保育とは

私は思い返すと約20年間「保育」ということを学び、それを稼業にしてきました。直接的に子どもを保育園で保育するのではなく、保育をしようとする人たちの「場」を見守り支えてきたとも言えます。私にとっての今の暮らしフルネスは、この保育を探求し磨き高めてきたことの集大成だとも言えます。

それを少し整理してみたいと思います。

そもそも「保育」とは何かということを考えると、私は「いのちを見守る仕組み」であると定義しています。例えば、その一つは発達を保障することです。いのちはみんな発達しようとします。その発達をしたいという主体的な成長を邪魔しなければ生きものたちは最適な環境を求めて自由に伸び伸びと育っていきます。

無理に育てようとしたり、環境を抑制したり、発達段階を無視するように何かを仕込んだりやってあげたらそのいのち本来の発達が阻害されていきます。もっとも大切なのは、何かをやってあげるのではなく見守ることです。

そしてその保育の質とは何かというと、私は暮らしの質のことを言います。

つまり日々の暮らしの質が高ければ高いほどに、保育の質もまた高いということです。この時の暮らしは、単なる日常生活をいうのではなく学びの質が高いということです。言い換えれば、日々が豊かに充実しているということです。

私たち人間は、人間関係を通して人生を磨き合う生き物です。日々のご縁を味わい如何に学び成長していくか。ありとあらゆる感覚が研ぎ澄まされ、日々の一期一会の中で健やかに成長していきます。心と体と感情などのバランスを整えながら、社會の中で一人の自分を謳歌していきます。

一人ひとりの子どもたちが安心して暮らしていける社會をみんなで築き上げることができれば、仕合せな世の中にしていけるように思います。私たち人間を含め、あらゆる生きものたちはこのような伝承のバトンをつなぎながら仕合せの輪を結んでいきます。

暮らしがフルネス(充実する)というのは、心が豊かで仕合せに暮らしていくということです。私たち大人がどのように子どもたちを見守るか、その見守り合う世の中が保育の質を一層高めていくと思います。

子どもは宝。

これからも保育を高め、磨き続けていきたいと思います。

徳積堂 

世界にカフェがあるように、日本にも古来からカフェの役割を果たしていたところがあります。それを御堂ともいい、茶堂ともいいます。

むかしよく時代劇などを見ていたら、村の小高い場所や、みんなの集まりやすい場所にはお寺やお堂があります。そして峠や辻などの境界には茶堂があります。

四国はお遍路さんがあったので多いといいますが、その建築物は茅葺の小さな建物でその三面に壁がなく、いつでも誰でもどこからでも上がれるようになっています。ここには、 村人たちの憩いの場であり、通行人や旅人、商人たち、あらゆる人々が村人からお茶などのおもてなしをうけたり情報交換をした憩いの場であったといいます。

禅語で有名な「喫茶去」がありますが、これはいつでも、どこでも、誰にでも同じ心でお茶を点てることを意味するそうです。つまり「特別なことをしようと思わず、いつも通りに平常心にお茶を点てることが大切である」ことを説いているといいます。

穏やかな心で、いつも通りにお茶を点てることでみんなが安心するのです。

私は茶堂や御堂は、いつも心を開いて平等に分け隔てなく刷り込みなどもなく「いのちそのもの」を尊重し合う信頼の場ではないかと感じています。

お茶の接待を受けるということは、裏表のない真心でお茶を点てるということです。そしてそれはご縁を大切に一期一会で巡り合えた奇跡に感謝し合うことでもあります。

私たちは少しでも時間や場や関係がズレればお会いすることはありません。このブログもまた、御縁がなければ目に留まることもありません。それだけご縁は縁尋奇妙であり、そのご縁の仕合せを私たちは全身で味わうことができるのです。それを一杯の差し出したお湯やお水でというのが根源的なつながりを直観させるように思います。

仏教には、山川草木悉皆成仏という言葉があります。この世のありとあらゆるものは、仏そのものであるということをいいます。そして神道には、八百万の神々といってこの世のすべては神様であるともいいます。つまりは、分け隔てなく遍くものをあるがままに認め合う世の中を創造しそれぞれのいのちを自然のままによろこばすこと。

私は「かんながらの道」とも言いますがこれを実感することで人は大切な懐かしい何かにふと気づくように思います。そして「徳」もまたこの普遍の真理そのものを顕していると私は思います。

