努力の素晴らしさ~場数の価値~

以前、ある年配の人から「あなたは若いのに経験が多いのはなぜ?」だと質問されたことがあります。この経験とは、場数のことでどのような場数を踏んできたかということの話になります。そしてこの場数とは、努力してきた経験の数のことを言います。

場数が多い人は、それだけ努力してきた過程の中で得た智慧の質量もありますから本番に強くなります。逆に場数が少ない人は、経験していませんから努力が足りないとも言えます。この場数が努力を測るモノサシなのはここからもわかります。そしてこの場数とは、単に回数をこなせばいいのではなくどれだけ努力の回数があったかということを示唆していることに気づきます。

たとえば、何かに挑戦すれば必ず失敗をします。その都度、挫折をし理想が高いほどに心も折れます。しかしそこからまた立ち上がり再び挑戦をします。そのためには何回も何回も検証をし、努力を積み重ねて真剣勝負でまた挑んでいきます。

私の場合は、何でもすぐにやってみてはそれを継続するという実践タイプのようで失敗の場数は他人よりも多いように思います。情熱と気力が強く好奇心旺盛なこともありますが、まずはやってみようとします。当然、素人がいきなり高い一流のレベルに挑むのですから挫折は本当に日常茶飯事です。特に、大きな怪我をしたり病気になったりすることもあれば心が深く傷つくようなことや精神が病んでしまうようなことに出会うこともあります。

ある時は身も心もボロボロになり、またある時は涙しながらもそれでもまたしつこくやってみようとします。簡単に言えば、ただ諦めが悪いのでしょう。しかしこの諦めの悪さ故に場数の質量を高めて努力することの仕合せや歓びに出会い信じる力に換えてこれたようにも思うのです。

その努力は、大半は誰か大切な人を思いやる真心から出てくるものですがその努力によって自分自身がいろいろなことができるようになる歓びも同時に得られます。他人に喜ばれるものが、自分の能力でできるようになることはとても仕合せなことことです。きっと自分が誰かの役に立てるという歓びを知ってしまっているのです。

そして努力の経験が増えれば増えるほどに、周囲に対する努力のすばらしさ、諦めないことで必ず実現するという勇気の応援、最期まで相手に寄り添い信じ抜く見守りの原動力を得られているように思います。根の明るさはそこからやってくるのです。

私の場合は、高い理想に対して何度も何度も挑戦していて時折疲れたら過去にできなかったことをやったりしてみます。するとあれだけ大変だったことがいともたやすく出来るようになっていることに驚き、やはり努力が裏切らないということを確かめるのです。

気が付けばいつもかなり高いレベルのことに挑んでいるばかりのことが増えそう簡単にはすぐに結果が出ないものばかりになってきました。むかしは、半分くらいは多少の努力で達していたものが今ではほんのわずかな成功率でしか得られない大変難しい努力のことばかりしかやっていません。

しかしそれでもこの努力はなぜかやめられませんから、苦しいばかりではなく本心では難しいからこそきっと心は深く楽しんでいるのかもしれません。人生の中で善い場数を増やしていくには、日々の努力を楽しんでいく必要があります。それは壁を乗り越える仕合せであったり、新しい発見であったり、何度も何度も挑める歓びであったり、次こそはと色々とまた試してみる、つまり「創意工夫の充実した日々」を送ることです。

努力をし続けることは、決して言葉では教えることはできません。しかし真剣に何度も困難に挑んでも立ち上がりまた挑む姿は努力の価値を伝承していけるようにも思います。人生は生きていることが何よりも場数、疲れたらまた休み、そしてまた立ち上がり挑めばいい。そうやって努力を続けられることが何よりも有難いように思います。

引き続き、子どもたちのためにも努力の素晴らしさを伝承していけるように誰よりも場数を味わい楽しんでいきたいと思います。

坦蕩々

生きていると日々に大変なことが発生します。理想が高ければ高いほど、また純粋であればあるほどに思い通りにはならないような出来事が波のように押し寄せてくるものです。

その都度、心や感情はざわつきますが生き方を訓練する機会として日々の初心に立ち返り自分を大切にしていけば波風は収まってくるものです。

以前、ある方に「波がたっても風を立てるな」と教えていただいたことがあります。その方も、心を澄ませていく実践を日々に取り組んでおられる方で生き方の訓練によって安心の境地を会得しておられました。

