夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。

大切な智慧

人は目的に合わせて場を創造していくものです。何のためにという目的があって、その場所にはそこに関わる人たちの「思い」が空間の中に蓄積していくからです。その思いが場となり、その場は力をもって多くの人たちを引き寄せていきます。

場力というのは、目には観えませんが確かに存在していてその場の力が働くことで私たちは様々な助力をいただくことができます。

例えば、私の自然農の畑では自然との共生というテーマがあって高菜を植え育てています。ありとあらゆる動物や虫たちが自由に謳歌し、野生のままですがそこで農作業をしていると不思議とストレスなどが消えていきます。

少し横になり、天を仰いでじっと落ち着いているといのちの存在を身近に感じ、小さな虫たちの活動を眺めては自分もその自然の一部であることを認識し心穏やかです。

日ごとは都会のど真ん中で人工物と人工的な目的の影響を受けて働いていますが、都会ではどうしても経済活動の場として用意されていますから何をやっていてもその力の影響を受けていきます。

このように場というものは、目的に合わせてその環境を構成しますから私たちは目的と場というものをよく考えて創造していく必要があるのです。私は世間でいう、自然と共生しようともしないことを暮らしといっても人間中心の世界で人間相手だけに物販をしている人たちを暮らしているとは思っていません。

暮らしとは、自然の循環の中に入って共に生きていくことが前提ですから先人たちのように自然を相手にしながら自然と共にお互いを活かしあう活動をしていくことをいうのです。

暮らしの定義も、和風と同じように暮らし風になってきていますから本物の暮らしを伝承していくことも智慧が必要です。

暮らしフルネスは、基本は原点や原型を重んじます。原始の魂を真摯に受け継ぎ、温故知新して甦生させ、現代でも自然との調和をはかります。新しいサウナがいよいよ着工しますが私の「水」の智慧の集大成として取り組んでいきたいと思います。

子どもたちに、その大切な智慧を伝承していきたいと思います。

菜の花の力

この時期の室礼で用いるお花はほとんどが菜の花になります。菜の花といっても、茎の大きいものは菜の花ですが細いものはからし菜になります。私は高菜も大根も育てていますから、菜の花といってもその形状も異なりますし色合いも異なります。

菜の花はアブラナ科のアブラナ属になりますが種類は豊富で、一般的に知っている野菜だけでもキャベツ、芽キャベツ、ダイコン、小松菜、ブロッコリー、白菜(ハクサイ)、チンゲンサイ、カリフラワー、ケール、カラシナ、カブなどがあると思います。これらの花はすべて菜の花と呼んでいます。

またこのアブラナ科の油も、菜の花の種から油がとれるということもあります。油が今のように当たり前になかった時代、この菜の花から抽出できる油は大変重宝されました。

江戸時代の行燈はこの菜種油を使っていたといいますから本当に貴重な油だったのでしょう。二宮尊徳が、幼少期に菜種を荒れ地に蒔いてそれを収穫して夜学の油にしたことは有名です。私たちは今は菜の花をみて油を取ろうとはなかなか思わないと思いますが、本来はどの植物や野菜も食べるだけでなく見立て次第で様々な活用をすることができます。

私は先祖に菅原道真公がいますから命日の頃は梅と一緒にこの菜の花を祀ります。これは東京の亀戸天神でも行われていますが、なたねがなだめにもなるといい供養花として活用しています。同時に、梅の清々しさと合わせて菜の花の明るさと希望が満ちている姿が天神様を彷彿させるからです。

明るく清々しい姿はまさに子どもの元氣そのもので、春爛漫の希望に溢れています。季節季節にその時機にもっとも相応しい花が咲きますが、私たちはその時機に相応しいことを直観しているものです。

これは長い年月をかけて、その季節の感性や感情を自然と共に私たちも影響をいただいているということです。まもなく桜が開花しますが、まさに山から田へと風が吹いてきて夏に向けて勢いづいていきます。