これから新たに開く伝統の「徳積堂(とくつみどう)」では、同じ祈りを生きる人たちと共に、かつての御堂や茶堂を今の時代に復古起新して子どもたちにそのご縁を伝承していきたいと思います。

時代のターンテーブルのようにここから新たな懐かしい未来のクニづくりがはじまります。

五徳の場

私はよく火鉢を用いて火を熾しますがその中に「五徳」というものがあります。現代の人はあまり見かけることがないと思いますが、鉄瓶や鍋などをのせてお湯を温めたり料理をする際に用いるものです。

その形状が〇に足がついたもの、それが逆さになって爪のようなものが3本~5本くらいついたもの、色々とありますがとても五徳という名前になるようには思えないのです。

そこで少しこの五徳について調べてみました。

まず、山田宗徧という方が書き記したの「茶道要録(ちゃどうようろく)」に仏書にある自在徳、熾盛徳、端厳徳、名称徳、吉祥徳、尊貴徳の六徳があり、その自在徳を除いたことで五徳を由来とするとあります。

この自在徳というのを除く理由は、この五徳という直接火鉢や囲炉裏の中においてある五徳では重たいものや重心のバランスが取れない、火加減を調整するのが難しいなどがあり自在鉤というものが発案されたことからだそうです。

この自在鉤というのは、ひょっとしたらどこかの田舎の古民家で見かけたことがあるかもしれませんが天井から鉄棒や竹などを吊るし鉤のところに鍋などを引っかけて上下に調整して使うものです。五徳を使わないところではこの自在鉤がありますから、本来の六徳であったものの一つを取り除いたから五徳となったということです。

そもそも私はサウナをつくった時にも感じましたが、茶室の源流は仏教にあると確信しています。また五行の徳といって算命学では万物は五行(木・火・土・金・水)で成り立っていると信じられてきています。具体的には、木が福、火が寿、土が禄、金が官、水が印です。順に行けば、幸福、寿命、財、名誉、智慧です。この5つの徳を調和させ一度に活かす場所、それが囲炉裏であり火鉢なのです。

私は日々に火を熾してその徳を磨き、徳を高める実践をしますからこの五徳は常に意識しています。そう考えると、むかしの人たちはこの囲炉裏や火鉢によって心を整え、五徳、もしくは六徳を実践してきたのです。

今回、新たに手掛ける徳積堂はこの五徳と火鉢が茶堂の中心に据え置かれます。千利休がもしも生きていたら、この世の中の心の荒みをみてどうするだろうか。私は千利休ではありませんがきっと私のやっていることに深く共感してくれるのではないかとも信じています。

引き続き、暮らしフルネスの中心にこの五徳があることを念じ、徳積の活動を真摯に取り組んでいきたいと思います。

制限のチカラ

昨日、引っ越しに伴い東京でともに暮らしてきた植物たちの土と鉢の入れ替えを行いました。東京の温室育ちの植物たちは、急に田舎の環境に適応できずに葉っぱが少し日焼けしたり、弱まったりと大変そうでした。

今回、新たな場所で新たに共に暮らしを営んでいくことになりますから変化と成長に合わせてステージも場もブラッシュアップされていきます。

鉢を植え替える際に、思うのですが植物たちは鉢の大きさに合わせて身の丈を決めていきます。根回りを制限し、どの程度の大きさになるのかは鉢のサイズが決めているとも言えます。

他には土の状態がいいかどうか、どれだけ栄養を吸収できるか、水分がどれくらいあるのか、それを確かめながら大きさや形、さらには枝の細さや葉の量までコントロールしていきます。

観葉植物は基本は日陰を好みますが、高い木々のなかで鬱蒼と茂った熱帯雨林の中のにあり風通しと水はけのよいところを求めます。明治神宮などは、大量の樹木がひしめき合うように共生していて高い木々の下には大きさを制限かけながら成長している植物たちが存在していました。

この制限というのは、外側からかけるものと、内側からかけるものがあります。そして自然の制限と人工的な制限というものがあるようにも思います。自然の制限は、成長を自主自律して協力し合うチカラ、人工的な制限は成長を思い通りにコントロールするチカラのことです。

同じ成長といっても、自然に育つのか、何かに育てられるのかでは育ち方が異なります。この育ち方こそが、生きる力に大きな影響を与えますから本来の教育は何が必要なのかを自然の姿から感じるものです。