人間には偽りの自分と本来の自分というものが誰にしろあり、日々の暮らしの中でその自分自身をしっかりと見つめているからこそ本当の自分を磨いていくことができるように思います。

そのために学問はあり、学問は自己を修養するために存在するのです。孔子が  「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」と言いましたが、周りの目を気にして評判や評価のために勉強しているだけでは自分のことをさらに誤魔化していくばかりです。

何のために学ぶのかということを、腹に据えて人間学に取り組む人たちは真摯に自己と向き合い自分の与えられた使命に粛々と楽しんで取り組んでいけるように思います。これが楽しくなくなるのは、まだまだ学問が本当の意味で自分のためのものになっていないからかもしれません。

中江藤樹はこう言います。

「順境にいても安んじ 逆境にいても安んじ 常に坦蕩々として苦しめるところなし これを真楽というなり 萬の苦を逃れ 真楽を得るを学問のめあてとす」

意訳ですが、順調であろうが逆境であろうが、上手くいこうがいかまいが、自分にとって最高の状態でも、もしくは酷く悪い状況の時ですら、傲慢にならず慢心せず謙虚に心は静かに落ち着いたままで同じ処に居て安定し安心している。常に心は「平のまま」で波風を立てることもなく日常のように実践を続けて煩悶とすることがない。これらの安心立命の境地こそ「真楽」というのである。すべての自我妄執の苦難を切り抜け、この真楽を会得することが学問の本懐であると。この真楽とはまさに、もっとも深い感謝であり仕合せの学びの境地です。学問が楽しくて仕方がないのでしょう。人生をもっとも有意義に活かしきった姿です。

孔子はこうも言います。

「子曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」

これも意訳ですが、自分を磨いていく人物は順逆の状況でも常に初心を保ち波風立てずに穏やかでゆとりがある。この逆に日々に磨かない人はつまらないことにいちいち波風立てて迷走し不安になり、落ち着きが無く自分や未来の心配ばかりをしている。そうならないように学問があり、人は人間を磨く学問がある御蔭で時々の状況で大きく崩れなくなるのかもしれません。

この孔子の言う「坦蕩蕩」、まさに平らで大らか、いい言葉です。もしも一人一人が、この「坦蕩蕩制」をやったらこの世の中は君子が増えて人々がみんな安心立命しながら笑い合い助け合い真楽の世の中を築けるかもしれません。

日々の実践は、大変な時にも生き方を貫けるかどうかで試されます。順境も逆境も人生を磨くための試金石です。時間という手助けもありますから、また原点回帰して根さえ残っていればそこから新たな芽が生えだしてきます。甦生や新生はいのちの常です。

日々に気楽に極楽に頑張らずに無理をせずに坦蕩蕩と、そうやって真楽の境地を得て子どもたちに安心立命することの価値や意味を伝承していきたいと思います。

見守る側としての心構えと心がけを楽しんでいきたいと思います。

 

自分を大切にするということ

中江藤樹の「致良知」という言葉があります。これは今の時代は素直になり切ること、真心のままになること、人徳を究めることなどと定義してもいいかもしれません。中江藤樹は人間には誰にしろ「良知」という美しい心を持って生まれているといいました。これは虚心赤心でもあります。まるで生まれたての赤ちゃんがはじめから周囲を信頼仕切らないと生きていけないように生まれながらにしてすべてのいのちと仲よく親しみ睦み合い尊敬し合い認め合う心が備わっているということです。

私の日ごろからの言い方では、これを「初心を大切にする」とも言います。しかし人間は日々の私欲が我欲、また感謝を忘れて足るを知らなくなってくるとその初心が曇っていき本来の備わっていた真心を見失ってしまいます。そうならないためにも、日々に内省し自分の心にだぶついてくるその欲を洗い清めていく必要があります。

