使命と役割

世界にはそれぞれに伝統というものがあります。その伝統は1年や2年で練り上げてきやものではなく、何千年、もしくは何百年も前から代々に受け継がれて今に至るものです。

目には決して観えなくても、それを継いできた人たちによってその伝統は守られ今につながっています。その伝統の継ぎ方は、伝統技術という形で伝統精神を守っていたりもします。伝統の精神を守るということは、精神文化を持っているということでもあります。

つまりその人の生き方の中に、伝統と文化、そして精神(霊性)のようなものが宿っているという考え方です。

その精神や霊性を磨いていくうちに、自分の中にある伝統や文化が磨かれその時代の人たちに受け継がれまた次世代へと譲り渡していくように思うのです。

人間は、最初の動機や初心をいつまでもどこまでも守り続けて自らの霊性を高め磨いていくことが使命として存在しているということだと私は思います。

その精神や霊性は、自らの意識の中にあるものです。

これは誰かに教わったわけではなく、誰かに与えてもらったわけでもありません。つまり最初から備わっているものです。最初から備わっているというのは、生まれながらに持っているということです。

この自然の中に存在しているように、最初から太陽や月やその他の自然は存在しています。同様に、私たちの存在もまた最初から存在しています。そして繰り返し循環していく中で、私たちはほかのいのちたちと同様に自らの使命を全うしていきます。

そしてそれは最初からあったものです。最初からあったものをどのように磨き直すか、もって生まれたものに気づきそれをどう高めていくか。ここに伝統や文化の価値がつながっているように思うのです。

世界には多様な文化や伝統がありますが、それが混ざり合って新しいものが生み出されています。お互いにもって生まれた精神や霊性を高めるために、それを学び合い、磨き合い、高め合う中で人類は本来生まれながらにあった使命に気づきそれを全うすることで自然の役割を果たしていきます。

自然は外側にあるものではなく、自らの内側に存在し、そしてそれは最初から存在しているものという意識になることでその役割にも出会えるように思います。

子どもたちがそれぞれに使命をもって生まれているように、自分にもまた使命があり役割があります。使命と役割と全うできるように、天命に従いすべておまかせしながら歩みを進めていきたいと思います。

ゆがみを正す

心理学の一つに「認知のゆがみ」というものがあります。これはアメリカの精神科医アーロン・ベック氏によって構築された概念です。

同じ物事があったとしても、それを客観的に分析し楽観的に処理していける人と、なんでも悲観的になり主観的になって大げさにしていく人がいます。これは認知していることが歪んでいるのであり、本来の正しい状態、現実あるがままを受け止められず感情に呑まれている状態に陥ってしまっていることをいいます。

特にうつ傾向が強くなると、これらの認知のゆがみは顕著に現れてきます。アーロン・ベック氏はこのような特徴があるといいます。

①二分割思考、両極端な思考=うまくいったか全然ダメかどちらかしか認めない
②過度の一般化=少しでも不幸なことがあると、すべて不幸だと感じる
③破局形成=いつも最悪の事態を考えていて、自分に起きやすいと感じる
④マイナス化思考=良いことがあってもまぐれにすぎない、という否定的思考
⑤否定的予測=ささいなことからいつも否定的な予測が浮かぶ
⑥自己関連づけ=自分はいつも誰かから注目されている(特に悪い行い)
⑦過度の責任性=周囲の悪いことは、全部自分に責任がある
⑧すべき思考=理由もなく、人は絶対に〇〇すべきだと確信している
⑨選択的抽出=あることにだけ強くとらわれる
⑩低い自己評価=自分は何をやってもまともにできない、ほかの人より劣っている
⑪拡大視・縮小視=あることを極端に大きく考えたり、逆にささいなことだと感じたりする