植物たちは本来、生きる力が強く自然の制限の中で逞しく生きていきます。

制限は敢えて成長するための養分です。

その制限を外すのも、活用するのも、また協力するのも自分自身の生き方が決めます。場所が変わるということは、制限が変わるということです。新たな時代、新たな場所でどのように生きるのか、人類は今、試されています。

子どもたちの未来にいつまでも大切にしたい真理を伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの本当の価値

現在、働き方改革でオフィスをなくしていく会社が増えています。そもそもこのオフィスとは何か、オフィスをなくすとは何か、深める必要があると私は思います。私たち日本人は古来から、職住一体型の生き方をしてきた民族です。暮らしの中に働くことがあり、私たちは仕事のために働くのではなく暮らしの一部として働いていました。

オフィスがはじまりサラリーマンになり、なんとなく会社に行き仕事をして給料をもらうことが目的のようになっていますが本来はみんなで協力して楽しく豊かに稼ぎ暮らし通して世界人類をはじめ自然と共生してみんなが仕合せになるために働きました。

改めて少しこの辺を整理してみたいと思います。

例えば、私たちは小さいころから学校というものに通いはじめ学校で勉強を教わってきました。しかし学校を卒業したらそれまで義務教育のように誰かが教えてくれる環境や管理される環境がなくなりますから自分で学問を深めていく必要が出てきます。

私も最初に学校というところを卒業してから、それまでの学びと実社会に出てからの学びが全く別物であることを実感しました。勉強をするのではなく、学問を深める。言い換えれば、手段としての勉強ではなく目的としての学問、つまりは道に入るために道を見出し、道を歩み、道に達するための学び方に換わってくるのです。

そうすると、1週間で2日が休みだから何もしないとか、夏休みだから仕事をしないとかそういうレベルの話ではなくなります。このブログのように日々に休むこともなく、道を探求して歩みを続けていくのです。それは学問を楽しみ味わい、一度しかない人生に導かれながら道を切り拓いていくという生き方と暮らし方に転換されていくのです。

そうやって日々の暮らし方が換わっていくとすべての日々の仕事は「ライフワーク(天職)」になりそして人生の目的は「ライトワーク(魂を磨く)」ことになります。そして真の自己の人生そのものを真摯に歩むこと自体が丸ごと世の中のみんなの仕合せそのものつながっていくという境地に入るのです。

そうすると日々は常に学びそのものであり、暮らしはすべて感謝そのものに換わっていきます。学校にいくから学ぶのではなく、学ぶ場のすべてが学校になるのです。つまり自分のいる「場」が人生の道場と化すのです。

私が言うオフィスをなくすというのはこのことに似ています。つまりオフィスをなくすというのは、それまでの仕事をやめて暮らしそのものにするということです。暮らしを豊かに仕合せにすること、暮らしフルネスともいいますがそこは自他一体、すべて分かれているものがない一円合一されている状態になっているということです。

自分の日々の生き方がまさに働き方になり、それが暮らし方として世の中を仕合せにする=暮らしフルネスなのです。これは人類が本来あるべき理想の姿であり、私たちは協力して自律し合ってはじめて暮らしを整えて共存共栄してここまで助け合って生きた存在なのです。

オフィスがあるから大切なことに気づかないのなら、一度思い切ってオフィスをなくしてみればわかります。そしてなくしたオフィスの代わりに何をはじめるのか、何が変わるのか、それを具体的に私がカタチにしたのが「暮らしフルネス」なのです。私と一緒に体験をすれば私の存在から何かを感じ取れると思います。天人合一や真の自己、そして神人一体は生き方と働き方の一致、暮らしの革命によって実現するからです。

何かをやめてみてはじめてそれが何だったのか、必要だったのかがわかります。みんな始める勇気が必要なようにやめる勇気も必要なのです。何をやめることで何がはじまるのか、オフィスをやめれば何がはじまるのか。

私はそれを子どもたちの未来のために、勇気を出していち早く実践してきましたから今のコロナ禍が転じて福になってきているのを実感します。世界人類の仕合せな未来のためにここから一石を投じていきたいと思います。

学問の醍醐味~失敗という自信~

人間は失敗することで自信をつけていくものです。失敗すると自信を失うというのが普通ですが、長い時間をかけて物事を観れば実はそれが自信そのもになっているように思うのです。

私は、何をするのにも最初に結構な失敗ばかりをします。その失敗は、何かを壊してしまったり、何かを失ったり、不本意で不注意からか、または知らなかったからということで初歩的なミスをしてしまいます。