そのために中江藤樹が実践したのは「五事を正す」というものです。これは「貌、言、視、聴、思」を常に意識するということです。つまり和やかな顔つきをし、思いやりのあることばで話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、真心をこめて相手のことを思いやるということです。

この平易な言葉で説明できる五事は、実際に自己観察してみるとすぐに我が入りこみ以上のような心のままでいることは難しい状態です。だからこそ、普段から自分の心と向き合い、自分の心を大切にし、心の命じるままに心を実践していく必要があります。

その心の実践で今の時代で大切にした方がいいと私が感じるのは「自分を大切にすること」のように思います。これは自分を優先すればいい、自分勝手にすればいい、我儘を聞いてあげればいいという意味ではありません。それに、単に自分を守ればいいということでもありません。

これは自分に孝行するということです。言い換えれば自分を敬うのです。

中江藤樹はこう言います、「私たちの心や体は、父母からうけたものであり、父母の心や体は、先祖からうけつがれたものであります。それはもともと、大自然から授かったものです。孝行とは、父母を大切にし、先祖を尊び、大自然をうやまうことです。そのためには自らの良知をみがき、体をすこやかにし、行いを正しくし、家族やまわりの人々と仲よく親しみ合うことが大切です。さらに、子どもをあたたかい心でしっかりと育てることも孝行です。」

自分を大切にするというのは、ご先祖様からいただいたこの借り物の自分を大切にしていくということです。そのためにはご先祖様を敬い、今の自分を育ててくださった父母や周囲の環境を敬い、日々に自他を愛して優しく思いやりの日常を過ごしていくということです。同様に子孫たちにも、その孝行を盡していくことが「自分を大切にする」ということなのです。

自分を大切にする人は、致良知が磨かれていきます。そして噓偽りない真心の人になっていきます。「自分を大切にする」とはつまり自分に嘘をつかず自分を誤魔化さず自分を責めず、自分に奢らず、自分を粗末にせず、親孝行や子どもたちをあたたかい心で見守るときのように自分自身に接していくということなのです。

時代を超えて、中江藤樹が大切にした生き方は今の時代の人々の生きる指南になっていきます。先人を敬い、本来の学問を子どもたちに伝承していきたいと思います。

理念研修とは何か

最近、現場で理念を研修しているところの話を聞くことがあります。しかしこの理念という言葉は、使っている人によってその言葉の定義が全く異なることに気づきます。それは経営という言葉も同じく、使う人の生き方や考え方によってまったくその意味が異なるのです。

これはその人が話す理念や経営の意味や定義、それ自体をどのように理解しているかで言葉の意味が変わります。これは例えば、本気や覚悟なども同じくどれくらい本気か、何が本気か、覚悟とは何か、覚悟を決めるとはどれだけのことを言うのかと同様にそれはその人の生き方や生き様を反映するものだからです。

しかし先日、拝見した他の会社が取り組んでいるという理念はとても生き方や生き様を反映したものではありませんでした。教科書的に単に一つのルールを覚えさせ守らせるだけのような理念の使い方、冊子を作るだけでそれを活かすことがない。しかもそれを最初に破っているのが経営者となれば一体誰がそんな理念に着いてくるのかということです。縛るものを開放するのが理念であるという人と、より縛るために理念を使う人もいる。結局は理念は道具と同じく使う人にとっては薬にもなれば凶器にもなるということです。

また同様に色々な企業が理念経営の研修などをやっていますが、果たしてそれが経営者の嘘偽りない本心からの本質の生き様や初心を記されたものか、本物かどうかを確かめるにはその理念を取材する人間の理念への定義がどうなっているかをまずは確認する必要があると私は思います。

理念を取材する人間がどのように理念というものを定義しているか、そしてその人は理念に正直に生きているか、理念をどれだけ大切に実行できている人かということが大切だということです。

形骸化する理念や、現場で使われない理念は文字通りスローガンでお飾りです。理念はコピーライターが取材するものではなく理念経営を実践する経営者しかできないものです。言葉を操るだけならそんなものはかえって言い訳の材料になったり、人々の不平不満の材料に用いられます。そのようなはっきりと定まっていない状態の理念をいくら研修を現場に何回もしても、浸透させたものがそもそも定まっていなかったのならばそれでは逆効果にもなることもあるということです。