以上のような状況になっていると自己分析できれば、自分に認知のゆがみが発生していることがわかります。

簡単に言えばこれは「思い込み」のことですが、話を聴きたくないとき、人の助言も耳に入らないときはこの思い込みが強くなっているということです。思い込みが強くなる原因は、様々にありますが本来の自分自身を見失っている状態になっているということです。

本来の自分自身とは何かといえば、自分が本来どうしたかったのかという動機のままで過ごせていたり、すべての起きていることは必然であって自分に必要なことしか起きていないという自覚があるということです。

自己否定から入り現実を受け入れられないとき、自分にとって都合が悪いことを認識したくないとき、固定概念や執着、また間違った常識などが自らの脳の認知をゆがめてしまうということです。子どもの自己肯定が大切だというのは、自分のことを自分で信じられなくならないようにするためでもあります。

この認知のゆがみを修正するには、様々な方法論があるといいます。その一つは、感情で裁かないということです。感情で裁かずに客観的な事実を分析するということです。感情が共通言語になってしまうと、感情のぶつけ合いや裁き合いでコミュニケーションを取ろうとします。わかってもらいたい、なぜわかってもらえないんだという感情のぶつけ合いが起きれば起きるほど、より固定概念や思い込みが邪魔をしはじめ素直に相手の話を聴ける状態ではなくなります。

人の話を素直に聴くには、自分自身が相手の言うことも一理あるとし、客観的に事実や全体を理解していくことで現実がどうなっているのかということから自分の認知のゆがみに早めに気づき修正していくことができるからです。聴く練習というものは、自分自身のことを客観的に見つめるための大切な訓練になります。

客観的にというのは、起きた事象そのものに目を向けて冷静に対応していくということです。

人間、生きていれば感情が揺さぶられるようなことがあるのは当然です。それが人生の醍醐味でもあるからです。しかし勝手な妄想ばかりを走らせていて、本来の自分を見失っているではそれは自分の人生を味わっているわけではありません。内省を素直にできるかどうかは、日々の心の鍛錬でもあります。

引き続き、聴福人の道をきわめつつ、この時代の自立に向けて新たな対話の仕組みを創造していきたいと思います。

 

 

 

大切なことを忘れないDAY 8年目

東日本大震災から今日で8年目を迎えました。あの時の東京で被災した私もあの揺れの大きさや自然の畏怖は忘れることはできません。あの時を思い返すと、まるで昨日のようにその怖さが思い出されます。

新宿の高層ビルの中、周りの高いビルが左右に揺れて今にも折れそうな具合です。これが折れたら間違いなく死ぬだろうとほぼ諦めの状態でテーブルの下に隠れていました。

その後は、電車などすべてが止まっており帰宅するとキッチン周りがぐちゃぐちゃになっていました。この揺れの恐怖でも大変なのに、その後に津波が来たと思うと想像を絶するものです。そしてあの原発のメルトダウンが発生し、空から放射能が降ってくるという人災がやってきました。あの人災が立ち直れないほどの災害で、自然は回復しても人災はなかなか回復することができません。

私たちはすぐにサテライトオフィスを福岡に設け、そこに社員と家族を連れて移動しましたが移動できない人もいました。遠方からできることとしたら物資の調達やお手紙などで励ましくらいでした。

あの体験がなければ、私たちは今のようにむかしの田んぼでお米を作ったりすることもなく、自然農法や発酵技術を学ぶこともなく、むかしの暮らしとして古民家の甦生や、伝統の継承なども学ぶこともなかったと思うと私たちは今でもあのことを忘れてはないと感じるのです。

毎年この日は、会社で「大切なことを忘れないDAY」として、日本人の生き方や道徳、そして何を優先するべきか、日本人とは何かということを学び合います。これは子どもたちが将来、同じような体験をするとき先人をはじめ私たちがどのようにそれを受け止めて乗り越えてきたか、そしてその禍いを転じてどう福にしてきたかというモデルを示すための実践の一つです。