修復できると信じてはいても、その時はできないと思ってしまい心を痛めます。特に人間関係などもかなりの失意があり、なぜそうなったのかと何度も反省をしては後悔することもあります。

しかしそこまでいくと、きっと人間塞翁が馬ではないかと開き直り時間をかけてじっくりと修復のために努力をしつづけていきます。すると、そのうち修復や修繕をされたり、かつての失敗からの教訓が活かされてきてその後の大切な場面場面で過去の失敗に救われることになるのです。

そうしていると、失敗が大きな自信になり、自分自身が諦めずに信じぬき挑戦するための下支えになっていることに気づくのです。つまりは、基礎を固めていく時間であったかのようにその後の上物の建物を盤石にするための醸成期間であったと実感するのです。

このことからも私たちは如何に目のまえの目先のことに囚われやすいかということにも気づきます。人生を全体で総括りするとき、本当は何だったのか、それを知ることで、自分の人生の意味づけを行っていくのです。

その意味づけが、まさにその人の目的であり、それを味わい、魂を磨こうとしてその物語とのご縁が生まれてつながっていくのです。

だからこそ失敗とは何か、そして真の成長とは何か、自信とは何を意味するものなのかを学ぶのでしょう。学問の醍醐味は、これらのプロセスを通して自分自身という存在と徳性を高めていくことです。

子どもたちに日本民族のお手本としての生き方が遺し譲れるように、引き続き学問を楽しみその妙味を伝承していきたいと思います。

月への信仰

昨日は、里芋の収穫をしてみんなでお味噌汁にいれて食べました。とても美味しく、心も体にも沁みわたりました。もともと里芋は、むかしから私たち日本人が食べていた主食であり稲が入るまではずっと私たちの暮らしを支えてくれていたものです。

自然農の畑でしっかりと順応して野性味が溢れる味わいは、他の雑草たちに負けじと一生懸命に生きたいのちがずっしりと入っています。

昨夜は月明かりがとても眩く、目が覚めてしまいましたがこの里芋を収穫する時期の月を「芋名月(いもめいげつ)」といい、むかしから里芋を月にお祀りしていた風習があります。十五夜は芋を供え、十三夜には栗、または大豆を供えます。なので十三夜は栗名月、豆名月ともいわれます。

里芋の収穫儀礼は懐かしく、今の稲のように収穫を祝い祈りそれぞれが月に信仰していたのでしょう。この月の信仰においては、私たちはかぐや姫の名前を社名にしているのもありとても深い関係があります。

そもそも日本人がの月の信仰は縄文時代よりもずっと前からはじまっているもので特に縄文時代の人々は自然に宿る精霊と共に暮らし、月は月の満ち欠けによる潮の干満や、女性の月経周期が月とも関係していることから月は自然神の象徴として信仰していたといいます。満月の明かりでお祀りをしていたことが遺跡などからも見つかっています。

日本は、太陽と月、そして天津神、国津神、天孫族や出雲族のように別の2種類の民族が相調和しあい交互に交流してこの国を守り続けてきました。そして長い間混ざり合わさって助け合って今の私たちがあります。

太陽の時代があれば月の時代もあり、本来は太陽と月は昼と夜、天照と月詠が交互に守り合う世界ですから対立しているのではなく調和している存在です。

太陽には太陽への信仰の行事があるように、月には月への信仰があります。現在は、太陽が強く太陽ばかりを信仰することで明々として目に入る眩い光ばかりを照らす世の中になっています。

しかし月は、陰を映す存在であり、薄明かりの中で照らされる徳を顕現する世の中です。私はこの月を深く信じる生き方をしており、月のもつ陰徳を信仰しています。その象徴として、かぐや姫の物語を社名にしており、ロゴマークも月、そして実践は徳積みが中心、さらには行事などもお米作りや発酵、炭を用い、お餅を搗きお供えなどもします。

西洋人は月に対してはあまりいいイメージはありません。死の対象であったり狼男などが出るともいいます。私たち日本人は、月は神様であり、美しく澄んだ光をはなつ月詠、もしくは輝夜姫です。

この時期は、私にとっても特別に月を愛でて味わい月と共に暮らしを楽しむ季節です。子どもたちにもこの月の存在がいつまでも心の徳を照らし続けてくれるように古来からの月への信仰の行事も甦生させていきたいと思います。