だからこそ理念を聴くということはその人の遺言を聴くくらいの一大事だという認識を持つ必要があると私は思います。遺言がもしも間違っていたら、亡くなった人も報われないかもしれません。本当にその人が意図したこと、その人が心の奥底から願ったものだからこそ、その言葉には真実が宿り力が発揮されるのです。それが理念の本質なのです。

そもそも理念を扱う仕事をしているのなら、まずは自分自身が理念に向き合って正直に取り組み、その取り組む姿勢のままに理念に取り組む人たちに覚悟を決めさえ応援し支え見守り続けなければなりません。

結局は人間は、すべて生き方からはじまり生き様の間でこの世の使命を果たすのですからその初心を最期まで貫徹させてあげることが本当の思いやりになります。だからこそ人は生き方を通してお互いを磨き、生き様を通して協力し合い夢を生きる仕合せに出会うように思います。

そして何よりも理念研修で大切にするのなら、理念を高所から掲げて下に振り下ろすような凶器のような使い方をするのではなく、経営者自身がもっとも低所におりてみんながしっかりとその理念を理解してくださるように自分自身が説明を丁寧に根気強く行い、粘り強く伝え、そして自分自身に至らないところがあればそれを反省し自らが謙虚に修正していくかありません。当たり前のことですがトップとはもっとも高いところにいて偉そうにするのではなく、何よりも自分に素直になって謙虚に反省を怠らないで努力する人物になっていくことです。これをリーダーとも言いますが、このリーダーやトップもまた生き方ですから言葉の意味が使う人物にとってまったく異なるのは気を付けなければなりません。

子どもたちを観ていたら生まれながらに何のために生きるのかを学ばされ、どう生きるのを真摯に歩むのを感じます。それをもっとも身近で導く大人だからこそ、私はこの理念という言葉と真摯に向き合い子どもに恥じない位置で受け止める必要があると思うのです。

言葉を使い分ける前に、その言葉の大前提の自分の初心と向き合うのが理念研修なのです。

森信三氏の言葉です。

「人間の値打ちというものはその人が大切な事柄に対してどれほど決心し努力することができるかどうかによって決まる。」

人を導くことは、生き方を与えることです。引き続き、私たちは私たちの信じる子ども第一義の理念を磨き、仲間と共に本物の理念経営、つまり初心伝承を支援していきたいと思います。

借り物

加齢と共に体の調子が悪くなることが増えてきました。というよりも、体の声を聴くことができるようになってきたといってもいいかもしれません。「今日の体調はどうかな」などずっと若いときは少しも考えたことがないほど健康でやってきました。やりたいことがあればそれをやる、そしてそれをやるだけの十分な体力がついてきていました。

しかし次第に疲れが取れにくくなったり、あちこち痛みやすくなったり、無理をした古傷が傷んだり、体が今までと同じようには動かなくなります。そう思うと人生を80年で割ったとしてもちょうど40年くらいをピークに、衰退していきはじめるとも思えます。そのピークの時が更年期でもあり、体も他の心と精神の元氣のバランスを保とうと揺らぎ始めるのかもしれません。

元氣には様々なものがあり、よく気力体力精神力などというようにあらゆる力の源になっています。生き物はすべてどこかからエネルギーを転換して、元氣を発揮していくとも言えます。その元氣を発揮するために、あらゆるところから力を捻出してきますが何度も何度も使っているうちに劣化していきますからそれ相応の力を別のところから借りて元氣を維持していくものです。

若いときは、親からお借りして頂いた力をそのまま使い切っていく。そして次第にその力が失われ周囲の仲間や友人や愛する人たちから頂いた力をお借りしていく。そしてさらには世の中や自然の力、そして他力をお借りしながらまた力を使っていく。最後は借りたものをお返ししてこの世を去っていき次の時代の力の礎になっていく。そうやって力は借りたものをまたお返しします。そう考えると、力の本体とは何か。それは「借り物」であることに気づくのです。