長い冬が過ぎて春の滋味が心身に沁みわたります。新しい季節を新しい取り組みを味わいながら進めていきたいと思います。

改善のチャンス

新型コロナウイルスの影響で多大な影響が出てきています。各国政府の過敏な対応を観ていたら、今までの鳥インフルエンザなどとは異なった動きを感じます。真実や本当の情報がはっきりとせず、虚偽や隠蔽などが横行していくと世の中は混乱していきます。

現在のデマも人心が乱れるのもまた、こういう時こそ正直に事実だけを伝えみんなで協力して乗り切る必要があります。どうなるかわからない不安な状態というのは、誰もが自利を優先しようとするものです。しかし周りも不安でみんな大変だからこそ、協力して注意して乗り越えていこうとする力に転じていくしかありません。

私たちの会社では、「暮らしフルネス」をちょうど実践するチャンスとして勤務時間を短縮してその分、暮らしに力を入れる機会にしました。具体的には、「健康クラブ」的なものをみんなで発想を持ち合い、朝の体操や運動、また食生活の見直しや規則正しい睡眠、ゆったりと心身を穏やかに寛ぐ時間などを取ることにしています。

本来、どのようなことが起きようとも私たちは健康でなければ働けませんし、生活習慣を改善して加齢や環境の影響に順応して日々を充実させていこうとします。当たり前のことを見直すには、このような有事の時の方が取り組みやすいともいえるのです。

またテレワークなど色々といわれますが、日ごろから「信」を優先して協力して一緒に取り組んでいる仲間であればどこにいても情報共有しながら助け合って働けるものです。

日ごろの仕事の見直しも、この有事の時だからこそ当たり前に気づき取り組みやすいのです。

禍転じて福にしていくためには、自分だけではなくどのように全体が善になっていくか、また本質的に取り組むかが大切になっていきます。

子どもたちの未来に似たようなことが発生した時、どのように運を高めていくか。そして信を磨いていくか、一つのお手本になれるように精進していきたいと思います。

仕合せの場

人類は助け合うことで、様々な困難を乗り越えてきました。それは遺伝子にインプットされ、助け合うことで人は仕合せを感じるようにできています。仕事の原点もまた、その助け合いの場として発展してきました。

現代は、仕事は成果主義や評価が入ってきて助け合いをするためにというよりも業務遂行能力の方が優先されていきました。そのうち役割分担から業務分担になり、余計に人間関係やコミュニケ―ションが薄れていきました。そのことから仕事も次第に楽しい要素が失われていき、何のために働くのかという原点が議論されることもなくなってきました。

以前、日本理化学工業の会長から働く仕合せのことをお聴きしたことがあります。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは次の四つです。人に愛されること、人にほめられること、人の役に立つこと、そして、人から必要とされること。愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。障害をもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです」

働くのは、本当の仕合せを求める人間の証であるという言葉。とてもしっくりきます。この働く場には、「助け合い」という人間がもっとも愛を感じるものが存在するからです。

仕事で成果を出すためだけに人は働くのではない、助け合うことで愛を感じ、生きる仕合せ、一緒に取り組む喜び、そして誰かのお役に立てることのつながりが深く味わえるのです。

働くことは単に仕事をすることではなく、働くことは人間としての仕合せのために働くのです。とすれば、会社は何をする場かということです。それは仕合せの場であるという認識に切り替えなければなりません。

仕合せの場とは、その人間一人一人が助け合える喜びを感じ味わえるようにしていく場であるのは自明の理です。

同じ仕事であっても、働くであっても、そのもとになっている理念や考え方が異なればその結果としてその言葉の定義も異なります。仕事は助けてもらわないとできないからこそ、助け合いが生まれやすいのです。

子どもたちが豊かで幸福な人生を味わうためにも、仕合せの場を広げていきたいと思います。

初心のまま

人は生き方を優先すればするほどに正直になっていくものです。自分の本心を偽らず、自分の本当の姿を大切にしながら生き方を手入れすればするほどに素直は磨かれていきます。その素直を磨けば磨くほど、今度は正直になっていきます。無理に周囲に合わせたり、周りを意識することなく、本当の自分の心のままで他人にも自分も接することができるからです。

