甦生業

藁ぶき古民家の甦生もまもなく最終段階に入ってきていて家の徳が引き出されてきています。ご近所の方や通りすがりの車が止まり声をかけてくださいます。その声は、一様に「だんだんと家が善くなってきていますね、楽しみです」というものです。

それは動画で配信しているサイトのコメントでもたくさんいただき、身内や仲間からも喜びの声をいただきます。その言葉に励まされ、信念を強くして真摯に家に向き合って修繕を続けています。

考えてみると、人はみんな何かが甦っていくことに希望を感じるように思います。

もう御終いだと思っていたものが復活して、それがさらに以前よりも元氣になって美しく生命を輝かせていく姿に偉大な何かの存在を感じるように思うのです。

それは病気からの恢復、あるいは壊れた機械の修理、よくお手入れされた道具、これらのものに触れると人は善かったねと喜んでくれるのです。徳を積むということは、この甦えらせていくことに似ているのです。

今まで荒れ地で捨て去っていたものを甦らせてそこで作物を育て農地を役立てること、経験豊富な高齢者や職人たちが後世の若い人に技術を伝承していくこと、他にも古井戸や古民家を甦生して新しい役目を与えて人々を潤してもらうこと、こういうこともまた徳になるのです。

徳は事業ではなく、お金儲けではありません。なので無理にお金のためにするものではなく、みんなが喜び、自分も喜ぶことを真摯に取り組んでいくことに似ています。自他一体に全体が幸福になるというのは、自然循環の摂理であり自然の徳の仕組みでもあります。

この徳循環を支えるもの、それが「甦生」なのです。

甦生業が私の取り組みですから、甦生したものが役に立てるように場を創造していくこともまた使命です。挑戦すれば喜びも多いですが苦しみもまた同時に発生します。それを味わいながら、今、できることに真摯に挑戦を本気のままに続けていきたいと思います。

 

腸活を楽しむ~智慧食~

私たちの郷土料理の中の一つに「ぬか炊き」というものがあります。ぬか漬けの漬物を知っている人は多いと思いますが、そのぬかを使って料理して味付けをし煮込んだものがぬか炊きといいます。

そもそもこの「ぬか」は、玄米を精白する時に出る、胚芽(はいが)と種皮とが混ざった粉のことをいいます。それを壺や木桶などに入れて、塩水を加えて練れば「床」ができます。そのぬかの床ができるから「ぬか床」(ぬかみそ)とも呼びます。このぬか床は人間に有益な微生物や乳酸菌などの棲家になりそこでの発酵の循環で産み出されたものを摂取することで人間にとっても豊富なビタミンやミネラル、栄養価を得られます。

この微生物と人間との調和、そのものを「発酵」と呼び、私たちは伝統文化として暮らしの中に取り入れてきました。野菜等の保存食としても最適でもあるためこの智慧を伝承されてきたのです。今では冷蔵庫=保存するものになっていますが、自然界にはそんなものはなく微生物と共生することで私たちは生き残るための智慧を獲得してきたのです。この時の保存は単に傷まない腐らないための仕組みではなく、「永続的に健康でいられる仕組み」まで入っていたのです。

以前、確かこのブログでも書きましたがぬか漬けの歴史は奈良時代の「須須保利(すずほり)」という漬物がルーツだともいわれます。米糠のことも734年(天平6年)の正倉院文書の尾張国正税帳にあるといわれています。それだけぬかを使った暮らしには歴史があります。

その「ぬか」を使った「ぬか炊き」は一般的なぬか床のような漬物として使わずにぬか床を調味料にして青魚のサバやイワシをぬか床で長時間炊くのに使います。つまり「ぬか+炊く」から「ぬか炊き」ということなのです。このぬか床を長時間炊くことで保存期間が延びさらに青魚特有の臭みも消えぬか床のうま味が魚に入り絶妙な味わいが得られます。健康になる上に、寿命が伸びるという発明食です。福岡での伝統郷土料理としてのはじまりは小倉藩主の小笠原忠政公が前任の信濃国から保存食用としてぬか床を持ち込んだのがはじまりです。

