暮らしの本質と本懐

現在の世の中は、物を捨てることが当たり前の世の中になっています。大量生産大量消費で経済を循環させていく仕組みは、作っては捨てて、捨ててはまた作るという循環です。そのサイクルは早くなるばかりで、地球の資源もまた長い時間を経て成形してきた材料もあっという間に壊されては大量消費の循環に消えていきます。

現在の循環に対して、持続可能な循環を言う人たちも増えてきました。しかし同じ循環といっても現在の世の中が、大量消費の循環による経済の定義で動いていますからそれとは反対に回転する循環を創造することは大変なことです。

しかし時代時代にこの循環の往来も繰り返すように私たちは学び直して人間の中にある我と無我のバランスを往来してきました。

人間は本来、心豊かに生きていくことを望んでいる生きものです。懐かしい暮らしの中には、心を癒し安らぐものが充ちています。その暮らしこそ、大量消費の循環を逆回転させる鍵になると私は確信しています。

少し損をする生活、足るを知る生活、四季折々の変化を味わい自然の時間と共にゆっくりと暮らすこと。これは決して与捨て人になるのではなく、新しい時代を切り拓く人になるということです。そしてみんなでその暮らしを実現できるようにしていくのなら、そこに新しい循環、新しい経済、温故知新された時代のカタチが観えてくるように感じるからです。

一見、田舎で古民家で暮らしながらITの最先端や時代の潮流を先取りして挑戦することは変人のように観えるかもしれません。しかし、本来、私たちは心の暮らしを優先しながら世界に対して自分のオリジナリティを追求することで個性を発揮して世の中に貢献していくものです。

人間の持つ使命や、人類との共生、貢献の歴史は、同様にその時代時代の本質を守り、時代を切り拓いてきた伝統と文化の集積によって行われてきたのです。まちづくりも地域振興もまた、根源はこの本質を深堀り、本懐を遂げる覚悟があってはじまるように思います。

子どもたちの未来に確かな個性を伝承できるように自分のやるべきことに集中していきたいと思います。

縁起物

先日、聴福庵の玄関に「慈姑(くわい)」を桶鉢にいれて飾りました。桶はそのままでは水を溜めるので一般的な植物では根腐れしてしまいます。しかしこの慈姑は、もともと水生多年草であることから水を溜めていた方がいい桶の性質との相性がよく元気に芽が出ています。

このくわいは、縁起がよい植物として古来から愛されてきました。特に、むかしからおせち料理に使われ丸い実の部分(塊茎)から数cmの芽が伸びていてその「芽(目)が出る」という姿から縁起物とされてきたのです。くわいという名前は芽が鍬に似ていることが鍬芋とも呼ばれたそうです。

他にも縁起のよさではこのオモダカは「勝ち草」と呼ばれることもあり、戦国武将や大名家でオモダカの葉を意匠化した沢瀉紋が家紋として使用されてきました。豊臣氏や木下氏、福島氏があり、毛利氏も副紋として使用したともいいます。それに徳川家譜代の家臣水野氏、一般的に広まった家紋としての十大家紋の一つとされます。

慈姑の歴史は、もともとは中国産で日本へは平安時代には伝わっていたようです。平安時代の書物「本草和名」には「烏芋(くわい)」の項で「於毛多加(おもだか)」「久呂久和為(くろくわい)」と記されています。また貝原益軒の「菜譜」にも、くわいの栽培方法や食べ方についての紹介があります。

日本は湿地帯が多いため、この水生植物も多様にあります。日本人は植物を様々な縁起物として大切に尊敬し扱ってきました。今回、聴福庵の玄関の隣に飾ったこの慈姑もまた芽が出てきたという縁起を顕すものです。

これからどのような展開が待っているのか、子どもたちがすくすくと幸せにつながる子縁の社會の実現に向けてとても楽しみにしています。

 

手入れ

「手入れ」という思想があります。これは一般的には、よい状態に保つために、整えたりつくろったりして、手を掛けることをいいますが私にとっては「磨く」ということと同じだと定義しています。

人はどんなことでも「磨く」ことで愛着が湧き、さらに磨く面白さがわかっていきます。この磨く面白さは、手入れの面白さなのです。少しずつ手入れをしていくうちに、取り組んでいることの本質を知ったり、そのものの価値を学び直したり、さらには関係性の中でお互いに尊敬、尊重しあったりすることができます。

これは人と物との関係もですが、人と人との関係もまた同様です。手入れをしていくことは、それ自体が関係性を結んでいくことであり、お互いのご縁の存在を磨き光らせていくのです。