正直者というのは、自分に対してどう接するか。自分の本心を偽らずにどのように思いやりを持って生きるかということとつながっているようにも思います。

子どもの頃、正直さというのは何よりも安心感がありました。自分のまま自分とつながっていることで自己の調和を味わい仕合せを感じるものです。それが、外発的な力によって次第に正直ではなくなっていき自分を見失ってくると自己肯定感も下がっていくものです。

今を生きる上で課題になるのは、教えられないことの中で本当の自分というものの存在に気づけるかということ。そしてその本当の自分と一体になっていくということ。つまりは自立をする過程において、どのようなプロセスを通ってそれを実現するかということが大切であるように思います。

自分に正直な人は、他人も正直になります。自分に素直な人は、他人にも素直になります。正直さや素直さのもっとも大きな効果は、自分の観念や価値観、その世界が素直さや正直で溢れることでしょう。

それが生き方として出てくれば、その分その生き方を通して周囲にその正直さや素直さの美しさや価値を弘めていけるようにも思います。子どもたちの姿を観ていたら、自分のやりたいことに正直で、自然体で素直そのものです。赤ちゃんをはじめ、初心ないのちはみんな初心のままです。

初心を大切にするという生き方が、子ども心を守っていくように思います。

引き続き、人類の未来に向けて生き方を磨いていきたいと思います。

活かそうとする心掛け~生活習慣~

日々に色々な出来事が起きますが、それをどのように活かすかはその人の力量が試されるように思います。ある人はそれをちょうどいいと丸ごと活かそうとし、またある人は厄介だなと対策ばかりを立てようとします。

事物には、活かすと活かさないという考え方があります。せっかくだからと活かそうとする人たちは新しい偶発的な出会いに導かれ未知の領域を発見し新鮮な感動が起こります。活かさないというのは、活かせないともいい新しい発見が生まれません。

この活かすかどうかは、生き方が大きな影響を与えているように思うのです。

自分の能力や魅力、周りの個性、自分のご縁、人生での機会、あらゆるものはこの活かすか活かさないかで分かれていきます。そこには確かに生き方があり、その生き方の活力次第で人生の質を左右していきます。

生活というのはまさに日々の活かし方の取り組みであり、私たちの言う「暮らしフルネス」はまさにその生き方を磨くための大切な実践徳目とも言えます。

仕事もプライベートも、なんでも活かす人は新しい発見と発明、挑戦やチャンスを発掘していきます。なんでも活かす人は、まず素直であること。そして素直である人は感謝があること、感謝がある人は好奇心があること、好奇心がある人は反省する人、反省する人は気づきがある人、気づきがある人は改善できる人、改善できる人は冒険できる人、冒険できる人は勇気がある人というように次第にすべてが一円につながっていきます。

日々の暮らしが充実している人は、自己全体愛や全体善もまた充たされており足るを知ります。日々の暮らしを楽しむという豊かさが、社会全体を豊かにしていきます。それは物があるかないかではなく、「活かそうとする心掛け」が決めるといっても過言ではありません。

活動というのは、活かそうとして行動するということです。大切なのは活かせるかどうかではなく、活かそうと努力し続けることです。なんでも「ちょうどいい」、「今の自分に相応しい」と集中していくことが生活を豊かにしていくことです。

子どもたちに「暮らしフルネス」の豊かさを伝承できるように取り組みを楽しんでいきたいと思います。

人災

災害には、自然に発生したものと人が発生させたものがあります。自然災害の方は、自然の治癒であり全体最適のための災害ですから自然調和が働いて発生します。それは道理に適っており、自然の摂理に従っていくしかありません。自然はそうやって40億年以上前から、地球という存在を調整してくれて今があります。

宇宙のすべての調和は、私たちの見知らぬところで常に循環維持されておりその中で生きものたちは適応しながら生き続けてきたからです。

それに対し、人災は意味合いが変わってきます。この人生は自然の摂理を無視して、人間の都合で調整してきたものが崩れるときに発生します。場合によっては地球の環境も崩し、世界的に大きな災いとなって降り注いでいきます。

