日本人の風情

今年もそろそろ干し柿をつくり聴福庵の箱庭に飾る季節がやってきました。次第に乾燥が進み、食べごろになっていく様子を見ていることが豊かであり食べると一層仕合せな気持ちになります。

現代は、なんでもお金で買いますが本来の豊かさはこの取り組みのプロセスの中にあります。美味しさとは、単に舌先で味わうものではなく心で取り組む中で味わいが深くなっていくのです。

暮らしが充実していくということは、それだけ日々のプロセスそのものが満たされていくということであり、小さな喜びや仕合せにたくさん出会いご縁に感謝することができるようになるということです。

話を干し柿に戻しますが、この干し柿は渋くて食べられない渋柿を干すことでできるものです。この干し柿に用いられる柿は、乾燥させることで渋柿の可溶性のタンニンが渋抜きがされ渋味がなくなり、甘味が強く感じられるようになるという仕組みです。しかもその甘さは砂糖の約1.5倍とも言われています。

具体的に日本に柿が伝わったのは弥生時代といわれていますが文献では平安時代に干し柿の存在が確認できるそうです。また927年に完成した『延喜式』に祭礼用の菓子として記載されています。

健康食品としての効果もあり高カロリーで食物繊維も豊富にあり、マンガン、カリウムもたくさん入っています。また取り立ての柿はビタミンCが豊富ですが、それが干しているうちに減っていきますがβ-カロチンが増えていきます。また柿自体に悪酔い防止作用があり二日酔いの時によく熟した甘柿を一つ食べると気分が良くなるとも言われています。

もう1000年以上前から私たちの暮らしに存在していたこの干し柿は、貴重な冬の食料としても甘味としてもまた薬としても愛されてきたものです。冬の風物詩でもあるこの干し柿が、日本の原風景の中から消えていくのは寂しいものです。

冬の味わい深さ、冬の楽しみが増えていくのは日本人の風情を楽しむ心の豊かさの象徴の一つです。子どもたちに、充実する暮らしが伝承できるように身近なところから大切に過ごしていきたいと思います。

石のチカラ

むかしから石には魔除けの効果があると民俗学的にもわかってきています。石といえば、神社の狛犬なども魔除けです。沖縄で有名なシーサーなどは門の上に置かれていたり、家の屋根の上に設置されていたりするが、屋敷へ入ってくる魔物を払う役目があるといいます。

他にも沖縄には石敢當などがあります。これも災いを防ぐための魔除けのひとつで家の外のT字路の突き当たりにある屋敷や辻、そのほか三叉路になっている場所へ行くと石敢當が設置されています。

以前、鹿児島の知覧の武家屋敷を見学した時も同様に玄関の前に石を置いて魔除けにしていました。日本では、このように石を魔除けとして配置する民族文化があります。

この魔除けの魔とは、ウィキペディアにはこうまとめてあります。『「魔」とは、会意形声。鬼+音符「麻」、「麻」は植物のアサで人をしびれさせる(麻痺)させる効能を持つ。しびれさせ、正気でなくさせる「鬼(=霊魂)」。唐代以降に見られる文字で、仏教の悪鬼マーラの漢音訳『魔羅』を表記するために造字されたものといわれる。意義としては、人を正気でなくさせる異界の物。人が正気でない状態。』

魔が差すという言葉もありますが、邪気が入ってきたり執着が欲望にのまれるという具合なのでしょう。魔除けとは、人間がそういう状態にならない、もしくは正気をなくすことがないようにということです。

心を澄ませて清浄にしていれば正常な状態は持続されます。石には、人々の邪気や邪念を払うという効果があるようです。

そして自然界においては、災いを防ぐチカラがあると信じられていました。確かに、石は私たちの生活を風や雨、日差しからまもります。水や火、風、土、そのすべてから上手に守ってくれます。

災いというのは、ある意味では自然の仕組みですが私たちは石に守られて暮らしを実現してきたとも言えます。石との関係は永く、そしてこれからも石を大切にしていくのでしょう。

BAでは、その石を上手に使って様々なことに取り組みます。子どもたちに石のチカラを伝承していきたいと思います。

 

当たり前を見直す

昨日より鹿児島から長年一緒に子ども主体の保育に取り組んでこられた方々が聴福庵に来庵しています。長い間、体調を崩していた方の快気祝いも兼ねての来庵でしたがとても豊かで癒しの多い時間を過ごすことができました。

自然農での畑での作業や、炭団炬燵でのゆったりしたお茶のお時間、夜は炭料理の数々をともに楽しみました。

感覚が鋭い方は、來庵するとすぐにその雰囲気が分かります。今回も来てすぐに玄関で感動の涙を流され、手を合わせておられました。また地下水の水が美味しいこともあり、何度もお水を飲んでは癒されておられました。