いつの日も、いつの時代も、最期まで遺り、子孫の徳になっていくのは先人たちの譲り遺した想いと生き方、生き様です。

子どもの志事とは何か、私たちの本業は何か、忘れない日にしたいと思います。

刷り込みの仕組み

先日、インターネットのニュースでメンタリストDAIGOさんの興味深い記事を読むことがありました。この方は心理学に基づき、それを応用して暗示や人心を掌握したり人間の持っている刷り込みなどを上手く逆手にとって活用する仕組みを展開されています。

今回私が興味を持った記事は下記の話です。

『タバコやダイエット中の甘いものなど、やめたくてもやめられないものってありますよね。今回のメンタリストDaiGoの「心理分析してみた!」では、そんな悪い習慣をやめる方法について解説します。禁煙やダイエット中、自分に禁止や制限をかけると、1.5倍それが欲しくなってしまうというのがわかっています。では、どうすれば成功するのでしょうか。実は人間の、強制をされたりノルマを課されるとやめたくなるという心理を利用すればいいのです。つまりタバコをやめる方法としては、制限をかけるのではなく、逆に自分に「何本まで吸わなくちゃいけない」といったノルマを課すのが正解なのです。禁煙をすると太るという話もありますが、これなら両方簡単に成功できて、一石二鳥かもしれません』

この自分の悪い習慣をやめる際に、禁止や制限をかけることでかえって欲が増大するということがわかっています。それを逆手にとって「ノルマ」にしてしまうという発想です。

ノルマを自分に課せば課すほど、「やらされ感やさせられ感」が強くなっていきますからかえってやりたくなくなっていきます。「やってはいけない」ではなく、「やらなければならない」と思った方が人間やりたくなくなるという心理を活用しているのです。

これは上手く人間心理をついていることと思います。

昔から本来、やりたかったものにノルマを課される教育をされてきていますから勉強が嫌いになっている人が多いように思います。私も、社会人になってから学問の歓びを知り、今では様々な人から博士だのオタクだの職人だのこだわり強いなどいろいろと言われますが勉強好きだったわけではありません。

ノルマを課されていたころは、反発するか仕方なく従うかしか選択肢がなく、すぐに自分に「しなければならない」と言い聞かせて行動する癖が沁みついていました。主体的にやりたいことをただ楽しくやっているのではなく、どこかからマジメにやることにすげ変わってしまい楽しくなくなっていくのです。

責任感という名のノルマを自分に課すことでかえって続かないという悪循環に陥るのです。それを逆手にとって、自分の悪習慣を換えてしまうというのは面白いことと思います。

悪習慣をやりたくないことによって改善していく、マイナスをマイナスで消すという仕組みです。そもそも悪習慣をマイナスと思っていないから、いつまでたっても直すことができません。だからこそ、悪習慣を悪習慣だと如何に脳に自覚させていくか。ここが重要だということになります。

本人の脳がこれは絶対によくないと刷り込みを取り払われるまで、その悪習慣はいつまでも変わりません。これが意識改革です、それを取り払うための仕組みとしては脳の構造を理解し、脳がかえって刷り込みを刷り込みなおすのを手伝うことを実行していくという具合です。

色々と刷り込みを深めていると、なぜ刷り込まれたか、どうして刷り込んだかの理由が見え隠れしてくるものです。子どもたちが安心して自分らしく生きていけるようにより探求してみたいと思います。

 

刷り込みに気づく

物事には見方というものがあります。その人がどのような見方をしているか、それは生き方が左右していることがわかります。あるものを見る人と、ないものばかりを見る人では生き方が異なります。

そして見方や生き方が異なるから判断もまたその通りになってきます。例えば、ないものばかりを見る人は常に物事の悪い方やマイナスな方ばかりに意識を持っています。何か事があればよくなかった方、できなかった方、ダメだった方に意識を持つようになります。すると、改善という言葉に対してもマイナスをプラスにする方法のことだと思い込んでしまうのです。