例えば、ある小さな島で儲かるからとすべての木々を伐採して島の外に売ってしまえばその島は人が住めない島になっていき人々はその島で生きていくことができなくなります。それは島にある保水力がなくなり、動植物が育たなくなり、生き物たちが生存する環境が破壊されてしまうからです。飢餓や飢饉が発生するのは、そうなることが分かっているのに抑制して自律する判断ができなかったからです。

これをある人は木々がなくなったことが自然災害といいますが、そうなることが分かっていても木々を伐採することをしなかったのだから人災なのです。

つまり自然災害と人災の大きな違いは、そうなるとわかっているのに止めようとしなかった。そうなることは予想がつくのにいつまでも欲に任せて変えようとしなかったということです。人間の欲望によって発生するもの、それが人災なのです。

人災は現在、世界中のありとあらゆるところで発生しています。その人災を未然に防ぐには、それぞれが自律的に自然に寄り添いながら自然の摂理を学び直し、自己抑制しながらみんなで全体調和していけるように人間力を高めていくしかありません。

道徳ともいいますが、人間の道徳心を高めていくしか人災を未然に防ぐ方法はないように思うのです。しかし現代のように、目先の損得、個人の利益ばかりを優先する社会の中ではそういう行為は滑稽さのようにも映ります。徳を積む行為をしていたら、周囲からそれは何のメリットがあるのかとすぐに聞かれるのもまた道徳が荒廃してきているからです。

二宮尊徳は、飢饉や飢餓があった際、ただの自然災害として受け取っているわけではないように私は思います。それでは心田を耕すとは言わないからです。人々の心の荒蕪こそが、この飢饉と飢餓を発生させたことを誰よりも先に見抜いていました。

自然災害の発生は、その原因をよく見つめてみたらすべて人間が起因になっているものがほとんどなのです。膨大な欲望を貪る前に、その欲望を膨大な道徳心に換えて自然から学び直し、自然の智慧を尊敬し、自然と共生しながら豊かに歩む道を我々人類は求めなければなりません。

私たちは今、試されています。

今回の新型コロナもまた人災ですし、世界中の気候変動もまた人災です。まだ間に合うと信じる人たちがそれぞれの場所でそれぞれの生き方で、人災を未然に防ぐために最大限の努力を一緒に取り組んでいくことを望みます。

私も今、できることで子どもたちのために最善を盡していきたいと思います。

人類の課題

新型コロナウイルスの影響でデマをはじめ様々な情報が飛び交っています。そもそも情報が本当かどうかは、自分が現地で自分の五感をフル動員して事実を直視し確かめなければ真実はわかりません。

あくまで情報だけが走ってきても、実際の事実と乖離していることがほとんどだからです。さらに現代は、その事実や真実の情報ということを確かめるよりも上辺の理解の仕方ばかりが議論されるのでさらにデマは発生しやすくなっていきます。

デマに流されないためには、自分自身で深めたり調査して判断していくしかありません。ではどのようにそれを確かめていくかといえば、自然の摂理に照らしたり、過去の歴史から学び直したり、自分の直観と創造力と本質を働かせたりしながら深めていくのです。

例えば、今回のウイルスでいえば過去に人類は何度もパンデミックの流行を体験していますからそれを調べていくところからはじまります。歴史に学ぶということです。どのように流行し、どのように収束したか、その時、人類にどのようなことが起きたのか、そして先人たちはどのような智慧で乗り越えてきたのかと調べていきます。

それぞれの国にはそれぞれのやり方があるように、多種多様なその対応策は存在しています。私たちの日本は、ウイルスを敵視するのではなく如何に共存共栄するかということを考えてきました。それは日々の暮らしの中で、排除するのではなく自己免疫を高め、発酵食品を摂取し、自然を取り込み、人口の密集を避けたり、心身の調和に努めていった記録があります。

もちろん対処療法も必要ですし、薬も必要でよくあるどちらかに偏ることはいいと思っていません。根本的な問題の解決と、その時々の対処的な問題は両方バランスよく取り組んでいく必要があります。

しかし実際には、対処的なものばかりが取り上げられほとんど根源的なものは見向きもされなくなってきています。時間がかかるものは効果がないと信じ込まされ、短期的に結果が出るものばかりが真実であるように思いこまされてきています。物事には必ず長短があり、その両方で事実になりますから先人たちはそれを智慧と知識で取り組んできました。