今では当たり前になった水も、むかしは井戸から汲んで水甕に入れてそれを一日使っていました。それに火も、薪を山林からとってきたり炭をつくってそれを少しずつ活用しながら大事にしていました。

何でも便利になりましたが、時代が変われば当たり前は変わるものです。

むかし当たり前だったことは、今では大変珍しくなっています。私が取り組んでいる、暮らしフルネスの生活はむかしの当たり前の善いところはそのままに、現代の当たり前のよくないところを改善して今を温故知新しています。

当たり前を見直していくということは、今を見直していくということです。

懐かしい日々の暮らしは、心の豊かさや充実さ、そしてゆとりややさしさ、思いやりを思い出させてくれます。

子どもの仕事をするからこそ、当たり前を見直していきたいと思います。

消えないもの

現在、日本では消えかけている文化があります。それは伝統工芸品を含め、日本の先人たちが築き上げてきた自然から学んできた技術です。それはマニュアルでは残せず、暗黙知の伝承ですから共に学び取り組む中でしみこんでいくものです。

しかしその文化は、時代の流行があり時としては時代に合わなくなることもあればまた時節が到来すれば時代に合うこともあります。それが流行ですから、その流行が訪れるまでじっと耐えて待つ必要があります。

時として何をしても、それが合わない時代もあります。そんな時でも、色々と工夫して新しい技術を取り入れながら温故知新して取り組んでいくうちに、そこで学んだ技術がかつての先人たちの思いもつかなかったような独創性が産まれたりします。

またそこで産まれた新しい独創的なものが、世の中全体に大きな影響を与えることがあります。文化が消えかけていくことは確かに悲壮感がありますが、同時にそれは世界に向けてかつての技術を発信して新しい時代を産んでいくための切っ掛けにもなるのです。

すでに世界では日本のお茶や、日本酒、焼酎、出汁、和服などが認められ海外の需要が大幅に増えているともいいます。日本では人気がなくなってきている文化が世界で花開こうとしています。

つまり消えかけるときこそ実はチャンスであり、それをもう一段別のステージで挑戦する機会にすればいいのです。

私は性根が明るいから悲壮感がないのかもしれませんが、同時に消えかけても消えることはないと信じているから明るいのかもしれません。子どもたちに確かな文化を伝承するためにも、自分自身が温故知新を楽しんでいきたいと思います。

BA開校の意義

かつて人間は様々な技術革新を起こして歴史を換えていきました。その技術革新はこの100年を省みても、様々なものが産まれてきたのがわかります。核融合、インターネット、ナノ技術、遺伝子組み換え、もはやキリがないほどに革新が行われてきて時代が変わってきています。

最近でも、IOTやブロックチェーン、AI、量子コンピューターなど次々に新しい技術が創造されています。

歴史的に見ても人類史の中でもっとも加速度的に技術革新が続いている世紀を私たちは生きているとも言えます。同時に、かつての技術が消えていく時代に生きているとも言えます。

新しい技術がすべて万能というわけではありません、古い技術の中でしか実現できなかったものもあるのは確かです。それをどう温故知新して調整するかは、技術者だけではなくそれを活用する人物の思想や哲学、そして生き方や決断が必要になります。

それだけ新しい技術革新の時代には、それに相応しい人材が求められてくるのです。人間の教育は果たして技術革新に追い付いているのか、それは大きな疑問を感じます。

人間には様々な我欲があります。その欲があるからこそ、技術革新もまた産まれます。しかしその欲が果たして平和に基づくものか、それとも戦争や支配に基づくものかは人間が決めるのです。

いくら技術が進んだとしても、その高度に洗練された技術に相応しい人格がなければその技術は台無しになります。

だからこそ、本来、あるべき古い伝統的な思想と最先端の技術を融合させることで人類の初心を学び、その初心を忘れないで技術革新を続けていく努力が必要なのです。

私がBAを開校するときに、もっとも技術の学問として大切なのはこの取り組む姿勢を磨いていくことだと私は思います。医者であれば、医道があり、保育であれば、保育道があり、政治であれば、政治道があり、それぞれに生き方といった道があります。

道を学ぶことが、本物の技術者を育て、人類にとって本当に大切な技術として広がっていきます。このような時代だからこそ、このような学問や学校は志ある人たちで立ち上げてなければなりません。

この先の展開がどうなるかわかりませんが、まずはブロックチェーンがかつての日本的精神によって平和活用できるところからはじめていきます。引き続き、私にしかできないことで人類の技術革新に貢献していきたいと思います。