この体もこの力も自分のものと錯覚しがちですが実はすべて借りた物なのです。その借りたものを大切に預かり、それをお返しする。そして次の人たちや生き物たちがその力をまた借りて生きていく。借りたものが循環しながら私たちは元氣をいただいて暮らしているということです。

自分の力だと何でも思い込み、不平不満を言うのはこの借り物であることを忘れているのかもしれません。大切な借り物だからこそ、丁寧に大事に手入れしながら使い切っていく。それが力を使う、つまり力を活かすということでしょう。

体の声を聴きながら、借りものを粗末にしないよういのちを大切に元氣をいただいていることを忘れないように謙虚に素直に生きて子どもたちの力に譲っていきたいと思います。

いのちの根源

火鉢で炭を使い何度もお湯を沸かしていると、炭の個性や特徴によって火の扱い方が変わってきます。そもそも火を扱うということは、水を扱うことと同じように人間が自然の持つ力を調節して利用するということです。

むかしはこの火や水や土などを精霊と呼び、生きている存在として接し崇めていました。現代では一般的にはガスや水道など簡単便利に火や水を利用できるようになりあまり精霊という意識を持つことがなくなりましたが神社や信仰の山などでは今でも神様として大切に祀られています。

古代日本ではこの精霊をどのように定義していたかウィキペディアには下記のように紹介されています。(原文まま)

『古代日本では自然物には生物も無生物も精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んで名称の語尾につけた[2]。古事記や風土記などの古代文献には葉の精を「ハツチ(葉槌)」、岩の精を「イワツチ(磐土)」、野の精を「ノツチ(野椎)」、木の精を「ククノチ(久久能智)」、水の精を「ミツチ(水虬)」、火の精「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいたことが知られている。また、自然界の力の発現はその精霊の働きと信じ、雷を「イカツヂ」、蛇を「オロチ」などと呼んだ。こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも及び、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」などと呼ばれていた。人間の生命や力の源が、血液の「血」にあると信じられたところに、「チ」が起源しているとも言われている。土(ツチ)、道(ミチ)、父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができる。また神話や古代氏族、とりわけ国津神系の氏族の祖先には「チ」を名称の語尾につけているものが見出される。神話では「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日霎貴)」、氏族では物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」などである。神名や人名の語尾(正確には「〜神」、「〜命』の前の語)に「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋ると信じられていた自然主義的観念の時代を反映しているものと考えられている』

もともと古代の日本語では「チ」や「ヒ」、「ミ」などといった一文字の中に根源的な精霊を定義して言語化したといいます。「チ」はその伝承されているいのちの原点のことを顕しているように「ヒ」は、太陽や光などのいのちの熱光源を顕していました。「ミ」などは、変化や受容するものなどを顕しました。

つまりは古代の人は、言葉でそのものを認識するのではなく精霊そのものの力をそのまま受け取りその姿をそのまま感じ取りそれをそのまま丸ごと活かすことができたのです。

現代は文明が発展し、科学の力によって分析力を高め誰でもその精霊をコントロールできるように便利にしていきました。しかし大きな災害や、地球規模の自然変動を観ると私たちがコントロールしたのはほんのたった少しの一部分でしかないことが分かります。

実際には活かしていると思っている精霊の力も、それは傲慢に使いこなせていると思い違いをしているだけで本当はもっと偉大な力だったものを受け取ることができなくなっているかもしれません。自分たちの進化は実際は進歩ではないかもしれないと疑う必要があるように私は思います。

科学では証明されないことを宗教だインチキだとすぐに価値観で裁く前に、古代の人たちが何を観て何を活かしてきたか謙虚に学び直す必要を感じます。そういう意味では、火に触れ、水に触れ、土に触れ、そして様々ないのちの根源に触れていくことは進化を高めていきます。

