自分に矢印

私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。

つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。

この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。

先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。

日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。

だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。

まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。

責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。

どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。

誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。

子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。

現実を直視する~正直な生き方~

現在、世界のことを改めて再認識して掘り下げつつ日本というものを如何に発信するかということを保育を通して考えていますがその大前提には現実を直視するということから始める必要があります。

この現実を直視するというのは、余計なバイアスをかけずにありのままにあるがままに物を視るということです。これは世界に限らず、自分自身のことも直視すれば現実が正しく理解できるものも、直視したくないから現実を歪めて勝手な期待的観測や希望的評価などを入れ込み現実を自分の都合のよいようにゆがめてしまいます。

先日、ある人に日本は今、中国の台頭やアジアの興隆からみて世界では欧州の英国のように高齢化でインフラも古びれ、これから衰退していく国家として見られているという話をすると烈火の如く否定する人がいました。

しかし現実には、技術大国で豊富な資金をもって経済大国になってからのち、今では近隣の国々の技術が日本を凌駕し、さらには中国などはアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国へと発展していきました。世界の中で日本がどのようになっているか、そしてこれからどのようなことが予想されるか、現実を直視して私たちは近未来に対して行動を起こしていく必要があります。今更かつてのように世界1位に回帰しようとしても、そういう状況などはないことは客観的にみてもすぐにわかることです。

この現実を直視というのは、本当のことを知る心のことです。こんなはずではないという執着や、もっとこうあるべきや、本当はこうなんだなど自分の願望や期待で物事を無理に歪めないためには受け容れる力が必要になります。今の自分の身の丈を知り、今の自分がどの程度のものかを受け容れることではじめて現実というものを理解できます。

その現実を理解すればこんどは、どのようにしてその現実に手を打っていけばいいかといった本物の戦略が出てきます。そして戦術を立てて手を打てば、現実的な結果が訪れます。なぜ現実が思うようにならずにいつまでも滑っていくままなのかは、現実を直視しないところにこそ原因があるのです。

そうであってほしくないという感情を乗り越えて、現実としてそうかもしれないと受け容れる方が真実の対応ができるものです。油断も少なくなり、己自身との闘いにも負けなくなります。現実を受け容れる力を持つことこそ本当の実力であろうと私は思います。

しかしその現実を正しく受け止めて、受け容れることができるのならそこから本物の変化がはじまります。肥大化された願望や期待的観測を破り、現実を直視した間違いのない努力や手を打っていけるのです。現実から逃げたくなるのは人間の性で早く楽になりたくなったり思い通りにしたいと思うのでしょうが、そのためにもまずは現実から伝えるという正直な生き方をしていきたいものです。

引き続き子どもたちの近未来のためにも不正直に歪んだ現実を信じさせていくような刷り込みを遺すよりも、自分自身が現実を直視し、歪んだ刷り込みを取り払い現実的な戦略を実践し正直に生きていく生き方を譲り遺したいと思います。

我が道をゆくような会社ですが、世界のお手本になるような日本になれるよう現実を直視するところから取り組んでいきたいと思います。

歩く速度

古街道の町家に住んでみると、かつてはその通りにたくさんの人が往来しそこで商人や職人たちが仕事をして賑わっていたのが形跡からわかります。今ではインターネットを使ってどこでも簡単便利に品物も手に入り、物流も発達していますから修理なども郵送して行うことができます。さらに大型店舗ができることで、みんなそこに車で移動しその中で買い物しますし、大きな道に店舗はあっても車で立ち寄るようになっていますからそこに入ればまたすぐに他の場所へとさっさと移動してしまいます。

かつては、歩く速度で往来していた場所はほとんど廃れ、一部の観光地だけが残っていますがそこはほとんど土産物店です。本来の懐かしい商家や町家は、そこでの暮らしがあってその生活のために必要なものを販売されていました。数々の職人たちが住み、商人たちが人々が暮らしで必要なものを販売したり、または道具を修理したり、さらには休憩して情報交換する場所なども用意されていました。