その逆に、あるものばかりを見る人は常に物事の善い方やプラスの方を意識します。何か事があれば楽観的にこのままでいい、ちょうどいい、うまくいっていると感じポジティブな意識を持つようになります。すると改善という言葉は、プラスがもっと良くなる、さらにいいことになると思い込んでいきます。

これは意識の差が出ていることは明白です。人間、足るを知る意識の人の方が仕合せになるからです。ないものねだりばかりをしては不平不満をして生きていては笑顔もなくなりますし、周囲の人間関係も良好に築けません。

そしてこの意識の差は一生を左右していきます。生き方を変えるというのは、この物事の見方を変えることをいいます。自分の脳の癖や、思考のパターンを変革していくことは行動を変えて習慣を換えていくしかありません。

この習慣を換えていくために人は、敢えて今までの自分と決別した行動をとったり、勇気を出して今までのものを手放したりすることで成長していきます。ありたい自分を創り上げていくことは、自分自身を新たに創造していくことです。それは新しい自分に出会うことであり、自分自身を自分で育てていく主人になることです。

自分の意識を改変していくということを意識するには、自分自身の意識が人生を左右していることに気づくのが先です。周りばかりを見るのではなく、自分の物事の見方がどうなっているのかを自らがメンテナンスしていくのが何よりも優先だからです。

自己改革というのは、価値観の改革であり世界観の改革です。思い通りにいかないときこそ、感情が揺さぶられ苦しい時こそ、一度、自分自身の意識がどうなっているのかを見つめるチャンスだと思うことのように思います。

変わっていく面白さ、刷り込みは取り払えることを子どもたちに背中で見せていきたいと思います。

 

初心を忘れるな

人間にはそれぞれに得意分野というものがあります。自分が得意なものを周囲に知ってもらってそれを活かしてもらえることは仕合せなことです。同じように周りの人たちにもそれぞれに得意分野というものがあります。

その得意分野を持ち合いながら助け合えることで人はみんなで大きなことを実現できるように思います。この得意は、特異でもあり、それぞれの異なりを活かすという寛容さや共感が必要です。

もしも自分のやり方ばかりが正しいと固執し他を認めなければすぐにギクシャクしてしまいます。お互いを認め合うためには、まず自分自身を認め、同様に他を認めるというプロセスが必要です。

自分らしさや自分のままであること、そのうえで同じように周りもそのように自由に認めていくこと。さらにお互いに自由なままで共通の理念や目的のために折り合いをつけながら助け合うこと。これらは人間としてのスキルになってきます。この人間スキルが、人間学であり修養でもあります。

この人間を磨いていく時期は、思いどおりにもならず苦しいかもしれません。しかしその苦しい時期は、自分が人間を磨いている時期だとし、慎独しながら自分の心に耳を傾け、本来の動機はどうだったかと初心を振り返り、何のため誰のためにやっていたのかと理念に立ち返るしかありません。

人は暗闇の中で灯台を見失えば、どうしても焦りや不安から感情に呑み込まれてしまいます。そのような時こそ、自分の心の中にある灯台を見出し、心の灯台を信じて暗闇を歩んでいくしかありません。

仏陀に、自灯明、法灯明という言葉があります。これは「自らを灯明とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなかれ」といいます。

大事なのは、他人に依拠してはならぬと。自らを灯明にせよということです。

自分自身の初心を忘れるなという言葉は、この言葉と同じ意味です。引き続き、子どもたちのために自らの灯明を照らし続けていきたいと思います。

天の時、地の利、人の和

人間が利便性を追求してなんでも思い通りになることが前提になっていくと、不測の事態や思い通りにならないことがあると途端に脆弱になっていくものです。つまり簡単便利になればなるほど、それに反比例して人間が弱く脆くなっていくということです。

