月、気淑風和」というのは、まさに旧暦2月ですから冬から春になる兆しが出るころの目出度い月に、さらに調和の吉兆の気配があるという感じではないかと私は思います。

ちょうど今年は聴福庵にも来客が続き梅の花や蘭の花、最近は桜の花を設えておもてなしを行いました。家の中に初春の兆しの目出度い花々が彩ると、古民家はとても美しい調和を奏でてくれます。

日本の古来の伝統文化を知る人は、この家の調和の雰囲気を自覚する人で現代の西洋的な居住空間ではなかなか感じにくいかもしれません。

春の兆しというのは、新しくはじまる巡りの予兆でありそれをどのような心持で過ごしていこうかといった予祝の文化があってこそです。この月や風、梅や蘭の美しさを目出る心こそ日本人の文化そのものであると私は感じます。

本来の意味を正しく学び直すことは、日本の暮らしを日本人として甦生しそれを実際に体感し感得することで得られると私は思います。それは単なる机上の専門家の言葉遊びではなく、まさに知行合一に文化の中に入ることで真実は学べます。

元号が変わり、万葉集、万葉人たちはどのような暮らしをしてきたか。改めて子どもたちにその場や間、和を伝承していきたいと思います。

和のまま

一つ一つの日本の古来の伝統文化を深めながら本物を学んでいくとそこに共通している「和」というものを学びます。頭で見知っている和ではなく、日本の古来から大切にしている確かな「和」というものを学び直すことができます。

この「和」は、自然と一体になった人間の智慧の結晶の姿であり私たちの先祖は自然のままに暮らしてきた歴史を道具からも感じることができます。

最近では、和風といって和ではない和っぽく見えるものが当たり前に流通していますが和と和風は完全に異なるものです。

和風は見た目だけ和っぽく見せることができるのなら、それは和風ということになります。和ではない和風に、日本人がなってしまうことはとても残念なことです。特にインバウンド熱が高まり海外から大勢の方が日本の文化に学びに観光に来る中で、どこもかしこも和風のものばかりを見せて本物だと信じ込ませてもそこに価値を感じてくれるのだろうかと疑問に思います。

何が和で何が和ではないかがわからない人が和風という言葉で都合よく取り繕ってもメッキは必ず剥がれていきます。何を変えて何を変えてはならないか、まさに温故知新を実践する人だけがその本質が理解できているからです。

明治以前の先祖たちは、和風にしたりすることはありませんでした。すべて和のままでした。和のままだから、その時の道具や建造物もまた和のままです。さらには生き方も、働き方も、そして衣食住すべてが和のままでした。だからといって時代に流されて和風にしたりすることはありませんでした。あくまで和にしたのです。

その証拠に明治のころの建造物や様々な道具は、和のままで存在しています。現在のように洋でもなく和でもない、洋風、和風のようにそれっぽく見せる大量生産消費型の手間暇がかからない便利なものはありませんでした。

和がわかるというのは、日本人として生きるための何よりの前提です。そのために、幼少期から和の家に住み、和の文化に触れ、和の生き方を学び、和の精神を身に着ける。和というのは何かというのを、空間や場所、先人たちに触れてその感覚を伝承していくことです。

何でも早く便利に海外の技術を持ち込んでくれば進歩になるわけではありません。本来の和で調理し、和の文化に昇華していかなければ本物の進歩ではない。和のままであることにこだわることは、この時代を生きる世代の責任だと私は思います。

引き続き子どもたちの未来のためにも、取捨選択し、和風ではなく和の生き方を貫いていきたいと思います。