この人が歩く速度というのが、もっとも人間には合っていてその歩く速度で物事を考えられたり、出来事を深く味わったりすることで私たちは仕合せや豊かさを感じるものです。

聴福庵のある場所も旧長崎街道ですが実際は観光地の場所だけ大型バスで乗り入れてそれが終わればまた大型バスで違う場所に移動というように歩くことなく去っていきます。本来は、じっくりと歩いてゆったりと観ていく場所ですが、かつてのような商家も職人もいませんから仕方がないことかもしれません。

京都に行けば、まだそのようなところは残っておりかつてのような佇まいを体験できるところもあります。日本にあったかつての民家がなくなっていくというのは寂しいものです。

民家の甦生は暮らしを実践することからはじまります。この旧街道に人々がまた往来するかどうかはわかりませんが、試してみたいことがまだたくさんあります。子どもたちに新しい生き方や世界が手本とするような働き方を遺し譲るために一つ一つを歩く速度で丁寧に甦生を続けていきたいと思います。

美しい生き方

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」に「お」がついて、より丁寧にしたものですが辞書をひくと「よい状態を保つために、整備・補修などをすること。」(goo辞書)と書かれます。具体的には「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」など、自らの心配りや心がけで修繕しているときに用いられる言葉です。

このお手入れは、何かを整えたり美しく保つために修理や修繕を続けて長持ちさせていくための智慧の一つとも言えます。掃除や片付け、修理やメンテナンスはそのものへの愛情を注ぎ込むことができ愛着の関係性が醸成されていきます。

大事にされているものは、大事にされている雰囲気が出てきます。これも一つの愛着というか、愛され愛し合う関係の調和が周りにそういう雰囲気を醸し出すのでしょう。お手入れはお互いに大切にし、大切にされた関係の歴史であり記憶です。

今の時代は、お手入れ不要の便利なものが増えてきています。例えば、お花では枯れない花や研ぐ必要のない包丁や、そのほか掃除やメンテナンスをしなくていい機械や便利な道具が溢れています。これらは使い捨てすることが前提ですから、使い切るまで一切のお手入れは不要です。

そもそも本来の言葉の使い切るというのは、「もったなく使う」ことで捨てないことから用いられたことばです。つまり捨てないでどこまで使い切ることができるかという意味でお手入れは絶対に必要です。

しかしこの意識の前提が「捨てることになっているか・捨てないことになっているか」でお手入れをするかどうかを分かつのです。捨てないことになっているからこそ勿体無く感じてお手入れが実践されるのです。

現代はグローバリゼーションのもと消費を優先して大量に生産し、そして捨てていく世の中ですがそのことで失われたのは美しい生き方ではないかと私は思います。この美しさとは心の美しさであり、修繕し勿体無くものを大切にし大切にされて生きていく愛情深い優しい所作、思いやりのある生き様のことです。

引き続き、修繕を楽しみ味わいながら子どもたちに大切な智慧を伝承していきたいと思います。

調和と響き合い~音響~

先日、あるジャズシンガーの方から聴福庵で生演奏をやってみたいというお話がありました。古民家の場を使った音楽というのは、私も以前から興味があり改めて古いものと音との関係を少し深めてみたいと思います。

音というものは空間で響くものですがこれはお互いの関係性によって音楽が奏でられるものです、例えばある物質に別の物質を当てて音を鳴らすときお互いの物質の特性によってその鳴り響く音が変わります。私がよく使っている砂鉄の鉄瓶などは、玉鋼の火箸で軽く触れるとキーンという高音が長く響き渡ります。この時、お互いの音はそれぞれの性質によって顕れてきます。

そして不思議ですが、経年変化している古いものは丸みがある音が出ます。これは古木や柱などを軽く叩くとわかりますが、ずっしりと深みがある音が出ます。時間が経ったものは相応の音を響かせます。科学的には時間が経過した古いものは木に含まれる水分が抜けて音の出るスピードが速くなるからといわれますがそれだけではないことは古民家での暮らしをしてみればわかります。

例えばおくどさんの中で、竈やまな板で料理をしたりかつお節を削る音はその空間に響き独特の調理場の音を奏でます。そこにはもちろん古い道具たちが響き合い、お互いにその音を聴いているかのような空間が生まれうっとりしますが、使い手の人間性や人柄も道具との相性によって変わってきます。同じかつお節を削っている音であっても、技術や人間の個性よって差が出てくるように古い道具たちにそれに合わせて音を奏でます。