磨くために大切なこと、手入れのためにもっとも重要なことはそのものの存在を深く知ることからはじまります。五感を総動員し、また第六感までも使い、そのものの存在に触れていきます。そうすると、そのものが何の役に立ちたがっているのか、なぜこの存在が生まれたのか、どこで活かすことができるのかが少しずつ見えてきます。

そして場数を経ることで次第に、お互いの善さがもっとも引き出し合える場所を見つけることができます。その場所を大切に守り、それをいつまでも手入れし続けることでさらに関係が磨かれ珠玉の輝きを発揮しだします。

だからこそ手入れを怠らないようにすることが、人間が人間らしく生きていくための智慧になるのは間違いありません。

一人一人が手入れをし、磨き続ければこの世はそれぞれが光り輝いていきます。そうやって輝いていく人が増えていけば、この世は明るく平和になっていきます。手入れすること、磨くことは、私の人生の大テーマです。

引き続き、子どもたちに手入れや磨くことを伝承していくために私自身が楽しく豊かに磨きを楽しんでいきたいと思います。

与贈循環の場

一緒に働く仲間が「与贈」についてブログで紹介してくれていました。私もこの言葉を知ったのは数週間前です。彼の説明では「自らの一切の利益を求めず、自らのいのちを何かのために使うこと。」、私はこれを真心とも呼びます。

私の思う真心は、一般的に言う頭と心の心ではありません。この真心は、自他一体の境地のことでありそのものと同化している状態、地球そのもの、宇宙そのものに同化している境地の時に出てくる心のことをいいます。

例えば、自分と境界線を分けているものが取り払われたとき私たちはその場と一体になっています。場が自分であるのか、自分が場になったのか、それはわからないほどに自然一体になります。この自然一体の状態のときのことを私は、「かんながら」と呼びます。

つまりは、まるで神様の依り代になったかのように純粋な心、そこには自他の別もなく、空と海が混じり合ったような透明な存在になっていきます。

私たちはなんでも名前をつけては物事の認識していきます。そして文字を書いてはそのものを説明していくようになりました。しかし、この世にあるものはすべて何かが変化した仮の姿でありその元はすべて同源のものです。

目の前にあるすべての道具も、自分の体も、そして天地自然界にあるすべてのものも、さらにはこの意識であったり、宇宙であってもそれは同源だったものが変化して形として顕れたものです。それに名前をつけていくら別のものにしたとしても、その本質は無であるのです。

この無が循環するところに場が生まれます。この無とは、有る無しの無を言うのではありません。元は同じであるという同源という意味、もしくは原点でもいい、その元のままという意味での無のことを言っています。

私たちがなぜ物を大切にする必要があるのか、そして如何に善きものを循環させていく必要があるのか、それは変化に偉大な影響を与え合っている存在であるからです。この善きものこそが、魂の故郷が住んでいる場所であり、その懐かしい「場」に出会うことで人々はいのちの本体に出会います。

私が家を直すのも、子ども心を守るのも、人類の智慧を伝承しようとするのもまた、この与贈循環を「場」によって顕現させていのちの安らぎやよろこび、しあわせの道を伝道していこうとしているからです。

徳が循環する世の中こそが、私たちの永続的な未来を保障するのです。

引き続き、一期一会に自分の人生を全うしていきたいと思います。

 

大切にしたい文化~暮らしのひとこま~

昨日、インターンシップにきている学生がこれからカンボジアでボランティアを通して新たな学びにいくための「はなむけ」としてみんなでお餞別を渡す機会がありました。その内容は、現地で必要になりそうな非常食であったり、常備薬であったり、お手紙や手作りの玄米クッキーであったり、また路銀としてお金も集めて渡しましたがとてもあたたかい気持ちになりました。

日本では、むかしから旅に出る人や大切な門出にこれらのはなむけやお餞別を贈るという文化があります。これも大切な徳の一つで、離れていてもいつまでもこのご縁を結んでいることを実感して絆を深めていたのです。

昨日も「離れていてもいつも一緒ですよ」や、「またお便りをくださいね」や、「何かあったらいつでも連絡してね」や、「どんな学びがあったかまた共有してね」など、ご縁をいつまでも大切にしていきたいという思いが伝わってきました。

この「はなむけ」という言葉は、「《昔、旅に出る人の道中の無事を祈って、乗る馬の鼻をその行く先へ向けてやったところから》旅立つ人の安全を祈り、前途を祝して、酒食をもてなしたり、品物を贈ったりすること。」(コトバンク)とあります。平安時代の土佐日記にうまのはなむけと出てきますからかなり昔から続いている文化であることがわかります。