今の時代、添加物をはじめいのちの入っていない便利なサプリや加工食品ばかりが広がっている中で腸内環境を整えるといった「腸活」が流行ってきていますが現代社会でも心身の健康恢復の救いになるのがこの「ぬか漬け」と「ぬか炊き」であることは間違いありません。日々の暮らしの中で如何に腸内フローラを活き活きさせていくか、それは暮らしの中の日々の食の智慧と工夫にこそあります。

つまり伝統保存食は単なる長期間腐らないものではないのです。本来の伝統保存食とは、健康な暮らしを維持継続させるための智慧食のことです。私たちは日々に心身が整っていけば、それだけで仕合せを感じます。日々の暮らしは、私たちの人生を美しく彩り、明るくしていきます。

「食」という字が、なぜ「人が良くなる」と書くのか。それは食によって人間が磨かれていくからです。そしてそれは「腸内環境」からというのはまさに的を得ていると感じます。

コロナウイルスのことで、暗く辛い報道も増えていますが、いつまでも子どもたちが安心して元氣で健康で幸せになれるように私も腸活を楽しんでいきたいと思います。

 

助け合いの精神

現在の世界の政治の運営の仕組みは、成熟して限界値を超えてきています。それぞれの国が国家財政がひっ迫するなか、今までの仕組みでは社会制度を保つことが難しくなっています。

人類はこれまでいろいろな方法をつかって社会を維持してきました。グローバリゼーションによって一斉に似たような社会を築きましたが、少子高齢化をはじめ今までになかったような問題に取り組むことになっています。

こういう時こそ、私たちは歴史に学び、智慧を磨いていく必要があります。

かつて米沢藩主上杉鷹山という名君がいました。この方は「民の父母」として慕われました。財政難に陥っていた米沢藩を倹約や民政事業による財政の立て直しを行いました。その具体的な藩主の根本方針を次の「三助」と表現して政治を執り行いました。

それは、「自助・互助・扶助」の3つです。これは自ら助けること、そして近隣社会が互いに助け合うこと、最後は藩政府が手を貸すこととしました。

「自助」実現のために米作以外の殖産興業を積極的に進め、「互助」の実践として農民には「五人組、十人組、一村」の単位で組合を作り互いに助け合わせました。また孤児、孤老、障がい者がいた場合は五人組、十人組の中で、養うようにしました。また一村が火事や水害など大きな災害にあった時には近隣の四か村が救援するようにしました。

それを超えるような災害、天明の大飢饉では藩政府の「扶助」が必要とし、藩士、領民の区別なく一日あたり男、米3合、女2合5勺の割合で支給して粥として食べさせ乗り越えました。その際は鷹山のいる上杉家も全員で領民と同様に三度の食事は粥としそれを見習って富裕な者たちも貧しい者を競って助けたと記録にあります。

これは実は、時代を超えても大切な三要素であることがわかります。そしてこの仕組みは、国家経営だけではなく会社経営、人類の社会存続の智慧であることもわかります。

つまり「助け合い」がしやすい環境を創造したということです。

常に有事に備えるとは、日々の助け合いの機会や場が整っている状態をつくるということです。現代は、個人主義でプライベート重視ですから助け合うよりもあまり深く関わらないように距離をとって生活しているものです。特になんでもお金を使えば、その助け合う要素が必要がなくなりますから何でもお金で解決しようとするものです。

そうやって社会全体が、助け合い難い環境が仕上がっていきました。すると次第に、財政がひっ迫していきます。その状態になったら余計に人々は助け合わず、さらに悪循環に陥り財政難はさらにスピードアップしていくものです。

日本の国家運営をみても、助け合う環境がますます減っていき膠着してきています。災害というものは、天災、人災がありますがいつこの先どのような災害に見舞われるかわかりません。現在は、コロナという人災の災害ですがこれが他に天災が加わってしまえば私たちは上杉鷹山が体験したような大変な状態が訪れるかもしれません。

あの当時ですら、気候変動から天保・天命の疫病と飢饉で100万人以上が亡くなっています。気候変動はこの先もずっと避けては通れない自然の摂理ですから私たちは常に災害に備える必要があります。世界でもっとも危険で、自然災害が多い国に生まれた以上、私たちは世界に対して災害を乗り越える智慧を発信して世界の人類の一つの希望にならなくてはなりません。