道具も古いものが鳴らすのは、均一ではない個性を持っているからです。ホームセンターで買ってきたような安い包丁は、誰でも切れるし扱えますが個性がありません。均一化されて平均化されることで誰でも使える道具にした分、そのものの特徴もなくなりますから音の響きはありません。古い道具は使い手が試されますから、使い手が道具の特徴を見抜き腕を上げて使い調和させていきます。この調和するときの響きこそ音楽であり、その音楽が周りの古い道具たちとの調和を引き出していくように私は思います。

こんなことを非科学的といわれるかもしれませんが、腕の善い老練の職人さんが昔の道具たちを用いて作業する音は、心に深く響き感動します。音の響きというものは、決して現代の科学だけでは解明することはできないように思います。

そして話を戻せば、古いものは周りと調和していきます。調和した響きは環境や空間と響き合います。つまりは新しい建物で聴く音と、古い建物で聴く音は異なります。さらには風土に適った材料で出来上がった場と、風土に適しない材料で出来上がった場所では水分量の関係もあり、音の感覚がズレていきます。私たちはもともとこの風土の中で音楽を聴いて耳を発達発展させてきましたし、そういう微細な音を聴き分ける繊細さが備わっています。

箱庭にある、鳥の声や雨の音、鹿威しの音など、空間を伝わっていく音響を感じ取ります。そして古民家には、その主人が日本的精神を持ち丁寧に暮らしているのならそのどれもが調和するもので整っているはずです。

新しい建物であれば、楽器を鳴らしても単体で響きます。しかし古い建物で調和されているものであれば周囲と響き合って調和する音を奏でます。古民家で音楽をすると感動するのはこの調和音が聴けるからです。

先日、杉並区にある普門館が耐震構造をクリアしていないため取り壊されるという話を聞いてとても心が痛みました。あの空間で響き合った調和は、子どもたちに譲ればどれだけのことが伝承できただろうかと思うばかりです。

引き続き、復古創新を続けながら子どもたちに貴重な文化財を譲り遺していきたいと思います。

 

暮らしの醍醐味

昨日は聴福庵の甦生で大変お世話になっている大工棟梁とそのご家族に来ていただき、聴福庵での暮らしとおもてなしを体験していただきました。もう一年半以上も一緒に古民家の修理や修繕を行ってきましたが、いつも作業やお仕事ばかりではじめて一緒にゆったりとこれまでのプロセスを振り返る時間を取ることができました。

和ろうそくの灯りの中、二人で盃を交わしながら深夜までお酒を吞みましたが棟梁からは改めて「このような家を手懸けることができ大工冥利に尽きる」と仕合せな言葉もいただきました。まだまだ完成したわけではなく、修理や修繕は暮らしと共に継続しますからこのように家を中心に素晴らしい出会いやご縁があったことに感謝しきれないほどです。

人生はいつ誰と出会うか、それによって運命が変わっていきます。年齢も人生も離れていた人が何かの機縁によって出会い助け合う。そしてそのご縁によって豊かで仕合せな記憶を紡ぐことができる。志を共にする仲間が出会えるということが奇跡そのものであり、その数奇な組み合わせにより新しい物語が生まれます。

聴福庵の道具たちはすべて時代的に古いものを甦生して新しく活かしているものばかりですがその道具たちには職人さんたちの魂が宿っています。みんな人は何かを創りカタチを遺すとき、そこに自分の魂を削りそして籠めます。それは時代を超えていつまでも生き続けているものであり、その物語は終わったわけではありません。

その物語の続きを創るものがいる、魂を受け継ぐものがいる。そうやって今でもこの世に存在し続けて私たちと一緒に記憶の一遍を豊かに広げていくのです。またその魂は、同様に同じ志や思いをもっているものたちと引き合い弾き合わせてご縁を奏で波長を響かせていきます。その空間にはいつまでも楽しく豊かな記憶が、志を通じて甦るのです。それが暮らしの醍醐味なのです。