昔は特に交通機関が未発達だったでしょうから遠出の旅行には苦難や困難がつきものだったと思います。そんな時、仲間や家族は旅に出る大切な人の安全を祈願し物品や金銭や詩歌を贈ったり、宴を催したのです。人を大切にし、みんなでその人のことを祈る思いやりや愛、徳がこの文化の生まれるきっかけだったのかもしれません。

またお餞別のほかにも旅につきものである「お土産」は元々「宮笥〔みやげ〕」といい、寺院や神社に参拝した際の神の恩恵を、お守りやお札等の仏や神にまつわる物品と共に近所や親しくしている人々に分けようとしたのが本来の意味だったそうです。

「路銀」については、昔は村落で旅行費用の積み立てを行ったところもあったといいます。旅行者は村の代表として、村人から集めたお金で遠くの寺社に参拝し、帰郷の際には旅費の代わりに神仏の恩恵(お守りやお札など)と共に土産話を聞かせたといいます。村人たちは普段耳にすることのない異国の話を聞き、知見を広げたのです。みんなで費用を出し合ってその人がお土産を持って帰ってくる、無事であったことに安堵し感謝し、道中の様々な体験を共有できることで村のみんなで喜びや仕合せを分かち合ったのです。

むかしはみんな「暮らし」を大切にしていましたから家族のように接していたように思います。その家族が旅に出るのですから、みんなその家族の未来の幸運を祈り、みんなで自分の事ように寄り添って心の豊かさを分け合っていたように思います。

時代が変わっても、大切にしたい文化はこの日本にはたくさんあります。子どもたちがいつまでもこの国や歴史、先人たちの生き方に美しさを感じ、それが誇りになり伝承されていくように私たちも暮らしを大切にしながら子ども第一義の理念を実践していきたいと思います。

子縁と故郷

子縁というものは、私たち人間社会においては何よりも重要なものです。子どもたちが未来を創造していくのだから私たちは子どもたちに今の知識を詰め込みそれをやらせることは未来を過去にしていくことになってしまいます。

そうではなく今の子どもたちを尊重しどう見守るかに大人たちの子縁における姿勢が問われます。過去から未来へ向かうのは、時間だけではありません。私たちの世代も自分たちが死に次の代が生まれてくるように、過去から未来へといのちは引き継がれていきます。

その「引き継ぎ」をどうするかは、とても大切なことでいつまでも自分たちのやり方ばかりを押し付けるのではなく次の代が挑戦し冒険できるように見守っていくことが引き継ぎをしていくうえでとても大切ではないかと私は思います。

どうしても人間は、自分のことを中心に考えて自分の視野に囚われてしまいます。それを少し離れて、人類は喜ぶか、地球は喜ぶか、先祖が喜ぶか、子孫が喜ぶかと視野を広げていくことで物事の捉え方を変えていけるように思います。

そうやって離れてものを見てみたら、子どもたちは生まれながらに次の時代の準備をしてきているのがわかります。私たちの世代が、今の時代に適応していくように子どもたちもまた次の時代に適応していくのです。植物であっても次の時代に適応する種になっていきます。

私たちの世代は一つの種ですから、種ができること、種としてやるべきことは一つです。子どもたちはその種を引き継がれ芽を出し花となり実をつけまた種になります。子縁というのは、子種でもあるのです。

子どもが生まれながらにもっている可能性、誰が教え込まなくても生まれつきにもっている伝承、そういうものを見守るところに保育の醍醐味と深さがあります。そしてこの時の保育とは、人類の引継ぎを示すものです。

子どもは希望であり可能性そのものです。子どもたちがどのように未来を創造していくかを子どもの姿を学び直していくとワクワクしてきます。その子どもたちが創ろうとする社會の手助けをしていくのが私たち大人の本当の役割だったはずです。

人類の故郷は子どもです。

子どもから学び、未来を創造するための仕組みを社業を通して発明したいと思います。

ナポレオンのエール

以前、スーパー公務員をモデルにしたドラマ「ナポレオンの村」というものを見たことがあります。これは限界集落をある公務員と村人たちで甦らせて活気を取り戻していくというドラマです。

もともと私たちは都市に住み、地方のこととは切り離して盲目に仕事に専念していますが実際は日本はいたるところで少子高齢化が進み、過疎が進み、空き家が増え、地域は手入れされずに荒廃を続けています。これは決して都市か地方かの問題ではなく、日本の近い未来を予想していくものです。