日本人として、これから何が必要なのか。それをどう示していくか、そこにこの上杉鷹山の言う「自助・互助・扶助」の助け合いの精神は要になっていくと私は思います。

これは日ごろからどのような暮らしをしていくかという生き方の問いでもあります。暮らしフルネス™の中に、この智慧を取り入れていきたいと思います。

渋い生き方

昨日、藁ぶきの古民家の壁に伝統的な渋墨の塗料を使い塗装していきました。松煙を使った黒い塗料ですが、塗った後の板の木目がまさに「渋い」感じてうっとりとしました。

この渋いという言葉は、室町時代の「渋し」が起源であるといわれ未熟な柿のような酸味、苦味の事を元来は意味していたといいます。

そこから「渋い」、現代でも「落ち着きがある」「趣がある」といった意味とし使用され、現代でも渋いことは格好良いものの一つとして使われています。

この渋さは、ただ見た目だけのカッコよさをいうのではないのは古民家甦生に手掛けてわかるようになりました。聴福庵では5年前に施した渋墨の板壁が今では本当に黒光りして磨き上げられた壁のように艶があります。

これは長年をかけて熟成されてさらに雰囲気があり格好よくなっています。渋いことに似た言葉に「いぶし銀」というものもあります。時間をかけて磨き上げられた美の魅力を表現する言葉です。

この「いぶし銀」は「銀」の持つ性質のことをいいます。一般的に金属の中には錆びていきますが「銀」の場合は、化学反応によって硫化し表面が硫黄銀で覆われていきます。すると黄味がかった色が黒へと時間をかけて色合い・風合いが出て魅力が上がっていきます。いぶし銀は、ピカピカするような輝きは失せまずがその分、「渋い」感じが出てくるのです。

この「いぶし銀」の持つ渋さや奥行きになぞらえて、「いぶし銀の活躍」などという言葉のように「魅力的な人」の代名詞になっています。

このいぶし銀の持つ、渋さは本物の実力を兼ね備えた人ということです。渋い人というのは、真の魅力を持っているということの意味でもあるのでしょう。私は、古民家甦生をするときによくこの渋い黒を用います。黒が好きということもありますが、私は正確にいうと熟成されていくのが好きなのです。なので発酵も大好きですし、時間をかけて醸成させていくのにもっとも興味があります。

9年物の高菜漬けを漬け続けるのもまた熟成されたものでしかでない芳醇な香りと品のある味を学ぶためでもあります。

「渋い」というのは、一つの生き方でもあります。

渋い生き方ができるように、伝統や日本人の美意識から学び、子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

変化は生き方

人はそれぞれ何のためにそれをやるのかという初心をたずねていくと自ずから生き方に出会います。その生き方を知れば、その人の目的を確認することができます。一般的に人は人を理解するのにその人の目的への手段ばかりを見ては、「きっとこんなことをやりたいのだろう」と勝手に推察されますがその途中がどうなっているのかはその目的が非常に困難で偉大なものであれば目先に出ている手段だけをみてもその全体もしくは初心を把握することはほとんど不可能です。

例えば、エベレストに登頂するという目標を掲げているからとその人が単に山が好きなんだろうとだけ思ってもそうとは限りません。その人の目的を知ってはじめて、その手段に何を選択したのかの意味を理解することができるのです。

人は手段を目的だと勘違いして、手段をしたいのだろうと親切にお世話してくれますが本来はその人の生き方を観てその目的を共有することの方が真の意味で親切になることもあるように私は思います。

老子に、魚を与えずに釣り方を教えよという言葉があります。これも手段に対して与えるのではなくまさに生き方を与えよという意味でも受け取れます。

私は釣り方が今でいう、「暮らし方」であり、それが根本的に変化しなければ実際には何も変わっていないということにもなると思っています。なぜなら現代人は真の暮らしというものが喪失してしまっているからです。

特に今はコロナ禍で一時的に困ったからと補助金や助成金を出しては食べれないからと魚を与えているのでしょうが果たしてこれがいつまで続くのか、そしてそれでこの先に訪れる世界の困難や災難に対して一緒に乗り越える力を与えられたのか。少し先の未来が予想できて心配になります。

私が言うのは、このコロナ禍を福に転じてこの目先のことだけ乗り切ればいいという場当たり的な対処ではなく根源的にどうあらなければならないのかを学び直す必要があるのではないかと提言しているということです。