このようなウイルスの蔓延は、気候変動と環境の変化に因るものです。畑の虫たちのように温度が少しでも例年と異なれば出てくる虫も繁殖する菌も異なってきます。さらに、太陽や風向き、水の量などによってもその時々に繁茂したり天敵が現われて急速に死滅してしまうこともあります。自然は常に調和に働きますから、人類もまた調和の影響を受けていきます。

如何に世界全体で自然界の仕組みを理解し、謙虚に分相応に人類をみんなでコントロールしていくか。これから一つになる世界ではこの課題は必ず素通りできない課題です。そしてそれは誰か一人でやることではなく、人類がみんなで協力し合って自然調和、全体快適のために分を弁えていくために努力していくしかありません。

すでに先人たちが過去の歴史で実現してきたように、自然の利子で生きていく暮らし方や、自然の循環を邪魔せずかえって喜ばすような暮らし方をしていくことなど、改めてその智慧を見直す必要があるように私は思います。

人類は反省の歴史でもあります。

このような機会をどう捉えるかで、この先の子どもたちの未来が変わっていきます。今を生きる私たちにできることは何か、常にご縁と正対しながら最善を盡していきたいと思います。

人類の初心~思いやりの実践~

人生の中で「思いやり」というものが大切なことはそれぞれが分かっているものです。それは人の優しさやあたたかさを実感するときにより深く理解するものです。この思いやりの感覚は、人類は原始時代からありみんなで助け合って暮らしてきましたから太古の昔から思いやりのある民族は永続してきたように思います。

逆に思いやりがなくなれば、殺し合いや奪い合いになりそれらの民族は早く滅びてしまいます。人類が生存可能で持続可能な社會を維持していくには、この思いやりは絶対に不可欠な道徳の要であることはすぐにわかります。

思いやりをどうやって自然に持つのか、思いやりがどのように発揮される社会にするのか、それは幼少期からの愛情豊かなあたたかい社会や見守り合いの体験によって習得していくようにも思います。

生きていく上で必要な能力は、誰が教えなくても最初から私たちは備わっています。しかしそれをどう発揮させていくかの智慧は伝承や環境によって後から身についていきます。だからこそ、保育や教育は大切で人類は如何にその徳性を伸ばしていくかを学び、より善い社会が実現していけるように平和を学び修身修養を積んできたように思います。

しかし思いやりを教えるというのは、学校の教科書のように正しいからと押し付けてもそれは身に着けられるものではありません。思いやりは単なる正解ではなく、テストや偏差値ではないからです。思いやりを教えるのは、思いやりを持った人たちの生き方によってしか教えることができないからです。

優しさ、親切、心の豊かさのようなものは自分の生き方が決めていきます。自分自身がどのような生き方を心がけていくか、その生き方が周囲への模範になり真似したいと思われるような存在になっていくのです。

しかし、現代は無理に正解を押し付けてきたからか自分に厳しく人に優しくという言葉がかえって自分に厳しくし過ぎて自分を思いやることができなくなっているようにも思います。

自分を大切にするということの意味もまた、本来の自分を相手と分けずに思いやるという意味ではなく自分勝手にすることのように使われていたりします。そして相手を思いやるときは、自分は犠牲になって自分は思いやらなくても相手のために自分を使うことのように思い違いをしています。

本当の思いやりは、相手がもし自分だったら、自分がもし相手だったらと分けずに両方を思いやることです。そのためには、自分のことを思いやる気持ちで、相手も思いやるという実践ができなければなりません。自分を大切にするように相手を大切にする。相手を大切にするように自分を大切にするというように、その優しさを分けずに自他両方に接していくのです。

思いやりが大切なのは、一緒に思いやる世の中を目指そうといった平和を実現するための人類の初心が入っているからです。時代が変わっても、人類が目指している理想はまったく変わっていません。

子どもたちに譲り遺したい社會もまた、人類の初心の実現です。引き続き、日々の思いやりの実践を通して平和の実現に貢献していきたいと思います。