仲間は力

人は自分にできないことがあるからこそ仲間が必要です。仲間とは力であり、力は仲間の存在によって引き出されていくものです。現代では、能力主義や評価を気にするあまりできないことを隠し、できることだけで人とつながろうとします。しかし一人でできることは少なく、そして脆いですから仲間の存在や信頼があればできないことへも挑むことができるように思います。

では仲間とはどのようなものか、それを省みるとどんなことがあっても離れていても最後までご縁を活かし合う関係ではないかとも感じます。その時だけの関係というよりも最後までそばにいるような絆をもった関係です。

そう考えると、いつもそばにいるというのは苦しみも悲しみも喜びも分かち合う関係があるということです。それは絆ができているともいえます。お互いの違いを認め合っても、お互いのことを信頼し続ける。それだけお互いのことを分かり合っているとも言えます。

本心や本音で分かり合えるからこそ仲間になります。本心や本音を最期まで隠すのは、評価や認められたいと外側ばかりを見つめては自分の内面を誤魔化すからかもしれません。自分が仕合せになるためにも、自分の本心や本音を打ち明ける仲間が必要なのです。

仲間がいれば、一人でも頑張れますが仲間がいなければ一人では頑張れないのです。一人で頑張れるのは、それをわかってくれる、信じてくれる、助けてくれる、支えてくれる存在を感じることで力が湧いてくるからです。

仲間は力です。

力を精いっぱい出して自分のやりたいことに挑むためにも貴重な仲間の存在とつながりを大切にしながら歩んでいきたいと思います。

銅器の魅力

現在、建設中のBAでの料理には銅を使った台所道具を用いることにしています。聴福庵は鉄を中心にしていますが、銅もまた先人たちの智慧が伝承されているものです。

そもそも銅の歴史は古く、太古の時代から利用されていて人類が最初に使い始めた金属とも言われています。青銅器時代と呼ばれる時代があるくらい銅は青銅器や武器や農具といった一般的に使われる道具まで人類が活用してきた金属でした。銅の種類では青銅、純銅や真鍮、白銅などがあります。そして真鍮(しんちゅう)もまた銅の仲間の一つです。

銅は金属の中でも特に柔らかく加工がしやすいという特徴があります。また錆にくく熱伝導性が高く、殺菌作用もあります。

世界中のプロの料理人が愛用するのは、それだけ料理に向いている道具だからです。しかし鉄と同様に手入れするのが大変な道具であり、今の便利な時代の価値観の中では次第に活躍の場がなくなってきています。

銅鍋などは料理中の銅が少し溶け出すくらいはかえって鉄分の吸収を助ける働きがありますが、料理後にそのまま放置すると銅が酸によって大量に溶け出すことにもなります。またこまめに使っていなければならず、手入れが必要な道具なのです。

またかつては、銅から出てくる緑青に毒があると信じておりさらに銅製品の評判が下がっていきました。この緑青とは銅の腐食により出来る錆で、科学的には塩基性炭酸銅と言われる化合物のことです。

実際に緑青は20年ほど前までの教科書や辞書には有毒や有害と記入されていましたから私たちの世代も銅の緑青は猛毒だと信じていました。しかしこれはまだ金属清廉技術が未発達な時代に銅の中にヒ素が混入しヒ素中毒を起こしていたのではないかという事例から有害だと思われていたといいます。

国立衛生試験所が昭和55年から3年間を費やして実験を行い、その結果を受けて、昭和59年8月に厚生省は無害であることを認めました。それに1984年8月に厚生省の見解として有害ではないと発表され緑青は水に溶けず体内にも蓄積しないことが立証されてかつての価値観が覆りました。

銅の素晴らしさが、誤解によって埋没し、そして不便な道具として不名誉な評価をもらうことはとても残念なことです。

BAでは、炭のスイーツを開発していく予定ですからこの熱伝導、熱効率、熱加減が可能な銅の製品はこれからの新しい炭料理のパートナーになりそうです。

子どもたちに、先人の智慧と伝統を継承していきたいと思います。

徳の循環

この世の中には、いのちがあります。そのいのちとは、そのものに備わっている徳ともいい、そのものの長所や持ち味でもあります。そのいのちを何に活かすか、それはいのちの命題であろうと思います。

どんなものでもその中には確かな徳性が備わっています。それを用いるには、その徳を引き出す側の力が必要になります。徳を引き出すことが、いのちを活かすことになりますからこの関係は切っても切り離すことができません。

現代では、幼少期から比較競争させられ能力評価を中心に教育を施されてきました。また社会の空気感としても、結果重視で効率優先ですからどうしても能力が高いことがもっとも価値があるかのように刷り込まれていきます。