どのみち人類は今の方向のままでは、確実に資源が枯渇し競争原理の中で心の貧困はますます進み、愛に飢えた人たちが増えていくのは見てのとおりです。戦争もまた近づいてきています。本来、地球には真の豊かさがあり十分に足りている暮らしがすべての生きものに行き届くほどの無尽蔵を持っています。それをまだ足りぬとこれでもかと消費して成長ばかりを追い求めている方向を転換できるチャンスが今であるのは歴史をみればすぐにわかります。

このチャンスを活かして変化するのか、それともこのチャンスを逃してまた元に戻すのか。一人ひとり選択が与えられています。その時、中心になる大切なものは「生き方」であるのは明白です。

生き方は、現代では暮らし方に出てきます。働き方というのは本来は生き方であり暮らし方ですが、現在は単なる働く手段の一つにしかなっていません。テレワークも時短も、複業も手段の一つにすぎません。しかしそれでもそれが働き方改革と言ってしまえるのは、生き方を変えてまでやろうとはみんな思ってはいないからでしょう。それは大変なことだからです。全体の空気に任せていた方が楽だからでもあります。

実際に生き方を変えるというのは、日々の覚悟が迫られます。覚悟はいいのかと常に自分に問い続けることでもあります。そこまでするほど切羽詰まっていないというのが事実なのでしょう。

しかしこの先、コロナに加えてもしも未曽有の災害や危機が訪れたとき外圧によって本当の試練がきたら耐えられるのでしょうか。私は臆病で小心者だからそれが来てから選択というのが怖いからか、その前に変化したいと思うタイプのようです。大切なものを守りたいのです。

子どもたちを愛するがゆえに、暮らしフルネス™に取り組み葛藤の日々ですがこの取り組みが子どものためとは思われないことの方が多いです。何のためにこれをやるのか、それが多くの人に理解されるには真の暮らしの実践を共にし続けるしかないのかもしれません。

引き続き、子どもたちのために日々の暮らしを味わい楽しんでいきたいと思います。

風土甦生とひとづくり

私は故郷に戻ってきて色々と実践が増えてきていますが、よく地方創生をやっているということを言われることがあります。私はこの地方創生という言葉が実は好きではありません。それにまちづくりをしているともいわれますが、またこれも好きではない言葉です。

なぜだろうかと少し考えてみると、色々と思い当たるところが出てきます。例えば、地方という言い方も私は東京に19年住んで2拠点生活をしてきましたから、東京でいうところの東京以外を、特に大都市以外のところをみんな地方と呼んでいました。私は、日本という国でしかもふるさとには両親や家族がいて、東京も一緒に目的を共有している社員たち(私たちはカグヤ一家と呼ぶ)がいてそこを行き来していただけで東京か福岡かということを意識したことはほとんどありませんでした。なので、地方創生という言い方に違和感を覚えたままなのです。せめて、地元創生ならなんとなく理解できますがさらに踏み込めば私がしていることは「風土甦生」の方が近いのです。

もう一つのまちづくりにおいては、さらに違和感があります。そもそも何をもってまちづくりというのか。誰かが箱ものをたくさん建てたり、経済が活性化できるような商売をはじめたり、衰退したものをまた興隆させたりする人たちがまちづくりをした人といわれます。つまり極端な言い方をしたら、田舎を都会にした人たちがまちづくりの第一人者のように呼ばれているのです。動物たちや虫たち、自然がイキイキとして風土が輝いているような場所をわざわざ人工的に整備して都会のようにして、さらに大都会の人と経済がつながり田舎が活性化したことを評価されてまちづくりをしたと呼ばれる喜ばれることが好ましくないのです。せめて、風土を磨いて魅力を引き出したとか、徳を積んで本来の地域の人々を薫育した「ひとづくり」に取り組んでいる方が近いのです。

私は日本の美しい風土をこよなく愛しており、その風土が永遠にこのままであってほしいと願うばかりです。だからこそ、風土を壊さずに美しいままであるために風土の甦生をしながらひとづくりをしていきたいと思っているのです。