子どもたちに譲り遺していきたい暮らしとは、このように昔から続いている魂を大切に受け継いでいく勿体無い存在に対する尊敬の念です。ご先祖様たちの重ねてきた人生の延長線上に今の私たちがあるということ。それを決して忘れないでほしいと願うのです。

そのためには、それを実感できる場や存在、生き方や生き様などを与えてくれる大人たちの背中が必要なのです。今、私がここで感じている仕合せをどのように今の時代の子どもたちに伝承していくか、まだまだ未熟で途上ですがここで満足せずさらに一歩前に踏み出していきたいと思います。

 

真己を磨く

刷り込みを深めていると、環境のこともありますがそれに負けないような自分を如何に創り上げていくかという課題も同時に感じます。幼いころから自分というものを育てようとせずに外から誰かに一方的に教え込まれたままに大人になると自分のことが分からなくなっているものです。

この「自分を知る」ということがどれだけ大事なことか、改めて書いてみようと思います。

そもそも自分を知るために必要な問い「自分とは何か」、これとちゃんと向き合ってきた人は少ないように思います。漠然とした自分のことはわかっていても、本来の自分というものはほとんどわかっていないものです。人生は自分を知る旅だとも言えますが、日々に本心や真己と対話をし良心ともいうべき本当の自分に出会い続けることで自分のことを知っていきます。

素直な自分というか、自分を欺かず自分の心と向き合い自分の声に耳を澄まして自分でその今の事実を受け止めて決断していく連続において自分を知っていくとも言えます。

何のために自分を知る必要があるのか、それは誰も代わることができないたった一人の自分、たった一つの人生を、自分が責任をもって主人公として生き切っていくためでもあります。もしもそうでなければどうなるか、他人の人生を自分の人生だと思い込み、一度きりの人生を無責任に他人事のように流されていたら本当の自分に出会うことのないままに死んでしまうことになります。自分を知るというのは、すべての自立の根っこであり、自立するためにはまずその最初の登竜門でもある自分を知ることからはじめなければなりません。

そして自分を知ることができれば今度は自分を創ることをはじめていく必要があります。本当の自分から目を逸らさずに自分を見つめて自分を知れば、自分にはいろいろな感情や性格や性質、特性や徳性があることに気づきます。その中で如何に自分を全体のために発揮していくかを考えるとき、善いところを伸ばし、悪いところは目立たないようにしていく、そして今できないものは周囲を頼ってカバーしてもらうというように自分を創り上げていかなければなりません。

畢竟、教育の本質はこの自分を知る、自分を創るということでしょう。そして如何にその自分が社會に参画し世界を平和にしていくか。そのために私たちは日々に学ぶ機会を経ては己を知り己を磨き続けるのです。

今の時代は、歪んだ個人主義が蔓延し、あまり自分自身を知ることや自分自身を創ることをし自己を評価して改善する時間をじっくりと取るよりも、周囲の評価に合わせては見た目ばかりを誤魔化し忙しくすることで自分を知ろうとも創ろうともしない風潮があります。

どんな自分に仕上げていくかは、自分が自分を知り、自分で自分を創造していくしかありません。そのためには、自分を見つめることから初めていくことだと私は思います。日々に省みることは、自分を知るための最大最高の道です。真己を内省により磨き続けていけばそのうち穢れも洗い流され曇りも晴れて、本当の自分を知る出会いに巡り会えると思います。諦めないで続けていくこと、どんなことからも逃げずに向き合ってみること、いただいている有難いご縁に感謝することからはじめていくといいと思います。

引き続き、刷り込みを見つめながら子どもには刷り込みを与えないように、大人にはその刷り込みを毀すために如何に真己を磨くかを伝道していきたいと思います。

窮屈と抑圧~社會の在り方~

何かを自由にしようとするとすぐにその自由に対して批判やルールを押し付けられることがあります。本来の自由は、そういう壁や枠を乗り越えて自在に自分を展開していくことですが周囲からの評価や空気を読めといった押し付けられるものに負けてしまえば自分を社会の型に嵌められ押し殺されてしまいます。