しかし実際は、いのちの現象ですから能力が価値があるのではなくその徳にこそ価値があるのです。徳は、存在価値そのものでありまたお互いのいのちのハタラキそのものですから畢竟すべての生命は徳を磨き徳を高めていくことが命題なのです。

その命題をしっかりと思い返し原点回帰するには、何のために生きるのかといった道を見出す必要があります。それは言い換えれば自分の心と向き合うということです。その上で、天地自然のいのちの在り方を学び直し如何にその心を天地自然に近づけていくか。

すべてのいのちが天地自然と混然一体になって報いていくように、私たちもまたその混然一体の一部になって徳を還元していくのです。そうやってみんなで徳を還元する社會こそ真の楽園になり、平和が訪れるように思います。

徳の循環というものは、永続的にいのちが発展繁栄する道理でありまさにいのちの在りようそのものの根源であり、生きる意味の真実です。

子どもたちが現代の道理に外れた現実で迷わないように、真摯に徳の循環の実践を積み重ねていきたいと思います。

いのちの感覚

昨日はむかしの田んぼで、仲間たちと一緒にお米の収穫祭を行いました。ちょうど、前日に大嘗祭があり翌日に私たちも新米を食べる行事を行いました。

具体的には、宮司さんに来ていただき田んぼの真ん中に祭壇を設けみんなでご祈祷を行いました。そして竈門で炭を使ってじっくりとご飯を炊きそのお米をおむすびにしていただくという具合です。

おむすびは、佐藤初女さんのいのちのおむすびを参考にみんなでお米が呼吸できるようにと心を籠めてむすんでそれをみんなで歌いながら交換し合って食べました。いのちがむすばれたおむすびは本当に優しい味わいで身も心も充実しました。その後は、思い思いにそれぞれで好きな具材を使っておむすびをむすびみんなで楽しく共食を楽しみました。

美味しいお米をつくり、美味しくお米を食べる。

これだけをやってきたのですが、お米を大切に愛して食べていくだけで今ではお米のいのちを感じる貴重な機会になっています。

美味しいというのは決してただの食べものではなく、いのちそのものの味わいのことを言うのです。いのちに対してどのように向き合っているか、いのちを如何に大切にしているか、いのちをどれだけみんなで分かち合っているか。

これらが美味しさを磨く秘訣であり、美味しいと感じる根源なのです。

人間は単に味覚だけではなく、五感を超えた何かをつかっていのちを感じているのです。まさにそれは「いのちの感覚」と呼んでいいかもしれません。

いのちだからこそ、いのちそのままに次世代に譲っていく。いのちは生き続けるからこそ、生き続けるいのちとして私たちはいのちと共に存在していく。今回の大嘗祭を受けてのむかしの田んぼはいのちがいっぱい宿っていることを実感した行事になりました。

行事のはじまりと共に、子どもたちに大切ないのちの存在をこのむかしの田んぼを通して伝承していきたいと思います。

真の自立

心を通じ合わせて何かに取り組んでいると仲間ができてきます。その仲間は、同じ目的のために協力し合う時にできてくるものです。何かがあった時、仲間の存在に助けられることがあります。人は一人では夢を叶えることが難しく、必ず自分の思いや夢の力になってくれる人が必要なのです。

私も人生を振り返ってみると、本当に多くの仲間たちに出会い歩んでくることができました。距離的にたとえ離れてはいても心はいつもつながっている仲間がいます。その仲間たちはみんな同じ目的に向かってそれぞれの場所で真摯に挑戦し続けています。

私は仲間というものは、力になる存在だと思っています。

力が発揮できるのも仲間のお陰であり、仲間があるから力が湧いてきます。不思議ですが、人間は協力することで仲間をつくってきたからここまで苛酷な自然環境の中でも生き残ってくることができました。

生き残るために社會を創造し、その社會を守ることで仲間を育てたのです。

現在は、個が強くなり仲間よりも自己本位である人が増えてきました。仲間の絆や信頼よりも自分の願望や欲望を優先するような事件やニュースをよく見かけます。忙しさで心が殺伐としてきたら仲間の有難さや存在に気づきにくくなっていくのかもしれません。

一緒にいて仕合せな関係というのは、苦楽を供にする中で築き上げていくことができます。それは助け合う関係によって醸成されていきます。お互いに心を開いて心をつないで協力し合うことができる絆が増えれば増えるほど、仲間は増えていきます。

人生で苦楽を共にできる仲間がいることは、人生を豊かに彩ります。

仲間の門出を見守りつつ、真の自立に向かって邁進していきたいと思います。