本来、その地域にはその地域にしかない風土があります。それはその地域の徳のことです。それはその地域の歴史であったり、文化であったり、暮らしであったりするものです。それを大切にする人たちを醸成しながら、その中でその地域独特の生き方を通して日本全体の風土の一部として力を発揮していくこと。まるでどこにいっても金太郎飴のようになってしまった地方も人もそんなものは日本の未来にほとんど役に立ちません。ながらく保育や教育の世界を観てきても、十把ひとからげに同じようになるように型に嵌められた人を増やしてもそれは本質的にまちづくりの人を育てるはずはないのです。それにどこかで見た風景ばかりで同じ道路と同じチェーン店ばかりが連なっていてどこも同じ配置・配列になっているものが地方創生とかいっていたら田舎に出てきて東京が理想という状態をみんなで目指すだけになるのです。

なんだか長くなってしまいましたが(笑)、ミニ東京に憧れるのをやめ本質的に日本全体のために「風土甦生とひとづくり」をすることに原点回帰していくことが未来の子どもたちのために徳を譲り渡していくことになると思います。

引き続き、我が道をいきながら楽しく豊かに醸成を積み発酵していきたいと思います。

人類の失敗

先日、ある実験がアメリカで行われていることを知り自然の道理についてまた考える機会がありました。その実験は、蚊を遺伝子操作し子孫が生まれなくなるようにするものです。具体的には、遺伝子操作した雄の蚊を何千万匹と野に放ちその蚊が雌と交配することで子孫が生まれなくなり全滅させるというものです。

実験は1週間ごとに45万匹の遺伝子組み換えの蚊が放たれ27か月間行われました。結論としては失敗に終わったようで、雌の蚊が子孫を残せない雄を見分けて交配するようになったのではないかといわれています。当初は減少傾向があったそうですが、18か月後には元の数に戻ったそうです。

人間でもわかりますが、子孫を残せないとなると選択して子孫が残せるようなものを選ぶのはわかります。蚊はそうしないと思ったことがまず不思議ですが、自然の道理としては当然のことです。

問題はここからです。

本来、子孫を残せない蚊を放ったから遺伝子組み換えの蚊は同時にいなくなると仮定していましたが実際には交配するなかで野生の蚊から遺伝子組み換えられた蚊の遺伝子を受け継いだ個体が多数発見されたのです。その遺伝子組み換えられた蚊から同じ組み替えられた蚊が3~4パーセント誕生するようです。つまり人為的に遺伝子を改造された子孫がその後も引き継がれて野生に誕生しているということです。

この遺伝子を組み換えられた蚊のグループは、従来の蚊よりもさらに強い抵抗力や強毒性のようなものを持つことが考えられるそうです。

遺伝子を組み換えて操作するはずが、かえって手が付けられないものを作ってしまうという事実。これはコロナウイルスにも似たようなことが起きているのではないかと私は感じます。

人類は、この遺伝子組み換えという技術の危険性をよく理解せずに使いますが自然のバランスを壊せばどうなることがあるのかを必ず知る日が来るはずです。この遺伝子というものは、何億年も何千万年も前からある私たちの姿を創造するいのちの根源です。それを操作すれば、奇形をはじめあらゆる問題が発生します。

遺伝子を傷つけるようなもの、それを組み換えるようなものをすればこの世に本来存在するはずもなかったような不自然な存在が現れます。人工的に人為的につくられたものは、自然のバランスを崩すだけでなくかえってそれを今度また元に戻すために膨大な量のエネルギーや犠牲を払うことになります。

本来、自然を無視した人工物や人為的なものを取り払って自然に沿ったものにしていこうとなれば自然はバランスがととのいやすくなります。しかしその逆をやればどうなるかといえば、かえって人間にとって不都合なことばかりが発生するのです。

このまま、学び直すことなく人類が突き進めばそのうち「人類の失敗」という歴史が本に掲載される日も来るように思います。その失敗は、すべて以上のように自然界のバランスを崩した出来事や内容で埋め尽くされるはずです。

日本人の先人たちは、それをよく学んでいました。それによって山や川を大切にし、生き物たちや自然を深く崇拝し、自然と共生しながら永続し循環できるバランスの中心を持てる生き方、つまり伝統的な「暮らし」を実現させました。

最近、コロナウイルスは台湾モデルが世界に賞賛されていると聞きます。なぜ、日本がそうならないのか。残念に思います。どちらにしても、人類は失敗から学び改善するところに成長もあります。現実や事実を直視し、暮らしフルネス™が世界を導けるように実践を続けていきたいと思います。