暮らしフルネス 生活リズムの本質

生きものたちには生活リズムのようなものが備わっています。それは太陽や月、星の運行をはじめ四季や温度、あらゆる変化の中でも常にそれぞれのバランスを保つために微細に変化を続けています。

同じ温度、同じ光、同じ時間、そんなものは一つもなく、常に万物は流転しながら変化を已みません。その中で私たちは、生活リズムを持ち、自律神経を働かせ微妙に変化に合わせて調整、調律を繰り返していくのです。

よく考えてみたらすぐにわかりますが、季節の変わり目に体調を崩しやすいのはそれだけ周囲の環境が大きく変化していくからです。その中で、季節にあわせて空気も水も、風も、そして温度も光も気候も全部変化するのですからどこに照準を定めてリズムを整えるのかを生きものたちはみんな一生懸命に行っています。

その一つの方法が睡眠です。

睡眠はただ寝ているだけではないのはすぐにわかります。私たちは起きている時間は、頭を動かし神経を使って生活します。寝ているときは、それを休めて別の機能を働かせているのもわかると思います。病気になるときもしっかりと休んで寝れば、少しずつ回復していきます。

この睡眠というものは、単なる 寝るではなく生活リズムを整える意味もあるのです。この生活リズムとは、色々な定義がありますが私にすれば人間に限らずあらゆる生命たちがバランスを保つことをいいます。言い換えれば、バランスを調律調整する、本来の今の状態に合わせていく、全体の自然の中で自分自身が健康であり続けるためにいのちのハタラキを整えていくとも言えます。

私たちは五感で今の季節を味わえます。

たとえば、食であれば旬のものを食べれば全身が美味しいと喜びます。他にも、心地よい自然を感じる、時には不快な自然の中にも今の季節を感じ取ります。臭い、色彩、音、これらはすべて自然の運行や周期を現しています。

その時々で存在している自然のものに触れることで私たちは季節を感じて、日々を味わうのです。その中でも、大切なことはそこに好奇心を持つことです。好奇心は自然のリズムの中心でもあり、生活リズムを整えるためには何よりも重要な役割を果たします。

みんなでよく笑い、楽しく愉快に生きていく、そして暮らしの中で豊かに過ごす時間がたくさんあるということ。それが何よりも生活リズムを整える妙法なのです。先祖代々、私たちがここまで永く暮らしてこれたのはその生活の知恵、暮らしの仕合せを生きてきたからです。ハレとケもまた、その智慧の一端でしかないのです。

暮らしフルネスは、これからの人類に大きな影響を与えます。人類が乱れた生活リズムをどう整え、自然と調和していくか。子どもたちの未来のためにも私のこの実験が世の中の人々の意識が易えていけるよう丁寧に暮らしを甦生していきたいと思います。

変化の本質

時の書と呼ばれるものに中国の「易経」があります。時の変化と兆しをよく読み、何をすべきかを記しています。時というものに注目し、変化というものがなぜ起きるのか、それを突き詰めて追及したものではないかと私は思います。

私も自然農の実践者ですが、常に風を感じて時を読みます。なぜなら種蒔きの時機や収穫の時を間違えないようにするためです。どんなに何度も種を蒔いても、育たない時機に蒔いても芽は出ることはありません。常に天の運行や大地の状態、そして風向きや気候をよく観察していなければ自然の変化に合わせて行動していくことができないからです。

自然は常に「兆し」を知らせるのであり、私はその兆しをよく観察して自分の行動を決めています。兆しはどのような時に、発生するのか、それを易経を紹介しながら少し私なりの直観の整理をします。

「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」

これはなんでもそうですが、変化は常に振り子のように左右に、もしくは砂時計のように上下に振れます。陰に極まれば陽になり、陽に極まれば陰になる。世の中がもっとも暗い時には明るい方へと移動し、その逆もまた然りです。

自然は常にバランスを保つことが真理ですから、絶望の果てに希望があり、希望がまた絶望を呼びます。一見、終わりだと思っている最中にこそ始まりがあり、始まりの時こそ終わりが出てくるのです。

変化に調和する人は、その状況をよく観察して道を拓いていくのです。

「君子豹変す。小人は面を革む」

これは、リーダーは変化に合わせて自分を素早く的確に適応させていきます。そのためには、居心地のよい場所を瞬時に離れてでも危険に身を晒してでもその変化の兆しに適応していく方を優先させます。この豹変とは、大切なものを守るために変化に合わせるということです。大切なものを守るのか、それとも自分を守るのか。大切なものは何かを知っているからこそ、そのために変化するのです。その反対に、変化を恐れる人は表面上の変化だけはしますが本質的には変化はしません。理由は、変化そのものを怖がっているからです。