子どもたちには、進化に相応しい環境を用意し古代から謙虚に受け継がれてきたいのちの本質のままに伝承していきたいと思います。

七輪

聴福庵では、よく「七輪」を使って料理をします。この七輪とは、土製のコンロのことで炭火を熾したり煮炊きをしたり、焼き物をするときに用いるものです。暮らしの中でこの七輪があることで、炭火を用いた料理はとても幅が広がります。現在ではスローフードの道具として有名になっていますが、本来は日本人には欠かせない調理道具として永い時間暮らしを支えてくれたパートナーの一つです。

歴史としては古代は土師製の炉として宗教用道具として祭祀などにも用いられ平安時代になると室内において置き炉となりこれがのちに手あぶりになり、屋内での簡単な炊事や酒燗などに利用転用されたものだという説があります。能登製の珪藻土が有名ですがむかしは土師製粘土のものが多かったといいます。

この珪藻土というものは、植物プランクトンの遺骸が集積したものです。この天然珪藻土には無数のミクロの空胞がそのまま残っており、保温性・蓄熱性が高く熱効率が良くしかも丈夫でまさに炭火を熾し調理するための最高の材料だったのです。粘土から珪藻土になるのは珪藻土の産地の能登半島を除き明治時代になってからと言います。

現代では七輪の三大産地は土質の良好な愛知三河、石川珠洲・和倉、四国香川があり、かつてはこの三大生産地で日本全体の需要を賄っていたといいます。しかし七輪の需要の急激な減少から廃業が続き三河で3社、石川和倉で1社、石川珠洲で4社ほどになっているといいます。

聴福庵で活躍する七輪たちは、三河七輪と石川珠洲七輪です。まず三河は、江戸時代から続く三州瓦の産地で有名です。この地域は焼き物に適した粘土が多く、瓦以外の焼き物も盛んでした。三河土は熱との相性がよく保湿能力に長けています。これを珪藻土と組み合わせているので丈夫なのです。また黒七輪として有名なのは三河土に炭を塗って乾かし那智黒石で磨き上げているからです。手作りの黒七輪は味があり、うっとりします。

また能登半島は土の三分の二が珪藻土でできているすごい場所です。この豊富に産出する珪藻土鉱床から掘り出された珪藻土ブロックを、崩す事無くそのまま七輪コンロの形状へ切り出して焼成しています。これを「切り出し七輪」といいます。まさに珪藻土のままで形成された七輪は姿かたちそのものが美しく、卓上においても芸術品です。

これらを備長炭や様々な料理の種類に合わせた炭で調理するとき、素材の味は深く引き出されていきます。天然の材料を、天然自然の道具で調理する。現代のように、電磁調理器やプロパンガスなどでは決して出ない味が出てくるのです。

なんでも文明や技術は簡単便利になって効率があがり、人がラクをしてできるようになればいいという価値観ですがそれと共に失っていくものがあるのを決して忘れてはなりません。ラクになることが仕合せなのか、そうではないでしょう。ラクをすることではなく、仕合せのためにラクをしないこともまた選択すべきです。

これらの七輪などの道具は私たち日本人の仕合せを守り続けてきた文化そのものであり、人間が人間らしくゆったりと暮らしを味わい仕合せに生きていくために必要なものなのです。

子どもたちの未来に、大切なものまで奪ってしまわないように使命感を持って暮らしを甦生していきたいと思います。

考える人

「自分の頭で考える」という言葉があります。これは何を考えていないからそう言われるのか、そして何を考えれば自分の力を使って考えたかと言えるか。この「考える」ということは、単に普段使っている頭で容易に想像しているようなことを言うのではなく自分で物事の本質に辿り着くプロセスのことを言うように思います。ではなぜ本質を考えることをやめてしまうのか。なぜ考えない状態になるのかということを突き詰めていく必要があります。私のブログでの日々の学問の鍛錬もまた、この本質を見極め続けることで考え続ける習慣をつけているとも言えます。

そのちょうど「考える」ことを深めていたら「地頭力を鍛える」という著書で有名な細谷功氏の言葉が的確なものがありましたので紹介します。

「仕事で成果を出せる人とそうでない人の違いは、頭の良さというよりも、じつは「考えているか、いないか」という点にあります。もっと厳密にいえば、「考える」という行為の前には「考え始める」という高いハードルがあり、多くの人はそれができず、思考停止状態に陥ってしまっているのです。」