資源のもと

私たちの身体をはじめ、この世のすべてのものは資源でできています。原資になっているものは土ですが、土から化けて形になり最後はまた土に還ります。そしてその土とは、水と火と木と石などあらゆるものが融和している存在です。

私たちは資源を使い、この世で生活をして暮らしを成り立たせています。自然は、それぞれ資源の共有によって共生し合い助け合ってその暮らしをより豊かにしています。

衣食住もまた資源を活用することでつくります。その資源のもとは、自然の他の生き物や存在から得ているものです。当たり前に食べている卵も、またお米もそのどれもが資源でありそれを使うためにはほかの資源の暮らしを保障する必要があるのです。

その仕組みを自覚していた先人たちは、如何に自然が豊かになるか、お互いの豊かさを活かし合っていけばいいかに知恵を絞りました。それが里山循環の仕組みであったり、現在の風土に見合った衣食住の仕組みであったりするのです。

お互いが資源であるからこそ、その資源を大切に活かしきろうとしたのです。私たちの人生も一生も資源を使うことでできています。この身体を使って何をするのか、どう豊かな人生を送るのか。つまりこの貴重な資源の使い道を選択できる自由が一人ひとりにあります。

ある人は、資源を使い私利私欲を満たすためだけに使います。またある人は、それを社会貢献のために使おうとします。本来、貴重な資源を使って私たちは暮らしているのですからその資源がまたほかの資源を豊かにし共生していくことの方が仕合せを感じます。なぜなら、ずっと活かされる存在であり続けることができるからです。

それは言い換えれば永遠のいのちを持っていることを実感できるからでもあります。自分の資源がいただいたもので存在できており、またその資源が子孫や他をずっと活かすためにあると思えるからです。

私たちは資源という見方をすれば、多くの存在の助けによってできた資源です。その資源への恩恵や徳をどのようにお返ししていくか。気づいた人たちはそのために一所懸命にその土地で恩返しをしていきます。それが故郷の資源に還っていくことです。資源を使い消費することばかりを楽しむのではなく、新たな資源を産み出し、その資源でふるさとが豊かになるような取り組みをみんなではじめていくことです。

子どもたちにさらに豊かな資源が譲り遺せるように、真摯に手入れや修繕を通してその意味を伝道していきたいと思います。

 

愛の鞭

現在、コロナウイルスの出現によって人類は今までの生き方を見直す機会に差し掛かっています。もともとコロナウイルスが出る前から、環境問題のことでこのままでは地球の資源が持たないということは騒がれていました。SGDsを含め、なんとか延命措置をしてそのうちになんとか対策を立てようと識者たちも必死に訴えかけてきました。

しかし人間の欲望や欲求は、現代の競争原理に飲み込まれ誰もが損をしたくないと抜け駆けする状態であり止まる気配もありません。コロナウイルスにおいても、ワクチン合戦や経済戦争は白熱するばかりでもはや打つ手がないほどです。

本来、ウイルスは自然界のもので時間が経てば必ず収束するものです。これは自然農をしているからわかるのですが、天敵というものはバランスを保つために現れ、バランスが整ったらまた元の状態に戻っていきます。

地球は常に全体快適になるように、あらゆるものに対して平等な環境を提供します。言い換えれば、「自然と共生する仕組み」で動いています。自然と共生することを拒み、対立して今の価値観を世界に広げてきてここで竟に自然の許容量の限界値に達しているのでしょう。

それでもこのまま突き進むのかということを問われているのがこのコロナウイルスの出来事だと私は感じます。現状では、人類はよほどのことがない限りは抜け駆け競争をやめてまで自然と共生する気配はありません。早々にワクチンを打って経済活動を復活させて何もなかったことのようにしてしまいたいのかもしれません。

しかしそこまでして戻ってきた世界は、また以前と同様に環境破壊を続けて資源を使い尽くすまで消費を繰り返し最後は人間だけ残ってしまうという状態に戻ります。

果たして本当にこれでいいのか、根源的な問題を未解決のままにコロナウイルスをもしも排除できたとしても第二第三の天敵の矢が人類に降り注いでくるのは火を見るよりも明らかです。

だからこそ、私は自然との共生をしながら生きていく道を子どもたちに遺していこうと挑戦をしています。一見そこまで極端にしなくてもと思われるかもしれませんが、極端に見えるのは今の価値観から見たら極端に見えるだけで実際には当たり前のことをやっているだけです。