実は時が変化しているとき、不安なのは自分も一緒に変化していないことに気づいているからです。変化している最中は、自分も一緒に変化しているからこそ不安や恐れはなくなります。変わっているのを本能的に知っていながらもいつまでも変わろうとはしないで、変わろうとしているふりをする。自分を守るために周りを変化させるのか、それとも自分から変化に合わせて自分を変化させるのか。

これは自然を相手に自分をコントロールするか、自分の都合で自然をコントロールするかと同じ話です。

どうにもならない大きな変化、つまり災害級の時の変化が来ている時にそれをなんとかしようとするのは小さな存在の私たちには不可能です。自然への畏敬や畏怖があるからこそ、君子は豹変すると私は思います。

最後に、

「積善の家には必ず余慶あり」

日々の暮らしの中で、小さな徳を磨き続ける人は必ず善を積み続けています。そういう家は、不思議な余慶や恩恵をいただきます。これは自然の他力をいただくことに似ています。種を蒔けば、自然に太陽の恵み、雨の恵み、風の恵み、土の発酵、いのちの調和による見守り、あらゆる恩恵をいたきながらすくすくと育っていきます。

これは種だけで育ったわけではなく、その種を活かそう、その種を見守ろうといった大自然の徳が働くからです。自然を敵視する人や自分の都合ばかりを優先して全体快適でない生き方をする人はこの余慶があまり入ってきません。自分でできることがわずかしかないと本当の自己を直視することができれば、如何に自分の徳を磨いていくかということに正対するはずです。

日々は善を積み徳を磨くための大切な機会です。

時を歩む人たちはみんな、同じ法則や真理をもって道を拓いていきます。これからの子どもたち、子孫のことを思えば思うのほどにその大切さが身に沁みます。引き続き、今、ここで脚下の実践を楽しみたいと思います。

暮らし方改革~暮らしフルネス~

最近、働き方改革という言葉が当たり前に聴かれます。しかし実際に働き方を換えているといっても、時短になったり、場所が変わったりするくらいでそれを改革とは言わないように私は思います。

そもそも改革というのは、それまでの意識が完全に別のものに入れ替わるほどの大きなイノベーションが発生したということです。それは言い換えれば、生き方が完全に別の何かに換わってしまうということです。

働き方改革が生き方改革であるのは、そのことから言えます。生き方が変われば、当然一緒に働き方も変わっていきます。それが生き方と働き方の一致であり、人生観が変わってしまい新しい人生がはじまったというくらいの変革が発生するということです。

例えば、人生観が変わるというのはどういうときか。

それは死にかけるような大病や事故、生死を分かつようなギリギリの体験をしたり、厳しい修行により悟るような体験をしたり、それまで信じてきたことがひっくり返るようなことに出会ったりしたときにも人生観が変わる人がいます。

この人生観が変わるとは、ある体験によってそれまでの生き方とは別の生き方を知り、その生き方に換わるということです。生き方改革とは人生改革ですから、それまでの人生とは決別し新しい人生を生きるようになるということです。

そしてその新しい人生を生きることを、暮らしが変わると私は定義しています。世の中でいうところの暮らしは、なんとなく生き方も働き方も変わらずにただ単に日ごろの生活の何かを少しオプション的に足したという具合のものです。道具が変わったり、衣食住を少し変えたくらいで暮らし方改革とかいったりします。

現代の便利な世の中で、なんでも大量生産大量消費の都市化された社会の中でいくら暮らしを換えたといっても変わったのはお金の使い方と時間の使い方くらいです。使い方改革という言葉がありませんから、使い方はたいして問題ではないということでしょう。

本来、暮らし方改革というのは別の人生を歩むと決めたときの副産物として日々の生活のあらゆるものが変わるということ。私に言わせれば、機械的な生活から生命的な生活へくらいの変化があったということです。

私の提案する「暮らしフルネス」はそれを実現するものなのです。

まだ言葉では伝わらないところも多いので、実践現場での体験や研修によって気づきを与えて変化を掴んでもらうしかない状態ですがそのうちこれがコロナの御蔭で新しい常識になっていくことを確信しています。

子どもたちの未来のために、暮らし方改革を実践していきたいと思います。