本来、自然界で存在していれば思い通りになることなどほとんどなく自分自身が環境に合わせて変わっていくしかありません。自然から遠ざかり自分の思い通りなることが上手くいっていると思い込み、周りが変わらないことをいくら怒ってもそれは不自然ですから自然の流れからは淘汰されてしまうものです。

不安の元が何なのか、本当に間違っているのは何かを見極めるには自分自身が自然と向き合い、時の流れや人の関係、どの場所にいるのかなど客観的に自分を見つめて冷静に判断していくしかりません。何が自然かと見つめるためには客観的に事実を理解していくことからはじまります。

客観的に物事が観えるようになってくると、人は次は楽観的に物事を感じれるようになります。この楽観性は、あれば人は笑顔になり融通無碍にどのような変化が出てきてもそれを味わい、臨機応変に自分を発揮していくことができます。

人が主観だけになり悲観的になるのは、己に負けてしまうからです。己が不快な感情になるのは、自分を喜ばせていないからであり、周囲もまたその波長によって喜べなくなっていくのです。自分で自分を苦しめると周りも苦しみます。その逆に一緒に喜び合うためには、自分が先に自分自身を愉快にして周囲もまたその愉快によって共に楽観的な環境を創造していくかありません。

人間に知性が求められるのは、自己の発揮に己を律し、己を立てる必要が出てくるからです。自己を確立していくためには、自分に打ち克ち、自分の初心や動機を忘れずにどれだけ今に尽力したかということに命を懸けなければなりません。そのためには、人工的な利便性を追求した便利な頭脳ではなく、自然を感じて直観的に不便であっても手間暇をかけて丹精を籠めて自己改善に取り組んでいくという誠が必要になります。怒りや苦しみに耐え、つらいことを乗り越えてどのような生き物も成長していきます。

最後に渋沢栄一の言葉です。

「どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。」

天の時、地の利、人の和。

そのどれも変化には欠かせません、それをすべて壊してまで自分の思い通りにしたとしてそれで一体何が残るのか。悲しいのは、自分に負けたという現実だけです。だからこそ、真実を見極め、本質をとらえ、初心を忘れずに理念を実践していく。そのうえで、間違い失敗してもまた立ち上がって何度もチャレンジしていく。これらを続ける中に人生の歓びがあり、仲間との出会いがあり、仕合せのご縁があります。耐えることの後に希望があり、忍ぶことのあとに歓びがあるのです。

成長することを与えられた機縁に感謝し、自分を超えていきたいと思います。

21世紀型日本民家

昨年、私たちの聴福庵に訪れた方が自宅を聴福庵と同じように落ち着いた空間、穏やかで和む場にしたいと熱望されました。その際は、古民家の年輪や時は刻まれたものでそれを磨き直してできたこの独特の場、間、和は難しいとお断りしました。

しかし、ぜひ寝室の和室だけは健康を維持するためにも本物の和で休みたいと仰っていたので和室だけはとお手伝いすることにしました。具体的には、和室に備長炭を500キロ入れ、水晶の欠片を50キロ、また伝統の七島イの畳を古来からの形式で丁寧に畳職人が仕上げたものを入れ、壁紙には手漉きの秋月和紙と襖には京都にある伝統唐紙で若松紋様と枝桜紋様を仕立てました。また装飾には、菊炭を50キロほど、唐紙の行燈をはじめ、照明も創作の作家のものにしています。

それが終わり、これでひと段落と安心していたらどうしてもリビングやトイレにカビ臭さがあり室内の空気が悪いので何とかできないかと相談を受けました。和室をそれまでのものと変えてからはよく眠れるようになったと大変感謝され、どうしても健康のためにもっとも過ごす場の空気を改善したいと依頼されました。