日本の政府も少子高齢化に対して様々な手を打ちますがそれで効果はほとんど出ておらず、このままでは限界集落で起きている問題がじわじわと真綿に浸み込むように国家全体に影響を与えるように思います。

この影響は国家理念に由るものであるのは間違いありません。これはまちづくりも村おこしも同じです。そこにいる一人一人が理念を策定し、その理念に対してできることをそれぞれが本気で取り組むことではじめてその理想は実現していきます。これは決して青臭いことではなく、本当のことです。これは会社経営であっても学校経営であっても、もしくは小さなサークルのような集まりであっても同様にみんなが主体的に目的に対して協働していかなければ決して理想を実現していくことができないからです。

何でも人は、やりたいことや目的から入れば主体性は発揮されていきます。それをやりたくないことをやっていたり、やらされていたりするのは本気になることを忘れてしまっているからです。

本気にさえなっていれば主体性は出ています、つまり熱中して努力できているのならそれは本気の証拠です。しかし本気になろうとばかりしようとしたり、本気かどうかばかりを迷っているのは受け身の証拠です。自分で決心し覚悟すれば、自ずから不可能に挑戦しようとするし、面白いことをやろうと思い始めるものです。それを抜けるかどうかはまさに自分自身によります。そのドラマの中で希望を与えるナポレオンの名言がいくつか紹介されています。まさに一つの現状打破の格言に満ちているナポレオンを参考にしたのは面白いと感じました。

「あなたの能力に限界を加えるものは、他ならぬあなた自身の思い込みなのです」

「あなた自身が信じていないことは、口で言っても、書いても、また、どのような行動をしてみても、他人を動かすことはできない」

「逆境には必ずそれよりも大きな報酬の種が隠されているものだ」

「人生の歩みは、自分自身の心から始まり、自分自身の心で終るのです」

「弱き人こそ薄情である。本当の優しさは強き人にしか期待できない」

そして心に響くナポレオンのエールです。

「勝利は、もっとも我慢強い人のものである。環境など何でもない。環境とは、自分でつくり出すものだ。お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにした時間の報いだ。」

 

かんながらの与贈

先日、贈与という言葉は聞いたことがありましたが「与贈」という言葉に出会いました。贈与はある人が誰かに無償で財産を贈ることを言います。しかし与贈になると少し意味が異なってきます。

その「与贈」について、場の研究所のフェイスブックにこう紹介されていました。

「私たちの「与贈」は、正確に言えば「〈いのち〉の与贈」です。いまマザー・テレサの愛のことばの本を読んでいたら、次のようなすてきな言葉に出会いました。『愛は分かち合わなければ、何の意味もありません。愛は行動に移されるべきものです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではありません。見返りを期待するなら、それはもう愛ではないのです。本当の愛とは、無条件で、何も期待せずに愛するということだからです。』(清水紀子訳)これほど「与贈」という行為の意味を正確に伝えている言葉に出会ったことはありません。場の研究所で、私たちが「〈いのち〉の与贈」と、〈いのち〉をつけているわけは、人間以外の生きものにも〈いのち〉の与贈循環を広めて、持続可能な地球をつくりたいと思っているからです。」

これは私の思う「徳」と同じです。愛を徳に換えればそのまま与贈ということなります。

私たちのいのちの中で永遠永久に存在しているものがこの循環している愛や徳、与贈です。それは生死を問わず、なくなっているようで存在し、宇宙の中にずっと積み上げられていくものです。

むかしの人は、それを「徳を積む」という言い方をしました。これは愛を与えることと、真心を盡すこと、そして自然が循環することがいのちそのものの本体だと気づいていたからではないかと私は思います。

そして私たちが今あるのは、かつてのいのちたちの屍の上で存在しています。時空を超えてめぐりめぐっているいのちの中で自然宇宙の中の恩恵そのものの偉大な場を舞台にして私たちのいのちそのものは何かによって活かされているということです。

当たり前ではないこの「場」の存在に如何に気づいて、自分をその「場」ではたらかせていくかがいのちそのものに同化していくことであり自然になることです。人類が永続する道もまたこの「場」に対する生き方次第です。

徳を色々な形で学び、その徳を如何に循環させていくかを私のかんながら(自然)の与贈から伝承していきたいと思います。

場が主役

昨日、「場の研究所」の清水博先生にはじめてお会いすることができました。著書で文章は拝読していたのですが直接お話をお聴きするとはじめて聴く言葉にたくさん出会いました。またホームページで自然の美しい写真を撮っておられ、いのちのはたらきを観察されている様子にも感銘を受けていましたから言葉と意味が少しつながって理解が深まることができたようにも思います。