この窮屈や抑圧から連想される言葉は他には、マニュアル的や規格的、官僚主義的、制限つき、呪縛される、 自由がきかない、融通が利かない、ガチガチ、こり固まる、役所仕事など、いわゆる息が詰まるような圧迫したマジメさというか狭苦しい不寛容な雰囲気を感じます。

以前、オランダにいったとき教育の自由が保たれ、どんな人でも教育を語ってもよく民間企業であっても官学連携も普通に行われ豊かにその教育の質を議論し合える寛容な環境があったことに感動したことがあります。そのオランダでは私のような人間をユニークだと褒めてくれて、日本にこのようなユニークな会社があることが素晴らしいと認めてくれたことに感動したことがあります。

しかし日本ではすぐに何かをしようとすると、大多数の古い価値観から否定され「こうであらねばらない」というすぐに誰かが決めた社会の固定概念というか封建主義的な風習から語られ、本質的な議論もなされず余計な時間を浪費してしまう傾向があります。

真面目にやりなさいと言われ続けて型に嵌められることが当たり前になると型破りであることはそのまま不真面目であると認識されます。しかしこの型破りというのは決して不真面目にやっているのではなく本質を守ろうとするがゆえに型を破っているのに過ぎないこともあるのです。

なんでもすぐにマジメはいいこと、フマジメは悪いことと認識してその常識を信じ込まされていることこそが自分も窮屈で不寛容な社会の助長をしていることになるように私は思います。

マジメかフマジメかではなく、本質的にどうなのかと質の話に議論がいかないことが成熟を阻害し、民度を下げているようにも感じます。なんでも同じ型に嵌められるほど画一的なものではないのが実際の社會です。

この画一的で規格品ばかりができたことによる窮屈で抑圧された状態で凝り固まっていたら世界に取り残されてしまうのは自明の理です。

もっと純粋な人や、志のある人、本質的な人を助けて応援する気風を国家全体で醸成していくことが本来の国家の品格ではないかとも思います。どこぞの大量生産の規格品ばかりをつくるロボットの工場のような国が果たしてこれからの多様化された自由な世界で一体何をすることができるのでしょうか。子どもが減っているのも子どもの元氣が減退しているのもそれは今の大人たちが作り上げて押し付けてきた社会がいつまでも変わらないままであるからでしょう。

社會は本来寛容です、そして寛容さは広く明るい伸び伸びした自然の環境と心です。

もっと心豊かに生きられる国にしていけるように、子どもたちにはいろいろな生き方があり自分らしく生きていいというロールモデルになるようにどんな窮屈で抑圧された社會であってもそれを乗り越えて新しい今を今を生きる大人たちの選択として創造していきたいと思います。

子どもたちの元氣に貢献できるよう、自分らしく明るく伸び伸びとした活気を放って挑戦していきたいと思います。

運命の模様替え

世の中には不平不満ばかりを述べては言い訳ばかりして何もしない人もいます。そうかといえば、言い訳をせずにどんなことも勇んで遣りきっている人もいます。自分から進んで取り組むことは勇気がいることですが、他人が嫌がることや大変なことを自ら引き受けて取り組んでいる人は運命が明るく伸びているように思います。

そういう人は徳が積まれ、その徳によって運命が好転していくように思います。

常岡一郎さんにこのような言葉があります。

「徳と毒はよく似ている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒になることでも、そのにごりを取れば徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引き受けるなら辛いことほど徳になる」

常岡一郎さんは、自分のことは後回しにしてでも誰かのために自分を絞りきる実践をなさっていた方だったといいます。朝顔を洗おうと思いながらも、みんなのために朝起きてすぐに自分を盡していたら結局は夕方になって顔を洗うことになっていたといいます。しかしそうやって、みんなのためにと生きるからこそ勇心や勇気がでていたともいいます。自分のことを先にすれば毒になり、自分のことを後回しにすれば徳になる。毒と徳は紙一重の生き方の差にあるように感じます。

また常岡一郎さんは「運命の模様替え」という言い方をします。

「常に勇んで生きる人に天の心が動く。天の心が変わって後に、天命も天の恵みも変えられるのである。粗末な汚れた今日の運命の着物を着せられていても、燃えるような勇んだ心の持主には明日の美しい着物と模様替えされる。人の運命の着物は親なる神にまかせねばならぬ。泣いても、わめいても自分の運命は自分で頂かねばならない。逃れる道はない、明るいお礼心で迎え勇ましく働いて、模様替えの始まるまでつとめきるより他はない。」