そこから悩んだ末に、居心地の善い空間として本物の伝統の素材によって改修することを決めてこの一か月取り組んできました。

具体的には、壁面はすべて伝統の漆喰を塗り、トイレには土佐漆喰、その天井には珪藻土を施しました。また床の間風の場所には、その土地の伝統の土を用いた割れ壁塗り。主な柱をはじめ、梁には古色の弁柄、階段や扉には渋墨を塗り、そのほかの床をはじめ様々な建具は場所には柿渋で仕上げました。

また窓のすべてに障子を施し、和紙は手漉きの秋月和紙を、室内の床下には大量の竹炭、そして空気の循環を計算し空調の配置とファンを取り付けました。修繕が終わり、確認すると明らかに室内全体の空気が異なり、空気が澄み渡っていました。

さらに、落ち着いた空間というニーズに対応するため日本の伝統職人が一つ一つ丁寧に手掛けたビンテージの家具を揃えていきました。具体的には、明治頃の七段箪笥に武家箪笥、欅のキッチンテーブルに大きな八角火鉢テーブル、本漆塗りのローテーブルをはじめ60年前の手作りのソファーや、七島イの円座、岐阜美濃和紙の照明や藍染の筒描きなどです。

そして室礼には、古伊万里の花器や室町時代の古備前の壺をはじめ、古く懐かしいもので飾りました。夜は灯りを楽しめるようにと、和ろうそくや行燈などを設置し、光の加減には特にこだわりました。

この後は、トイレと洗面所の陶器を有田焼で仕上げて庭をデザインすれば終了です。この私のデザインを見た方はこれを和モダンや古民家風といいますが、私は和モダンとは思っていません。日本人本来の伝統を守り美しい暮らしのままに家屋を甦生するのは和風ではないし古民家風ではないのです。

21世紀型の日本民家はかくあるべきという思いから、このように仕上げたのです。時代が変わっても、変えていいものと変えてはならないものがあります。それが正しく継承してこそ、本物がわかるということです。

もしも次回の修繕の依頼があるのなら、今度は和で洋を丸ごと呑み込んでみたいものです。子どもたちに遺していきたい伝統や思い、その生き方を一つ一つ形にして智慧を譲り渡していきたいと思います。

おもてなしの本質

昨日は、大阪の藤井寺にある佐藤禎三さんのひな祭りを拝見するご縁がありました。3月3日をはさむ土日含む数日間、屋敷内全部を自由に開放しいろいろなお雛様をお披露目してくださいます。

すでに30年間、毎年これを自費で実施されてこられたことも驚くことながら4日間で約4000人ほどの来訪者の方々にお茶やお菓子も無料で提供されておられます。

「おもてなしの本質」とは何か、まさに生き方から深く学び直させていただきました。

佐藤禎三さんは、ご自分の数寄を純粋に徹底して極められておられまさに当代一流の数寄者であり遊び心に満ちた方でおられました。すべての暮らしの古道具も佐藤禎三さんの手にかかれば甦り喜びます。そしてすべての人形や陶器などの「もののいのち」もまるで披露宴のときように活き活きと輝きます。美しいものが穏やかに和して独特の空間を創造し場が落ち着いています。

そしてその喜ばせよう、喜ぼうとする純粋な想いとおもてなしの室礼は人々を深く感動させます。その物事の意味や本質を見極め、それを深く咀嚼し理解したものを自己のいのちを輝かせるように遊んでいくということが如何に美しいか、日本の精神文化や和の心の意味を改めて学び直させていただくばかりです。

また最後に、お抹茶と和菓子をいただき「ご馳走様でした」と感謝を込めて来訪者は笑顔で帰られます。ここにもお祀りされている韋駄天尊のように礼を盡されます。この韋駄天はもともとはバラモン教の神さまでしたが仏教に取り入れられて仏法や仏教徒を守る神様です。