人生には意味というものがあり、その意味は一期一会の出会いによって導き示されていくように思います。そしてそのつながりというものは、「場」に生じ、その場から学び人は感化共鳴されていくようにも思います。

昨日は、「生きている」ことと「生きていく」ことについての語り合いが場で行われていました。私たちは場の中で「見当」というものを与えられているといいます。しかしその見当は決して見える世界だけではなく暗在的な見えない世界があるといいます。人間が生きていくというのは、その見えないものを解明していくことでありそれが科学というものではないかと私は感じました。

現在の科学は、目に見えるものだけを科学であると信じるように教え込まれてきました。しかし本来の科学とは、目に見えないものを信じることではなかったかとも思うのです。それを宗教といって抵抗する人も増えてきましたが、本来の科学と宗教の意味が別のものに挿げ替えられて定義されていたとしたら私たちは本来の科学とは何か、本来の宗教とは何かをもう一度、突き詰めていく必要があるように感じます。

清水先生からは「宗教以外でお互いの主観的宇宙を共有する、それが試されているのが今の時代である」という言い方をされておられました。確かに、意味を失い、場が消えてしまうような客観的な宇宙だけでは本来の科学は解明することができません。

主観的な宇宙を如何に人々が共有し合えるか、すでに与えられている目的に対して私たちは如何に逆対応によって本物の科学に近づいていくか、まさに時代の転換期にあることを実感しました。

清水先生からは「科学の本質とは何か、そして場の科学の正体とは一体何か」その「新たな問い」を私はいただいた気がします。そしてここからまさにこれからの新しい世紀は、「場が主役」になる時代であると確信を持ちました。

まさに与贈しあういのちの「場づくり」こそが、人類に与えられた希望であり智慧であり未来です。

本当に多くの示唆をいただきご縁に深く感謝しています。また研究するお仲間たちの真摯な姿やあたたかな雰囲気にも刺激をいただきました。

引き続き、日々の環境を見つめながら場をさらに研究して場の持つチカラをはたらかせられるように自己円満かんながらの道を精進していきたいと思います。

多様な働き方と理念の伝承

昨日、都内にあるコワーキングスペースを経営するWEWORKを見学する機会がありました。ここは、最近急速に日本でも展開が増えているコワーキングでデザインも統一感があり確かに場に理念を感じました。

具体的には自社サイトの理念にはこう記されています。

「​2010​ 年に WeWork を始めた時、私たちはただの美しいシェアオフィス以上のものを創りたいと考えました。それはコミュニティです。「Me」という個人として参加しながらも、より大きな「We」の仲間になれる場所。利益だけでなく、個人の充足感を尺度として成功を定義し直す場所。コミュニティの存在が、私たちに無限のインスピレーションを与えてくれるのです。」

個人の充足感を尺度とした働き方、そこには確かなつながりというコミュニティが必要不可欠であると定義されています。

元々創業者のアダム・ニューマンはイスラエルの人物ですが、キブツというイスラエル独特の集団農業共同体で小さな規模で100人大きな規模では1000人が共に暮らし、働いてきたといいます。

その思想がWeWorkやWeLiveの原型となるアイデアになったそうです。そのアイデアは暮らしのコミュニティの重要性を説き「暮らしのコンセプト(Concept Living)」と名付けられたそうです。

またその後、ビジネスパートナーでもあり映画監督でもあるレベッカ・パルトロウと結婚します。このレベッカとの出会いがユダヤの教え「カバラ」の影響を受け生き方に大きな影響を与えたそうです。

この「カバラ」とは、ヘブライ語で「受け継がれてきた伝承」という意味の言葉です。具体的には「思考は言語から生まれるのであって、言語から思考が生まれるのではない」と定義します。聖書にも「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」と記されていますが思想というものの本体に気づいたのかもしれません。

「働く=個人の充足感」という理念が今のコワーキングスペースの理念に通じているのでしょう。ここのタグラインには「やっと月曜日がはじまる!(Thanks God It’s Monday!)」と記されます。世間では、やっと週末だという人が多い中で発想を転換して仕事を働く仕合せに換えていこうという取り組みです。そのために月曜日が楽しくなるようなイベントやコミュニティをコミュニティマネージャーが展開しているともいいます。

これから多様な働き方改革で様々なコワーキングが誕生します。子どもたちにどのような理念を伝承していくことが大切なのか。ユダヤのカビラに学び、イスラエルのギブツに学びつつ、子ども第一義の働き方を深めてみたいと思います。