細谷氏は、考えないことを思考停止状態と言います。そして思考停止を回転させはじめるためにはまず「考え始める」という高いハードルがあるといいます。自力で主体的に考えるためにはそのハードルをまずは飛び越える必要があるというのです。

「思考停止型人間の口癖を見てみると、他人や環境のせいにする他責の言葉が並んでいます。たとえば「情報がないのでわかりません」というのは、「情報が不足している」という状況のせいにして言い訳をしているにすぎません。他責の言葉を言った時点で、「私はもうこれ以上考えません」という思考停止宣言をしたようなものです。」

そのためには、「自覚」が大切だと仰います。自覚こそが成長であるとも定義されておられます。

「知らず知らずのうちに視野が狭くなっていることは多いもの。そんなときは、「他人に気づかせてもらう」のが一番。周りの人に積極的にアドバイスを求めましょう。より広い視点を得るには、自分は何も知らないという謙虚な姿勢、いわゆる無知の知を持って問題と向き合うのが第一歩だからです。」

この無知の知というものは、知らないこが自覚できるということ。ソクラテスの汝自身を知れという格言にあるものです。思考停止というものは、もう知ってしまっている、「わかった気になっている」状態になっているということです。つまりは学問を深めようとしていない、自らで辿り着こうとするのを諦めているとも言えます。

そしてそれは今の社会や世の中をもう一度鵜呑みにせずに、自分の頭でちゃんと見極めるということです。今までの慣習や世の中の常識を疑って、もう一度目的から考えてみる。自分のことを客観的に見つめ、「本当は何か」を突き詰めてみる。まさにこれが自分で考えるということなのです。

「自分の頭で考える」というのは、ある意味で世の中の価値観に背を向けることなのです。』と言います。

自分の頭で考えることがなければ、本質が分かることはありません。本質風が世の中の風潮で、考えない人が増えれば増えるほど本質風のトレンドは増すばかりです。しかし、どこかで気づくはずですそれは誰かの考えを鵜呑みにしていただけだったと。

人間は誰しも自分自身の頭で自分自身と向き合い、一人一人のなかで自分の答えを出し続けていく必要があります。それが自分の人生を生きたということであり、その答え合わせを自分の足を使って歩んでいくのでしょう。

だからこそ日々に起きるあらゆる出来事や御縁を「本当は何か」と目的を見出し、そして「何のために」と意味をつなげていくしかありません。物事のつながりが観える人は、思考が回転し続けている人です。思考停止状態にならないように、日々に「なぜ」と謙虚に人に自他に問い続けることができる人は考える人だと思います。

子どもたちに、時代の価値観を押し付けて機械やロボットのように生きることをさせないように自分自身が考えて考えぬいたもので伝承していきたいと思います。

 

 

自然から離れない

今年も自然農に取り組む中で思い通りにならないことばかりを経験しました。お米はイノシシに荒らされ収穫直前に全滅。高菜は3回種まきをし直しましたが1回目は育たず雑草にすべて負け、2回目は虫に食いつくされ、3回目はモグラに土の中を穴だらけにされ育苗が失敗しました。

今年は特に自然の厳しい状況を受けており、今まで以上に葛藤と挫折の中で心を何回もへし折られました。その都度、なんでこんなことにとイライラしては畑に怒りをぶつけます。しかし畑にぶつけても何の解決にもならず、どうしたらと次を考えてまた取り組むのみです。

自然はいつも自分の思い通りになることはありません。

自分が思い通りにしようとする傲慢さは何処から来るのか。それは頭で考えて計画を立てているところにあるように思います。人間は自分の思っている通りにする過程で、自分の考えた通りにしようとします。しかしその考えは自分の都合の良い考え方であり無理やり周りの方を変えようとしてしまいます。自分が周りを変えることで上手くやろうとする、ここに傲慢さが潜みます。