どんな運命であってもいくらでも人は必ずそれを好転させていくことができる。それには燃えるような勇んだ心、つまり「勇気」だといいます。私も人生を省みると、痛くても前に踏み出す勇気、怖くても一歩を踏み込む勇気、その勇気があるから運命を受け容れることができその運命に従い自分を成長させてこれたように思います。

この勇気は決して、ただ闇雲に無鉄砲に突っ込めというような野蛮なものではありません。自分を後回しにしてでも、勇気を出して信念に従ったり、今まで頑固に執着している自分のことを手放して新しいことに挑戦したりするときの勇気だと思います。

私も先日から足を痛め、ずっと右足が前にでず階段が怖くて登れませんでした。あまりの激痛と、階段を踏み外したことへの心理的ショックが大きすぎて足が前に出ないのです。しかし、お客様の理念研修を実施するにおいて私が勇気を出さなくてはと前に足を踏み込んだとき勇気が出てすべてのことが打破されていきました。

人が変わるということは、勇気を出して行動するということです。

運命は勇気を出して足を前に出すからこそそこから景色が動き始めます。自分の保身や心配ばかりをしていて怖がっていても人生は好転せず、誰かのためにと自分を後回しにしてでも取り組もうとする勇気の時にだけ、福に転じていきます。

「思い切ったことをやる。すばらしい困難と取り組む。そこに自らの未熟さがわかる。力の不足がわかる。不徳がわかる。しみじみと自分の本体がさらけ出される。そこで反省も出来る。鍛錬に力がはいる。修養が真剣さをもって来る。何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである。」

・・何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである・・

生き方の指南として、「自分をふり絞れ=勇気を振り絞れ」という意味、「運命の模様替え」はいつも大事な局面で背中を押してくれるかもしれません。勇気を出していのちを遣りきるという今を生き切る姿勢を保ち続けるためにも、好奇心と創造力を信じて挑戦していきたいと思います。

 

 

生き甲斐と働き甲斐

人生は、「生き甲斐」を持つことで希望が現れ楽しくなります。この生き甲斐は、世界では「mottainai」や「kawaii」などと同様に「ikigai」として注目されているともいいます。

この生き甲斐は、生きるに値するもの、生きていくはりあいや喜びと辞書では訳されますが私の意訳では「暮らしの仕合せ」です。一日一生として、毎日を人生の大切な日であるとして初心を忘れずに丁寧に暮らしを営むことで生きる意味を感じる生き方のことです。

人は何のために生きるのかと突き詰めれば、どう生きていきたいかに出会います。どのような生き方をするかと決めれば、毎日はその生き方を挑戦できる尊い一日になります。それを初心ともいいますが、その初心を忘れずに生きれるのなら毎日は生き甲斐のあるはりのある一日を過ごすことができます。その日々の暮らしこそが幸福の源流であり、その中にある最中こそが本当の仕合せなのです。

そしてこの生き甲斐は、そのまま働き方に転換されていきます。働き方改革など世の中でいわれているもののほとんどは、働く手段や方法のことばかりを変えることをいいますが本来は生き方を変えることが働き方を変えることです。そして生き甲斐があれば働き甲斐が出てきます。

この働き甲斐は、日々の仕事の中にあります。

どのような初心を持ち、日々働きそして内省するか、それを繰り返すことで次第に働き甲斐が高まり豊かになっていきます。その豊かさは暮らしの豊かさであり、日々の仕事の中に自分の価値や意味、その大いなる目的を共に体験することで天職に気づいていくことです。

与えられたご縁はすべて意味があるものとして生き方を磨き、与えられた仕事もすべて天職として意味があるものにしていくことで働き方を磨く。そこで得られる生き甲斐と働き甲斐は自分が生きている、活かされている充実感を味わうことです。

「ikigai」「hatarakigai」は、日本人の持つ尊い文化です。

日本人の文化に支えられながら、暮らしを甦生させ日々を充実するよう初心と実践と内省を伝道していきたいと思います。