「韋駄天」の由来と伝承はお釈迦さまがお亡くなりになった後、お釈迦さまの歯を盗んだ盗人を駿足で追いかけて捕まえ歯を取り戻したことから足が速い人のこといいます。

そして日本の礼儀の一つ「ごちそうさまでした」は漢字でご「馳走」さまであり「韋駄天」が駆け巡って食物を集めたことに起因します。ここからおもてなしをする「美味しい料理」という意味に転じ、その準備をしていただいたことに感謝する言葉になったといいます。

ご準備していただいたのを楽しみ喜ばれ恩着せることも一切なく、そこには自他の喜びのみがある。すべてのものが活き活きと喜ぶ価値観に触れることは、美しい暮らしそのものに通じています。

この学びを子どもたちの未来へ託せるよう、自己精進を味わって私も数寄を愉しみたいと思います。

恥を知る~日本人の精神文化~

昨日は鹿児島県知覧にある富屋旅館で理念研修を行いました。ここの旅館は、特攻の母として多くの方々に親しまれた鳥濱トメさんが開いた富屋食堂がそのまま時代の変遷を経て継承されている場所です。

日本人なら一度は訪れたい場所としてここの富屋旅館があります。なぜ日本人ならというのかといえば、ここには日本人の精神文化の源流が「場・間・和」の教え(知恵)が旅館と共に息づいているからです。

私たちはつい当たり前のことを忘れてしまいますが、私たちの血肉には先祖代々から伝承されてきた生き方というものがあります。この生き方とは、日本人の特徴でもあり日本人の人格でもあります。

例えば、震災の時など日本国民が冷静さや威厳を保って対応している様子を世界の各地で称賛されました。どのような状況下であっても日本人が略奪や暴動を起こさず、相互に助け合っている和の姿に世界が感動するのです。

今ではあまり日本人のことを話すと右だとか宗教だとか、色々と批判されたりします。しかし本来は自分たちのルーツがどのようなもので何を大切に生きてきたかということが誇りであり、みんなそれを大切にしているから自信をもって自分の国の素晴らしさや美点をもって世界の善きものと調和し尊重し合って共存共栄していくことができるのです。

そんな当たり前のことを思い出さないくらい、日本人は誇りを失ってしまったように私は思います。日本人として美しいと感じる生き方や、素晴らしいと思える精神性は人間として私たちがどのようにこれまで成長してきたかといった発達の真実であり努力の結晶なのです。

その一つには、「武士道」というものがあります。私も祖父や父から「恥を知る」という教えを伝承されました。これは江戸中期の侍の本「葉隠」の中で「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉に通じます。これは、生き方として死んだ身になっていれば、恥も間違いもなく正しく生きることができるという意味で解釈されます。

いつ死んでも恥じないような生き方をせよ、つまりは自分に対して正直に、素直に、そして後悔がなく立派な人間になりなさいということにつながっています。新渡戸稲造はこの武士道の源流は孔子のいう仁義そのものであるといいます。

日本人は元来、その精神文化の中にこの仁義というものをもっています。みんなが己を律し、己に打ち克ち、お互いに尊重し合って想い合って生きていく民族性があることは世界が認めているのです。

そしてこれは親から子へ、先祖から子孫へと代々受け継がれてきた民族の智慧の結晶り、親祖からの初心なのです。初心を忘れてしまえば私たちはあらゆるものに流されてしまいます。そうならないように、むかしはみんなで恥を重んじ、恥ずかしくない生き方をみんなで守ってきたのです。

災害や震災のとき、私たちに日本人がなぜお互いに律し合い想い合うのが世界に称賛されるのか。それはこの恥を知る心をみんなで守ってきたからなのです。

道徳というものは、徳の道とかくように代々徳が積まれてきた道のことです。日本人の徳とはこの恥の精神であり、それを代々の先人たちが守ってきたことで私たちは何を優先して生きてきたかを知り、どのような初心を持ち続けるかということを学ぶ学問なのです。

子どもたちが、日本人として大切なことを忘れないように引き続き私にできる使命を私の身の丈でこれからも全うしていきたいと思います。