本来は自然に対してそれができるかといえば全くの不可能であり、自然に対しては自分が変わるしかありません。しかし自分が変わるというのは、自分にとっては不都合なことばかりが押し寄せてくるものです。

たとえば、時機を待つこと、寄り添うこと、よく観察すること、声を聴くこと、試行錯誤すること、自分勝手にはいかずどれも「自分から」主体的に関心をもって深くかかわり続ける必要があります。自分のペースを優先すれば自然のペースから乖離していきますから、自然のペースをまず理解する必要があります。

それは「焦らない」ということでもあります、言い換えれば天にお任せして信じるという心境です。

自然はちゃんと自然のスピードで物事を動かしていきます、間違っているのは自分のスピードの方と気づかなければならないのです。大きな成功も成長も、大きければ大きいほどに時間がかかります。高い山であればあるほどに登頂が困難を極めるようにそれだけ達成感も充実感もあるのと同じです。

自分が一体、何の目的に対して挑んでいるのか。それによって進む速度も歩む困難さも異なってくるのです。簡単に誰でもすぐに達成できるような目的ならそんなに苦労はありません。苦労が多いのは難しいことに挑んでいるからであり、それだけ偉大なものを動かそうと頑張っているからなのです。

自然農を通して何回も頭を叩かれて反省を繰り返すばかりですが、私の都合で何回失敗しても自然は丸ごと清濁全て受け容れて何度も挑戦をさせてくださいます。この大きな見守りの中で、自分を磨き謙虚さを学び直すことは自然がある故に実現できることかもしれません。

自然から離れないことこそ人類の真の発展と永続を約束するものかもしれません。

自然から学び直しながら、現代の人たちの苦しみに寄り添い共に子どもたちの憧れる生き方ができるように取り組んでいきたいと思います。

響き合いのカタチ

聴福庵の離れの土間を左官職人さんに仕上げていただきました。その土間には、炭を随所に活用したものになっています。装飾として菊炭を埋め込み、粒状の備長炭も混ぜ込みました。

極めつけは、古瓦を用いた音の出る犬走です。これは離れのむかしの造りを活かしたもので、雨樋を設置しなかった分、あちこちに水滴が落ちてはねてしまい周囲を汚してしまいます。それを通常は、砂利などを敷いて犬走をつくり工夫しますが今回はその水滴を活かしかえって綺麗な音が出るように瓦を土間に設置していただきました。

まるで水琴窟のような澄んだ綺麗な音が響き渡り、雨の日の外の音を静かに家の中で楽しめるようになりました。この水の音は、心を浄化し精神を安定させてくれます。

水滴と古瓦が奏でる懐かしい音は、今の機械音ばかりを聴いている心に清涼感を与えてくれます。その犬走の中には、備長炭を設置し水がゆっくりと水路に流れるようになっています。瓦の隙間にもまた粒状の備長炭を挟み込んで水路に塵や埃が落ち込まないように工夫されています。

左官さんとの協働作業でアイデアを湧かし、一つの芸術を実現するのはとても仕合せなことです。先日も、貝を装飾し磨き光らせる友人と一緒に考えて創った貝の首飾りもまた同様に一つの芸術になり仕合せを深く感じました。私は、どうも創作するのが大好きらしく心の情景を職人さんの技術とアイデアで一緒に実現するのが楽しいようです。

仕事もまた同様に、一緒に実現したい夢や理想に向かって協力してカタチになっていくのが楽しく仕合せを感じます。それがたとえ物ではなくても、その思想を顕現させていくような仕組みづくりやそのアイデアを活かした環境づくりなども大好きなようです。

改めて、自分自身が何によって癒されていくのか、そして仕合せを感じるのか。一つ一つの芸術が実現していくたびに近づいてきている気がします。顕現したカタチはお互いの心が響き合った芸術だからかもしれません。

これから聴福庵の伝統的漆喰の塗り直しと、おくどさんの竈の漆喰磨きを控えていますが一緒に復古創新する中で子どもたちに本物を伝道できる材料が集まってきたことにまた歓びを感じます。

子ども第一義の理念に沿って自ら信じた道を、直向きに歩み切っていく覚悟です。