古いものを手入れしながら修繕し、長持ちして資源を保存しつつ、あらゆる暮らしを都市化されたものに依存せずに足るを知る風土とのつながりの豊かさで味わえるようにする。そして文明の最先端技術を学び、取り入れながら文化とのバランスを保ちながら心穏やかに場を磨いて地球を美してしていく努力を怠らない。

あくまで仮定ですが、もしも聖徳太子がこの時代に生きていたらどうしただろうか。きっと日本の文化、歴史からの知恵、そして自然との共生をしながら適切に文明の恩恵を取り入れ人類の精神性を磨いたように思うのです。自然との共生とは、自然の道であり、かむながらの道のことです。

これを実践し続けることで、地球はより美しい自然を保ち、人類もまたその地球において豊かさの一端を担います。この世の楽園を実現させたはずなのです。

私の直観ですが、コロナウイルスでもここまでということになればこのあとに備える必要を感じます。さらなる天敵が現れ、人類は滅亡の危機を迎えるかもしれません。しかしこれは人類にとっては非常な災難ですが、地球にとってはバランスを保ち、人類が仕合せになるための愛の鞭のようなものなのでしょう。

私は一つのリーダーとして、人と異なる道を往くつもりです。

すべての人類は実験のようなものです。私の一生もまた一つの実験ですから、我が道を切り拓いて子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

自分で考える

人は自立していく上で大切なのは「自分で考える」ということです。この自分で考えるというのは言い換えれば「自分で気づく」という力のことです。人生はあらゆることが自分の中での気づきや発見で彩られていきますから誰かの人生を代わることはできません。

常に自分が自分の人生の主人公になって生きていく必要があるのです。その時、大切なのがこの自分を生きるために、自分で気づく人になるということです。

自分で気づく人というのは、説明が要りません。よく私は変わったことばかりをしているように周囲が見えるようで、またとても遠くのことのために歴史を遡り、損得を度外視して行動していきますから意味不明のことをやっているようにしか感じられないのかもしれません。

その時、説明をするようにいろいろと聞かれますが説明はしても全体のことが伝わるというのはほんのごく一部だけです。その時に、説明がわかりにくいという人もいます。説明ができないからよくないというのです。

確かに人に伝える技術というものを持つことで、わかりやすく誰にでもわかるようにすることは大切です。しかし、それはテレビや報道、記事など、もしくは広告宣伝をする時などにはいいかもしれませんが志や実践、もしくは学ぶということにおいては説明よりも気づくことの方が大切なのです。

気づくというのは、説明は要りません。自分の中で、その実践に近づいていき自らがその本質を掴むために気づくのです。気づくことで、人は真に成長しますし、気づきによって本当のことを掴むことができます。

つまりどんなに説明しても理解できないのは、説明する側の問題ではなく気づく側の問題だということなのです。私は今までの人生で、人生の達人といわれるような一道を究めた人たちに何人かお会いして学びをいただく機会がありました。

その人の説明の仕方がわかるかどうかではなく、どうやって近づこうか、どうしたらこの人の学びの深淵に触れることができるのかと謙虚に気づこうと真摯に取り組んできました。

その人の存在から醸し出される片鱗を感じ取り、言葉にならない実践や生き方などを直観して気づきで近づいてはじめて少しだけ悟りに触れるという具合です。それでも実践してまたお会いすると、気づきの差が観えてさらに学びを深めようとする意欲が高まります。

これを説明してくださいとは言いませんし、わからないのは相手の説明が悪いなどとは決して思うこ思うことはありません。最初から説明してもらおうという学びもないし、そんなに甘えていたら自分で考える力が失われてしまうのです。

今の教育は、なんでも先生や上の人が下の人に教えることが当たり前だということになっています。そして気づくことよりも、教え方がいいとか悪いとか相手のせいにばかりしては自分で気づくことの大切さが伝わっていません。自分の問題だと気づかないくらい、気づくことが失われているともいえます。

畢竟、人生は「気づく」ことができるかどうかで意味が変わります。そして自分で考える喜びや気づくことの仕合せが人生を真に豊かにするのです。

子どもたちのためにも、自ら気づける生き方を伝道していきたいと思います。